映画のエンドロール観る派?観ない派?

此のカテや現実社会での幾度かの会話で、自身の信仰こそが正しいと言う発言を、耳目に触れて来ました。

別に良いのですよ?私は。

自分こそが正義で、他人はキ○ガイ。

其れ自体は口に出したり、行動したりしないで、思っている限りは、おつむの中までは手錠は掛けられませんから。


ただ宗教の本質と言うか、存在理由とは何でしょう?

色々語る方は居られるでしょうが、単純に言えば「幸せ」になりたい、か、其れを助ける存在でしょう。

幸せの定義はどうでも良いですが、要は生きる事を助けるモノとして、宗教を求めている訳です。

此れに関しては無神論も同様で、とどのつまりは宗教とは生き方の指針みたいなモノです。

苦行等も、心の呵責を取り除く為の行いで、結局は好きでやっているだけです。

紙切れに書かれた名前で、人生が変わるのであれば、紙が人生になってしまいます。

自分の人生は所詮、自分の人生です。


さて其処で私が問いたいのは、何故に自分こそが正しいと回りに吹聴するのかと。

心理学的な理由は判っています。

複数のパターンが存在しますが、要は自己実現のプロセスです。

私が言いたいのは、「そんなに周りといがみ合う事が幸せなの?」という事です。

其れが好きであるのであれば、仕方が無いのですが、多くの人間は楽しめない行為です。


何色でも良いのですが、此の世を唯一色に染め上げようとする行為は、自分が染め上げられる覚悟が必要です。

実際は染められないし、染まらないけど・・・

四季が美しいと思う心の方が、余程に楽に生きられると思うのですが、其の前の色眼鏡を外す修行はキツイみたいです。

A 回答 (20件中1~10件)

お礼ありがとうございます。



>此の話は比喩でも何でも無く、唯の事実ですが、此れでさえも聞く人間次第なのは哀しい事ですね。

哀しく感じる時、ありますね。
伝わること、繋がることけわしい時があります。


一人一人違うからこそ多様性があり、進歩や発展に繋がるものとしても
自分を理解し相手を理解しようとしなければ、自分とも他者とも繋がれない。

言葉にすると抽象化されてしまう。
抽象化を他者自身の中で展開すると差異が生まれる。
だからこそ、同じ経験を共にする家族や仲間に深い絆が生まれます。

積極的参加が孤立を無くすことに繋がるのですが
自律より孤立の方へ向かう個人としての選択の、社会的傾向が強くなっている。

危うい、危うい方へ自身が向かわないようには
本人が自分の幸せに向かう選択を自分が選ぶことを自覚・認識・行動でやっていく。
日本人の社会的孤立や家族からの孤立を危惧しています。


そして正しさが強ければ硬くなり、硬いものはもろくなります。
そんなもろさの危うさにも、危惧するところです。

正しさを強く強く持っていた時の自分のように
傷つきやすくもろい人が、常に心の傷から鮮血を流す様子を見るにつけ
哀しみを感じずにはいられません。

硬くなって、折れてしまわないかと。
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この回答へのお礼

>硬くなって、折れてしまわないかと

本当に良い言葉です。

私も嘗ては切れ味のみを求めた、人斬り包丁でした。

そして自らの張力で2・3回折れましたw

まぁ、お蔭様で今では折れない人斬り包丁になってしまいましたがw


社会の現状には憤懣遣る方無い気持ちが、私にも強くあります。

が、まぁ、私は人斬り包丁ですので、其の会話はお遊び程度にして置きますw

書き込みありがとうございます。

お礼日時:2014/09/16 22:28

質問文は長いし、回答数も多いので、回答とその回答に対するコメントを読んでいません。


質問文は、質問文の型式がとられていません。 独白のような感じです。
 
「ただ宗教の本質と言うか、存在理由とは何でしょう?」との質問文に、自答のような「a)単純に言えば幸せになりたい、か、其れを助ける存在でしょう」「b)幸せの定義はどうでも良いですが、要は生きる事を助けるモノとして、宗教を求めている訳です」「c)此れに関しては無神論も同様で、とどのつまりは宗教とは生き方の指針みたいなモノです」「d)苦行等も、心の呵責を取り除く為の行いで、結局は好きでやっているだけです」が続いていますが、「A)幸せになりたい、か、其れを助ける存在であれば宗教といいきることが可能か」「B)生きる事を助けるモノであれば宗教といいきることが可能か」「C)生き方の指針みたいなモノであれば宗教といいきれるか」「D)心の呵責を取り除く為の行いであれば宗教といいきれるか、好きでやっていることなら宗教といいきれるか」と考えてみたことがありますか。 金儲けに懸命になり生きがいを感じて邁進しているのを普通は宗教とは言いません。 博打やスポーツ、芸能、技芸に邁進しているのも普通は宗教とは言いません。 「宗教の本質」は、a)b)c)d)では述べられていないように思います。

現代ではあまり見かけませんが、狩猟の様子を描いたような岩絵、大きな岩や目立った山を拝んでいるような例があったと思います。 信仰には色々な形があり、安全や豊漁を祈願しているとか、祖霊に守護を期待しているとかの解釈が妥当なのかははなはだ疑問のケースが多いです。 最後の審判や弥勒の救済のようにシッダッタの入滅後56億7千万年後の未来に姿を現れるという設定もありました。人間の寿命に比較して天文学的とも言うべき長期の先に設定されています。(それでは長すぎると死後4日の設定をするのもありますが) 宗教や信仰には、現実的、現世的な見返りや判定ではないところに先送りしているのもあるのです。

宗教や信仰に関して一部をみて、それだけであまりに単純な推論をするのは間違いの元になると思います。
楽に生きられるという言葉の意味も、そう単純ではないと思います。
修道院、修行、勤行、戒律などは、多くの宗教で持っています。 安逸というのとは方向が違います。 多くの人が、安逸や気楽な生活、おいしい飲食、快適な空間よりも、自分を縛る道を選んできた事実は否定できません。 熱心な信仰を持っているほどそうした強い自律を選んでいるようです。 苦行をするとは限らないですが、強い自制心で自分を縛った生活をしている事実があるのは明らかです。 

楽に生きたいという言葉の意味が、たぶん宗教者や信仰者と質問者さんでは違うのです。
苦の意味さえ、苦の感情の出所さえ、たぶん宗教者や信仰者と質問者さんでは違うのです。
周りといがみ合おうとしているように見える言動をする人もいるでしょうが、そうではなくて自律し自制に生きることに懸命な信仰者、宗教者はかなり多いと思います。

2010年出版の「死海文書・聖書誕生の謎」で紹介されているキルベト・クムランも、また日本の一部の修行者も、世俗社会の生活空間から離れて、不便なところで、戒律を守り清浄に生きることばかり心を向けていたようです。 自律・自制の生活ですが、自己実現を目指していたのではないです。 宗教者で自己実現をネライにしている人は少ないと思います。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA5F/_floorA5F …
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この回答へのお礼

>質問文は、質問文の型式がとられていません。 独白のような感じです

はい、其の通りです。

サイトの性質からは、逸脱しているかとは思いますが、付き合って下さる方がいらっしゃるので、甘えさせて頂いております。

>金儲けに懸命になり生きがいを感じて邁進しているのを普通は宗教とは言いません。 博打やスポーツ、芸能、技芸に邁進しているのも普通は宗教とは言いません。

此れは定義次第でしょうね。

拝金主義も一種の宗教ですし、武道・芸道・職人技には高い精神性が求められます。

其れで実際に幸せになるかどうかは、私は知りませんが。

大切なのは、其の道を進む事を自らが選択している事です。

武士道は一般的には宗教とは言わないかと思いますが、其処に神仏が存在しないだけであって、精神性は変わりません。

要は生活を担保する知識・技術・理解等です。

別に個別的にどれが良いとか悪いとかを議論する訳ではないです。

其の様な判断は、個人がするべきであって、其れを外に求める場合は、「法学」の話になりますので、カテ違いですね。

>楽に生きたいという言葉の意味が、たぶん宗教者や信仰者と質問者さんでは違うのです

宗教者って誰?って所ですね。

私と他人が違うなどは当然の事で、当たり前です。

貴方の言葉には「上等な人間と下等な人間」が見え隠れしています。

別に間違いでは無いですよ、事実ですから。

しかし私の発言を要約すると「誰であっても幸せを追い求めている」で、宗教・信仰は其れを助ける存在だ。

と言っているのです。

論点がズレています。

というか、そもそも其れこそが、不幸の始まりです。

>宗教者で自己実現をネライにしている人は少ないと思います

何を狙いにして生きていくかも、個人の勝手でしょう。

唯の好みですので、どうでも良い事です。

他人を判断する事が、端的な苦しみです。

自分の判断が他に及ぶというのは、盲信です。

違いを受け入れる事こそが肝です。


「あれは宗教だが、此れは宗教ではない」との判断こそが、苦しみの第一歩です。

此の理屈では、宗教は苦しみを製造する為の存在でしかなくなってしまいます。

誰でも望むモノは、形こそ違えども幸せな人生です。

丸・三角・四角が其々を否定し、諍い合う姿は不幸でしょう。

書き込みありがとうございました。

お礼日時:2014/09/16 22:18

信仰も宗教も本来的には必要は無いものと思います、その理由は人間の心(脳)の中に在ります。

ただこの事が分るための指針として信仰も宗教も必要な時があると思います。

キリスト教でも仏教でも聖典や仏典などがありますが、本当の意味で『分っている人』は少ないのではないかと思っています、又そう云った聖職者に仕えている人達でさえも、本来的な仏典や聖典の意味を『書かれた時点での”書いた人達の意思”を分らないでしまう場合が多いのではないだろうか?』と感じています。

信仰や宗教が人間には本来的には必要な理由が分ってしまうなら、信仰も宗教も必要が無くなると言った理由を書いてみます。

人間に信仰や宗教が必要ない例です。それは『天国にいる場合です。』聖書では”幼子”が一番天国の近くに住んでいると形容しています。その理由が脳に在る事を科学的な文献を載せて説明したいと思います。

ウイキペデアからの転載です。


”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”

此処に書かれている事が、幼子が天国に一番近い存在というる理由は、右脳と左脳の機能が未分化の為に『一つの心』として働いているからです。見ている自分しか脳内に存在していないからです。

是に対して、思春期頃、中二病といわれる現象が起きる頃から、心は脳の機能分化の影響を受けて『働きが二つに分かれてきます。』

今迄は『怖いと思わせる者と、怖いと感じていた自分』が一つの心で受け取っていましたが、恐いと思わせる者を、恐いと思い始める現象です。

見ている自分だけではなくて、見ている自分を見ている自分と言う風に、或は他人から見られている自分と言う風に感じ始める事です。

この為に自分の裸をイチジクの葉で隠す『恥ずかしい』と言う感情の芽生えです。詰まり自我の目覚めがあります。こういった脳内の現象を『知恵が付いたために天国から追放された』といった失楽園と表現して説明しています。

恥ずかしいと言う感情が芽生える頃、同時に疑問が湧き上がる事があります。自分は何者か?とか、人生とは何ぞや?と言った疑問です、同じく他人と自分を見比べて劣等感や優越感を感じ始める様になります。

つまるところ、悩みや疑問や深刻な苦しみの世界に入る場合が増えてくる事を意味します。こう云った苦しみの原因を、宗教や信仰によって取り除きたいと願う様になります。是が信仰や宗教が必要な理由です。

詰まり心の問題に悩む場合必要になってきる事を意味します。人にとっての最大の問題とは『生と死』の対比の問題と思います。

詰まり、自我意識にとっての最大の恐怖とは『死を迎える事』が目前に迫った時一番の『心の危機』を迎えることも意味するからです。この死を見つめる事によって生じる『心に対する圧迫感』の解消が信仰や宗教に求められている事柄の一つと思います。

魂の救いを願うと言う意味です。永遠の命を希求する事、或は死を自分の人生から取り除きたいと願う事などを意味するからです。

こういった苦しみの世界を天国と対比して、地獄や失楽園と表現しています。

仏教でも同じです、極楽と地獄と表現しています。

この苦しみの世界を、全てを諦める事によって『涅槃の世界』に作り変えた動画がありますので載せてみます。


右脳の役割と左脳の役割を、脳卒中の為に致し方が無いとしても体験して、生還して語っている動画です。



URL:


この体験を宗教体験と言います、詰まり仏教なら『見性体験』です、詰まり悟りを開いている体験と言う意味です。キリスト教なら『神と和解している最中』と言う意味です。

脳科学的な表現をするなら『右脳の意識と左脳の意識が脳梁(意識の根底で)の中で出会う体験』と言う意味です。この体験後を禅では『生死の問題が解決する』と表現しています。

キリスト者なら『神と和解して、神の僕になる』と言う程の意味です。

こう云った体験を導くために経典や仏典や聖典が必要と言う意味ですが、この体験後では必要さえ無くなります。その理由は『脳内の変化があるからです。』

脳科学的に表現するとわかり易いと思いますので、その線から説明します。

二つの意識とは『意識する自我意識』と『意識する事は出来ないとしても、確かに存在している(自分の)無意識の意識』です。

この二つの意識は普段から毎日、四六時中逢っていて、絶えず相談をしながら『お互いの出番を決めています。』この出番を、争う事なしで何気なく決められている場合を健常者と呼んでいます。

この交替制がスムーズに行かなくなる場合があります、主に三つのケースに分ける事が出来ますが、人間としての統一体として述べるなら、必ずしも三つに分ける事が適切でないケースもある事を、あらかじめお断りして置きます。

その理由は、この三つは大変に密接に繋がりあっていますので、同時に二つ、或は同時に三つの症状として感じてしまう事もあるからです。

主に右脳の機能を論じる事になりますが、身体に関しての生命維持機能が一つです。ホルモンの調節機能や呼吸や血流や神経系統です。この交替制が崩れた場合を、自律神経失調症や過敏性腸症候群や、原因不明とされている難治性の症候群などを指しています。



他には右脳の機能の中で『心に関しての生命維持機能』が一つです。右脳の機能は感情や考えを『湧き上がらせている者』として働いています。高いと感じさせている者やその情報そのものに違和感を抱く時『高所恐怖症』と言ったり、狭いとか広いとかの空間に関する情報とその情報を送るものに違和感を抱く時『広場恐怖症や閉所恐怖症』と呼んでいます。

又人に会った印象という情報の場合では『対人恐怖症』という事になります。心の浮き沈みとなっているところの情報を違和感として感じてしまう場合を『感情障害』と言っています。沈んだ感情のみの場合を問題にする時打つと呼んでいます。高揚した感情の場合のみを問題にする場合では躁という具合です。



他には右脳の機能の中で『行動に関する生命維持機能』がありますが、こう云った機能を果たす者との仲違いを神経症と呼んでいます。意識が先に立つ事によって行動が制限されてしまう現象です。主に無意識に入る事によって解消する現象ですが、当の本人は原因が全くもってわからない事が特徴です。

今書いた三つの事柄は、全て同じ原因があります。自分の無意識の自分との信頼が崩れる事によって、無意識に入る事が出来ないと言う簡単な理由ですが、当の本人¥は原因がわからないと思っています。

そうして医学的な検査では『異常なし』になりますが、恐怖症が強くなる時には『恐怖による生体反応としての脳内ホルモンの変化は見られると思います。』

こう云う人達には信仰や宗教は必要と思いますが、当の本人は気が付かないでいます、おまけに今の世の中では宗教はなれが進んでしまって、必要と思われる人達は『医師の元』に通っています。

当の医師達は『原因は不明ですが、薬を出して置きます、合う薬が見付かる時に寛快になるかも知れません』早期発見で早く良くなります、が謳い文句ですが『原因がわからない事から』yp区ならない場合も多いようです。

信仰や宗教が必要なくなる場合が『脳内での出会い』悟りを開いたり、神と和解する事という意味は、脳内に新しい回路が構成されるからです。『左脳と右脳の間に、新しい直通のホットラインが、加わるからです。』

たった一回の体験であっても、その脳内の回路構成は一生涯を通じて途切れる事はありません。悟るという意味は、右脳に存在する機能『命を働かせている機能』と、自我としての自分が、ホットラインという新しい回路によって繋がる現象ですので、絶えず神と共にいる事を意味します。

例え命尽きるとしても『命の働き』が優位を保ったままである事から『神に従う』事を意味します。詰まり笑ったままで安らかに死に行く事が出来る事を意味します。

右脳の働きは『永遠からやって来て、又永遠に帰って行く事が分るからです。』

右脳の自分に目覚める時、現世的な喜びなど全てが色褪せて行きます。お金や知恵や名誉や見得などに未練がなくなるからです。そうして今迄は一番大事と思えなかった事が大事になってきます。

つまり一日、一日を大事に生きる事、つまらない仕事と思っていたその中にこそ慶びの種が隠されていた事等です、大事と思っていた事と大事ではないと思っていた事の逆転現象です。

今までは幸福を求めていたはずの自分が『見せ掛けの幸福』に騙されていた事に気が付く事です。

目の前の現実の世界が『真実の世界となって光り輝く』事になります。此処まで来た時に信仰も宗教も必要がなくなります。何故なら『始めから人間の頭の半分が宗教から成り立っていた事』が分るからです。

大人の嬰児が出来上がりますが、オムツをした嬰児ではなく、真実を見分ける、第三の目を持った嬰児の誕生という意味です。
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この回答へのお礼

「認識」

此れが世界を定めていますね。

本来、元々持っていたモノに蓋をして生きているのが、人間ではないだろうかと思っています。(大なり小なり、社会性生物には見られますが)

生きていく=生活、の為に生活習慣を作り、其れを逸脱する事を“禁忌”としました。

集団である限り、共同生活の中で自然発生的に生まれるルールは、集団の脳とも、集団の思考とも言えるでしょう。

生存コストの軽減には、大いに役立つ手法ですが、其れに染まらない人間にも強要をします。

此れはどちらが正しいかは評価不可能です。

大切な事は、縛り付ける理由が、相手の為か組織の為か。

此処いら辺りが肝でしょうね。


自分自身を知らない人間が、自分自身を見つける。

正に問答です。

脳科学は、其れに大きな寄与をしている学問だと思います。

書き込みありがとうございます。

お礼日時:2014/09/15 16:52

>自身の信仰こそが正しい



解釈するからでしょう。その行為を「知性」と捉えているからでしょう。

そうなると自分が神でいる気分になってくるw

哲学の悪いところも同じです。そして学問は皆そういうところがあります。

神についてだけではなくあらゆる対象が学問となるわけですが、その世界では己れこそが神という態度をし、他の考えを認めない学者も、専門家も、そして一般人もいますが、彼らは一様に自分(自我)を否定されたくないからです。するとさらに自説にこだわり続けるという悪循環。

自我にいる限り、人は神になれない。でも自称「神」がいる。彼らの神は多くの信者がいて成立するだけのもの。

>私が言いたいのは、「そんなに周りといがみ合う事が幸せなの?」という事です。

と言いつつ、ご質問者様は参加してますよね(笑)あ、これはイジワルではないですよ。現象としてそういう皮肉やら自己矛盾を指しているだけですから。
争いをやめるための干渉がいつしか喧嘩に巻き込まれていくのと同じです。
では無関心でいたほうがよいか?否、第三者の傍観や無関心は問題をさらに悪化させていきます。

裏を返せば、批判する側はその問題の潜在的な当事者だからではないかと考えてます。
問題提起されると、影としている部分が刺激されます。でもそれを認めたくない心理が働くと、それをもたらした原因への否定となる。否定すれば影は意識に上がってきません。よって自分は問題の当事者ではなく、巻き込まれることもなく安全な場所にいられます。その心理こそ、無関心そのものなのですが…

>四季が美しいと思う心の方が、余程に楽に生きられると思う

いや、0fool0 さんの真意だとは思いません。もちろん四季に対する感性の豊かさはあると思いますが、四季のうつろいを背景に、やはり人間と対峙していきたいというのが本音なのではないでしょうか(と勝手に推測しましたが、そこは笑ってお許しください)。
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この回答へのお礼

>解釈するからでしょう。その行為を「知性」と捉えているからでしょう。
そうなると自分が神でいる気分になってくるw

あれ?何故か胸が痛い・・・・w

>と言いつつ、ご質問者様は参加してますよね(笑)あ、これはイジワルではないですよ

あっ、そっかぁ~、ギャグなんだぁ~w

勿論、判っていますw

とても心地良いですw

>やはり人間と対峙していきたいというのが本音なのではないでしょうか

さぁ、どうなのでしょう?

此れは私にも本質的には判りません。

ただ、“許せない”のです。

垂れ流す者も、毒される者も。

実は私自身は、人間関係が苦手なのです、と言うか面倒です。

私には私が理解できる事を理解出来ない人間の、「気持ち」が理解出来ません。

いや、学術的にはお蔭様で、学びの力で文章化出来る程度の知能は有しています。

しかし“寄り添う”事に、非常な困難を抱えています。

そして同時に私に寄り添う存在が、存在する難しさも理解出来てしまうのです。

なればこそ、「夏」の暑さと「冬」の寒さは、共に時間軸の中での等価の存在である様に、私が生きていく場所も此処(普通に生活してます)に在る訳です。

>勝手に推測しましたが、そこは笑ってお許しください

許す許さないはありませんが、もっと私を楽しませて下される事をお願いします。

とても心地良い文章をありがとうございます。

お礼日時:2014/09/15 16:10

>ただ宗教の本質と言うか、存在理由とは何でしょう?


>幸せの定義はどうでも良いですが、要は生きる事を助けるモノとして、宗教を求めている訳です


最近むにゅむにゅと考えていて…

心に安寧を持つため? ううん、時に心に安定を、時に憎しみをぶつけ なんなんだと叫び、時にそれを考えてぐるぐるし …

すみません、やっぱりよく解んないです。


判らんなら、参加するなと言われそうだけど、神について真摯に考えて疑問をぶつけ、たたかう所から発生するものかも~とちょっと思うところもあって

最近こんなものを読んで

http://ncode.syosetu.com/n6938bw/
http://ncode.syosetu.com/n2502x/

なんか神についての原初を見たような気がして

人間にはどうしようもない太刀打ちできないものがあって、それを乗り越えるための生活の知恵もあるけど(これもちょびっと宗教化してると思う)どうしようもない苦しみの中で怒りや憎しみの矛先にもなるし、そこから更に考えて、それはなんなのか 探すのが原初というか本質というか…うまく言えない

ただ、自分で考えて、それなりに見つけちゃうと 譲れないもの にはなりそうだと思います。


自分の中で強固にしてても、他の方になんか言われたら反論や自分の考えを言いたくなると思う。

それ自分もやったわ~、と思った時 手助けしたくなったり 逆に悩め悩めそこが大切な所だと見てるだけの人もいるだろうし、その人のスタンスの違い?


自分の考えを強固にするのを、周りに言って回らないとダメな方もいるのかな?
まだ強固じゃないから不安だからなのかも。


譲れない者同士がぶつかると大戦争になるのかな。
自分が立つために必要な物を奪われそうになったら戦うしかない場合もありそう。



あとは ただ言いたい それだけの人もいるだろうなぁ…あ、これ私かも。
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この回答へのお礼

>判らんなら、参加するなと言われそうだけど~

とても深く理解していらっしゃる事は、私程度でも理解出来ます。

リンクを見ました。

不幸では在りますが、幸いでもあります。

此れは日本人に課せられた枷であり、また幸なのですが、此処では其れを議論はしません。

私の質問を見かけましたら、また、是非にお立ち寄り下さい。

書き込みありがとうございました。

お礼日時:2014/09/15 15:41

No17です



>普遍的に言えるのは、神を利用する者にとっての教義です

だとすれば答えは単純です
宗教の存在理由は、利用できるから
どのように利用するかは、利用する者の都合による
それだけのことでしたね
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この回答へのお礼

>宗教の存在理由は、利用できるから

全くの同意です。

細かい事で言えば、他者の介在が有るか無いかでしょう。(無い等とは、厳密には在り得ませんがw)

本当に「都合」次第ですよね。

本当に「それだけのこと」です。

書き込みありがとうございます。

お礼日時:2014/09/15 15:27

お礼ありがとうございます。



>では、覚者は誰に触れたのか?

書いていい?(笑)


>覚者は「答えは存在する」としか残していないのです。

これも書いていい?(笑)


>道のりは残せませんでした。

実は残っています(^_^;)
それこそ、理解されていないだけで。

上記3つ、過去の哲学での私の発言で書いております。
本気で受け取れた人が居るか、分かり兼ねますが。

人は答えが目の前にあっても、本当に見えて無いのです。
自分の体験ですが、本当に見えないし聴こえないし
人生は恋より盲目ですwww

文字だけ追っても、理解はその表面を滑るだけなら
「知ってる」だけで、理を解してない。
まず、そこに気がつかないと始まらないようです。

過去の己をみて、アホさ加減に笑が出て来るほどです。


>利用する人間と、理解する人間がいる。
>此処いら辺りが肝ですかねぇ?

上手い!!
まさにその通りですね。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなりました。

星空を見ようとして出掛けたのですが、月明かりがあんなに明るい物だとは知りませんでしたw

時期を間違えたようです・・・・

此の話は比喩でも何でも無く、唯の事実ですが、此れでさえも聞く人間次第なのは哀しい事ですね。

何時もありがとうございます。

お礼日時:2014/09/15 15:23

質問文を読んでも違和感はありません。

ただ、質問が良くわからなかったので、題目だけに返答します。

信仰心とは持って生まれたものだと思っています。だから持って生まれていない人もいるかもしれません。その信仰の土台の上に宗教があると思っています。信仰心がないと宗教心は成り立ちません。

私の信仰心の中に仏様と神様が居るのです。天理教やキリスト教の神は信仰心の中には居ないのです。仏様に熱心だった父親と神様に熱心だった母親を見て育ちました。仏様は教えを学ぶ対象で、神様は願いや誓いや感謝の対象です。仏様は高貴な存在で、神様は身近な存在です。亡くなった両親は別の存在です。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなってしまいまして、申し訳ありませんでした。

ちなみに私は質問をしていないので、混乱を招いた事はお詫びします。

>信仰心とは持って生まれたものだと思っています。だから持って生まれていない人もいるかもしれません

同感です。

他人は判りませんものね。

仏様と神様に関しては、私には言える事はありません。

生きていく為のプラスになるものであれば、其の形を限定される物では無いですから。

書き込みありがとうございました。

お礼日時:2014/09/15 15:17

>宗教の本質と言うか、存在理由とは何でしょう?


>色々語る方は居られるでしょうが、単純に言えば「幸せ」になりたい、か、
>其れを助ける存在でしょう

インドには殺戮と破壊を齎すカーリーという神の信仰者もいるそうです
ですので単純に「幸せ」になりたいとは結論できません
また、仮に豊かさを齎す神(福の神みたいな)を信仰する人がいたとして
その人が福の神に対してなんら助けを求めなくても、それは宗教です
つまり「幸せ」になりたいなどの願いがなくとも宗教は成立するのですから
宗教の本質や存在理由を~になりたいという願望のみに求めることはできません

普遍的に言えることは信仰する者にとって宗教とは、神の存在を認めることであり
また、教義によって神がどのような存在かを知ることです

この前提から宗教の存在理由を考えると、なぜ神という存在を信じる人がいるのか、
また、なぜ神がどのような存在か知りたいのか、これらの問いへの答えが
宗教の存在理由になると思います

ちなみに私は無神論者なので提示した問いへ個人的に答えることはできないです
また、信者の方たちの動機も知らないので分析もできないです
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この回答へのお礼

さて、無神論と言う神を信じている方への書き込みになります。(喧嘩を売っていますよ?買って下さいw)

先ずはカーリーですか?

多神教には破壊の髪も病の神もいます。

ですから、其れから護ってもらう為に、別の神に祈ります。

日本でも江戸期には麻疹や疱瘡に対抗する神がいましたので、流行時には其の札を貼りました。

疫病神や貧乏神に説明は要りませんよね?

好みの神様に来て欲しい、望みの神様の方が良い。


>普遍的に言えることは信仰する者にとって宗教とは、神の存在を認めることであり また、教義によって神がどのような存在かを知ることです

違います。

普遍的に言えるのは、神を利用する者にとっての教義です。

貴方が信じていないのは、神を強制する阿呆であって、信じる何かではありません。

貴方が文句を言いたいのは、貴方の納得出来ない理屈を振りかざす人間の唱える「神」であって、貴方の「信じる」「信念」は別にある、と言うだけです。

神の存在を信仰の理由に置くのは結構ですが、其処に囚われているのでは意味は無いでしょうね。


何故、神を置くのか?

不幸になる為?

幸せになる為?

貴方が既存の神の定義に満足していないのは、良くわかります。

私も神等は紙切れだと理解しています。

反抗が正義?

打ち立てるのが正義では?

でっかいビルを、自力で建てましょう。

お礼日時:2014/09/11 23:37

お礼ありがとうございます。




>宗教とは人間だけの物でしょうか?

私としては、人間だけの物じゃ無いのを理解する為のものが宗教でしょうかね。


>「蛙が蜂を口にして痛い目にあったので、次からは蜂に似たアブも食わなくなった」
>此れは「学習」ですが、此れを社会性生物が、「教育」を子孫に施した場合はどうでしょう。
>食べられる物を教える・生きる場所を教える・群れのルールを教える・・・・
>食べたら死ぬ物を、食べずに理解する方法を「本能」ではなく「教育」から受ける生物にとって・・・

確かに教育は大切ですよね。

宗教と名が付くものは、外だけの対応だけを教えるものではなく
思想と言うぐらいですから、内面の教えが存在しますよね。
そこの扱いが、まるきりだと思うのです。

本来の意味で理解されていないので、今生きてる人に適切に対応できない。
人が救われない理由を真に明確にできる人も少なく
その対応においては、散々たるものに思われることも多々存在します。

不立文字と言うのを読んでもさっぱりですが
自分の中で見つけた時「これか」と分かります。

文字で表現されたものを理解しようとするのではなく
文字が何を示しているのかを見つけられるような教え方を
社会の変化とともに、つまりは人に寄り添い変化することを
宗教は怠ったと言うことかもしれませんね。


>其の前の色眼鏡を外す修行はキツイみたいです。

それなりですね。
とっても地味で地道ですから、毎日コツコツコツコツがね~。
一人でだと、よほど強い自覚がないと続きません。
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この回答へのお礼

>宗教と名が付くものは、外だけの対応だけを教えるものではなく~

其れは宗教を標榜している集団の事においてでしょうね。

まぁ、其れが一般的な解釈ですし、また、事実ですが・・・

>宗教は怠ったと言うことかもしれませんね

んん~~・・、まぁ、此のまま行きましょう!w

文字と言うのは音声データです。

色覚データや触感データは、音声では直接的には残せません。(当たり前ですね)

答えを持っている人間に出会わなくとも、得る事は出来る。

また出会っても、叶わない者には叶わない。

宗教が怠ったというよりは、此のパターンでは「教義」では足りなかった、でしょう。


しかし、覚者が意図的に残さなかったのでしょうか?

勿論其れは違います。

何故なら、触れても解す事の出来なかった人数の方が、遥かに多いのですから。

では、覚者は誰に触れたのか?

適当な教団では、此処を濁す也、僭称する也で誤魔化しますが、覚者は「答えは存在する」としか残していないのです。

道のりは残せませんでした。

何故なら、乗っている乗り物は、皆諸共に、違うから。


宗教と言うモノは、必要にして生み出されたものです。

蛙には在りませんよね?

利用する人間と、理解する人間がいる。

此処いら辺りが肝ですかねぇ?

ありがとうございます。

お礼日時:2014/09/11 23:01

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