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キリスト教徒すなわちクリスチャンは
自分が天国に行く
と信じて疑わないのですか。
ご存知の方よろしくお願いいたします。

A 回答 (10件)

質問を投稿されてからかなり時間が経った回答ですみません。


お答えします
私もその一人です。
イエスが復活なさったのが事実か否かというような議論も結構あります。
正直申しまして、一時期は私もそれに左右された事もあります。
ただ、冷静に事を眺めて直してみますと私自身、次のことが理解できたのです。、
本当に復活(ミラクル)を弟子達が目の当たりにしたからこそ、それを信じることが出来、その弟子達が異常な迫害に耐え、自らの命をかけた(捧げた)キリストの教えの布教が実現したのだということです。

例えばです、あなたがもしどこそかの宗教の教祖に出会い、巧みな超能力まがい(本当の超能力かもしれない)のミラクルを目の当たりにしても直ぐにその教祖を信じますか。信じると口で言いながらも、多少なりとも懐疑心は持つと思います。イエスの弟子たちもそういう面がありました。
ところが、その教祖が誰かに血まみれになった状態で殺され、検視の結果も死亡と判断されたその人が生き返ったのを目の当たりにしたら、あなたは死んでも生き返られるのだと信じ、そのことを他の人に布教するために命をかけられるのではないですか。

そう考えるとイエスの復活については歴史的事実と受け入れるしかないのです。
そうなんです、もしイエスの復活が事実でなければ、命がけで布教する弟子達もなく、後においてイエスの教えを「キリスト教」と呼ばれることもなく現在に至るまでになっていないことす。

秀吉の時代に約180余名の日本人クリスチャンが殺されました。この人たちは殺される直前まで主イエスを信じ殺されていったのです。
この人たちは自分の目でイエスの復活を目撃した訳ではではないのですが、私が先に述べたようなことを誰に教え込まれることなく、自分自身で素直に受け入れた結果イエスを信じた人々だったと思います。

また、私は自分が天国に行くことだけが目的でクリスチャンになった訳ではありません。
また洗礼を受けた者(クリスチャン)全てが天国に行けるとも思っていません。
やはり、なかなか私のような凡人には難しいことなのですが、自分が世を去るまでの間、それが難しいからこそイエスの御言葉を常に心に留め、日頃から人への慈愛(仏教の教えとて同じです)を忘れず生活を送ることができるようにしたいためです。
これが、天国に行くまで(この世にいる間)にイエスが最も人々に求めていることだだと思っています。

人は、
どう生きるか=どう死ぬか

ではないでしょうか?
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信じています!!それを求めています!!!


イエス様は私たちの罪を背負い十字架の上で死に、その三日後に復活され、天に上り今も私たちと共に生きておられます^^イエス様は身をもって、死者を復活させる力を神様が持っているということを示してくださいました。イエス様を、神様の一人子を信じるものは罪を赦されるのだから、真のクリスチャン(教会に通う、聖書を読む、イエス様を信じていると言う=クリスチャンではなく、イエス様とのコミュニケーションを持っている人=クリスチャンだと思うので、その意味でのクリスチャン)は必ず天国に行けると信じています^^
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個人的には信じてそれを疑っていません。


(クリスチャン全体ならばいろいろな方がいますので
なんとも言えません)

ただ信じているから今何をしてもいい、何をしても
天国にいけるなんて考えてはいませんが
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 クリスチャンです。



 一応、信じて疑いません(笑)。というのは、反証命題とでもいうのでしょうか。

 地球はビッグバンなどのほとんど超常現象に近いものによって創造され、生物が生まれたのか→否(確率的に奇跡の水準以上)

 このことがどうしても信じられないというのがありますね。ゆえに、神が存在する。

 そういうわけで神が存在するなら、人が創られた意図も存在するはずです。なぜ創ったか。その答えの1つはいわゆる「天国」に関わっています。

 天国の観念は宗派によって異なりますし、人それぞれです。信じる人もいれば、半信半疑な人もいるでしょうし、まったく意識しない人もいます。

 天国の記述のほとんどは、啓示録にありますが、ここの内容は難解なため(というより科学的な内容ではないので分析不可能)、その解釈はさまざまでしょう。

 ある人は、天国のマンションがあるといいます。それは、死後に復活して、そのマンションで幸せに暮らすのだというものです。
 少なくとも私の属する派では、これを否定しています。そのような事実はどこにもかかれていないので…実際のところ、天国がどういうところかという記述は皆無といったほうがいいかもしれません。
 むしろ、私たちが死後どうなるかというプロセスがより詳細に書かれています。

 裁きの座で人が裁かれるなど。


 
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私はクリスチャン。


毎週教会に行き、嫌な役も引き受け、教えも聞きに行
っています。
教会では信者同士あまり天国の話はしません。
それほど、個人個人天国の捉え方が違うのだと思いま
す。
人は必ず死ぬ。しかし完全に死んで生き返った人は一
人もいません。
だから天国があるのかどうかも分かりません。

しかし死んでもあちらがあるという希望があれば、今
生きている意味を見つけることが出来ます。
私は死ぬとき「精一杯生きた。神様にこの身をゆだね
ます。有難う」と言って死にたいので信仰していま
す。
そうすることによって、毎日が充実して過ごすことが
出来ますから。
又あまり人に意地悪も出来ませんから。
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#2さんが昔は「煉獄」という思想があったと言って


いますが、煉獄は今もカトリックでは教理として存在しています。
カトリック信者にあなたは死後どこに行きますか?
とたずねれば、相手が教皇であっても、ほぼ100%煉獄と答えるでしょう。
死後天国に行くという人がいれば、その時点で傲慢の罪で天国に行けないことになります。
プロテスタントは教派により考えが異なるので何とも言えません。
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私はクリスチャンです。

確かにキリスト教の教えは基本的に信仰義認であり、救われる条件はただ信仰だけとなっています。そして、それを信じています。
が、実際には信仰だけで天国にいけると、そこまでは確信をもてない人が多いんではないですかね。それは、教義を信じていないわけではなく、聖書には信仰を単なる頭の中の考えではなく、信仰と行動とは切り離せないものと説明している個所がいくつかあるからです。もちろん、信仰が一番大切です。そして、それをもっていれば救ってくれるという確信はあります。が、自分が、神の前に誠実に生きているかどうか、神の期待する信仰とはどんなものか、それを私はできているのかどうかと考えると、天国にいけると言う確信をもつまでには至らない人が多いのではないでしょうか?
塩野七生さんの「ローマ人の物語」のなかに、兵役の義務があるのにローマの兵役を拒否して殉教していくクリスチャンが描かれているのですが、彼も、また、殉教するほど強い信仰をもっていながらも、「天国にいけるかどうかはわからないのです。」と正直に答えています。これが、大多数のクリスチャンの正直な心情でしょう。
もっとも、このように、天国に行くことに疑念を持つことは異端だという主張もよく聞きます。それではキリストの贖罪を認めておらず、信仰したことにならない。というわけです。本来は、こちらのほうが正しいのかもしれません。
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私も前から疑問に思ってました。


詩編37:9には「主に望みをおく人は、地を継ぐ」とか、使徒2:34には「ダビデは天に昇りませんでしたが」とあるんですが、ダビデは逆に地獄に行ってしまった、、なんてことはあり得ないですよね。これでもキリスト教徒は全て天国に行くって言えるのでしょうか??
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キリスト教は基本的に誰もが神の国へ行けると説いています。

それには信仰というものだけが必要である、ということが言いたいのだと思います。
昔はキリスト教徒の思考の中には「煉獄」というものが存在していたようです。煉獄とは地獄へ行く程の罪ではないが悪いことをした人が行くところで、ほとんどの人が煉獄に行くと考えていたのでしょう。しかし煉獄には山(?)のようなところで、それを登りきったところには天国への入り口がある、とされていました。つまり、天国へ行けるのは努力をした者、ということが言いたかったのではないでしょうか。現代とは違う考えだと思いますが似たようなものだと思います。
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クリスチャンはイエスのところにいけると信じています。

宗教とは信じているからこそその宗教に入るのです。
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