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同時代の日本人は中国に科挙という効率的な人材登用システムがあることを知ってたと思うのですが、どうして科挙を取り入れなかったのでしょうか?

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A 回答 (9件)

 試験によって官僚を選抜すると言う科挙のシステムは、近世ヨーロッパにも紹介され、各国の官僚選抜の手本となりました。



 日本でも平安時代に導入されましたが、受験者が殆ど小貴族で、合格者は中貴族に進める程度で、大貴族と呼ばれる、上級貴族に浸透せず、当時の貴族制を突き崩すまでにはいたりませんでした。その後は、武士の台頭と共に廃れ、日本の歴史に影響を与えることはありませんでした。

 本格的に採用されることになったのは、明治維新からです。
 日本で明治維新から行われるようになった高等文官試験は、科挙をヒントにして作られたものです。
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支配階層の総入れ替えがなかったからです。


科挙が人材登用で効率的というのは、「皇帝」にとっての効率です。皇帝が任意に(恣意的といってもいいでしょう)任命できるという意味での効率性です。
中国における王朝交代では、途中に半世紀とかいわば、世代を超えた生き残り戦があり、その結果として新しい王朝が開かれています。皇帝のブレーキとなる貴族層が階層としてぶっつぶれてから新しい王朝になります。階層どころか、支配民族交代もしてます。
日本ではそれほどの、王朝交代の争乱がありませんでした。ということは、鎌倉幕府ができても、京都の貴族は残りましたし、室町幕府もそうなっています。江戸幕府も、織豊系大名を全部はぶっつぶせなかったわけです。
ということは、将軍という絶対権力が、中国の皇帝の絶対権力より弱かったということです。弱かったから、科挙を取り入れられなかったということになります。
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科挙の制度は、随の時代から始まった、中国の皇帝を頂点とした中央集権的官僚制度における人材登用の手段です。



儒教による思想的裏付けをもった制度で、書経の「野に遺賢なからしむ(優れた人材を野に埋もれさせない)」と言うことを建前にしています。また、試験内容も儒教的な教養と歴史観に絞られています(文官の場合ですが)。

日本において儒教が本格的に為政者のバックボーンとなるのは、徳川氏の江戸幕府以降です。武士の間での必須教養と言う位置付けになるのはさらに後半においてでしょう。
そう言う意味で、昌平坂学問所 (昌平黌)は科挙に類似の仕組みになる可能性はあったと思います。

江戸幕府以前における儒教は、貴族や武士の教養としての意義はありましたが、科挙の前提となるほどに国全体に浸透した思想や歴史観とはなっていません。

日本の近代以前の歴史で科挙が取り入れられなかった理由には、こうした儒教の思想的な位置付けにあったのではないでしょうか?
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江戸時代を考えます。



江戸時代には優秀な儒者がたくさん現れ、彼らの中には科挙制や、ひいては儒者が政治に関わることを切望している者もいました。

ただ、その当時は、時代が下るにつれ武士の文官化は進み、例外はあるにせよ、原則として世襲の武士のみが行政に携わる社会でした。「身分」によって、するべきことが定められていましたから(農民は生産、商人は流通など)また、それは広く受け入れられ常識になっていました。

ですので、出身階層を問わず、勉強のみで登用の有無が決まる科挙制は当時の社会常識にそぐわないものでした。

けれども、武士の文官化が進むことで勉強がよくできるものが行政に携わるチャンスや立身出世に大きな影響がありました。下級武士のそのままでは食うか生きるかのような武士が才覚でそこそこの役職についたりとか。

こういう点では科挙制に近いものはあったともいえます。

けれども、その産まれによる区別は大きなもので、高名な儒者だとしても、人間としての尊敬は受けても、彼らが公的に直接的に行政に携わる例は稀です。(誰かのブレーンとなる場合は多い)

つまり、近世社会の常識である、「身分」というものが科挙制のような誰にでもチャンスのある制度を受け入れさせなかったといえるでしょう。ただ、勉強の効能は認められており、「身分」秩序を壊さない程度には受け入れらていたってところだと思います。
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科挙は自分たちが遊べるように、手足となる優秀な人材を集めるためのシステムです。



貴族たちは遊びふけって、科挙で登用した人材は後は任せていたのです。

在る店で店長不在で店員が店を切り盛りしているような感じです。
隊長が先陣を切れば、優秀な人材は科挙みたいなモノが無くても集まります。

武士は大将は先陣にいる習慣があります。
中国は大将は後方も後方。最後尾です。
有能な人間は大将が先陣にいる方を選びます。
だから人材が集まらない中国は人材を集めるために必要だったんです。

後・・・。
科挙は受験戦争みたいなものです。
合格をめぐって醜い争いが絶えなかったんですよ。
賄賂とか賄賂とか賄賂とか。

日本では地域独立が強かったので、わざわざ中央政権に関わりたい人間は少なかったのかもしれません。
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#1です。


同時代ということなんで、唐代から皇帝が最終試験を行うことで科挙が完成した宋にかけての時代つまり、日本の平安時代についての質問だろうと思って#1を書いてます。
鎌倉以降で取り入れられなかった原因は時代時代で若干ニュアンスが異なるでしょう。
信長が天皇家を滅ぼして天下を取っていれば科挙に近い制度が作られた可能性はあるでしょうね。
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中国でも唐の時代は科挙はおこなわれていたものの、基本的には貴族性の時代でした。


中国で科挙が本格的に人材登用に使われるようになる時代には貴族の力が衰えて、皇帝独裁になり、そのための人材登用システムとして科挙が利用されるようになったのです。
しかし、日本はすでに中世の封建制の武家政権の時代で、この精度は世襲が原則ですから科挙のようなシステムは日本には向きませんでした。
また、科挙に応じることができるだけの在野の人材いなかったということも一因でしょう。
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貴方は愛する妻や子供を 科挙のシステムで一任できますか。



信頼関係こそ身の安全だと思いませんか。
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天皇が中国の皇帝のような絶対権力者ではなかったからでしょう。

実際の政治は貴族の合議でなされるわけで、彼らが自分の子供に権力を伝えられない科挙制度を取り入れるはずがありません。
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Q科挙は東大試験より難しいのでしょうか?

科挙は難しい、競争が激しい、とよく説明されていますが、いまいち実感がわきません。東大の2倍くらい難しい!とか、電話帳丸暗記並みに大変!とか…具体的な(?)例えはありませんか?

Aベストアンサー

まず一例として、東大の入試と司法試験とを比べた場合、後者の方が厳しい試験であることはご存知であると思います。ただ、それでも司法試験を目指した友人の話によると、大体厳選された50冊ぐらいの本を丸暗記すればなんとかなるとの話でした。

さて、科挙についてですが、科挙は王朝によって少しずつ制度が変化し試験範囲も変化します。しかし、基本は四書五経でありこの本文の完全暗記は必須です。さらに、古代から積み重ねられてきた四書五経の注釈書(学説)を覚え、さらにその注釈書の注釈書の段階までは少なくとも覚えて居なければならなかったようです。全体の量は忘れてしまいましたが、少なくとも200冊、文字数にして(1冊1000文字としても)20万字は覚えていなければならなかったようです。(もとは漢文ですから、日本語での文字数の数倍の量となります。)

なお、問題の一例を挙げますと「維民処止(これ、たみのよるところ)」という四書五経のどこかにある語句に対してその意味するところや主要な注釈を考慮しつつ論文を一つ書くというようなものでした。

ということで司法試験が東大入試の10倍以上難しいとしても科挙はその司法試験の20倍は難しいでしょうから、全体として200倍以上難しいと思われます。

まず一例として、東大の入試と司法試験とを比べた場合、後者の方が厳しい試験であることはご存知であると思います。ただ、それでも司法試験を目指した友人の話によると、大体厳選された50冊ぐらいの本を丸暗記すればなんとかなるとの話でした。

さて、科挙についてですが、科挙は王朝によって少しずつ制度が変化し試験範囲も変化します。しかし、基本は四書五経でありこの本文の完全暗記は必須です。さらに、古代から積み重ねられてきた四書五経の注釈書(学説)を覚え、さらにその注釈書の注釈書の段階まで...続きを読む

Qこの世おばわがよとぞ思う望月の 歌の解釈 

「この世おば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば」

この歌はたしか学生時代(小学校か中学校で)に習いましたが、
教師に教わった解釈は 満月のようになにも欠けた所がない、栄華を極めたワタシであることよ』というような自慢っぽいものでした。

しかし、ふと思ったのですが

『月が欠けることが無ければ、この世は自分のものだと思えるのに・・・』
という意味、とれるように思うのです。
満月を見て詠んだのではなく、ほんの少し欠けはじめた月をみて詠んだのではないかと。

作者の藤原道長は源氏物語のモデルと言われている人物でしたよね。
たしか光源氏は晩年、さみいしいというか、落ちぶれていくという結末ではなかったでしょうか。

栄華のなかにあって、ふと自分で何かを予感するような、そんな歌のような気がしたんですが・・。

今の国語の解釈ではどうなっていますか?宜しく御願いします。

Aベストアンサー

わたしも数年前に授業でならった時の解釈は、
「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」
でした。
おそらく、現在の学校でも同じ様な解釈を教えていると思います。

ただ、わたしが調べた範囲では、こんなことがわかりました。
1)藤原道長は、30代くらいから病気を繰り返している。
2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。
3)「望月の歌」は、娘の威子が天皇の夫人となった時に読まれていて、
  同年に太政大臣を辞し、その前年に摂政を辞している。
4)「望月の歌」を詠んだ翌年には、出家している。

No3のkogotokaubeweさんの情報と以上の事を踏まえて、
質問者usiodonさんの解釈を敢えて採用するようにしてみるとこんな感じになります。
○病気が多くてそれは道長の悩みだったようで、
 病気がちの道長は晩年「糖尿病」だったそうです。
 自分個人の自信は失いかけていたかも知れません。
 また、「望月の歌」の前後で、役職を辞したり、出家してますから、
 自分の人生の事後処理モードに入っていた=欠けはじめた月の状態にあったとも
 取れます。
 「望月の歌」はそんな中で読まれているので、
 そんな本心の裏返し=強がりとして、酒の酔いにまかせて
 「いままさに栄華の絶頂にある」と詠んだ可能性はあると思います。

 それでも、出家後8年ほど生きていますので、役職は辞していても外戚政治で
 まだ権勢を奮っていたかも知れません。

質問者usiodonさんの解釈には共感できる点もありましたので
ちょっと余計な事まで回答してしまいました。

参考URLは、
「藤原道長の悩み」 http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub202.htm
です。

参考URL:http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub202.htm

わたしも数年前に授業でならった時の解釈は、
「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」
でした。
おそらく、現在の学校でも同じ様な解釈を教えていると思います。

ただ、わたしが調べた範囲では、こんなことがわかりました。
1)藤原道長は、30代くらいから病気を繰り返している。
2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。
3)「望月の歌」は、娘の威子が天皇の夫人となった時に読まれていて、
  同年に太政大臣を辞し、その前年に摂政を辞し...続きを読む

Qメタノール

水の密度は約1。メタノールの密度は約0,8。なのに混ぜても比例関係にならないのはどうしてですか?
 他にも屈折率や粘性率は、水にメタノールを加えると高くなる。(だいたい40~50%ぐらいが一番高いです。)何故でしょう??教えてください!
 
 一応メタノールの -OH が水と関係してるとこまではなんとなく分かったんですけど・・・・おねがいします!

Aベストアンサー

 学生実験で行いました。以下のURLのようにピクノメーターを使用しました。
さて、hajime40さんの回答で十分だとは思いますが念のため。
水は極性分子なので、水素結合によりその体積を最小にしようというように分子同士が引き合っています。逆に熱運動により離れようとしています。これが、0℃~100℃までの液体の水の状態で、分子お互いの位置が自由に移動できて、体積が限られているものです。水に溶けるとは「水和する」ことです。物質のイオンや極性の部分が水の極性分子との静電気的な力で引き合い、水分子内に入り込む状態です。メタノールは水よりも大きな分子ですが、CH3-OHのメチル基(CH3-)部位は極性がありません。ヒドロキシル基(OH-)部分に極性があり、ここが親水基となります。酸素原子は電気陰性度が高く電子を吸引するので部分的にマイナスとなっています。水素部分は逆にプラスとなっています。アルコールのヒドロキシル基の部分に水素結合で水分子が集まっている状態です。疎水基のメチル基の部分はアルコールの疎水基のみと分子間力で集合します。かなり、まばらな状態にあるアルコール分子(疎水基の影響で)の中に水分子が入り込む状態がおわかりでしょうか。

参考URL:http://chem.sci.utsunomiya-u.ac.jp/v1n1/yoshimura/DT-5/Abstruct.html

 学生実験で行いました。以下のURLのようにピクノメーターを使用しました。
さて、hajime40さんの回答で十分だとは思いますが念のため。
水は極性分子なので、水素結合によりその体積を最小にしようというように分子同士が引き合っています。逆に熱運動により離れようとしています。これが、0℃~100℃までの液体の水の状態で、分子お互いの位置が自由に移動できて、体積が限られているものです。水に溶けるとは「水和する」ことです。物質のイオンや極性の部分が水の極性分子との静電気的な力で引き合い...続きを読む

Q儒教(中国、韓国、日本)について教えてください

先日、中国には同性愛の風習がなかったか質問させていただきました。
その後図書館へ行きまして、自分でも少~しだけ調べてみました。
中国人は快楽主義的な人種だったようですね?

儒教の教えなのですが、簡単に教えていただけないでしょうか?
東洋史は高校でまじめに?やったのが最後で、大学ではサボっていました。
(サボれる出席確認方法だったのです!)
まじめに勉強しておけばよかったのですけど。

儒教の内容を簡単で結構ですので、教えてください。
それから、中国、韓国、日本の儒教のあり方、それぞれの国の人間は、どのように儒教に
従ってきたのか、あるいは従ってこなかったのか。

韓国人が「儒教の優等生」のようなことを教えていただきました。
中国人が放蕩すぎたため、儒教が生まれたというようなことも…。
日本人は儒教の影響を韓国人ほど受けなかったのでしょうか?

何でも構いません。
お奨めの本などありましたら、ぜひ一読したいので、教えてくださいませ。

Aベストアンサー

>儒教の教え
「仁」と「礼」を人が守るべきものと教えています。仁は一言でいえば「あなたが欲しない事を他人にしてはいけない」という事です。
礼は節度を守り身分ごとに応じた生き方をする事を求めます。(ホントは五常五倫なんだけど、多分その辺は#1さんの参考URLに出てます)

中国での儒教→秦の始皇帝の治世後期では冷遇/迫害されました(焚書坑儒、抵抗の抗でなく、坑=生き埋めです)始皇帝は法家(韓非子など)の影響により厳しい法律で中国全土を支配する事を目指しましたので、法で縛り難い儒教(例えば親が盗みをした事を子が隠すのは儒教的には孝で○だけど法家ではXのように)は都合が悪かったのです。
その後、漢の高祖(農民出身)が中国統一を果たしたのですが、彼の配下の多くは野盗出身や漁師出身など学の無い者が多く宮廷内は行儀が悪かったのです。そこで叔孫通という儒学者によって礼が導入され、その後の宮廷内部は見違えるようになり、高祖本人が「はじめて皇帝って偉いんだな~と実感したよ」と言ったと伝えられています。(史記)
以降儒教は中国皇帝の統治に無くてはならないものになりました。同時に多くの科挙合格を目指す者には儒教は必須科目になったのです。(これは結局清代まで続きます)

日本での儒教は貴族や僧侶のように漢字の読める一部の知識人のものでした。戦国時代末期、前田利家が大名になった後に儒者の講義を聞き感銘を受け、他の大名に「こんな面白くて為になる本があるんだって初めて知った」と論語を勧めています(それぐらいマイナーだったのです)
徳川政権になり儒教は武士階級を中心に広がります。礼は上下の身分を越えることを嫌いますから、下克上を望まない政権側としては儒教が広まった方が都合が良いのです。(儒教と言っても朱子学ですが)
しかし日本国内にほとんど孔子廟が無い事からも儒教が民間にまでは浸透しなかった事が分かります。(中国には沢山あって文化大革命の時に多くが破壊の標的とされました)

>日本人は儒教の影響
儒教には文を重んじ武を軽んじる傾向があります。日本では武士階級が鎌倉時代以降歴史を牽引していますが、彼らの基は「武」そのものです。と、なれば相性は悪いでしょうね。日本は何でも自国流に改造して受け入れます(文字だってそうです)。よって、色々な影響は受けたでしょうがオリジナルとはかなり異なった受け入れ方をしているのでしょう。忠臣蔵だって中国のオリジナル儒教では発生しにくいですよ(でも日本人って忠臣蔵大好きですよね)

>お奨めの本
論語と史記をいきなり読んでもアレですんで、中国の故事成語集などから入るのがベターかと。で出典が論語のモノを見つけていくと全体像が見えるかも知れません。

P.S.論語には女性蔑視の考えも散見されますがお怒りになりませんように。
折角ご興味をもたれたのなら宦官制度から中国・韓国・日本を眺めると新たな発見があるかもしれませんよ。

>儒教の教え
「仁」と「礼」を人が守るべきものと教えています。仁は一言でいえば「あなたが欲しない事を他人にしてはいけない」という事です。
礼は節度を守り身分ごとに応じた生き方をする事を求めます。(ホントは五常五倫なんだけど、多分その辺は#1さんの参考URLに出てます)

中国での儒教→秦の始皇帝の治世後期では冷遇/迫害されました(焚書坑儒、抵抗の抗でなく、坑=生き埋めです)始皇帝は法家(韓非子など)の影響により厳しい法律で中国全土を支配する事を目指しましたので、法で縛り難い儒教(...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

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Q日本には宦官はいなかった?

古代東アジアで日本だけに宦官制度がなかった理由をご存知でしょうか?

Aベストアンサー

 私が読んだ本では、「いろいろなことが絡んだ結果だろうが、一番の理由は巨大な後宮がなかったからだろう」と結論づけてありました。

 なんでも学んだのだから、知識が日本に入ってきていないはずはないと。

 それでも採用されなかった理由は、一口で言えば、「必要無かったから」。


 日本の後宮は彼の国に比べるとダンチの小ささで、女自身の手で管理できたのだそうです。

 例えば、皇后・中宮になる娘を出せるのはあの家、女御はあの家・・・ 的に決まっていて、誰でも後宮に入れて、天皇の好みしだいでなんにでもなれる状況ではない。

 女の間の争いは実家の威勢で決まり、複雑な女の権力争いが生じなかったので、女でないものが間に入って中立な立場で仲裁する必要もない。

 下働きの女から皇后まで、氏素性が知れており、男がまぎれこんでイチャイチャする心配もない。

 後宮が巨大な財産を持っているわけではないので、財務管理も必要無い。

 ないないづくしの理由から、宦官もいらないというものでしたね。


 その他、絡んだであろういろいろな事情としては、

 日本国土・神々は、イザナギ・イザナミの成り成りて成り余りたる処を成り成りて成り足りぬ処にたち塞いで生まれた(国生み神話)のに、成り余りたる処を切除する如きは神の許さざるところだ、という嫌悪感。

 その嫌悪感の表れの一つとして、動物を去勢することが流行らなかった。

 中国との関係が、主君と臣下というような緊密なものでなかった。

 などが上げられていたと記憶しています。

 ちなみに日本の女性は、上記のように権力争いなどをせず、穏和。従順であったので「纏足」で縛り付ける必要も生じませんでした。

 したがって、纏足もはやりませんでした。大和撫子万歳。

 私が読んだ本では、「いろいろなことが絡んだ結果だろうが、一番の理由は巨大な後宮がなかったからだろう」と結論づけてありました。

 なんでも学んだのだから、知識が日本に入ってきていないはずはないと。

 それでも採用されなかった理由は、一口で言えば、「必要無かったから」。


 日本の後宮は彼の国に比べるとダンチの小ささで、女自身の手で管理できたのだそうです。

 例えば、皇后・中宮になる娘を出せるのはあの家、女御はあの家・・・ 的に決まっていて、誰でも後宮に入れて、天皇の好みしだ...続きを読む

Q江戸時代の税金について

江戸時代では庶民からどのような方法、名目で税を徴収していたのでしょうか?

農民から収穫した米を年貢として納めさせるシーンは時代劇などで馴染みがありますが、江戸に住む普通の町民や商人からはどのように徴収していたのか、あまりイメージが湧きません。

江戸時代でも所得税や住民税などが存在していたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに、土地収益に関する山手・川手、産物に関する漆年貢・茶畑運上、商工業者に関する問屋運上など、名称・種類が多くあり、町にも関係する小物成りもありました。その中には分一と呼ばれ売上や収穫の何分の一かの形で税率が決まっていたものが多くあります。市場の売り上げの1/20もしくは1/30を納めた市売分一のように多くの売上や収穫に薄く、広くかけました。売家の場合にも分一がかかりました。
小物成りに含まれるものとして、冥加・運上がありました。後代になると両者は一定の税率(対象により税率が違う)になるなど同じようになります。
冥加は、村の年貢にあたる地子を免除された御恩(冥加)に対して、そのお礼の意味でも冥加の言葉は使われ、最初は自主的な献金の形式をとりますが、その後定率納税の形になります。町では商工業者の営業免許税の性格が強く、個人上納だけでなく、株仲間上納がありました。金納なので冥加金と呼ぶこともあります。
運上は農業以外の商工業や林業・漁業などの従事者に、一定の税率をかけた一種の営業税で、金納なので運上金とも呼ばれました。
御用金は、幕府・諸藩などが財政不足を補うために窮民救済などの名目を立てて臨時に御用商人などに臨時の賦課です。本来は借用の形式ですが、返済されなかったり、利子分は献金に切り替えさせるなど、臨時の課税の性格が強かったものです。
次に労役(夫役)がありました。近代以前の納税には米などの物納と、労働力提供の形式があり、労役も納税の一種でした(小物成の一種としても考えられていた)。江戸では町人足役と呼ばれ、町人に課された夫役で、上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防火などの都市機能を維持発展させるためや、幕府のために働く人足を出すものがありました。代銀納されることも多くありました。夫役の中心的なものは公役(クエキ)で、上記の目的で町人に付加されたものです。代銀納の場合賦課の基準が定められていました。土地20坪を一小間とし、日本橋などの中心部では5小間、芝などでは7小間で銀30匁とされ、借家人の分も含め地主が支払いをしました(店賃の中に含まれると考えられた)。
また、夫役の中には国役と呼ばれ、職人が江戸城の建築などに年の数日無償で従事する夫役がありました。これは戦国時代に大名が必要物資を確保するために職人を集めて大名に奉仕させたことに直接には由来します。江戸幕府も職人を集め、一定の町(職人町と呼ばれる)に住まわせ、地子を免除するかわりに普請や武具の納入などをさせる夫役です。後に代銀化し、棟梁などの頭役がまとめて納入するようになります。
最後に、現代の地方税、住民税にあたるとされる町入用があります。町は商工業者でもある地主・家持の本町人で構成された自治的な組織で、町役人である町名主などの役職や、寄合所・事務所である町会所、町の独自の掟である町法を持つのが普通でした。この町の町名主などの町役人、木戸番・火消等の人件費。町内の道路普請費用。その他町を運営するための運営費、事務費などの使われる費用でした。これは町名主に納めました。
以上ですが、江戸(他の都市も同じ)では、地借・借家・店借は、地主の町人に地代や店賃を支払うだけで他の負担はなかったが、長の運営には参加できませんでした。

地子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
地子免許
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1
小物成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A9%E6%88%90
分一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E4%B8%80
冥加
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E5%8A%A0
運上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E4%B8%8A
御用金
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E9%87%91
夫役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%BD%B9


以上、長くなりました。参考まで。

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに...続きを読む

Q水とメタノールの混合溶液では

水とメタノールの混合溶液について、屈折率、粘性率をしらべたところ、
メタノールの40~50wt%で値が最大となり、純水、純メタノール溶液
では、それに比べて、小さくなるのはなぜなのでしょうか?
分子論的な観点とマクロな観点からの考察をしていただきたいです。
よろしくおねがいします。

Aベストアンサー

全く同じ質問がなされています(下記のURLを参照)。

物理化学の成書で「部分モル量」をキーワードで調べれば,より詳しく書いてあると思います。

屈折率とは,光の伝搬速度が媒質内でどれだけ低下するかという割合を示す値なので,同じ物質で比較すると密度の高いときほど高屈折率になります。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=180964

Qなぜ日本は植民地にされなかったのですか?

19世紀、他のアジア諸国は欧米列強の植民地にされたのに
なぜ日本は植民地にされなかったのですか?
日本の教育水準が高かったからですか?
それとも単に運がよかったからですか?

Aベストアンサー

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。
アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという…
江戸幕府も同じなのですが。
ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。
幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。今もそう呼ばれてます。伊豆代官江川が引き継いで、青銅砲でない鋼鉄砲をつくる高熱の製鉄炉(反射炉)をつくろうとしたり(大砲、兵学などはなんとかヨーロッパの技術においつこうというカンジ)、日本人は形式・格式でガチガチのバカな武士社会の中でも一部の有能な、志ある人たちに助けられてなんとか西洋とわたりあえる学術・軍事・文化・行政制度をもっていたのです。
(ほとんどの藩はド貧乏、借金まみれ。一部の外様大名とかだけです。意識あったのは)

ペリーが来航した時も(一年前くるっていったのに来ないと思って内緒にしちゃったバカな幕府上層部のせいで大慌てしたが)、一年後返事をもらいにくる、といったあと年明け10ヶ月にきた時には、無防備だった江戸湾に砲台島を築かせて防衛体制つくった(江川が指揮)
これが砲台場、今の「お台場」です。
これにはペリーも驚いた。
あと吉田松陰みたいに単身(2人だったけど)黒船に乗り込んで
「我アメリカに行かんと欲す」と叫びまくって返ってきた若者とか。
こんな人他のアジアの国にはいなかった。

日本は天文、数学、測量でもヨーロッパの文献研究したり、和算でも微分積分できたらしい。水準高かったンですよ。富豪商人は学問する人たちが多いとか、そういうこともあったらしいし、町民文化も小説、演劇、レベル高かったです。

アメリカと国土交渉する際もペリーが小笠原はアメリカ人住んでる、国際的に通じる文書で証明しない限りアメリカ国土だ、といった時、フランス語版・林子平著三国通覧図説をだして、出版年からも日本領土だと証明。
松平定信が迫害した林子平の著作が、大黒屋光太夫一行のうちロシア日本語学校教師にのこった一人とドイツ人言語学者の手で訳されて、小笠原諸島をまもったわけですね^^

ま、そんなこんなで、日本は他のアジアの国より運がよかった。
・一応、統一国家でまとまってた。いくつか勢力が争ってるとかじゃなかった
・文化水準がヨーロッパと同程度だった(これは不思議なものである)
・一部の蘭学者のおかげで、外国の情勢なども在る程度はつかんでいた?!ジョン万次郎がいたといなかったじゃ、また違ったろうなぁ
江川さんがいなかったら大変だったと思うよ
・穏健バランス派の阿部が老中(筆頭?)だったのもよかった。水野忠邦だったらボロボロだったんじゃないかなぁ
最後は大分大胆に物事運んだけど。
・武士階級、常時帯刀武装してる階級が行政してる、というのはなかなかすごいかも^^
・シーボルトが日本の文化レベルを紹介する書物を発表してくれていた
(ペリーもちゃんと読んでた)→日本は交渉するレベルの国だと思ってもらえた。おそらく礼砲をちゃんと返せる国なんてアジアで日本ぐらいだったでしょう。

兵力でいえば、この前NHKでもやってましたが薩摩とイギリスの争い、中国のイギリス艦隊きた時は薩摩ボロ負けですよ。海戦は特に。
最初、不平等条約だったのもしゃーない。
しかし、交渉のテーブルがある、というのは在る程度、相手を認めてのことだし、全面開戦しなかった、というのはお互いのメリット、リスクも含めて必然だったのかも。
まぁ頑張りましたね、当時の日本^^

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。
アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという…
江戸幕府も同じなのですが。
ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。
幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。...続きを読む

Q日本でも昔官吏登用試験のような試験がありましたか。その試験の上からの三位は何と呼ぶのでしょうか。

 日本語を勉強中の中国人です。日本語を勉強するとともに、日本の歴史も少し勉強したいと思います。

 中国には昔科挙試験という官吏登用試験があります。科挙の最終試験で首席合格したものを「状元」と言います。二位を「榜眼」、三位を「探花」と言います。

 そこでお伺いしたいですが、日本でも昔官吏登用試験のような試験がありましたか。その試験の上からの三位は何と呼ぶのでしょうか。

 自然な日本語の文章を書きたいと思いますので、よろしければ質問文の添削もお願いできると有り難く思います。

Aベストアンサー

awayuki_ch さん。こんにちは。
日本語の勉強、そして日本の歴史への挑戦。本当に頭が下がります。頑張ってください。

「科挙」の日本版に関するご質問ですね。
★日本には「科挙」に匹敵するような「官吏登用制度」はありませんでした。
★平安時代(800年頃)に「科挙」を真似した制度が導入された経緯があるようですが、「官吏登用」とまではいかず、「下級貴族→中級貴族」程度の「進級」だったようであり、その後消滅したようです。
★日本の近世を作り上げる基礎となったのが、「明治維新」につながる「江戸時代」です。この時代に「徳川幕府」を中心とした「武士階級」が主役となり、いわゆる「官吏登用制度」は事実上無くなってしまったのです。
★明治維新後になって「科挙」を真似した、「科挙形式」の制度が導入された経緯があります。
しかし、内容的には似て非なるものだったと書かれております。

【参考】
日本でも、平安時代に科挙が導入されたが、受験者の大半は下級貴族で、合格者は中級貴族に進める程度であった。このため、大貴族と呼ばれる上級貴族層には浸透せず、当時の貴族政治を突き崩すまでには至らなかった。その後は、武士階級の抬頭とともに廃れ、江戸時代までは、官僚は世襲制が主となり、科挙が日本の歴史に影響を与えることは無かった。

しかし、明治維新で、日本にも科挙形式の官僚選抜制度が導入された。高等文官試験は科挙をヒントとして作られた制度であり、試験科目は儒教ではなく、西洋の近代学問となった。

awayuki_ch さん。こんにちは。
日本語の勉強、そして日本の歴史への挑戦。本当に頭が下がります。頑張ってください。

「科挙」の日本版に関するご質問ですね。
★日本には「科挙」に匹敵するような「官吏登用制度」はありませんでした。
★平安時代(800年頃)に「科挙」を真似した制度が導入された経緯があるようですが、「官吏登用」とまではいかず、「下級貴族→中級貴族」程度の「進級」だったようであり、その後消滅したようです。
★日本の近世を作り上げる基礎となったのが、「明治維新」につながる...続きを読む


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