1. ことは ひとの意志行為です。ここに注目します。
2. まづこれを実数にたとえた場合ですが その場合であれば 意志のあり方は イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。
3. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?
4. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。
5. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては〔その人にとっては〕不確かだがなお確実であろうとする実数の世界( a )とそして そうではなくいま考えあぐねているその想像の雲に乗ったウヤムヤの小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。――ということになるのでしょうか? いえ どうなのでしょうか?
6. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて世の中に反感しか持ち得ず もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?
7. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけているだけとなる。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心がひょっとすると敵対心にまで広がっているかも分かりません。
8. もし人の生きるということが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《〈わたしはわたしである〉そのわたしが わたしする》という動態であると見ます。
9. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。
10. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる( 1^n = 1 )。
11. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。
14. ウヤムヤなる虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったかおのれ自身をめぐるあらぬ方面からあらぬ物語を紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。
15. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。
16. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明もが できない。できなくなる。
17. ただ敵対すると思い込んでいる相手つまり仮想敵に対してあらん限りの罵りをのみ叫び続ける。
18. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構世界を生きるということかも知れない。
19. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数( a )が消えてゼロにな
り 虚数( bi )のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?
20. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス・一(いち)( i^2 = -1 )となる。
21.ひとつの解説をすでに得ています。
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
一度の《へそ曲がり》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕在化する。
1 × i = i : 〔へそ曲がりの〕潜在化の過程
i × i = -1 : 〔へそ曲がりの〕顕在化の過程
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
22. こうなると 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。交通渋滞。コミ
ュニケーション不全。
23. というふうに推し測った――ウソの問題についての――仮説です。
24. ところが・ところが です。話は ここで終わらない。終わっては 大したことにならない。
25. なぜなら ウソ( b i )から出たウソの確認( b=1 として i x i = -1 )は じつに・じつに すでに実数なのです。イエスかノーかで ともかく意思伝達が成る実数の世界。わづかに その意思が 負(マイナス)だという。
☆ ひとまづ ここまでの議論について お考えをお聞かせください。
26. おまけの質問です。
悪名高きモヤモヤ・ワールドは ムイシキをもてあそぶ精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズムに放射能源はあるのではないか?
27. 《さとり》の問題です。ブディズムの説く(いえ むしろ外堀を埋めるかのように膨大な説明をほどこしつつも 一向にその本丸の中身については明らかにしない)さとりというのは ウソであり 虚数の世界でしかないのではないか?
28. ブディズムの悪しき部分――糸の切れた凧のようにその問い求めが悪無限に落ち入る《さとり》論)――によって われわれの社会の交通は 渋滞したままのウヤムヤ世界が そらを翔けるように・それでも実数であるかのように なお《活きている》。
29. わが国では 《虚数人間》であっても生きていける。むしろキョスウ人であるほうが 社会的身分が上である。
30. 《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されて来ているのではないか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。この裾野にささえられて 虚数作文の上手な場合が もてはやされる。
31. これは 人間にとって不幸である。千年一日のごとき生活幻想がつづく。そういう部分がどこかで根を張ってしまっていまいか。言いかえると かのゴータマ・ブッダの《大芝居:大化城》なるまぼろしの桃源郷に人びとは避けどころを見出そうとする心の動きである。
32. つまり――減らず口をたたき続けますが―― わが日本人にあっては 外に仮想敵をつくり敵対心を発散させることによって 日頃のうっぷんの捌(は)け口とするシワザは 基本的にその文体として おこなわないようである。そうではなく 蜃気楼閣の内に閉じ籠り 繭の中の蚕のごとき平和境(かつ平和教)の中に暮らしている。
33. ひとはすべからく現実に向き合わざるべからず。過去は揚棄しよう。
☆ この日本論 どう考えますか?
A 回答 (15件中1~10件)
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No.16
- 回答日時:
全てにお返事できません。
気になったところだけお返事したいと思います。ご容赦ください。引用:☆ 脱落ではなく――無明からの解脱ではなく―― 経験事象を超えるというのが 正解なのです。できるかどうかは また別の話ですが。
それは特殊な経験であり初めて体感する感動であるので、その意味で、従来の経験事象を超えていますが、それでも経験可能な事象です。到達する前は、何か超越論的な、或いは神的な、乃至形而上学的な、宇宙の障壁に阻まれたような不可能性を伴ったように感じますが、到達できないわけではありません。
しかもこの論議の路線は、分かっておられると思いますが、bragelloneさん的に言うところの往相です。川を遡上する方向です。源流に着くと言う事が、bragelloneさんの仰るところの正解ですが、この道で行っても、解けはするが脱しはしなかった。存在の源流に辿り着いた時に見る景色は驚きに値するが、それによっては覚らなかったと言うのが、私の正直な実感です。何故、全てが解けて、特殊な感動もしたのに、この世の諸々の苦しみのそれぞれについては分からないまま、その苦しみのある理由も分からなかったのか?もっと具に、この世の事を見るべきであり、それで、徳目云々と言う事も活きてくる。神に触れたとしても、人として、というところが欠けていたので成らなかった。なので、解脱は人のもので神のものでなく、神と仏は区別しなければならない。
因みに、この往相で行ったきりになりこの状態を放置すると、放射能源となってしまう。なので人は、敢えて言うならば、還相まで行って0ではなく1なる相を保たなければならない。それで無相というのです。相無くして相を示すので、無相です。おなじみの表現です。
bragelloneさんも感じていると思いますが、私も覚りの事に関しては決着をつけたいと思っている。それは自身の中のことであり、bragelloneさんと決着をつけると言う意味ではありません。これらの話を通じて、互いの覚りの糧になれば、あるいはすくないであろうがこの記事を読んだ人の糧になればそれで良いと思います。それでも真摯に語り合う事に、ぶつかりもあった。意味も意義もあるでしょう。分かった気になるのでなくと、自身にも戒めたいと思います。
☆引用:☆ 脱落ではなく――無明からの解脱ではなく―― 経験事象を超えるというのが 正解なのです。できるかどうかは また別の話ですが。
★ それは特殊な経験であり初めて体感する感動であるので、その意味で、従来の経験事象を超えていますが、それでも経験可能な事象です。到達する前は、何か超越論的な、或いは神的な、乃至形而上学的な、宇宙の障壁に阻まれたような不可能性を伴ったように感じますが、到達できないわけではありません。
☆ おおむね そのように理解します。
★ しかもこの論議の路線は、・・・往相です。
☆ 還相でもいいと思いますよ。あるいは 往相還相をひっくるめたかたち。
★ もっと具に、この世の事を見るべきであり、それで、徳目云々と言う事も活きてくる。
☆ 反対しませんが 逆に徳目云々となると 別の副作用も出ます。道徳は ブッダかどうかには関係なく持たれているということです。世間のナラハシに同化してしまいます。
★ 神に触れたとしても、人として、というところが欠けていたので成らなかった。なので、解脱は人のもので神のものでなく、神と仏は区別しなければならない。
☆ 梵我一如あるいはつまり アートマン(霊我)=ブッダター(仏性)だとするかぎりで 区別はしても差異はありません。
▲ (ヰキぺ:仏陀) ~~~
§ 仏陀への信仰
釈迦は自分の教説のなかで輪廻を超越する唯一神(主宰神、絶対神)の存在を認めなかった。
その一方、経典のなかでは、従来は超越的な「神」(deva, 天部)としてインド民衆に崇拝されてきた存在が仏陀の教えに帰依する守護神として描かれている。
その傾向は時代を経ると加速され、ヴェーダの宗教で「神」と呼ばれる多くの神々が護法善神として仏教神話の体系に組み込まれていった。
また仏滅500年前後に大乗仏教が興隆すると、人々は超越的な神に似た観念を仏陀に投影するようにもなった。
~~~
☆ ゴータマ氏は 無神論だったのです。
★ 人は、敢えて言うならば、還相まで行って0ではなく1なる相を保たなければならない。それで無相というのです。相無くして相を示すので、無相です。おなじみの表現です。
☆ いえ。知りませんでした。
★ これらの話を通じて、互いの覚りの糧になれば・・・
☆ はい。同感です。
No.15
- 回答日時:
引用:☆ 《因縁》をきっかけにして成就した結果の状態は どういうことか? です。
たとえば 《経験事象としての因果関係(世の中のシガラミを想え)から――完全にではないが――自由になっていること》 これが ブッダなる境地です。
:
それは都合のいい解釈だと思います。自分にも可能と思われる範囲に覚りを矮小化しているように感じます。ragelloneさんに自信がないだけではないですか。だから、自分はブッダだと宣言するのではなく、皆はブッダだと言って徒党を組もうとする。その様に見える。善く解釈すれば不軽行だが、妥当に見ればせこい話です。
ここでは、余計な名称(表象作用)と形態(感受作用)の脱落の話が具体に話されるべきですが、その結果としては、怒りに支配されないとか、悲しみを知って悲しみに飲まれないとか、慈悲喜捨の顕現とか言う事になる。しかし、これを言ってもちんぷんかんぷんだろうし、自分の理解の範疇を超えたものは素通りしたくなるのが人です。言っても無駄だったかもしれません。
引用:☆ そういう観点からでしたら ブッダ状態とは こうでしょう。:
《あのときあの人は これこれこう言った。それに対して わたしはこう言った。だが 互いになお心の奥の心を捉えていなかった。――そのことが いま分かる。・・・》といった事態が おのが歴史の全部にわたって 次々と得られて来る。これです。
:
ブッダ状態とは、因縁が軽やかに結ばれ解ける状態だと考えられます。bragelloneさんの述べたこれだと過去のみについての事ですが、ブッダは未来にも憂いが無い。未来の事を透視出来ているわけではないが、未来にも不吉なことは起こらないと言う確信があり、実際にそうなる。じゃあ、寄進された供物で腹を壊したのは不吉だったのではないか?といちゃもんをつけれるが、それは不吉ではなかった。死期に関してアナンダを叱責したのも不吉ではなかった。そうなる。慧能も、自らの死期を自ら定めて世を去ったが、その様に出来ると言うのがブッダなのだと考えられます。分からないとは思いますが、一応述べておきます。
ところで、bragelloneさんは、その、おのが歴史の全部に渡って次々と得られて来るその中身を具に言語化できますか?無理だと思います。個人の人生の出来事の因縁を述べることになり、仮に具体な覚りの機縁や目覚めたきっかけの言葉を述べても、それは他の人の糧にはならないし、やすやすと他の人に語るべきものでもないからです。bragelloneさんだってそうだと思います。人生の大事な出来事を、簡単にぺらぺらと話したりしないでしょう。身をもって自分に起こったことでも、それは、他の人にとっては多くの場合、他人事になってしまうからです。仏行は当事者であることによって可能となるのであり、他人事と思っている間は起きない。覚りはすべからく体感と経験によって自らの身に証される。他の人からみて客観的に判断できるのは、その人が理法を説くかどうか位でしょう。或いはその所作振る舞いを見てと言う事になる。
もう他人(御釈迦さんや親鸞やアウグスティヌスやら誰々)の説をたたき台にと他所のふんどしを借りるというのはよして、ご自身の覚りを語ることを期待します。
それなら私も用意はある。それが陳腐であろうとなかろうと、不完全であろうとなかろうと、自分の覚り観や覚りについての見解を交換し合うのは意義のある事だと思うからです。
あなたとはずいぶん覚りに纏わる論議をしましたが、理解されたようでいても実は理解されてないのだと思っています。無についても、一者についても、因縁についても。しかしそうだとしてもそれは糾弾されるべきではないし、するつもりもない。貴方の発言からは体得された智を感じない。誰かのコピーと言うか、誰かの知見を自分なりに咀嚼しただけのことを発言しているように見える。でも、意志は感じる。それを求めているのだろうなと言う感じは受けます。なのであなたと話すことには意味もある。
神への信仰に逃げたと言うが、その本心はまだ覚りを求めているように感じる。
私からはそういう事です。
ただ、放射能という比喩は、個人的には参考になりました。それがブディズム云々ではなく、個人としての状態にその状態があったかも知れないと思うからです。
☆☆ たとえば 《経験事象としての因果関係(世の中のシガラミを想え)から――完全にではないが――自由になっていること》 これが ブッダなる境地です。
:
★ それは都合のいい解釈だと思います。自分にも可能と思われる範囲に覚りを矮小化しているように感じます。
☆ 現実として実現可能かどうか むしろあやぶまれる状態内容です。この定義で よいはすですよ。
★ ここでは、余計な名称(表象作用)と形態(感受作用)の脱落の話 / 怒りに支配されないとか
☆ 脱落ではなく――無明からの解脱ではなく―― 経験事象を超えるというのが 正解なのです。できるかどうかは また別の話ですが。
引用:☆ そういう観点からでしたら ブッダ状態とは こうでしょう。:
《あのときあの人は これこれこう言った。それに対して わたしはこう言った。だが 互いになお心の奥の心を捉えていなかった。――そのことが いま分かる。・・・》といった事態が おのが歴史の全部にわたって 次々と得られて来る。これです。
:
★ ブッダ状態とは、因縁が軽やかに結ばれ解ける状態だと考えられます。
☆ いいえ。経験事象としての世の中のことはみな 他の人たちと同じくそのまま普通に自然に体験します。と同時に この有限・相対的な経験世界を超えるということ。これが――この《有限(無明)‐無限(明知)》の構造的な状態が――般若波羅蜜多です。
★ 過去のみについての事
☆ は ほんの一例なのです。
★ 死期に関してアナンダを叱責したのも不吉ではなかった。
☆ なぜ? アーナンダは悪魔に取り憑かれたのですよ。
★ おのが歴史の全部に渡って次々と得られて来るその中身を具に言語化できますか?無理だと思います。
☆ いいですか。情報というものは ブッダ状態にあるなら なおさら 要らないものはいちいち知らなくてよいのです。そのとき必要十分な情報や知恵が寄せられてくればよいのです。
★☆ 覚りはすべからく体感と経験によって自らの身に証される。
★ もう他所のふんどしを借りるというのはよして、ご自身の覚りを語ることを
☆ しています。他からの引用は 説明のため・また先人の業績があるならできるだけそれを掲げておくべきです。
★ あなたとはずいぶん覚りに纏わる論議をしましたが、・・・
☆ よく読み咀嚼したと思います。
No.14
- 回答日時:
数学苦手ですが
正岡子規はどうですか
子規のさとり定義:さとり=いかなる場合にも平気で生きていること
は権威感がなく市民的で妥当ですか?
いつも必ず平気となると不気味なので
さとり=平気で生きていること
くらいだと大半の人がしばしば悟っていることになり、悟りの意味や価値を保ったまま悟り行為を一般化・陳腐化できてよいですか?
ご回答をありがとうございます。
★ 数学苦手ですが
正岡子規はどうですか
子規のさとり定義:さとり=いかなる場合にも平気で生きていること
は権威感がなく市民的で妥当ですか?
☆ あぁ そうなんですか。あれほどの病魔との試練にあったところから出て来た命題ですかね。
よく似た表現として 《幸せとは よき仕合わせ( happening )にもあしき仕合わせにもよく適応して両方とも乗り超えてゆくこと》ってのがありますね。
(数学は 知ったかぶりですので 専門の方々からおしえていただけたら さいわいです)。
★ いつも必ず平気となると不気味なので
さとり=平気で生きていること
くらいだと大半の人がしばしば悟っていることになり、悟りの意味や価値を保ったまま悟り行為を一般化・陳腐化できてよいですか?
☆ おそらく二通りの反応が出されるものと思います。
いやいや。《この上なくとうとい智慧のさとり》が そんな陳腐な状態と一緒にされては困る。といった権威筋からのお叱り。
いやいやいや。何の何の。それでいいんだ。だから 言ってるぢゃないか。われわれ人間は――仏性を生まれつき宿しているからには――みんながそれぞれすでにブッダであるんだと。
前者では 往相の成仏だけではなくそこから還相として世の中に還って来た段階でいかに人びとを成道にみちびくか。この観点が 欲しい。といったことが添えられているかと。
それなら・・・と後者の側からは はっきりとさとりの定義を明らかにしてくれたまえと うったえ返すでしょうね。
No.13
- 回答日時:
空気教?
別になんでもええですけど、あなたは死ぬまでこの調子なのですか?死ぬまで駄々こね。
私はそれには付き合えない。
人はいつ死ぬかわからない上に、それは必ずくる。
時間を惜しまないが、無駄遣いはできません。
ご自身の死期を意識した方がいい。
ゆるい褌で相撲を取ることに拘るなら土俵を降りた方が良い。中途半端に逃げた構えで覚りに向き合う気概しかないなら、覚りなど初めから無理な話です。火を恐れている猿に見える。
今回、貴方はチキンに見えた。
中身中身、中身がない!
そりゃそうだろ。まだ解いてないのに感動するわけないだろ。
遠巻きに石だけ投げて、喚く増上慢の僧侶にそっくりだな。ほんとチキンだぜ。
正面切って相撲とりなよ。
それならいつでも相手になりますよ。
貴方の質問は質問ではなくその実質は批判なんですよ。
自分の意見を言ってないので、つまらない。
中身がない。
▲ スッタニパータ ~~~
§ 10、アーラブァカという神霊
181 「この世で人間の最高の富は何であるか? ・・・どのように生きるのが最上の生活であるというのか?」
182 「この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは安楽をもたらす。実に真実が味の中で美味である。知慧によって生きるのが最高の生活であるという」
183 「ひとはいかにして激流を渡るのであるか? ・・・いかにして苦しみを越えるのであろうか? いかにして全く清らかとなるのであるか?」
184 「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」
185 「ひとはいかにして智慧を得るのであろうか? ・・・どうすれば、この世からかの世に赴いたときに憂いがないのであろうか?」
186 [師いわく、──]「諸々の尊敬さるべき人が安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。
187 適宜に事をなし、忍耐づよく努力する者は財を得る。
誠実をつくして名声を得、
何ものかを与えて交友を結ぶ。
188 信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれら四種の徳があれば、かれは来世に至って憂えることがない。
~~~
【Q:さとりを得ることにつき なぜ《横超》ではないのか?】
★ A№16 ~~~
★ 覚りの一般化が不可能な理由があります。
それは、覚りが因縁に基づくものであると言う理由です。
☆ 《因縁》をきっかけにして成就した結果の状態は どういうことか? です。
たとえば 《経験事象としての因果関係(世の中のシガラミを想え)から――完全にではないが――自由になっていること》 これが ブッダなる境地です。
★ 端的に、人生が人それぞれであると言う事が、覚りの根拠であると同時に、唯一無二のユニークさを人に与え、しかも共有するのを不可能にしているのです。
☆ そういう観点からでしたら ブッダ状態とは こうでしょう。:
《あのときあの人は これこれこう言った。それに対して わたしはこう言った。だが 互いになお心の奥の心を捉えていなかった。――そのことが いま分かる。・・・》といった事態が おのが歴史の全部にわたって 次々と得られて来る。これです。
~~~
No.12
- 回答日時:
引用:★ 正統的な経文・・・正法の記述・・・六祖慧能(覚者)もそれについて解説しています。
☆ その中身を明らかにすべし!!!!
別のアカウントでも何度かそれを示説しましたが、bragelloneさんの記憶にないのなら話を聞いていなかったのでしょう。壇経に掲載されています。ご自身で精査されて、それからご批判ください。そうでなければいちゃもんの域を出ません。
引用:☆ いわゆる公認を経てから 例示すべしです。
このように言うならば、bragelloneさんは自分というものをまだ得ていないと言わざるを得ません。他の誰が何と言おうが、自分の目を信じるべきでしょう。あなたは自己帰還をまだ果たしていないのではないですか?
引用:☆ その真理の中身について訊いているのです。
具体例にはアーラヴァカ経だと言っています。何故ちゃんと回答を読まれないのですか?何故読んでもいない経文を批判できるのですか?
引用:☆ 意味不明です。
それは貴方の理解を超えた話だからです。
引用:☆ 中身は?
世の人々を見てと言う事です。実際のことです。言葉で云々言う事ではありません。父母や友人、世人と言われる人々を見てです。
具体には、徳目を備えていると言う事です。
もっとちゃんと勉強してから気を吐いてください。
あなたのは只の駄々こねです。
引用:★ 正統的な経文・・・正法の記述・・・六祖慧能(覚者)もそれについて解説しています。
☆ その中身を明らかにすべし!!!!
★ 別のアカウントでも何度かそれを示説しましたが、bragelloneさんの記憶にないのなら話を聞いていなかったのでしょう。壇経に掲載されています。ご自身で精査されて、それからご批判ください。そうでなければいちゃもんの域を出ません。
☆ 分かりました。
クウキ教徒だと。クウキが絶対であるらしく そうであるからには 話し合いの余地はないでしょう。
No.11
- 回答日時:
引用:☆ シャーリプトラはどうなるのですか?:
弟子の内、少なくとも舎利弗は覚者であると考えられます。名前に佛がついていますし、智慧第一という称号からそうであろうなと推測されます。彼は多数の弟子を抱えていたし、彼がブッダであることを証するエピソードも探せばきっとあるでしょう。
一方、法華経は創作経文で御釈迦さんの直伝ではないですが、正統的な経文と言われています。正法の記述があって、六祖慧能(覚者)もそれについて解説しています。
引用:☆ 二千有余年 じんるいには無理でした。:
ここでしょうね。bragelloneさんが気になる点は。まぁ、経文を正しく理解した人はごく少ないと言う事実は否めないでしょう。多分これが、人々が自信を持てない一番の大きな障害です。しかし、科学技術についても、例えばスマホがなぜこのように機能しているかを知っている人はごく少数でしょう。先端の宇宙物理や生命研究についても、その知見を得ている人はごくわずかです。わずかであると言う意味では同じなのに、baragelloneさんにとって経文は非難され、先端論文は非難されないのは何故ですか?それはbragelloneさんが、アンチと言う形で仏教に興味があり、その気持ちを払拭できないからだと思います。
引用:trigger_note さんは どのように理解したから・どのようにさとったから いまのようにゴータマ・ブッダを擁護しているのでしょう?:
私が擁護しているのはその覚りに関する言説であって御釈迦さんの名誉ではありません。
ただ、私が御釈迦さんをブッダだと認めることが出来ている理由、それは、私が覚りを目指して来て、今もその気持ちを保っているからであろうと思われます。
また、特殊な背景として、私は現代に、それも日本にブッダがいるであろうと思っています。彼(SRKWブッダ)が四つの徳を説いたのを聞き、また御釈迦さんが四つの徳を説いていたのを知り、それらは自分には全く説けなかったであろうことを如実に知って、自分の覚りというものに関する勘違いと、自分よりもはるかに整い、人間を知り抜いていて、人格を完成させている人がいるのだと思い知ったことは大きなことだと思います。
その古の経典にある文言を見て、御釈迦さんは覚者だったであろうと見ていると言う事です。具体例にはアーラヴァカ経です。
ただ、おそらく、古い経典にも、御釈迦さんの直説は少ないと思います。多くは弟子たちによって、或いは継承者たちによって書き加えられた部分が多いと思います。しかし、問題は誰が言ったのか?ではなく、何が語られたかです。真理を語るのでブッダと認められるのであって、そうでないならそうでないのです。御釈迦さんがブッダかどうかは重要ではありません。重要なのは、語られたことが真理であるかどうか、それを察知できるかどうかであり、それがそうだとこころに聡く知ったひとが、覚りを、まだ決定的に捉えていない状態で、つまり朧にながらも目指すことになる。冷徹な言い方を敢えてすれば、人によると言う事です。そこに何かあると思った人はそれを究め、それはペテンだと思った人はペテンだと言う。それだけの話です。
引用:現実は幻想だという世界観を さもただしいと思わしめるようなチカラが クウキとしてのように 醸し出されています。ブディストの罪だと考えます。:
世界観を持つのは現生人類の能力の一つです。その世界観によって世界の現実を変えて来たと言う実態がそこにはあります。ブディズムが一つの大きな、多様な世界観を形成し、現実社会に影響をもたらしていることは認めますが、それは人類の能力ゆえの事です。それを具に見ることは、仏教をも包含したもっとマクロな視野での分析になります。
余談:
実はなのですが、私は、人々の半分くらいは実は覚っているのではないか?と考えています。まともさ加減の話です。私は幾分まともで無いところも抱えており、またまともなところもあるので、その様に思うのかもしれませんが。実感として。これは、人類は皆ブッダであると言うbragelloneさんの方針とは異なる、世のリアルな実景を見ての考えです。
引用:☆ シャーリプトラは:
★ 弟子の内、少なくとも舎利弗は・・・ブッダであることを証するエピソードも探せばきっとあるでしょう。
☆ ですから どちらであるにせよ その――証拠と言わず――中身について明らかにしてほしいわけです。
プトラは 子の意。
★ 一方、法華経は創作経文で御釈迦さんの直伝ではないですが、
☆ 如是我聞で始まる経典はみな 直伝ではありません。
★ 正統的な経文・・・正法の記述・・・六祖慧能(覚者)もそれについて解説しています。
☆ その中身を明らかにすべし!!!!
引用:☆ 二千有余年 じんるいには無理でした。:
★ 科学技術についても、例えばスマホがなぜこのように機能しているかを知っている人はごく少数でしょう。
☆ スマホは それでも機能するからいいのです。《さとり》なる最先端の人文知は?
引用:trigger_note さんは どのように理解したから・どのようにさとったから いまのようにゴータマ・ブッダを擁護しているのでしょう?:
★ 私が擁護しているのはその覚りに関する言説であって
☆ どのように《中身が明らかになったから》擁護するのでしょう?
★ ただ、私が御釈迦さんをブッダだと認めることが出来ている理由、それは、私が覚りを目指して来て、今もその気持ちを保っているからであろうと思われます。
☆ そんなことはどうでもよいのです。中身を明らかに!!
★ SRKWブッダ
☆ いわゆる公認を経てから 例示すべしです。
★ 四つの徳を説いた・・・人格を完成させている
☆ この説明で 明らかにし得ましたか?
★ 問題は誰が言ったのか?ではなく、何が語られたかです。
★ 真理を語るのでブッダと認められる
☆ その真理の中身について訊いているのです。
★ そこに何かあると思った人はそれを究め、それはペテンだと思った人はペテンだと言う。それだけの話です。
引用:現実は幻想だという世界観・・・ブディストの罪だと考えます。:
★ ブディズムが一つの大きな、多様な世界観を形成し、現実社会に影響をもたらしていることは認めますが、それは人類の能力ゆえの事です。それを具に見ることは、仏教をも包含したもっとマクロな視野での分析になります。
☆ 意味不明です。
★ 人々の半分くらいは実は覚っているのではないか?
☆ 中身は?
No.10
- 回答日時:
熱いですねー。
7月ごろの体感ですね。引用:★ 飛躍
☆ であり
★ いちゃもん
☆ です。:
えぇ、、、じゃあダメじゃないですか。開き直ったなら余計たちが悪いですよ。
仏教に関しては、一例挙げれば六波羅蜜など、覚りと覚りに続く具体的な徳目とその様相も解説されていて、別に曖昧模糊というわけでは無いと思います。ただ、簡単には理解できないと言うだけではないでしょうか。自分達に理解できないものを曖昧だ不明瞭だ嘘だと言い捏ねるのは、かえって愚かさと我侭、駄々っ子様の露呈と言う事になります。教えてもらったが、説いてもらったが、私にははっきりとは分からない。それだけ言えばいいだけの事です。他の人は関係ありません。自分が、知ったかぶりをするか、場の空気に流されるかどうかという話です。
私は亜流も検討しますが、基本的には正統かつ妥当なものを求めます。なので、まして飛躍やいちゃもんとなると、疑問を呈したくなってしまいます。
ですが、bragelloneさんの中では、これらの糾弾は真っ当なものなのでしょう。おそらくは。もし自身の中での正当性すら確認できていなければ、それは自己欺瞞が含まれていると言う事になると思います。
また、今回の質問が、宗教の形骸化と権威化の過程と構造が、社会の上層の形骸化と権威化の過程と構造に似ているという問題提起ならば、これは意義のある事だと思ったのですが、そこら辺についてはどうでしょう。
★ 熱いですねー。7月ごろの体感ですね。
☆ ええ。きょうは 温度が上がっていると分かります。二日ぐらい前までは まだ 冬の掛布団で寝ていましたが。
★ 、、、じゃあダメじゃないですか。開き直ったなら余計たちが悪いですよ。
☆ いや。実質的には 飛躍ではないと分かるはずだと思ったのですが。
批判というものは いちゃもんに間違われることは分かっていますが。
★ 仏教に関しては、一例挙げれば六波羅蜜など、覚りと覚りに続く具体的な徳目とその様相も解説されていて、別に曖昧模糊というわけでは無いと思います。
☆ 四諦八正道による説明が 決定版であると言えましょうか?
シャーリプトラが 説明してくださいと懇願しても そうすると大衆は混乱してしまうと言って 決して中身を明らかにしなかったんですよ。
★ ただ、簡単には理解できないと言うだけではないでしょうか。
☆ 二千有余年 じんるいには無理でした。
★ 自分達に理解できないものを曖昧だ不明瞭だ嘘だと言い捏ねるのは、かえって愚かさと我侭、駄々っ子様の露呈と言う事になります。
☆ シャーリプトラはどうなるのですか?
★ 教えてもらったが、説いてもらったが、私にははっきりとは分からない。それだけ言えばいいだけの事です。
☆ 漢訳にだけあると聞いていますが その法華経には 《唯仏与仏》というくだりがあります。仏と仏とのみ よく理解することができるって言ってるんです。
これが ペテン師の常套手段でなくて なんでしょう。
trigger_note さんは どのように理解したから・どのようにさとったから いまのようにゴータマ・ブッダを擁護しているのでしょう?
つまり さとりの中身を――二千年のあと初めて――明らかにすれば済むことです。何の問題もないことなのです。
いちゃもんをつけているのは 《唯仏与仏》という応答の仕方にあるのです。
★☆ 他の人は関係ありません。自分が、知ったかぶりをするか、場の空気に流されるかどうかという話です。
☆ なぜ ゴータマ氏のことを忖度するかです。
★ 自己欺瞞が含まれていると言う事になる
☆ のではありませんか?
つづく
No.9
- 回答日時:
引用: ☆ 虚数作文の蔓延は ブディズムの影響が大きいように思います。
覚りに関する憶測がたくさんあるのも知っていますが、それが官僚など役人の腐敗?の原因というのは流石に飛躍というか、いちゃもんの度も過ぎる気がするのですが。
今回はちょっとお考えが理解できません。
★ 覚りに関する憶測がたくさんあるのも知っていますが、それが官僚など役人の腐敗?の原因というの
☆ ではありません。
ブディズムによる《さとり》説の流布がなかったなら どうかを考えてみてください。
まづ 中身がきちんと明らかにされていたなら・・・? そのときには 何の問題もありません。(その当否について自由な議論をすればよいだけです)。
中身が分からない・曖昧模糊としている。・・・しかもそのさとり説は それなりに広まっています。
このけっきょくやっぱりクウキのような倫理観――しかも そのさとりというのは 人間性にとって最高の状態だと見なされてもいる―― これが 弱小の人間論や倫理説であっても 人びとに何となく受け容れられていく・・・といった情況を醸し出している。
――こういう問題です。
弱小の評論が 虚数作文として成り立ち 世の中に出回っているというのは 人畜無害な内容であるのが いちばん持ってこいなのです。
適当にいいことを言っている。あとは 人を批判することなく 当たり障りのないことを延々と繰り広げる。・・・こういう技術と手腕が もてはやされる。
こういう:
★ 飛躍
☆ であり
★ いちゃもん
☆ です。
No.8
- 回答日時:
虚数作文とは、私の理解では、よく知りもしないことをさもあり得るかのように語ることかなと思いました。
覚りに限らず、世の中にはそう言う情報は多いものですね。関西では、知ったかぶりをする時は、語尾に"しらんけど"をつけます^_^
★ 虚数作文とは、私の理解では、よく知りもしないことをさもあり得るかのように語ることかなと思いました。
☆ 問題は そのそつの無さによって役職の地位が安定し さらには出世するといった事態のほうにあるかと思います。
★ 覚りに限らず、世の中にはそう言う情報は多いものですね。
☆ といった裾野の広がりに支えられて 地位・身分の問題になっているかと。
★ 関西では、知ったかぶりをする時は、語尾に"しらんけど"をつけます^_^
☆ 役職の上の人の場合には そこまで大衆受けのわざはしないかも。
☆ 虚数作文の蔓延は ブディズムの影響が大きいように思います。
No.7
- 回答日時:
私が虚数を知らないこともあり、このご質問は読解が非常に難しいのですが、私の今の理解では、自己欺瞞について問題にされているのだろうか?という認識でおります。
この認識は、当たらずとも遠からずなのでしょうか?
そうですね。
じつは 物理や数学の定理や概念を 哲学の議論にタトヘとしてやたら用いるなと 数学の専門家からお叱りを受けたことがあります。[21]の解説をしてくれた人です。
普遍神は 有る神と無い神との重ね合わせの状態で人の前に現われる・・・といったタトヘをも――けっきょく素人なりの思いつきで――つくっています。
気を付けていますが これまで反証・反駁されるというまでの批判は受けていません。
さて:
★ このご質問は・・・自己欺瞞について問題にされているのだろうか?
☆ ええっと。
▲ コトバンク:自己欺瞞
△ 精選版 日本国語大辞典
自分で、自分の心をだますこと。自分の信条や良心にそむいたことを無意識に行なう場合にも、意識しながら強いて行なう場合にもいう。
△ デジタル大辞泉
自分で自分の心をあざむくこと。自分の良心や本心に反しているのを知りながら、それを自分に対して無理に正当化すること。自欺(じき)。
▲ コトバンク:嘘
△ デジタル大辞泉
1 事実でないこと。また、人をだますために言う、事実とは違う言葉。偽(いつわり)。
2 正しくないこと。誤り。
3 適切でないこと。望ましくないこと。
☆ こうだとすると 自己欺瞞とは 自己に対してウソをつくこと なのでしょうか。
ただし 自己欺瞞のほうには 《自分の信条・良心・本心にそむく》といった要素がはっきりと添えられています。
これは 《ヤマシサ反応にそむくこと》だと理解します。
質問者としましては この《嘘および自己欺瞞》の両方の意味内容を ここでのウソに ふくめたいと思います。勝手ながら。
そうして ブディズムのさとり論が 何となくのさとりでよしとするクウキをつくっていることに便乗してのように 虚数作文が世の中には 蔓延しているのではないか。
さとりが何であるか必ずしも明らかでなくても日常語として使ってもよいと思われているように 自己のしっかりとした思惟を表現するのでなくても何となくの教養の要素を折り込んだ話をすれば合格点であるといったスモッグのようなクウキ これが 虚数作文のことです。
日本一の天邪鬼を目指して(!?)・・・。
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№10-1
★ また、今回の質問が、宗教の形骸化と権威化の過程と構造が、社会の上層の形骸化と権威化の過程と構造に似ているという問題提起ならば、これは意義のある事だと思ったのですが、そこら辺についてはどうでしょう。
☆ そう採ってもらっていいはずです。
焦点の当て方としては 虚数作文―ー自己欺瞞なるウソですね――が 横行するなんてことは 社会の片隅でなら別として 社会そのものの成り立ちとしてのごとく現象することは あり得ないんです。それを支えているのは まぼろしのさとり説を打ち出したブディズムの影響だということでしょう。
現実は幻想だという世界観を さもただしいと思わしめるようなチカラが クウキとしてのように 醸し出されています。ブディストの罪だと考えます。