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ルカによる福音書 5章39節

「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。
『古いものの方がよい』と言うのである。」(新共同訳)

共観福音書の上記箇所の意図するところがイマイチ分かりません。

36節からの一連のたとえ話は私の中では

新しいぶどう酒=イエス・キリストの伝える福音=新しい約束(古いぶどう酒は律法?)
新しい革袋=福音を受け入れる側(人)の意識

と解釈しています。福音を受け入れるには今までの(古い)肉に囚われた意識を脱して
新しい(霊の)意識が必要となる、というような感じです。

ですがそうなると39節の意味がよく分からなくなるのでこの解釈は間違い?とも考えたりして困っています。
詳しい方や神父・牧師から説教を聞いたことがある方がいらしたらご教授願います。

A 回答 (5件)

 バルバロ訳聖書(1980)の註では こう明らかにしています。

No.1の方の見解とちがわないと思います。

 《古い皮袋は ファリサイ派の解釈によるユダヤ教である》と捉えたあと

   このことば(* ルカ伝5-39)は ルカだけにのっている。イエ
  スは いくらかの悲しみをもって 自分の持ってきた新しいぶどう
  酒が 律法という旧いぶどう酒を飲んだ人の口には合わないのかと
  言うのである。

 それほど複雑でもないようですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

バルバロ訳聖書の註はとても分かりやすいですね。

お礼日時:2008/10/21 06:18

ルカ福音5:33の質問にイエスキリストが答えられたのが、5:34~39です。

5:33で「ヨハネの弟子達はバリサイ人達の弟子達と同じくよく禁食して祈るのに、どうして貴方の弟子たちは食べて飲むだけですか?」と質問されたのです。                                                                                    ルカ福音16:16は「律法と預言書はヨハネまでであり、その後には神様の国が述べ伝えられて全ての人々がその中に押さえ込まれるのである」と答えられました。                                                                                    だから、ヨハネの弟子達は未だに旧約に留まっている人達であり、イエスキリストの弟子達は新約に入る準備をしている人々です。                                                                                                    ヨハネから十字架まではイスラエルの人々がイエスを王として迎えれば王国が成立するけれども、イスラエルの人々はイエスを迎え入れず、十字架に処刑してしまいます。                                                                                     予めこれを分かる神様は十字架以後の福音を述べられているのです。                                                                                                   イエスキリストは一々旧約と新約を比較しながら述べられます。                                                                                                新しい葡萄酒は聖霊様の模型です「使徒2:13、エペソ5:18」。                                                                                              また、葡萄酒は血の模型でもあります。即ち、古い葡萄酒は旧約の羊の血を意味し、新しい葡萄酒は十字架で流されたイエスキリストの血を意味します。                                                                                             古い皮袋は旧約人、新しい皮袋は新約人です。                                                                                                         旧約人は律法を守って救われました。しかしながら、律法を完璧に守った人は一人もいませんでした。即ち、全ての人が地獄に行く運命だったのです。だから、旧約では羊が身代わりの血を流すことによって旧約人の罪が赦されたのです。                                                                                       しかし、羊の血も完璧なものでは無かったので、罪を犯すたびに羊が殺されなければなりませんでした。だから、旧約では聖霊様が旧約人の中に居られたり、出てしまったりされたのです「イザヤ63:11、出31:3、民27:18、ネヘミヤ9:30」。                                                                                                           しかし、イエスキリストの血は人間の血では無く、聖霊によって宿られた神様の血だから私達の罪を唯一回だけ血を流されることによって完璧に無くすことが出来たのです。だから、新約では聖霊様が救われた人の中から出て行かず、永遠に一緒にいらしゃるのです「ヨハネ14:16、エペソ4:30」。                                                                                         新約の時代である今は、その人の中に聖霊様が居ない人はキリスト人ではありません「ローマ8:9」。残念だけど数え切れないほどの人々が、自分の中に聖霊様がいらっしゃらないのにもかかわらず、キリスト人だと言っているのです。                                                                                                                 このような偽キリスト人をマタイ13:25は毒麦と言われます。                                                                                                 また、偽キリスト人でありながら教皇、牧師、専門家、経験者を名乗っている人々をマタイ23:33は蛇と言われます。                                                                                                            ルカ5:39「また、古い葡萄酒を飲んでからすぐ新しい葡萄酒を欲しがる人は居ないのに、それはその人が{古いものがもっと良い}と言うからである」。                                                                                                                    これは、33節で質問した人は旧約に従う人であり、そのような人は新しい約束である新約を受け入れないという意味です。                                                                                                           ここで、一つ注意すべきことは33の質問をした人が新約を信じないでも罪では無いと言うことです。                                                                                   何故ならば、未だイエスキリストが十字架で血を流されたのでは無いからです。                                                                                        しかし、今は旧約である律法を守って救われるように頑張る人は呪われます「ガラテヤ5:4」。                                                                                      また、旧約の律法を守りながら十字架も信じなければならないという人は、新しい葡萄酒を古い皮袋に入れた人であり、体と心が全て壊れて呪われるべき他の福音を述べている人です「ガラデヤ1:8」。                                                                                                  カトリックも旧約と新約を混ぜた他の福音を教えます。                                                                                      マザーテレサのように貧しい人々に食べ物を与えることが福音のように教えています。マザーテレサも教皇もただ一回も福音を述べたことがありません。                                                                                          だからヨハネ啓示録18:3で全ての民族達が彼女{カトリック}の淫行による激怒の葡萄酒に酔っていると言われるのです。                                                                                                       18:4では彼女から出て来なさい。彼女の罪に参加するなと言われているのです。彼の罪に参加して共同訳の聖書を作った者達も同じです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

ヨハネーイエスキリスト間で新旧の約束事を分けるのですね。

ヨハネはイエスを神の子として認めていたのでうっかりイエス側にくっつけて考えてしまいがちで

あくまで「道を整える者」という役割を忘れていました。

お礼日時:2008/10/21 06:22

調べてみました。



作家の真意はわかりませんが、、、

http://www.hachikenchurch.com/iWeb/2DD67D59-874E …

『古いぶどう酒を飲んだことがある人は、これが良いと思って、
なかなかもっとおいしい新しいぶどう酒を飲みません。当時のパリサイ人と律法学者たちはそのような人々でした。彼らは人間
になられ、愛に満たされたキリストより彼らが作ったいのちのないルールを美味しいと思っていたので、キリストご自身を拒んで
しまったのです。』


でですね。

神から授かった10の戒律ってものがあったんです。
例えば、姦淫をしてはならない とか。

姦淫とはなんぞや。
洗礼者ヨハネは、ヘロデ大王は姦淫をした としたために、ヘロデの妻に恨まれ殺されたわけです。
ヘロデが浮気をした?
ちょっと違う。
ヘロデの妻は、ヘロデと再婚したんですが、元夫は生きている。
元夫は生きているうちに、別の男と結婚をすることは姦淫だ と洗礼者ヨハネは言ったんですね。

夫が死んだ場合、妻はその兄弟と再婚をするってのがレビレート婚。
夫が死んでもいないのに、夫の兄(だったと思います)のヘロデと結婚をしたため、姦淫をしたとヨハネは言った。


で、とにかく10戒律に姦淫をしてはならないと書いてあるが、「この場合 姦淫か? じゃあ この場合は、こういうケースの場合は?」っていろいろなパターンが発生したとき、それも姦淫とするかどうか とか、律法学者たちは細かくルールを決めていったわけです。

神が「姦淫をしてはならない」と言う意味は、どこまでの範疇なのかを、神じゃなくて人間である律法学者が決めたわけです。

そうやって、事細かに法律を定めていった。
一日だけでも1000くらいルールがあるまでになった。
こなすだけでもたーいへん。


で、今回の古いぶどう酒を、神の言ったこと を指すのか、律法学者たちが決めたルールのことなのか。

リンク先を読むと、どうやら古いぶどう酒は律法学者たちが決めたルールのことじゃないか と思える。

新しいぶどう酒は、イエスの解釈の方。

で、パリサイ派の人たちは、今までのなじんでいる律法学者が決めたルールの方がいい とイエスの新しい考え方を拒否したってことじゃないか と。


ちなみに、クムラン宗団ってのが古代にあって、彼らはパリサイ派の人たちを、滑らかなる者 と皮肉っていたんですね。
この意味は、口では立派なことを言えるが、その口で言っていることを実行しない者ってこと。

パリサイ派は律法学者系だったか律法重視だったか そんな派閥。
で、彼らは集団の統率のためのルールを決めていく役職だったが、その当の本人がそれをやってはいなかった。

例えばですね、おかーちゃんが「食事の時はテレビを見ないように」と厳しく言っていたのに、昼間おかーちゃんは食べながらテレビを見ていたとする。
口で言うことを実践していないのに、子供にはえらそーに言う。
こういうのを滑らかなる者と呼んでいた。


だから、口先だけぺらぺら立派なことを言うがちっとも実践していないパリサイ派を、クムラン側は皮肉を込めてそう呼んでいた。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お酒は古いものが良いというイメージがありそこで少し混乱しました 笑 。

お礼日時:2008/10/21 06:20

旧い革袋(ヨハネとその弟子たち)に気をつかったんじゃねーの?

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この回答へのお礼

そうかもしれませんね。

お礼日時:2008/10/21 06:23

こんにちは。


私は牧師先生から
「39節はふるいものに固執する人々を皮肉った表現です」
と教わりました。

36節からの新しい概念に抵抗感を持つ人を批判した内容らしいです。
確かにちょっと分かりにくい節でした。

参考までにルカ伝の解釈が載せてあるサイトを挙げさせて頂きます。
既読でしたら申し訳ございません。

参考URL:http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2008 …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

39節の文章はニュートラルな書かれ方をしているので少し分かりにくいですね。

お礼日時:2008/10/21 06:16

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