日本のキリスト教で「イエス様」と呼んで馴染みの深いイエス・キリスト。
私も最初はそう言っていましたが、英語の勉強(いまさらだけど。しかもまだ全然出来ない)をするうちに、ジーザス、と言うようになりました。確かにこれでいくと、ヨハネはジョンになるし、ヤコブはジェームス。ペトロはピーター。
ジーザス、というのは誰でもその呼び方でわかっても、「12使徒のピーターが・・・裏切り者になってしまったジュダは・・・マシュ―の福音が・・・」と英語読みで言うと、「誰それ?」となってしまう。(英語を使用している国は別)
 それでも私はジーザス、と言っています。しかし教会などにおじゃました時はみなさんイエス様、と呼んでいますので合わせています。
 個人的には、ジーザスという響きが一番好き。
しかしこれは良くない?・・・英語で話すときは「THE Gospel According to MATTHEW」で通じますが、日本人同士だと「マシュ―の福音書」ではすごく変なので、通説通りに「マタイの・・・」と言っています。
確かにこれだけばらばらに呼ぶと、「あんた、何語しゃべってんの」と言われても
仕方ないかも・・・全部英語で統一するべきでしょうか。

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A 回答 (2件)

既にご理解しているようですが、イエス・キリストの発音は


国によって異なります。(それから12使徒もですね。)

日本ではなぜ「イエス」と発音するかについてですが、
素人意見ですけれども、日本に始めてキリスト教を伝えたスペイン人が
「イエズス」と発音していたためではないでしょうか。

日本語訳の聖書では、たいてい「イエス」と記述していますので、
とりあえず日本国内では「イエス」でよいのではないでしょうか。
(イエズスという記述をしている日本語訳聖書もあったような気もしますが。
ものみの塔の聖書だったかな...)

ちなみにイスラエルでの発音は「イェズァー」というような発音だそうです。
この名は比較的ポピュラーだったそうで、けっこう「イェズァー」さんと
いう名の人は多いという話を聞いたことがあります。
(この箇所、ちょっと自信なし)
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。ふーむ、一人で祈っている時ならともかく、国内で日本人同士話すのに「ジーザス」といったら却って嫌味ったらしく思われてしまう怖れもありますね・・・。別に、外国かぶれしてるわけでは決してないんですが。
 そういえば、私も、現地(?)ではその名前の人が割と多い、という話は聞いた事があります。何か日本人の私としては、恐れ多いような気もしますけど・・・。
 ちょっと横道にそれますが、お釈迦様のことも仏陀と言ったり釈尊と言ったり
ゴータマ・ブッダと言ったり、一体どの呼び方が正式名なんだろうと、学生時代に
考えた事がありました。(まあテストには出題されなかったから良かったですが)
追求して行くと結構しんどい時もありますね・・・。

お礼日時:2002/01/18 23:24

ジーザスという呼び方をすることは別に悪くはないですよ。


ただ、やはり、訳語としてみなが統一して読んでいるものを、そういう風に読んでしまったら、共通認識が得られないということなんですよ。
かの方が日本語の文脈で、ジーザスというのはあんまり感心されないのはそういうことではないでしょうか。

ジーザスと読んだっていいじゃないか、なんてこと言ったら、僕はヨハネのことをヤン、パウロのことをパヴェウと呼びますよ。それで通じますかね。これはポーランド語ですけどね。あ、呼び掛ける時はポーランド語は語形変化しますからね、マリアよ、と呼び掛けると「マリオ」になりますよ。そんなんでみんなわかるんでしょうか。
「ミハウ・アニュゥ」というのを、「大天使ミカエル」と訳したら間違いで、「ミケランジェロ」のことだったりするケースもありますよ。

だから、共通認識を大事にしたいがために、日本という領域では定番の訳し方で話した方がよいのですよ。
もちろん、日本でも揺れはありますよ。イエスではなくて、イエズスと言ったり、大昔はヤソと読んだりといった感じで。マタイも、マテオなんて呼ばれていた時もありますしね。
しゃべっていて出てきてしまう時はまだいいですが、文章を日本語で書く時は、日本語ではどう表現するのが適切か、ということを考えるべきなのです。

バベルの塔が崩れた後の人ならばこそ、こういう配慮は必要なのだと思います。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。(何か、いつもこの言い方しか言わないなあ)
なるほど・・・バベルの塔が崩れた後、言葉がばらばらになってしまったものね。
これから先書きこみにこの題材を選ぶときは、慎重に行きたいと思います。
・・・確かにカトリック教会のミサとかたまに行くと(何だろう、この不真面目さ)「キリスト・イエスの」とか「イエス・キリストの」と言ってますもんね・・・でも、アドバイスありがとう。

お礼日時:2002/01/18 23:10

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Qマタイ福音書は律法用語派、ヨハネ福音書は律法否定派

マタイ福音書は律法用語派、ヨハネ福音書は律法否定派という認識でよろしいのでしょうか?

Aベストアンサー

マタイは律法の完成という側面で描かれており、イスラエル的です。
この世が終わるまでトーラの一字一句たりとも消えることはない とイエスが言ったとされ、イエスがユダヤの律法=この世の全てだと考えていたことになります。


マタイ書が稚拙なことから、マタイはギリシャ語があまりうまくなかったからだろうとされていましたが、どうやら変えてはならないという制約があり、それで直訳してギリシャ語にしてしまったため、意味のわかりずらいマタイ書になってしまったという新たな見解があります。

ヘブライ語に戻す作業をしている人がいて、その人の研究を読むと、確かにマタイ書は、律法重視に思えます。




ヨハネは先在のロゴス・神の子イエスという側面で描かれている。
イエス像は魔術師として書かれている。
これはヘレニズム文化に取り入るとき、理解しやすいように、ヘレニズム文化の特徴を生かしてイエスを紹介したからじゃないかと思えます。

ヨハネ書は反律法が書かれていたという印象は無いです。
律法に言及していないという感触を持ちます。
律法に言及していない=反律法 とはならない。

私の印象ではヨハネ書はオカルト系。
おぞましいという意味ではなく、ある意味グノーシスっぽいから。
神秘主義的な匂いがして、秘儀を極めようとした人たち 霊的なものを求めた人たちによって書かれた という印象を受けます。

だから奇跡話がこの書には多い。
水の上を歩くなどの表現は異教の神秘主義者たちがやっていたとされたことだったし。
ただし、天地創造の前ロゴスが母なるものの深淵を漂っていた ということにひっかけてもいると思えます。
私はこれを読んで受胎を想起しましたが 笑。
(卵子の周りを無数の精子がウロウロしていて、鍵を持った精子のみに扉が開き、その精子が中に入ると扉が閉じますよね。ロゴスとは精子のことだったのか!? とか笑ったりしましたが、古代の人は受胎の神秘を知っているほど高度に発達した文明を持っていたのか! とかは思いません。偶然だと思うし。)



マタイ書はパレスチナ、ヨハネ書はシリアで成立した という推測もある。

マタイは律法の完成という側面で描かれており、イスラエル的です。
この世が終わるまでトーラの一字一句たりとも消えることはない とイエスが言ったとされ、イエスがユダヤの律法=この世の全てだと考えていたことになります。


マタイ書が稚拙なことから、マタイはギリシャ語があまりうまくなかったからだろうとされていましたが、どうやら変えてはならないという制約があり、それで直訳してギリシャ語にしてしまったため、意味のわかりずらいマタイ書になってしまったという新たな見解があります。

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Q 聖書の訳について、マタイの福音書5 「心貧しき人達は幸いである~」に

 聖書の訳について、マタイの福音書5 「心貧しき人達は幸いである~」について
 KJVでみると Blessed are the poor in spirit: となっていますが 私の持っていた古い聖書には
Blessed are they who know their spiritual poverty, と出ています。  日本語訳は同じです。
 「心貧しき人達」とはどういう意味でしょうか?  私ははじめ後者の方を先に読み、(1)精神・魂の貧困・不足を知る者=魂の渇望を覚える者=(心の内に知らずして)神を求める者 と解釈していまた。 
 しかし前者のpoor in spiritでは単に(2)心の貧しい=卑しい・欲のままに生きるだけの・動物並みの、 とも解せます。  
 改めて考え直してみたらどっちの意味だろうかと迷います。 私の英文解釈も間違っているのかもしれません。  
 その後で「あなた方が自分を愛するものを愛したからとて、なんの報いがあるだろうか~」 という下りも有ります。  すると(2)の卑しい人達という事なのでしょうか?  しかしそれではどうにも道理が通らない気がします。  
 poor in spiritとは無垢・無知・無欲という意味なら分かる気もします。  

 私の疑問は二つに分けられます。  
 I、英文について、 who know their spiritual poverty =the poor in spirit なのでしょうか? 私としては、主観的自覚と客観的状態との大きな違いが有るような気がします。 或いは宗派によって解釈が違うのでしょうか?  
 II 、「こころまずしき人達」とはどういう意味でしょうか? 

 教会には30数年、行って無いものです。  久しぶりに手元の聖書を見てふと疑問に思った次第です。  どなたか分かる方宜しくお願いします。

 聖書の訳について、マタイの福音書5 「心貧しき人達は幸いである~」について
 KJVでみると Blessed are the poor in spirit: となっていますが 私の持っていた古い聖書には
Blessed are they who know their spiritual poverty, と出ています。  日本語訳は同じです。
 「心貧しき人達」とはどういう意味でしょうか?  私ははじめ後者の方を先に読み、(1)精神・魂の貧困・不足を知る者=魂の渇望を覚える者=(心の内に知らずして)神を求める者 と解釈していまた。 
 しかし前者のpoor in spi...続きを読む

Aベストアンサー

ヘブライ語に戻すといいらしいです。

ヨブのような人。

ヨブは敬虔深い義人とされましたよね。
善い人だという評判により穏やかに暮らしていた。

そこで「ヨブは人々から善い人だと思われれば穏便に暮らせるから敬虔深くふるまっているのか、最初から義人だから敬虔深いのか どっちなのか?」とサタンが神に話しかけた。
それで、すべてもものを奪っても変わりないのか試すことになった。


プラトンの義人の証明と同じパターン。
義人と称されている人から名誉を奪い (紫の衣は名誉の高い人が着る服ですから紫の衣を剥ぎ取り。)十字架に磔にし槍で突いても最後まで、良い振る舞いをした人は、名誉の関係なく根っからの義人だったということになる というプラトンの論が、紀元前400年頃に出された。


そのプラトンの哲学の影響を受けて、ヨブ作家はヨブ物語を作ったのではないかと。

で、戻ってヨブはサタンによって子供全員を殺され、家畜を全滅させられ、家を燃やされ、奥さんから「なんかとんでもないことをしたんじゃない? 死ねば」と言われ、友人からも慰めの言葉をかけられず、すべてを失い、もう何も無いから神の前に立つしかなくなったんです。
信仰しか残っていなかったので、神の前に立って「てめー このやろう ごらぁぁぁ」とは言わなかったが、「なんでこんな目に合わすのですか、私が一体何をやったというのですか 私はバカだからこういう報いを受ける理由がさっぱりわかりませんので、教えてください」って訴えたんです。

この状態が 心が貧しい者。

つまり信仰しかもう残っていない極限状態のこと。

ヨブは極限状態になり、信仰しか残っていない状態になったことによって、悟りを開いたので、極限状態になり信仰しか残っていない <心の貧しいヨブ>はその状態になってやっと悟りを開いたので幸せだってことです。

ヘブライ語に戻すといいらしいです。

ヨブのような人。

ヨブは敬虔深い義人とされましたよね。
善い人だという評判により穏やかに暮らしていた。

そこで「ヨブは人々から善い人だと思われれば穏便に暮らせるから敬虔深くふるまっているのか、最初から義人だから敬虔深いのか どっちなのか?」とサタンが神に話しかけた。
それで、すべてもものを奪っても変わりないのか試すことになった。


プラトンの義人の証明と同じパターン。
義人と称されている人から名誉を奪い (紫の衣は名誉の高い人が着る服ですか...続きを読む

Q「マタイによる福音書」の律法批判について

「マタイの福音書」のなかに「キリスト教内部の律法否定や律法軽視の風潮に対する批判」があると聞きました。どのあたりがそれに該当するのでしょうか。ご教授よろしくお願いします。

Aベストアンサー

5章17節から19節では?

Qマタイの福音書 6:7について教えて下さい。

神学や聖書学に精通した牧師や伝道師に尋ねるのが正しいのかもしれませんが、
なかなかそんな機会やタイミングというのはありませんし、
こういうweb上なら、
先入観なしに答えて下さる方がおられる場合がありますので、
どうぞよろしくお願いいたします。

”あなたは祈るとき、異邦人のようにくどくど祈ってはならない”
とありますが、

クリスチャンの方(私もクリスチャンですが)は結構長めに祈っておられますが、
また、祈祷会などもおこなって祈り合っておられますが、
それをくどくどとも考えられますが、
それをしなくても、そのあとに続くみ言葉の、
全能の神さまは祈り願う前から全てご存知なのでは?
と考えてしまうことがあります。

これはひとつの私の長年の疑問であります。
マタイの福音書はユダヤ人向けに書かれたという背景は習っております。
異邦人というのもユダヤ人以外の、
例えばギリシャ人や異教徒を指すという解釈も習いました。

では、
1.”くどくど”という言葉を日本語に訳すのが難しかったのでしょうか?
2.それとも”くどくど”が適切な訳だとして、異邦人は祈りに1時間も2時間もかけていたから、それについてイエスさまはこう仰せになられたのでしょうか?

もちろん、私は毎朝、そして就寝時、勤務前、勤務中、勤務後、
嬉しいとき、悲しいとき、そして礼拝のとき、また、他者のための執り成しを祈っています。
祈りというのは神さまへの霊的な話しかけであり、
神さまと聖霊さまとの親しき交わりだと思っています。
祈らなくて良いなどとは決して思っていません。

しかし、このマタイの福音書 6:7をそのまま解釈すると、
そのあとの主の祈りだけで良いのではと思われます。

繰り返しますが、
祈りが主の祈りだけで充分とは思っておりません。
主の祈りは基本であると思っています。
私は自分の人生で祈らずにはいられないほどになっています。

また、最近、
福音を宣べ伝える伝道者の補佐役として神さまに仕える立場になったので、
こんな愚かで弱い私を用いてくださったので、
その私自身が、
疑問を持って人様に伝道してはいけないと思うので質問させてもらっています。
福音書を初めて読まれて、
私と同じような疑問を持たれた方のためにも、
答えられなければならないと思うので質問させてもらっています。
※しかし聖書は、
 一生涯かけても解らない部分・疑問点があるのも理解しております。
 核心部分を理解することが大切だというのも、
 最近、伝道師の先生に教わりました。

長くなりましたが、
マタイの福音書 6:7について、
また、上記の1と2についての私の質問の回答もしくは意見を、
どうかよろしくお願いいたします。

神学や聖書学に精通した牧師や伝道師に尋ねるのが正しいのかもしれませんが、
なかなかそんな機会やタイミングというのはありませんし、
こういうweb上なら、
先入観なしに答えて下さる方がおられる場合がありますので、
どうぞよろしくお願いいたします。

”あなたは祈るとき、異邦人のようにくどくど祈ってはならない”
とありますが、

クリスチャンの方(私もクリスチャンですが)は結構長めに祈っておられますが、
また、祈祷会などもおこなって祈り合っておられますが、
それをくどくどとも考えられますが、
そ...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは
私自身もクリスチャンです。クリスチャンという立場、個人的な認識として書かせていただきます。

質問者さんもクリスチャンということですのでご存知かと思いますが・・・
聖書自体にもさまざまな種類があり、訳も異なります。また、同じ訳でも聖書の版数によってひょげんが変わる場合もあります。

マタイの福音書 6:7ですが
ある聖書では
 「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」
別の聖書では
 「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。」

ですから、
1と2の質問に別々に答えるのは難しいのでまとめての意見となりますが・・・
私自身も質問者さんと同じような疑問を持って牧師先生や諸先輩に質問をしたことがあります。
わかったようなわからないような回答でした。(回答としては理解できますがやはり自分自身が素直にうまく解釈できるような回答にはならなかったです)

それから年月が経つ中で今自分自身として理解をしているのは
「神様は確かに私自身が祈りたいと思っていることをすべてご存知である。」「しかし、自分自身が何を祈りたいのか、どうしたいのかを神様は知っているのに、自分自身がきちんと理解できていない。分かっていない」「だから、祈りという手段を通じて神様が私自身が気づくように語りかけてくださっている」と思っています。
最終的には「すべてを主にお委ねします」とするだけでいいのかもしれませんが、自分自身が祈りの課題であったり、祈りを通してどうすればいいのかを考えるときなのではないかと考えています。

一人で祈るよりも複数で祈る方が祈りの力を感じますし、祈る方によって御言葉を組み入れたり、流れるような祈りをされる方もいます。人の耳に聞こえの良い祈りをすることが目的ではないですし、どんなに言葉に躓きながら、言葉を間違えながらであっても、祈りたいという思いは神様に伝わると思いますよ

言葉を通して祈りますが、「祈りは言葉ではない」とも思います。
ですから、同じマタイの福音章の6:6では人に見せるものではないと言われているのだと思います。
祈りは神様との対話だと私自身は思っています。

何かの参考になればと思い書かせていただきました。

こんにちは
私自身もクリスチャンです。クリスチャンという立場、個人的な認識として書かせていただきます。

質問者さんもクリスチャンということですのでご存知かと思いますが・・・
聖書自体にもさまざまな種類があり、訳も異なります。また、同じ訳でも聖書の版数によってひょげんが変わる場合もあります。

マタイの福音書 6:7ですが
ある聖書では
 「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」
別の聖書では
 「...続きを読む

Qマタイによる福音書 15章21~28節に関して

資料1 マタイによる福音書 15章21~28節
1 マタイ 15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
2 マタイ 15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
3 マタイ 15:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
4 マタイ 15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
5 マタイ 15:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
6 マタイ 15:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
7 マタイ 15:27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
8 マタイ 15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

資料2 (*)http://tokyo.catholic.jp/cgi-bin/MT/archives/2005/08/152128_20058142_1.html 


質問1
イエスは「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」のを承知しているのに何故、異邦のティルスとシドンへ行ったのですか。

質問2
(*)には地域の名として「カナン」、「イスラエル」、「パレスチナ」が登場しています。「カナンの女」は異邦人、「イスラエル」は同胞の住む地域ということは判ります。しかし、「カナン」、「イスラエル」、「パレスチナ」の三つの地域は重なってしまって異同が皆目判りません。地域として「カナン」、「イスラエル」、「パレスチナ」はどう違うのですか。人として「カナンの女」、「イスラエルの女」、「パレスチナの女」はどう違いますか。(*)に見える『「カナン人」はパレスチナの古くからの住人です。』、こういう表現が成立する理由が欲しいです。

よろしくお願いします。

資料1 マタイによる福音書 15章21~28節
1 マタイ 15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
2 マタイ 15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
3 マタイ 15:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
4 マタイ 15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの...続きを読む

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こっちは返信者は信者限定 もしくはキリスト教は正義だって思っている人限定 という制約は無いので、書かせてもらうと、、、、、


質問1)
イスラエル人ってのは、ヤコブの子孫のことですよね。
ご存知だと思いますが、ヤコブは戒名してイスラエルって名前になった。
そのイスラエルという名前になった男の子孫が、イスラエル人であり、彼らは12+1支族で構成されており、12支族は後にイエスが異民族を皆殺しにして彼らの土地を奪い、12支族に分け与え、そこに12支族は住むようになり、やがて王国を作ったわけですよね。

ですが、1つだった家族は分裂し、北と南に別れ、それぞれに王国を作り、北はアッシリア、南はバビロニアにより攻略されたわけですよね。

バラバラに散らされたわけで、それがイスラエルの失われた羊 じゃないか と
こういう状態をディアスポラと言う。


それはいいとして、あくまで推測でしかないが、イエスが行ったとされるティルスって、本当のティルスじゃないと思う。


ちょっと記憶が曖昧ですが、エデンってのがどこにあったか というのを昔調べたことがあって、今のレバノン当たりだったような。。。。
ティルスって今のレバノンに当たる地域で栄えていた都市の名前ですよね。


で、、あ あった。エゼキエルだ。
http://bluewind.oops.jp/tanka/archives/000403.html

ということで、イエスがティルスとシドンに行ったというのは比喩だと思います。


質問2)
カナン人・・・フェニキア人のことらしいです。
イスラエル人・・・上で述べたようにヤコブの子孫、
パレスティナ人・・・・ペリシテ人(ノアの子ハムの子孫、ちなみにハムの子の1人はカナンらしいです。)


で、カナンの女、イスラエルの女、パレスティナの女。
うーーーん 恐らく母権社会の女って意味じゃないか と。

古代は母権集団が勢力をもっていたらしく、誰だっけ?。。。。父親が神に忠誠を誓うために初子イサクを捧げようとしたわけですが、母権社会はイサクを神の元に返さなくていい つまり アブラハムの妻サラのいた集団に戻さなくていいってなったんじゃないか と。

で、強い母権社会から嫁をもらうってのは、いわゆる政略結婚みたいなもので、小さな集団が母権社会の勢力の恩恵をもらい、栄えるってわけです。

レビレート婚ができた理由も、妻が夫を捨て元の母権集団に戻ってしまったら、嫁入りの時もって来た財産をごっそり持って出て行くわけで、たちまち嫁ぎ先の一族は貧困にあえぐことになるわけでしょ?
だから、姦淫しちゃいけない とか 神経ピリピリになったわけでしょ。
他の男を選んで夫を駄目男として捨てられたわけで、そう簡単に捨てられてたまるか って「妻が姦淫したから妻は罪人 妻の嫁入り財産は俺のもんだーー」ってやっていたわけでしょ?


という情報を知った上で考えると、母権集団のそれなりの地位の高い女性達ってことじゃないか と。

で、「子犬も主人の食卓から落ちるパンクズはいただく」ってのは、私が知る限りは、ユダヤ教の多数者(幹部12人で構成されている)の食事の儀式のシーン。

彼らは多数者はユダヤ教の中でもエリート中のエリートで、その人たちが行う食事の儀式を身近に見ることができるのは、それなりのランクの祭司たち。
多数者がこぼした食べ物を食べれるってのは、聖なるものを身に取り込むのと同じ作用を持つとして、パンが床に落ちたら、それを身近で見られる権利を持った人は、喜んで拾って食べてた。


彼らの食事の儀式は、パンをとって「これは神の肉体である。」 食べた。
ワインをとって「これは神の血である」と言って飲んだ。


そういう一部のエリートの食事の儀式を知っているこの女は、只者じゃない。

だから「お前なかなかやるのぉ」ってわけで、その女性はユダヤ教の改宗しようってしたのかなぁ?
ってことは、、、この女性は、、、何者だったのでしょうね。
うーーん 少なくとも大きな母権集団のそれなりの地位の女性だったと思えます。


一般人がユダヤ教の幹部の食事の儀式を知っているってのは、あまり無いんじゃないか と。
ということで、この女性は只者じゃあなかったと思えます。

こっちは返信者は信者限定 もしくはキリスト教は正義だって思っている人限定 という制約は無いので、書かせてもらうと、、、、、


質問1)
イスラエル人ってのは、ヤコブの子孫のことですよね。
ご存知だと思いますが、ヤコブは戒名してイスラエルって名前になった。
そのイスラエルという名前になった男の子孫が、イスラエル人であり、彼らは12+1支族で構成されており、12支族は後にイエスが異民族を皆殺しにして彼らの土地を奪い、12支族に分け与え、そこに12支族は住むようになり、やがて...続きを読む


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