アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 その意義が飲み込めません。おしえてください。

 ヰキぺディアの記事は まだ 書きかけのようですが  そこに記された次の二点が 一般にも 取り上げられているものでしょうか。
  ▲ (ユダの福音書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80% …
 (1) イエスを裏切ったイスカリオテのユダが 実は イエス・キリストの弟子の中の誰よりも真理を授かっており、
 (2) 「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものであるという。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですが (1)の事項は もし
 ( a )《誰よりも賢い》ことであるなら 
 ● (コリント前書1:20) 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
 ☆ ですから  特別のことではないでしょう。もし
 ( b )《神の霊に満たされていた》のであるなら あとで ほかの弟子たちも そうなったのですから これもまた 特別のことではないでしょう。
 次に(2)の事項についてですが 
 ( c )《裏切り》行為じたいは あまり 問題になりません。弟子たちも残らず皆が 裏切りましたから。あとに残った事項としては 
 ( d )《「裏切り」自体もイエス・キリスト自身が主導したものである》というものです。けれども この事項も たとえば 
 ▲ (ヰキぺディア:イスカリオテのユダ) ~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9% …
 スイスの神学者のカール・バルトは、ユダは、イエスを十字架に架け〔* そのはりつけの刑による死を通じて かれイエスを 救世主なる神=〕キリストにする重要な役割を果たした人物であり、「神の使わした者」と考えた。この考えは突飛なものではない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と知られます。そのことを 『ユダの福音書』は 発見が遅れたとは言え 歴史的に先に指摘したので 注目に値するということなのでしょうか。
 けれども 『ヨハネ福音』(13:26-27)にも すでに あの最後の晩餐において そのたぐいの事柄は 指摘されているようなのです。その席で ユダは イエスから
 ▲ 「しようとしていること(* つまり 裏切り行為)を、今すぐ、しなさい」
 ☆ と言われていますから。

 よく分かりません。ご自身のご見解でもよいですから おしえてください。ヒントが得られることがあります。

A 回答 (20件中1~10件)

brageloneさんへ、「よく分かりません」ということなので信じるかどうかは自由ですが私がイエスの父(愛の神)から聞いた話に基づいた話をしましょう。

 
ユダはイエスが十字架にかけられたのを知るとその足で、柿の木で首をつって自殺してます。☆だからユダの福音書は本来あるはずがないですね。★また、イエスを売るのが与えられた使命ならすぐ自殺するわけないですね。
▲ ユダは弟子の中でも一番学識もあり、真理の理解も早かったのですが、イエスが一番かわいがったのはマクダリアのマリアだったのですね。ユダはマクダリアのマリアに嫉妬したわけですね。そこに、魔が入っていたんですね。マクダリアのマリアは娼婦だったので、そんなところも厳格なユダには許容できなかったのでしょうね。ユダはイエスをわすかな金で売りましたが、単に売ったんじゃないんですね。ユダはイエスを救世主と知った上で主人を試したかったんですね。「なすべきことをなせ」というのをそのように解釈したんでしょうね。ユダヤの救世主はモーゼのように奇跡の力でローマ軍など蹴り飛ばすとユダは信じてたんでしょうね。ところがあっさり処刑されたんで、目論見がはずれると同時に間違いに気づいたので自殺したんでしょうね。優秀であったが故に愚かな弟子になるという複雑で哀れな話ですね。
ただ、ユダだけを責めるのはかわいそうですね。当時の複雑な様相を理解するにはイエス自身にも迷いがあったと考えるのが妥当ですね。ユダヤの予言通り処刑になるか、長生きして法を広めるかに迷いがありますね。ここにはイエスが我が父といったのが誰かにかかわる問題があるのですね。つまり、ユダヤの祟り神と普遍的な愛の神が見え隠れしてますね。歴史は祟り神によってユダヤの予言どおり処刑になり、普遍的な愛の神によるイエスの霊的復活といっそう複雑系になったわけです。こんなのをわずかな文献から教学的に理解しようとしても無理でしょうね。
「議論にもならない話ですけどあの事件の真実に近いかな」
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この回答へのお礼

 mmkyさん ご回答をありがとうございます。

 mmkyさんは 正直に申して ときどき 飛躍しすぎてしまわれます。むろん 《確信犯》でして 文章の全体として その真実をくみ取れという姿勢を保っておられます。

 いくつか――従いまして―― 食い違うところもあるのですが 話をしやすいようにと 次の一点について さらにお尋ねするかたちを考えました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・ユダヤの救世主はモーゼのように奇跡の力でローマ軍など蹴り飛ばすとユダは信じてたんでしょうね。ところがあっさり処刑されたんで、目論見がはずれると同時に間違いに気づいたので自殺したんでしょうね。優秀であったが故に愚かな弟子になるという複雑で哀れな話ですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしも ユダの考えていたところは イエスが 何らかのかたちで ユダヤの王になるというような将来像ではないかと考えます。そして わたしは 自殺という伝えについては あまり 信用していないと言いますか どうであってもよい・特に重要なことではないであろうと踏んでいるのですが それは ともかく その後
 ★ 目論見がはずれると同時に間違いに気づいた
 ☆ ここです。《目論見がはずれた》と見る点を共有しますが 
 ★ 同時に間違いに気づいた
 ☆ この点が よく分かりません。ひとつ考えているのは 
 ○ イエスの目的を きちんとイエスに 問い質しておくべきだった。自分だけで 考えて そのこと(ユダヤの王になるということ)を 自分の内に閉じこもって 思いこんでしまっていた。そのことが 悔しい。
 ☆ といった内容です。
 ★ 気づいた間違いの内容
 ☆ について よかったら おしえていただきたいのですが?

 * 『ユダの福音書』が それほど 重要な内容を持つとは見ておられない。こう受け取ってよろしいでしょうか?

お礼日時:2008/12/05 20:38

参考まで


★ 同時に間違いに気づいた。
 ☆ この点が よく分かりません。
「信仰者が信じるものを裏切ったという深い深い罪意識なんです。私のあさはかな智恵で救世主を裏切ってしまった。殺してしまったということですね。更にいえば、救世主と信じたものをアサ智恵で試し裏切ってみて初めて救世主であったことを深く確信したということでしょうね。」説明が難しいんですが、パウロの罪意識と同じと思います。ダマスコに向かう途中に「サウロよサウロよ何故おまえは私を傷つけるのか」とイエスに言われるのですが、サウロ(後のパウロ)はそれまでイエスを救世主とは思っていなかったんですね。ところがこのとき初めてイエスが救世主であったことに気がつくのです。普通なら「ああそうだったのか」ぐらいですね。でも違うんですね。パウロも救世主の降臨を信じる一人であったのですね。本来なら真っ先にイエスの弟子になるべき人物であった故に、その失敗、あまつさえ十字架にかけた側にいたという罪はいかほどかということなんですが、心の問題ですね。これ親鸞も同じですよ。親鸞の罪意識はパウロの時代のものですからね。だから「悪人正機説」は理解不能なんですね。
 * 『ユダの福音書』が それほど 重要な内容を持つとは見ておられない。こう受け取ってよろしいでしょうか?
その通りです。「私は知りえたことをありのまま言ってるだけです。brageloneさんのような立派な方には真実を語るしかないでしょう。」
○ イエスの目的をきちんとイエスに問い質しておくべきだった。
これはないですね。なぜなら聞いてもイエス様も答えなかったでしょうから。この答えが後半のイエスにも迷いがあったということなんです。
弟子に「なすことをなせ」といってみたり、「鶏が3度なくあいだに知らないという」など宗教家としても尋常ではないですね。イエスにも迷いがあった、故に弟子も迷ったということなんです。そのように聞いてます。「如是我聞」
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この回答へのお礼

 mmkyさん ご回答をありがとうございます。わたしには過ぎたお言葉をいただき ありがとうございます。精進してまいります。お互い あかるい質疑応答を目指してまいりましょう。

 ★ 信仰者が信じるものを裏切ったという深い深い罪意識
 ☆ なるほど。たぶん パウロも そして この見方の限りで ユダも まだ 《信仰者》として現われていなかったか または おのれの《信仰》の内容に あいまいな点を残していたその時点での《裏切り》なのでしょう。その点 なるほどと捉えました。ありがとうございます。
 そのあとで 疑問が生じます。それは それなら 
 ○ パウロは 伝えとしてながら 《私にとって、生きるとはキリストを生きることであり 死ぬことは有益なのです》(ピリピ1:21) と言うまでに 信仰に生きたが では ユダは なぜ そのような生がゆるされなかったか。
 ☆ この一点が 残りました。
 ユダの問題にかかわる限りで この種の補足要求もだいじょうぶでしょうか。
 イエスは 言います。
 ▲ (ヨハネ福音16:7) ~~~~~~~~~~~~~~
 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というのであるなら ユダが イエスを売ったとしても それは 予定の行動であった。ならば このユダにしても パウロと同じように キリスト者として 起ち上がって生きたとしても おかしくないと思えるのですよね。

お礼日時:2008/12/05 22:24

追伸:核心をついてきましたね。

まず、「そのように私は聞いています。」
イエスの行動を客観的に見るといくつかの矛盾が見えるでしょう。それは「普遍的な隣人愛」を説きながら「ユダヤ教の予言に従う一面も出している点です。「▲ (ヨハネ福音16:7)」などは「ユダヤ教の予言に従う一面」ですね。イエスは「普遍的な愛」を世界に広める救世主たらんとしたのか、ユダヤというローカルの救世主たらんとしたかということが問われているのです。教えの全体を見るとユダヤのローカル救世主から抜け切れなかったと見るのですね。実際もユダヤの王として処刑されています。ユダヤのローカル救世主が世界宗教になった理由は「普遍的な隣人愛」の教えゆえですね。でも教義にユダヤのローカル思想が含まれている点が悩ましいことなんですね。このローカルの教えが多くの人々に迷いをもたらしているわけです。
ここまでお話しますと、ユダの迷いの原因がイエスご本人にあったものだと考えることができますね。言い換えればユダヤのローカル宗教に縛り付けておこうという力(ユダヤの祟り神)と世界宗教にしようとする力(愛の神=我が父)の両方が働いていたということなのです。イエス様も長生きしていればもっとすっきりしていたと思います。3年は短かすぎますね。
☆ というのであるなら、ユダがイエスを売ったとしても、それは予定の行動であった。ならば、このユダにしてもパウロと同じようにキリスト者として起ち上がって生きたとしてもおかしくないと思えるのですよね。
そのように考えられますね。でもユダはパウロと違って罪の重さに耐え切れるような人物ではなかったということでしょう。パウロは救世主を屠る側に立ち弟子まで石打で殺してます。それでもその罪を背負って信仰に生きました。強くて立派なかたですね。後の親鸞が極重悪人といっているのはパウロであった自身なのですね。救世主やその弟子を屠った極重悪人の自分でも救われるのだからといいたかったんでしょう。宗教的な者の中にはこのようなお方もいるということですね。ちなみにイエスはとうの昔にユダを許していますがユダは2000年後の今日に至るまで地獄(煉獄ですか)にいるようです。自身の過ちが許せないんでしょうね。
更に:弟子の仕事に着目してください。 イエスのような大救世主が世に出る時はその舞台を成功させるために多くの取り巻きが同時に出るのです。縁ある弟子ですね。弟子の仕事は師を守って師により多くの法を説いてもらうのが仕事です。たとえ師が迷っても身を挺して守るのが弟子の務めですね。ペテロよユダよおまえは・・といわれても動じずに守るべきだったという考えもあるのですね。イエスの愛の教えには差別が一切無いのですね、たとえ娼婦・悪人・殺人者であってもです。
「それ故舞台劇には裏切り者も予定されていたのかもしれません。ユダも自殺せずにパウロのように罪を背負って信仰者として生き抜けばまた別の道が開けたと私も思いたいですね。もしそのようであったならユダの福音書にも大いなる福音があったでしょうね。」これは私個人の感想です。

この回答への補足

 mmkyさん なるほど 解けましたね。この場合は――つまり ユダの場合は パウロとちがって―― 結果がすべてだということですね。
 まづは ご回答をありがとうございます。

 ★ ちなみにイエスはとうの昔にユダを許していますがユダは2000年後の今日に至るまで地獄(煉獄ですか)にいるようです。自身の過ちが許せないんでしょうね。
 ☆ という見方も おもしろいですね。そして そういう見方でしたら わたしが ふと思った見方 つまり
 ☆☆ ユダは あまりにも 自分の内面にとどまり 閉じこもったかたちで 考えをめぐらしていたし その自分の考えをイエスに問おうとしなかった。思いこみで 行動を起こしてしまった。
 ☆ という中身に 通じているところも出てくるように思えます。神がゆるすと言っているのに 自分は ゆるされたくないと言い張っているように見えますから。

 ★ 後の親鸞が極重悪人といっているのはパウロであった自身なのですね。
 ☆ この観点も 何人かの人が 触れていると思います。わたしも みづからの見解として 触れるべきかなと思ったりしたことがありましたが 表現としては これまでには 出て来ませんでした。夢の中の議論であるように 思われるからです。さらにいろんな見方が出されていくでしょう。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ここまでお話しますと、ユダの迷いの原因がイエスご本人にあったものだと考えることができますね。言い換えればユダヤのローカル宗教に縛り付けておこうという力(ユダヤの祟り神)と世界宗教にしようとする力(愛の神=我が父)の両方が働いていたということなのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうなんですけれど つまり わたくしも そういう視点で ものを言うことも 説明の一環であると思うんですけれど これも まだこれまでに 表現となって 出て来ません。端的に また批判するようになるかも知れませんが 正直に 言えば そのように明確に言ってしまうと なおまだ 人間の憶測を抜け切れていない状態が あらわになるのではないか こうおそれられるからです。
 これも いろんな見方が出されて 練られていくことでしょうね。あるいは ただ単に わたしの今の状態が 浅くて 分からないだけなのかも知れません。

 ありがとうございました。一件落着のようですね。むろん 書きましたように つねに 問い求めていくのですし 表現やそれの感受の仕方が 或る程度は 歴史とともに 変わっていくかとも思いますから つねに こころを開いていたいと思います。mmkyさん 今後とも よろしくお願いいたします。

 * 次にも新しいご回答をいただいております。学術的な観点なり いろんなご見解を摂取していきたいとも思います。

補足日時:2008/12/06 10:50
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キリスト教について、歴史学的に調べてみますと、疑問は解けます。


神学的に解釈しようとしますと、色々な問題が出てきます。
そもそもキリストは、新しい宗教を開いたという意識は無かった事でしょう。
キリストの示したユダヤ教の改革運動は、その後2つの方向に分裂します。
ギリシャ世界に広がった、現在のスタイルのキリスト教と、ヘレニズム社会に広がったグノーシス派とです。

ギリシャ世界に広がったキリスト教では、実質的な開祖はペテロになります。
ユダヤ社会で受け入れられなかったキリスト教は、普遍性を加味する事で、アンティオキアのギリシャ人達に受け入れられるのです。
これにより、普遍の愛をうたう現在につながるキリスト教が成立します。

一方グノーシス派は、ペルシャのゾロアスター教、ギリシャのオルフェウス教などの影響を受けつつ変質してゆきます。
その中心がヘレニズム社会の中心であるアレキサンドリアです。

ユダの福音書、トマス福音書などグノーシス派の考え方をとる福音書は、このアレキサンドリアが中心となっています。

これらのグノーシス的文書は、キリスト教の聖書が編纂されるとき、為典として聖書から排除される事になります。

グノーシス的文書を、聖書に元髄手判断しようとしますと、つじつまの合わない事が多数みつかります。
そもそも考え方の対立していた文章を、片側の聖典で解釈しようとする事にムリがあるのでて。

キリスト教において、為典とされているものは、ユダの福音書以外に、エジプト人の福音書、12使徒福音書、バシリデス福音書、トマス福音書、マッテヤ福音書、(ヘブライ人福音書)、(パウロ行伝)、ペテロ福音書、ヨハネ行伝、などがあります。( )は、為典とする説と外典とする説があります。

これらは、グノーシス的文書になります。
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この回答へのお礼

 nacamさん ご回答をありがとうございます。

 ううーん。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 グノーシス的文書を、聖書にもとづいて判断しようとしますと、つじつまの合わない事が多数みつかります。
 そもそも考え方の対立していた文章を、片側の聖典で解釈しようとする事にムリがあるのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううーん。そうなんでしょうけれど おっしゃるとおりのことが基本なんでしょうけれど いまは 焦点をしぼっております。つまり 質問趣旨に説明しましたように 論点が(1)(2)と二つあり ここでは ( a )から( d )までの四つに分けて 分析しようとしています。
 これら四点のいづれも おおむね 共観福音書などと同じ内容を言っているか あるいは 示唆していると見られます。その内容の分析と言いますか 判定と言いますか それは また 別になりますが ともかく 一般に ユダの福音書が 共観福音書とは別の重要なことがらを伝えているという触れ込みで 引き合いに出されるものですから 一度 問うておきたかったのです。
 ★ グノーシス的文書
 ☆ は ともかく ペテロやパウロの伝えたクリスチアニスムとは 基本的に 別ものであると 前提しなければならない。こういうご見解でしょうか。もしそうならば しばらく前の 発見と読解にかんする騒々しい宣伝は 現在の聖書に及ぼす影響としては まやかしであったということになるでしょうか。
 どうなのでしょうねぇ。
 ( d )の事項 つまり イエスが自身のはからいとして ユダに裏切りをさせたという事柄は けっこう 引き合いに出されることがあるように感じていますが したがって そのことの ひとつの結論を 一定のかたちで 明らかに出来ないものかと思ったりしますが どうですかねぇ。

お礼日時:2008/12/06 11:10

brageloneさんにしては不思議なと言いますか、いつもと違う質問のように思えます。

(相変らずヘソマガリで申し訳ありません。)
brageloneさんならもう既にワルター・イェンスの「ユダの弁護人」には眼を通していらっしゃると思いますが、そこから派生した質問なのでしょうか?結論はお持ちで試されているような気分です。
私は個人的にこの「ユダの弁護人」に同調します。
1)一番学識があり、読み書き・そろばんの出来たイスカリオテ(またはケリオト)のユダが一番信頼されていた。一番の理解者であり、鶏が鳴く前に三度知らないと答える弟子たちの中にあり、イエスの考え、思想の理解者であったから。
2)従って最後の晩餐でイエスに言われた事を直ちに理解し、実行できた人物は他にはいないはず。天国の鍵をお前に預けようと言われた弟子、一番愛されていたと言う弟子も無学文盲なら誰を信じますかね~
別典ではマグダラのマリアは一番愛された弟子とされたり、妻とされたり、子供を連れて逃れたとか言われていますが、正典では娼婦ですね。(年一回の神殿娼婦であったとしても。)
ただ、不思議なのは何故罪人を墓に入れることが出来たか。恐らくマグダラのマリアはサドカイ派・サンヘドリンに顔のきくそちら系統の女性かなと思ってしまいます。もちろん正典ではアリマタヤのヨセフがやったことになっていますが・・・
3)この時代の時間感覚はかなり違っているので、イスカリオテのユダが木にぶら下がって縊死したのがいつかは判然としないと思います。アブラハムをお爺さんとしているくらいですから。ユダの福音書を書き終えてからということもありえないことではないと思います。
4)ヴァチカンはイスカリオテのユダを福者にはしないでしょうね。

この回答への補足

 1000827313さん お久しぶりです。お元気そうですね。見ていてくださったのですか。まづは ご回答をありがとうございます。

 ユダ には 関心が行かなかったですね。単純に 伝えとしてでしょうが 自殺をしたということを わたしは嫌った結果だと思います。理論でも何でもないのですが。
 ★ ワルター・イェンスの「ユダの弁護人」
 ☆ については 次のサイトでの解説をいま読みました。
 ▲ 《説 教 ユダとは何者か》
  http://www.nishinasuno-church.or.jp/2007.2.11.htm

 ☆ そうしますと 1000827313さんのご解釈では
 ○ ユダは みづからの手で みづからの理解による《イエスに関する良き知らせ》を書いた。その仕事を果たしたのち 自死を選んだ。
 ☆ ということでしょうか。以下は 疑問・質問です。

 (1) イエスについて 文章に遺した。そして パウロのようには 宣教をおこなうつもりはなかった。ということでしょうか。
 (2) イエスが 自分を祭司長らに 売り渡す役を ユダに託した。これを受けただけではなく ユダは したがって その意味について その後の磔刑によるイエスの死までも 分かっていたということでしょうか。
 (3) ちなみに――小さいことですが―― イエスは 公の場ですでに顔を知られていたと思われるので ユダが手引きする必要はなかったようにも思うのですが。
 (4) (1)に戻って パウロらの宣教した《信仰による義認》の理論は ユダは 認めていなかったという意味でしょうか。グノーシス派一般の教義として 単純に そのように 推理しただけですが。もしそうだとすれば 明らかに クリスチアニスムが 大きく 二つに分かれますね。ただし グノーシス派は わたしには 信仰ではないと思われ 質も違うとは考えます。大枠として No.4のnacam さんのご見解に通じます。

 (5) そもそも 問題と核心は 《去らなければ 聖霊は 来ない》(ヨハネ福音16:7)にあると考えます。その意味は イエスが去る前つまり生前には 誰ひとりとして 人は イエスの意味が分からなかったということです。聖霊を受けてこそ初めて イエスの指し示した神を 息吹きとして 受け取った(つまり 信じた)ということだと考えます。
 (5-1) 十字架上の死および復活の 以前と以後とでは 世界が変わり 人はあたかも裏と表・頭と足を逆転せしめられて 自己を自覚したというようなことではないでしょうか。――このとき ユダもペテロもパウロも ないのだと考えます。
 (5-2) その意味では 以前と以後それぞれの情況において 人は 互いに みな対等・平等なのだと考えます。誰が どうで かれが こうだということは キリスト者にとって そして しかも それだけではなく あらゆる人にとって 信仰ないし存在論においては 差異がない こう受け取っています。
 (5-3) この結論でしたら 前々から持っています。

 (6) 早い話が ペテロを初めとする弟子たちは 初めから イエスの復活のあと かれらの信仰も復活するというふうに 分かっていた。そういう人たちを選んだ。
 (7) そうすると ユダは どうして その仲間に入らなかったか。仮りに生きていたとするなら パウロのように 仲間らの外側から そのエルサレム教会と交渉しようという考えは起こらなかったか。――だとすれば この場合 結果がすべてだと考えられて来ます。
 (8) だとすれば この《ユダの福音書》の中身が いわば勝負を決することになるかも知れません。けれども それが わたしから見て パッとしないんですよね。どうしたもんでしょう。

 このように考えております。よろしかったら 突っこみどころは 全部 突っこんでください。

 * 福者・聖人は 教会が認定するのも 好し悪しであるように思います。と言いますか 信仰の度合いの問題だとすれば それは そもそも――人が人を裁くかのようですから―― 無理ではないでしょうか。
 * 《イエスの思想の理解者》であることと ふつうのキリスト者であることとは 共通の部分もあれば 重ならない部分もあるように思います。後者が 主であり 前者は 従だと捉えます。愛が信仰をとおして はたらくと受け取るからです。

補足日時:2008/12/06 21:20
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古代、福音書は200を超えて存在していたそうです。



その中から新約聖書編集者は4つ選んで、あっちの文書はここ、こっちの文書はこっち、と編集してまとめあげ物語となるようにして、これらを聖典とする と決定し、それ以外の物語を保持していたグループの解釈を否定し、聖典と決定された以外の福音書を焚書させた。

その焚書命令が起こった時、ユダの福音書は焚書されず隠されたと推定されています。

これは、ナグ・ハマディー文書も同様。


さて、何が問題なのか。
キリスト教では、ユダが裏切ったために、イエスは逮捕され、処刑されたことになっている。

でも、ユダの福音書では、ユダだけが一番イエスを理解しており、イエスの指示で、イエスが捕らえられて処刑されるよう行動したとなっているから。

裏切ったどころか、イエスの一番の協力者だったとなっているため、現在キリスト教が教えていることと違うことが、注目すべき点だから。


事実を知っている人は誰一人もいなかったわけです。
いろいろなグループが「我々が信じる話こそ、本当だ」と勢力争いしている混乱の中、文章化したグループが勝ったわけです。

日本だってそうですよね。
日本書紀ってありますが、各地の伝承と異なるが、これが日本の歴史だとまとめたグループが日本の主導権を握った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ユダという名前、ユダ族の父の名前。
ユダはユデまたはエウドと呼ばれ、父神イスラ・エルの一人息子だった。
紀元前165年、ユダ・マカベアは古代の仕来りを復活させたが、それ以降100年間、ユダはユデアにおける聖職者ー王たちの王家の名称となった。
従って、在位の王の身代わりとなった犠牲に供された生贄には、通常、ユダという王の名前が与えられた。

ユダにまつわる伝説は、その他の数多くの聖王たちの伝説と類似していた。
ユダは、女予言者すなわち巫女であった聖なる女王キュボレアドから生まれた。
彼は大きな「箱」(cista)に入れられ海に流されたが、その箱はスカリオトの島に打ち上げられた。
このことから、ユダ・イスカリオテという彼の名前が生じた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

エジプトでは、王家の跡継ぎが生まれると、一度川や海に流されるという話になっている。
モーセもそう。 モモ太郎もそう。

これが、ユダ物語でも使われているわけですね。


ーーーで囲った内容は神話・伝承辞典からの抜粋ですが、この先なんて書いてあるか知りたいですか?
辞典のユダの箇所の内容は長いので、興味が無ければ、書くだけ無駄なので、聞いてからにしようと思って。

この回答への補足

 kigurumiさん ご投稿に感謝しますが ひとつには これまでの質疑応答を読んでいないことが分かり それは 仕方がないとしても もう一つには 質問趣旨に沿って答えていないことが 明白です。

 ★ ユダの福音書では、ユダだけが一番イエスを理解しており、イエスの指示で、イエスが捕らえられて処刑されるよう行動したとなっているから。
 ☆ 質疑応答を持ち出さなくても 質問趣旨( d )に述べたとおり 新しい意味はありません。
 次の一点つまり
 ★ 裏切ったどころか、イエスの一番の協力者だったとなっているため、現在キリスト教が教えていることと違うことが、注目すべき点だから。
 ☆ これは わづかに 聖書とイエスを分かっていない者らのあいだで 驚きと反省が与えられることとが 見受けられるということですね。その意味で 《この注目点も けっきょくは 割り引いて取り上げねばなりませんが》と但し書きを添えるべきでしょうね。ふつうのキリスト信仰にとっては 何の驚きでもなく 意外さも新しみもありません。
 わたしが そう応答するのが分かっていて ご投稿なさったのですか。

 いい機会ですから この
 ★ イエスの一番の協力者だった〔となっている〕
 ☆ ということの内容について その意味をただしたいと思います。むろんこれは わたしからの余分の応答です。

 ○ イエスは 《わたしを売り渡せ》とは言っていない。イエスの側から ユダに対してにしろ誰にしろ 自分が《去って行く》ために《〈協力〉してくれ》とは言っていない。ユダの採った行動は イエスとの共同作業だったということはありえない。
 ○ 直前のご回答No.5に対してお応えしたとき 《小さなことですが》と 控え目に述べた点 これを いま 持ち出します。すなわち イエスは すでに人びとから顔を知られていたのであって 暗い頃だったとしても そのかれを特定するために わざわざ 手引きを必要としたとは考えられない。というよりも いつでも 捕まえることは出来たはづ。したがって
 ○ ユダは その自己のイエス理解にもとづいて 単独で 《売り渡し》をもくろみ これを実行した。
 ○ イエスは 《去っていく》のに ちょうど ユダが 売り渡しを計画しているのを 心に 知って これを 利用した。売り渡しは 言ってみれば 悪である。この悪を イエスは 善用した。――ただ それだけである。

 ☆ こういう物語です。
 ユダの物語については この質問趣旨に沿って 出すか出さないかを判断なさるのがよいでしょう。

 kigurumiさんの特徴は わたしから言わせれば 《信仰》ということを なんら知らないし 知ろうとしないことです。神話・伝説は 思想・経験思考の問題です。
 
 どうも ユダも どれだけ優秀であっても この信仰のことが分からなかったという解釈が 有効になるような気がします。むろん 分からなくても 何の問題もありません。問題は その分からないまま 自分で思い込んだ内容を 正しもせず 実行に移してしまった。ということではないでしょうか。

補足日時:2008/12/07 10:06
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この回答へのお礼

 補足です。
 ★ 日本書紀ってありますが、各地の伝承と異なるが、これが日本の歴史だとまとめたグループが日本の主導権を握った。
 ☆ 日本書紀は 特に 神代では いくつかの伝承を あるだけ 並べて 資料集のごとく 編んでいます。
 古事記が 天地の初めより 一筋の物語として その意味で統一するかたちで 編集しつつ 文学作品を形づくっています。
 むろん 歴史書というものは おっしゃるように 政治権力として支配体制を確立した人間の側から見た内容であると 基本的に 言えると思われます。
 ただし だからと言って その一本槍であるわけではなく 一筋縄で扱えるものでもありません。たとえ そのように 当時の権力の側の意向が すべての記事内容に反映していたとしても そうたやすくは その内容が 固まるものでもありません。たとえ固まっても どこかに 別の視点 別の史実と思われる要素が 覗いているものです。

 言いたいことは 中身で 勝負だということです。中身が ものを言います。古事記は なかなか みずみずしい文章で 生き生きとした人物像を描きつつ 物語っています。しかも 権力の側の視点を外さず取り入れて 同時に そこここに 民衆の視点も じゅうぶん 伝えようとしているし 伝えているのです。
 ただし それ以上は さらに 分析を経て この神話伝承の中から 人びとの《信仰》のあり方を 取り出して来ます。別の作業も必要です。しかも 可能です。すでにわたしは その結果を ここで 披露してもいます。

 その民衆の信仰の問題 これを しかしながら 現在の共観福音書およびヨハネ福音ならびに使途書簡は 十二分に 直接に 語り尽くしています。ユダの福音書もトマス福音書も 一般に グノーシス派の福音書には その信仰の内容が 見当たらない。こう述べたのです。
 あったら おしえて欲しい。ユダの福音書じたいについては 出た時に 読みましたが そしてその結果は 上に述べたとおりですが ユダという人間じたいについては あまり 調べたりしていなかったので ここで 質問しました。 

お礼日時:2008/12/07 14:16

>kigurumiさん ご投稿に感謝しますが ひとつには これまでの質疑応答を読んでいないことが分かり それは 仕方がないとしても もう一つには 質問趣旨に沿って答えていないことが 明白です。




嘘ですね。笑
感謝などしていないことは明白です。
(明白という語彙はあなたの口癖ですよ。私なら、高圧的な語彙なので普通使用は避けます。相手を打ち負かすときは、故意につかうかもしれませんが、火縄銃など使わず、、大砲でどっかーんします。)




私のここでのモットーは、他人の回答に口出ししないことです。
他者の返信に書かれていることが正しくないと思っても、自分の回答の時、それを持ち出さない。


何故か?
他の回答者を下げる行為だからです。
他の回答者に対して大変失礼な行為なのでしません。

マナー違反だから。
だから他の回答者の意見が正しくないと思ってもスルーするし、言及しません。

質問者から他の回答者と話した内容を私にふられた場合は、答える必要があると判断すれば、質問者に対する答えとしては書くこともあります。


このサイトはテストで正解を得るために質問する場ではないんです。
前も何度も何度も説明しましたが、あくまで参加者の持っている情報を得る場所。

有益な情報だと思えば、持ってかえればいいし、不要だと思えば、持ち帰らなくてもいい。

ぶらっとショッピングして、必要だと思った商品を買えばいい。
いらなかったら、買わなくていい。
いらないものを手にとって「いらない くだらない」と騒ぐ必要はない。
いらないなら手に取らない。
精神不穏を起こすのなら、摂取しないこと。



2chで嘘を掲示板に書かれ傷ついたという人がいるがどう思うかという質問に対して、ひろゆき氏はこのように述べていた。

「嘘を嘘だと見抜ぬけない人は、ネットをやるべきじゃないと思います。」


聖書もそうです。
見抜く能力が無い人は、聖書を読むべきじゃないと思います。


ユダの福音書の内容は嘘か?
嘘という類とは違うが、史実が書かれているわけでもない。
他の聖書もそうです。史実ではない。
そこを見抜けない人は、聖書を読むべきじゃあない。
見抜く能力が無い人が読むと、とんでもないことになり、精神不穏を引き起こす書物だから。

この回答への補足

 ★ 精神不穏を起こすのなら、摂取しないこと。
 ☆ 精神不穏を起こすのなら、投稿しないこと。

 今後のために 補足しておきます。ただし もう百回目だと思いますよ。

補足日時:2008/12/10 10:26
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この回答へのお礼

 ☆☆ 質問趣旨に沿って答えていないことが 明白です。
 ☆ これを否定したそちらの《嘘》を見抜く力がありますので なんとも 応答のしようがありません。

お礼日時:2008/12/09 09:50

 門外の門外、ずうっと市井の片隅で、この質問をお気に入りに入れて、ご回答を日々楽しみにしてきましたが、時間も経過し、お気に入りから外し、ご回答や補足、お礼などがあったら知らせてもらえるように、門外からの今の判断を書かせていただきます。


 brageloneさんから、また、お叱りを受けるかもしれませんが、どうかご指導を賜れますよう、切に懇願します。

 kigurumiさんご紹介のhttp://www.zeitgeistmovie.com/subs.htm及びhttp://homepage2.nifty.com/SON/uranai/Aquariusag …を、漸く拝読しました。聖書とイエス伝説のことについて、また一局面を学びましたりました。
 私の勉強しているバガヴァッド・ギータも私たちの聖書です。ずいぶん共通点もないわけではありません。しかし著者は、マハバーラタにも登場し、重要なキーパスンであるヴィアサであるといわれております。
 著者の不明確なイエスの聖書とはここも少し異なります。両聖書とも、聖者(イエス聖書は複数でしょう、しかも時代を隔て、且つ、聖者だけでない、地上的政略の立ち回りも介在しているようです)は、難しいことを、そのときの事件やポピュラーなお話、一般に流布していること、歴史などを題材にして、ご自分の教えという、歴史の事実の次元を超越したことを、わかりやすくお話し、それを書き留める人もいたようです。
 論語にも事件や故事などが出てきますが、それは話の進みの中でのことで、教え・主張との分別がかなり明確です。
 先の両聖書はそれを明確にしてはおりません。あの折は、その線引きを明確につける必要性がなかったからです。しかもイエスの聖書は、どうも複数の人、そしてしかも時と所を違えて、関っているとしか思えません。kigurumiさんのお言葉では剽窃というご表現がありましたが、実体はそうです。そこには不正直な剽窃もあり、聖書というものの書き方としての、隠喩などをもあり、致し方ない借り物としての剽窃もあると見受けました。
 当時の人に知られていた、他の伝説や神話、そして星学なども利用されていることは、kigurumiさんのご指摘の通りです。
 そういうものとは別にヒーロとして、確かにクリシュナやイエスになる誰かがおり、ヴィアサや誰かが著者としておりました。
 そして著者、kigurumiさんのご表現ではイエス作家。彼が、造った像とそれを方法にして、伝える教えは、多少ですが今も聖書に散在している。という状況ではないでしょうか。
 だから聖書を統一体として把握できませんし、その必要は、信仰実践でもない。
 インテレクチュアル研究すれば、するほど、バラバラなことが判ってくる。そんなものの中ではユダさんのことも、歴史事実と、伝える教えは別にする必要があると思います。
 それで私は、伝わるユダさん関係の歴史事実は私はなかった。何かを伝えるために、誰かがいつか、入れたのだ。と存じます。
 この箇所にずいぶん多くの方が注意を傾注してきております。しかしそれほどのことはないのだと私は存じます。
 私たちの精進や教えでも、ときたま(いや度々でしょうか)気をそらしたりすると、先生は「それならここを出て、思うことをしなさい」とかいいます。その程度のことではないかなと存じます。
 ユダさんが接吻した?その必要が本当にあったのか。通報内通した。そんなことが必要だったのか?これは余計なゴミ以外の何ものでもない。
 これに関連する事象や解釈は無用なことでしょう。新しくないが新たな福音書がでた。それがなぜイエス聖書に収録されなかったか。
 編集者、伝える権限者の意図でしかないのでしょう。
 今度のユダさんん福音書ですか、それはそれとして対象とするだけで、今の聖書との連関は、関連する限りに扱えばいいのだと存じます。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E6%9B%B8 偽書というものがありすが、古代からの聖典は著者の意図や聖性にかかわらず、手法としては偽書になっています。
 これは歴史書を書く意図ではないし、素朴な方々を眼中にしているものですかから、当然です。
 イエス聖書に後から付加したり、削除したり、加工した人を除き、悪意は全くありません。そしてユダさんについての事件は事実無根です。
 いろんな解釈は無用です。
 思っていることをやりなさい。というフレーズは気が別に行っていて、未熟なものよというくらいなことです。
 それとは別にイエスのモデルさんが、ご自分が肉体を出て行く時点と契機は認識していたと存じます。
 でもイエス聖書に書いてある通りが歴史事実だと後生大事に思う必要はないのではないでしょうか。
 brageloneさんのご質問であとどんな事実がわかってくるか、とても楽しみですが、むしろkigurumiさんのいつもの手法でこのあたりの謎解きがあるととても参考になるかもしれないですね。
 或いは本当の素材事実って、何だったか。

 以上の中において、「だと私は思いました、とか、何とか」の修飾語や、お断りのことばを、不遜にも省略しました。まわりくどいと、お読みくださろうとして煩雑では申し訳ないと存じたものですから。どうかご斟酌ください。
 それにしても長くなり、文章表現も下手っぴー、誤字脱字をどうかお許しください。
 それにしても、きちんとしたものならばともかく、伝わるイエス聖書は、片言隻句を神聖に崇めることは無理だと、私は、痛感しました。

この回答への補足

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 Q: ユダの福音書の何が注目されるのか
 ☆ に対して その問いに答えるのではなく 現在の聖書の側から見たユダの像が 間違っているという立ち場からのご投稿だと受け取って 応答いたします。簡潔に――そのぶん 文章のつながりが乱暴になりますが――述べてまいります。

 ★ 伝わるイエス聖書は、片言隻句を神聖に崇めることは無理だ
 ▲ (コリント後書3:6) 文字は殺し 霊は生かす。
 ☆ この対比で 足りるでしょう。

 現行の聖書にあるユダ像は 《事実無根》との説については 判断の根拠が示されていませんので 保留とします。つまり 一例として
 ★ 思っていることをやりなさい。というフレーズ
 ☆ の問題ではなく イエスを売り渡したという行為の問題だからです。ただし 聖書の成り立ちというものを批判することにおいて そのような総合的な観点から 根拠の一端を示そうということかも知れません。
 まぁ ユダなりトマスなりの福音書から これぞ すばらしい文章であり 思想であるというところを 示すのが てっとり早いはづですが それが 望めないとなれば やはり 上に触れられた聖書の成り立ちの問題が 引き合いに出されるのでしょうか。

 ○ 豚に真珠 (cf.マタイ7:6)
 ☆ は われわれが使うとき おおむね 出典が分かっています。けれども
 ○ 目からうろこが落ちる (cf.使徒行伝9:18)
 ☆ は 出典が知られていないのではないでしょうか。このとき この句を用いたなら 剽窃の疑いがかけられます。か? そして そのようにして 小説家なら その自分の作品を作り上げたときには どうなりますか?
 聖書の話が 話素として どこからでも いくつにも及んで 《剽窃》をおこなっているというのは おおむね 学問的事実です。そうすると 先の作家の創作と同じように その中身が 問題になる。ということじゃありませんか。きわめて 単純な問題なのではありませんか?

 老婆心ながら 注意点を書き下して 今後のご投稿のための判断資料を提供します。
 (1) 神話伝説のたぐいは なるほど それは 《嘘》があるとすれば 人間を そのまま《神々》として 描いたという《うそ(虚構のことですが)》だけです。《神々》としたことによって 現実の人間が出来ないことをも 想像力によって 描き出しました。――これに対して 聖書は 人間および神々をも超えたところに 《かみ》を見たのです。見たゆえ 想定したのです。《うそ》の質が違うわけです。
 (2) 話素は すべて それまでの過去の歴史から よさそうなものを選んで 用いたのです。しかも 主眼は 神話の教訓を繰り返すことにはなく あるいは 《パクリ》のうまさにも ありません。(1)に指摘したとおり 神々および人間という水平的な世界を超えたことです。――神々は 天にいると言っても あくまで 想像の産物として そう設定しただけですから 想像力や精神という点では すべて 人間の目の位置における水平的な視点から成ります。その水平的な世界を超えました。超えたところを 指し示したのです。
 (3) 経験とは超絶した領域 と言っても 早い話が 《無根拠》ということです。ところが この経験世界において この《無根拠》によって説明するしかないような出来事は あるわけです。人間とその生にとって基本的で最重要であることほど 当てはまります。存在・生死・善悪・愛の関係などです。
 (4) この《無根拠》を 擬人法によって――その前に 《絶対》であるという規定をしていたわけですが―― 《絶対なる者》とし あるいは《かみ》と呼んで その超越者との関係というような主題をも設け この世界の物語(=歴史)を編んで行ったのです。
 (5) この聖書は したがって 神話伝説のたぐいとは まるで 次元がちがう。こう言わざるを得ないのです。たとえ神話が 《霊》という言葉を用いたとしても それは 不思議な自然現象であったり 人間の精神やその産物であったり あるいは 情念や怨念のたぐいであったり ということで 経験世界における出来事の問題であり そういう次元を扱っています。聖書は これを飛び抜けました。
 (6) 《無根拠》は 経験世界を超えたところ という普通の定義によるものです。これを《神》とするのは すでに 物語の領域に入っており 《うそ(虚構)》の問題を含みます。そして この《神》の次元だと言っても その言葉は 依然として ふつうの水平的な人間の言語を用います。まして 素材は 歴史伝承の一切から取って来ますし 《剽窃》をおこないます。
 (7) ここで 《文字は 殺し 霊は 生かす》と聞かれるでしょう。

補足日時:2008/12/09 11:59
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この回答へのお礼

 (8) ユダの福音書には この次元がちがうという品格が 見当たらないのです。
 (9) 神話伝説の知識は おおむね 学術的な検証を経た事柄を提供しているとは思われますが(花をもたせただけですが) その個々の事項をまとめあげた内容や あるいは 語源の問題 これらは わづかの《玉》のほかは すべて 《石》です。あるいはまた ご案内の《水瓶座の時代 プラトン年》にしても これは おそらく 検証が 当否いづれとも 不可能な内容を扱っていると思われます。延々とつづくおもちゃ遊びであり おままごとです。自由ですよ。

お礼日時:2008/12/09 12:09

 ありがとう。

お安らかな日々の再来をいつか共に喜ましょう。
 http://kikitai.teacup.com/qa4536652.htmlをご参考に。
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この回答へのお礼

 意味が測りかねますが 
 ★ 哲学に遊ぶのはいいが、じゃれているのかなと思うことも多々あります。信仰がからんだテーマでの哲学質問は、そういう扱いは苦々しくおもいます。
 ☆ この一点については 説明が必要だとすれば お応えしておきましょう。

 Q: ユダの福音書の何が注目されるのか
 ☆ の問いについて すでに わたしは 自分で納得した回答を得ております。mmky さんのものです。(ユダの福音書の中身について さらに 明らかにし得れば なお いいでしょう)。
 ただ そのとき 次の nacam さんのご投稿を得ていた事情からも いましばらくは 締めずにおいたのです。

 その後 あなたや kigurumi さんが 質問趣旨を いくらか 離れて ユダ自身の人物像であるとか あるいは 聖書の内容の支離滅裂説であるとかを 提出なさったという経緯です。
 その非を指摘しつつ 質問成立の根拠を明らかにするためにも 応答した ただこれだけのことです。
 
 いま ユダをめぐって やりとりが長引いているとすれば それは あなた方に こちらが譲歩して その興奮が鎮まるまで お相手しているだけのことです。

 質問趣旨に疑問を差し挟んだからには また その中身について ひととおりのことを こちらは 答えとして 述べたのですから そのことに触れるのが ふつうのひとです。それを 平気で すっぽかすのは 常習癖だと 文章にて ここに 確認しておきます。
 また デタラメの内容をもって 回答とするのは つつしむべきでしょうね。

お礼日時:2008/12/09 16:10

 No.8における、brageloneさんのお礼や補足は、私のNo.8における投稿内容とは無関係の内容となっております。


 そこでの仰せのことはそういう私の投稿とは切り離せば、難解でも理解できなくはないようです。
 No.9のbrageloneさんのお書き込みはbrageloneさんらしくないですね。見当違いのお話になっていますが、お心遣いありがとう。
 

この回答への補足

 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  質問趣旨に疑問を差し挟んだからには また その中身について ひととおりのことを こちらは 答えとして 述べたのですから そのことに触れるのが ふつうのひとです。それを 平気で すっぽかすのは 常習癖だと 文章にて ここに 確認しておきます。
 また デタラメの内容をもって 回答とするのは つつしむべきでしょうね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この掲示をあらためて添えつつ 放っておくとすべきでした。

補足日時:2008/12/10 10:28
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この回答へのお礼

 ★ 見当違いのお話になっていますが、お心遣いありがとう。
 ☆ この日本文を 理解しうる人がいるとは思いませんが せっかくのさらなるご投稿ですから 補足しておきましょう。

 語源の問題については 次の回答履歴を見れば はっきりするでしょう。
 ▲ 《質問番号:4467614:神がヤコブに負けた理由》
   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4467614.html
 = 回答は三件ですから 苦労せずに読み終えることができるはづです。

 まぁ 神話の要素をつぎはぎして ひとつのまとまった物語(=歴史)に編んでいるようですが そのことは また 折りにふれて ゆっくり 料理していくことにしましょう。

 ご投稿におけるそのほかの日本文についても 何ら論証も例示もないので 放っておきます。

お礼日時:2008/12/09 18:59

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