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私は最近DVDでパッションという映画を見ました。
イエスキリストが十字架にかかって死ぬ前のことを映画にしたものです。

残酷な場面がたくさんあり、何度も目をそむけてしまいました。でも、涙がとまりませんでした。ことばではうまく言えないのですが、かわいそうというのとは全然違うのです。

私が疑問に思ったのは、イエスキリストはどうして十字架にかけられて死んだのかということです。その本当の意味です。

あれだけ残酷な罰を受けたのにもかかわらず(鞭打たれ、つばをかけられ、罵声をあびせられ、思い十字架を背負わせられ、あげくの果てには両手と両足に太い釘を打ち込まれて十字架にかけられて殺されてしまった)十字架の上で「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈って死んでいったのです。

そして、その十字架の死がもとになってキリストが今でも世界中の人々に信じられているということは、この十字架に何か大きな意味というか、理由が隠されているような気がしてなりません。

キリスト信者の方、イエスキリストの十字架の意味をわかりやすく教えてくださいませんか?難しいことをいわれてもわかりませんので。

私は小さい頃、教会の日曜学校に行っていたので教会に十字架があったのは覚えていますし、聖書のことばの書いたカードをもらったのを覚えています。

A 回答 (31件中1~10件)

キリスト信者ではないのですが下記のサイトを見つけたので・・・・



「私たちの罪の罰を身代わりにイエス・キリストが受けて下さいました」

また、自分勝手な解釈ですが
そのイエスキリストに感謝しましょう。
また罪を犯したならば身代わりの象徴である十字架に懺悔し、許しを請う。
ではないでしょうか?(違ってたらごめんなさい;;)

参考URL:http://www.mars.dti.ne.jp/~at-grace/gospel7.html
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監督は俳優のメル・ギブソンで、彼は敬虔なカソリックの信者です。


もし彼が女ならこういう映画は作らなかったかもしれません。


イエスの背景からいくと、元を同じとするイスラム教もそうですが、この世界は男性を中心に動いています。
男性が主で女性は男性と家畜の中間のような立場です。
その男性に生まれたイエスは父親がいませんでした。
この社会で父親がいない事は一人の男として認められませんでした。
彼は大変な差別とともすれば自信喪失と存在の否定にさらされていたのではないかと思います。
最初から女性に生まれていればこんな自分を追い詰めるようなことにはならなかったと思います。


あの当時ライ病などになった人は神に罰せられた人という認識でした。
彼らは人里離れ孤独と痛みの中で生活をしていました。
イエスと同じような状況でした。
イエスは誰よりもその苦しさがわかったので、彼らを慰めにいきました。
休息日であっても行きました。
ユダヤ教では休息日には何もやってはいけませんでした。
その絶対の社会の掟 つまり 秩序をイエスは破りました。
正当化の理由は今までのその社会の秩序は神の意思とは違うからとしました。

この思想は神の秩序を伝えてきて市民に守らせてきた司祭や律法学者の立場を危うくしました。
それでなんとかイエスをはめようと色々問答をしている内に、彼が神の子であるかのような言い方をしたんです。
司祭や律法学者にとっては人間ごときが神の子であるなんて神への愚弄もいいところです。

それで司祭はこのことを理由にイエスをしょっぴいて、いきました。
その当時あの土地はローマに侵略されていたので、勝手に罪人を殺してはいけないことになっていました。

それで統治者のポンテオ・ピラトの元に朝っぱらからイエスを連れていって、もっともだと思えることでイエスを罪人として裁くようにいいました。

ピラトはいくつかイエスと問答をして司祭たちの茶番だと見抜きました。
しかし収まりがつかないので、ヘロデ王に判断をまかせようとイエスをヘロデの元に連れていかせました。
ヘロデは問答をして「この人は罪人ではなく狂人だ」と言ってピラトの元に送り返しました。

ピラトは責任をまた押付けられ、困ってしまいました。
その当時民衆は民族独立気運がとっても高まっており(過ぎ越しの祭りが近いから)、ちょっと間違うと民衆が暴動を起こす恐れがあり、今の兵力では鎮圧するのは難しかったからです。
鎮圧に失敗すればピラトは失脚します。

そこでイエスを騒ぎを起した人として鞭打ちの刑にするように指示しました。
それで鞭打ちされました。
ところが司祭はイエスを解放してしまっては困ります。
まだ自分の地位を危うくする危険因子はこの世に存在することになり怯え続けなければなりません。

司祭は彼に死をと言いました。
馬鹿な これごときで死刑にはできない とピラトは司祭たちの理性に働きかけました。

「今捉えられて獄中にいるイエス・バラバとこのイエス どちらが死に値する罪があるのだ」(問うまでもないだろう)
ところが司祭は民衆を煽って「この男に死を」と言いました。
もうピラトには選択肢はありません。
「この前代未聞の間違いは自分ではなくお前らがやったんだ」としてイエスを処刑することを承諾しました。

その当時ユダヤ教では石を投げて殺すのが処刑だったようですが、統治者がローマなのでローマ方式の処刑 つまり磔となりました。

これは即死ではなくじわじわと殺す残酷なやり方で、それを見た民衆に無言の圧力をかける働きがありました。


イエスは幻の父親を憎むより、愛することで つまり神として尊ぶことで苦痛を幸福に変えることができることを発見し実践してきました。
人を憎んでいては地獄です。 自分にひどいしうちをした人を憎まず愛し尊ぶことは天国です。
イエスは幻の父親を神とたとえいつしか神の思え、それで力強く不運にもめげないようにしました。
しかし 死が近づくにつれ、その決意がゆるぎます。
「お父さん どうして私を捨てたんですか あなたさえいればわたしは・・・」

これでは逆戻りです。
自分に苦痛を与える人を憎んでは何の救いもない。

「彼らは自分達がやっていることを知らないんです。でもわたしはわかったのであなたのことは恨みません。だからもう苦しくありません」

「あなたに身をまかせられ幸福です」


こうやって彼の一生は終りました。

その後、イエスを捨てた信者は自分を責め続け地獄に陥りました。
その後 復活劇がありますが、これは心理的な復活であって、物理的な復活ではないようです。

しかし、その心理的な復活が幾人かに起こり、後は伝道が始まり、イエスの思想とはちょっと違うけど宗教がはじまり、イエスの死後、信者の思想を軸にキリスト教は始まりました。

キリスト教の十字架は原罪を忘れるなって戒めのようなものだと思います。
おごった気持ちになったその時、高飛車になり人を蹴落とそうとしたと思ったとき、十字架の戒めにより、平常心を取り戻す作用があるのではないかと思います。

イエスを捨てた信者が基本に帰る時、イエスの処刑を思い出すかのように。
イエスを自分は見捨てたことを思い出し、おごらないように。
人が弱いことを実体験で知った気持ちを忘れず、おごった人を批判せず、罪のある人を見下さないように。許すように。
自分が許されるには 他人を許さなければならない。
これは片方では完成せず、両方があって完成する。


こんなことだと思います。
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初期のキリスト教は十字架をシンボルとはしていなかったと記憶しています。



十字架に意味があるから、貼り付けになったのではないでしょう。
もともと罪人を見せしめにするのに十字架を使っていたと思います。
日本で言えば打ち首にして晒すのと同じですね。

後世の人がキリストが殺されたことを忘れないために、
処刑の道具であった十字架をシンボルにすえたのだと思います。
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処刑における十字架という象徴性の意味は解りませんが



“左の頬をぶたれたら右の頬を出しなさい”
どこまでも相手を憎んだり,恨んだりしてはいけない.
相手への愛を思いなさい.
それが人間同士お互い仲良く暮らしていく方法だ,といいます.

実際,人と会っていて相手がぶっきらぼうに,不機嫌そうにしていても
こちらの方で“何かあったのかな”などと相手のことを思いながら接していると
いつの間にか別れ際には笑顔を返されたりして“あれ?”と思うことがある.

それを例え“死”に追い詰められても貫き通さなければならなかった.
途中から切り替えるということはできなかった.
それを知らしめなければならなかった.
そして“神を試すな”ともいいます.

疑い,知ろうとして,どこまでも試そうとするが故に
“死”にまで至らせてしまう人間性に対する警告.

ωαを求め,虐げられてもその相手を愛せといい,人々を幸せに導こうとした教えも
自らを神のごとき位置に置く権威,権力者達に悪用されてしまう結果となっていく.

人々を幸せに導く為の“知”が,神に属するものでもあり,悪魔にも使うことができるものであるという,二面性を持つことによって.

“自らが一番下の者のようにありなさい”と教えているのに
“この中で誰が一番の弟子か”と問い,それにこだわるような者たちによって.

民衆を支配し搾取していくのにとても利用価値が高かった.
そして今でもそれは,そうあり続けている.


処刑の間際で“もっと光を...”と呟いたといわれているが
自分の伝えようとしたことが,悪用される可能性があることに気が付いたからであろうか.
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その先に光は見えたのだろうか.....

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はじめまして。



あなたがパッションをご覧になったこと、そして、イエス・キリストの十字架の意味を知りたいと思うようになったこと、神さまがあなたをそのように導いておられるのだと思います。メル・ギブソン監督は、まさにそのキリストの十字架の意味を伝えるために、それが事実であるがゆえにあえて目をそむけたくなるような残酷なシーンを、イエス・キリストの最後の12時間として映画にしたのです。

イエス・キリストはなぜ十字架で死ななければならなかったのか。
それは、「神さまは、あなたを、イエス・キリストのいのちとひきかえにしても惜しくないと思うほどに、愛しておられるから」です。
あなたを、本当に大切な、尊い存在として愛しておられるからです。
キリストの十字架は、他ならぬあなたのため、実は、あなたが本当ならば、あの十字架で処刑されなければならなかった。でも、何の罪もないイエス・キリストは、あなたを愛しておられるので、あなたの身代わりにあの十字架の苦しみを受けて下さったのです。

おそらく、2000年近く前のあの十字架と、今の自分と、何の関係があるのか、とお思いになることでしょう。上の説明も、何の説明にもなっていない、と思われることと思います。もっとたくさんのことを説明することももちろんできるのですが、ぜひ、世界のベストセラーと言われる聖書を読むことをおすすめいたします。そしてちょっと敷居が高く感じられるかもしれませんが、勇気を出して、ぜひお近くのキリスト教会へ行ってみて下さいませんか。そこには、このキリストを私の救い主と信じて生きている、クリスチャンの方々が集まっています。クリスチャンと言っても本当にいろんな方がおられますが、それぞれ、人生のある時、イエス・キリストを自分の人生の主として心に受け入れ、十字架で死なれたイエスを救い主と信じて生きると決めたのです。その方々とふれあうことは、イエス・キリストというお方を知るために、とても助けになると思います。

あなたは今、とても大切な問いを持っておられます。そしてそれは、あなたのこれからの人生にとって、大きな意味を持っていると思います。「なぜキリストは、十字架で死ななければならなかったのか」いろんな方が、いろんな言葉で説明してくれるかもしれません。でも、その問いを、イエス・キリストご自身にぶつけてみてはいかがでしょう。「十字架の意味を教えて下さい」と、祈ってみて下さい。パッションは、十字架の死の場面で終わってはいませんでした。イエス・キリストは、死んで終わりではなく、復活されたのです。そして今も生きておられる神さまです。私たちはこのお方から、真実の愛、ゆるし、いやしを受けることができます。あなたに「キリスト教」という宗教を押し付けるつもりはありませんが(そう感じられたとしたらごめんなさい)、ぜひこの問いを持ち続けて、納得のいく答えをイエスさまご自身からいただくことができますように、神さまが導いて下さいますようにと、祈らせていただきます。
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まずクリスチャン一人一人違いますので正解というのはないと思います。

ただ
下のようなHPがうまく表現していると思います。

ことばではうまく言えないのですが、かわいそうというのとは全然違うのです。

このときumiyamakawa様はどのように思ったのでしょうか?(質問してごめんね)

参考URL:http://bible-room.org/seisho%2Dnyumon/gospel/
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「その本当の意味」というのは曖昧ですが、今の解釈はパウロの「全人類の罪を十字架で背負った」ということになります。


 それまでユダヤ教は、神と人間との契約関係で、エデンでの原罪を負っていて、人間は、これこれの戒律を守りますから、これこれをしてください、というものだったのですが、十字架でそれらの契約も原罪も全て背負うことで人間は罪のない自由な人となったということです。
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歴史的に言えば、イエスが磔刑に処されたのは、ローマ帝国当局に政治犯として処刑されたということです。

磔刑(十字架にはりつける死刑)は、古代ローマではイエスの時代よりも前から行われていた残虐な死刑の形式の一つでした。奴隷スパルタクスの反乱では、スパルタクスはじめ数千人の叛徒が磔刑に処せられたとされますが、これはイエスより百年も前の話。ナザレのイエスも、当時の最高権力ローマ帝国の刑罰により死刑になったのわけです。この辺が福音書では曖昧に書かれていますが、これは、初期のキリスト教団が、ローマ帝国批判を避けるためにぼかした疑いが濃厚の部分です。

イエスの死後成立したキリスト教は、教祖の死刑という普通なら教団の恥辱となる事件を、逆に宗教的に意味付けし、教祖が処刑される姿とそれに使われた処刑具を神聖視するという、ある意味でひじょうに変わった宗教的シンボルを持つようになりました。
でも、古代ローマ時代に十字架にかけられて死んだ人は何万人もいたわけですね。
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日本には八百万(やおよろず)の神といってたくさんの神々があるといわれていますが、日本人が神ということばを使ったときには、あまりにも神という概念がばらばらです。



もし、神が本当に存在するならそれは人間が造った神ではなく、もともと存在し(だれかが造ったものならそれは神ではありません。)天地万物を創造し、無から有を作り出せるからこそ神なのです。神は唯一(ただひとり)であり何でも出来る方ですからたくさん存在する必要はなく、すべてのことを知っておられ、どこにでも存在され、正しいお方で、完全な聖さをもっておられ、義なるお方で永遠から永遠に存在される愛なるお方です。

このことをまず知っておいてください。

神様は最初にアダムという男性を創造し、次にエバという女性を造りました。その時は人間に罪は全くありませんでした。

神様は、最初アダムとエバをエデンの園という庭に住まわせていました。どんなことをしてもよかったのですが、たった一つだけ「この園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはならない」という命令をだしました。それは、人間をロボットに造らなかったという証拠でもありました。つまり、人間に自由意志を与え、人間との間に愛を存在させたかったのです。

しかし、悪魔に化けたへびに誘惑されたアダムとエバはその命令を破り、その木の実を取って食べてしまいました。そのために人間は罪人となりエデンの園を追放され、人間は必ず死ななければならなくなってしまいました。

これがキリスト教でいう人間が原罪をもって生まれてくる理由です。この原罪というのは、人を殺すとかお金を盗むなどの警察に捕まってしまうような罪だけをいうのではなく、心の中で「あいつなんていなければいい」とか、「あいつなんて死んでしまえばいい」などど思うこともその罪に含まれます。うそをつくことも罪です。つまり、人間として生まれたならばすべての人間が罪人であると宣告されているのです。

しかし神様は、きよい正しいお方であり義なるお方ですから、その人間の罪を罪として罰しなければならないのです。

その結果、すべての人間は地獄に投げ入れられてしまうはずでした。

しかし、人間を愛している神はその地獄に投げ入れてしまう人間を救う道を開いたのです。

その方法は人間に「いい人間になりなさい」「修行をして罪のない人間になりなさい」
「いいことをたくさんしなさい」という命令を出すことではありませんでした。そんな命令を出したところで人間は修行やいい行いをたくさんすることによっては罪のない人間になることは不可能だということを知っていたからです。

そこで、神は自分のひとり子であるイエスキリストをこの地上に誕生させ、全人類のすべての人間の罪の刑罰を負わせて十字架にかけて死なせ3日後に復活させることにより人間のすべての罪を完全に赦し天国へ連れて行く道を開いたのです。

イエスキリストは何の罪も犯さず一回もウソを言ったこともありませんでした。

十字架にかかって殺されようとしたときにイエスキリストは自分が無実であることを叫びませんでした。

ほふり場に引かれていく子羊のように何も言わず、自分がかかる十字架をかついで処刑されるべき場所へと歩いていき、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈りました。

私たち人間は無実で十字架にかけられているときに、自分を殺そうとしている人に対してこのように言うことはできません。

しかしイエスキリストはそのように言って十字架の上で息を引き取りました。しかし3日目に復活しました。

それは、イエスキリストが神のひとり子であったという証拠です。3日後に復活したのも彼が神のひとり子であったからできたことなのです。

イエスキリストは私たちを命をかけて愛し私たち人間の罪の刑罰を身に受けて十字架にかかって死に天国への道を開いてくださったのです。

そのことを自分のこととして信じる者はすべての罪を赦され天国へ行けます。しかし信じないものはその罪が裁かれ地獄へ行かなければなりません。クリスチャンはイエスキリストの道徳的な教えを信じているのではなく、十字架と復活を信じているのです。

イエスキリストの十字架と復活がなければキリスト教は存在しませんでした。

このことはすべて聖書に書かれています。

聖書は毎年毎年世界中の多くの国の人々に読まれ何年たっても世界のベストセラーです。しかしクリスチャンと同様、聖書ほど迫害を受けてきた書物はありません。ローマ時代の初期には王がクリスチャンを迫害して殺してしまうと同時に聖書も全部焼き払えという命令が出され聖書は全部焼かれてしまいました。

しかしどんなに人間がクリスチャンを迫害し殺しても聖書を焼き払ってもクリスチャンはこの世界からいなくなることはなかったし、聖書もこの世界からなくなることは決してなかったどころか世界中のほとんどの言語に翻訳され読まれ本当の救いと喜びと希望を与え続けているのです。

参考URL:http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8610/
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