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 その基本的な内容をお教えください。

 おおきな主題ですので 基本的な事項を掲げて その参照資料を挙げていただくかたちでもよろしいでしょうし。
 あるいは 一つの項目について やはり基本的な内容はこうだと示してくださるのも ありがたいです。

 なおわたくしは 仮りにイエスが実在の人物でなかったとしても あるいはまた 聖書がいわゆる偽書であったとしても そこに書かれたことがらは 信仰の現実的にして社会構造的なあり方を示していると捉えています。
 これは しかも 信仰一般のことです。あるいはつまり 人間一般のふつうの歴史社会的な存在のあり方のことです。
 さらにつまりはまた 信仰とは もしその内容が実現した場合には 消えてなくなるものです。その時には見えていなかったものが 見えたというのであれば もはや信じる必要はなくなっています。

 なお このような見解に立って ご回答の内容について さらに説明の補足をお願いすることがあると思います。また 筋の違ったご回答については そのまま ご遠慮願うと思います。その点も お断わりしつつ。

A 回答 (4件)

聖書を学問的に研究している人、しかも考古学的、歴史的に学問の世界でスタンダードな基準に従って研究している人が世界中にたくさんいます。

いわゆる聖書学ですが、まず最初にそこでの結論から話しましょう。

まともな研究をしている学者で、イエスが存在しないと主張したり、新約聖書の基本的な出来事の信頼性を疑う人は、クリスチャン、非クリスチャン、反クリスチャンを問わず一人もいません。新約聖書の記述は基本的に非常に正確であるということはすでに疑いのない結論です。

下の例について私でも知っていることを答えましょう。まず最初は、サンヘドリンは、イエスを死刑にするための二人の証人は集めることができませんでした。こんな簡単なことは聖書にも書いてあります。つまり、サンヘドリンは、イエスの処刑計画に頓挫しかかっていたのです。
しかし、ここでイエス自らがこういいます。

『私はそれである。人の子が力ある方の右の座につき、天の雲に乗ってくるのを、あなた方は見るはずです』(マルコ14:60~)

これは誤解が多い文ですが、実は明確に『私は神だ』といったに等しいのです。
(これについては長くなるのでここでは話しませんが、詩篇110や、ダニエル書7:13に言及した表現であり、当時の人は、この表現から間違いなく自分は神であると主張したことを理解できるのです。)

そして、当時、これはユダヤ教の中でも最大の罪でした。
これを聞いて、初めてサンヘドリンは、イエスを有罪にすることができたのです。『これでもまだ、証人が必要でしょうか』(14:63)

つまり、下記の引用に対してはこのように答えることができます
(下記引用)
『サンへドリンのように威厳ある機関がそのようなことをすると考えるのは アメリカ合衆国の最高裁が夜間に誰かを逮捕し その罪状を成立させるために その夜のうちに証人を探し出し ただちに死刑にせよ と宣告するようなことを行なうと考えるのと同然である。それもすべて十二時間内に行なうのである。』

サンヘドリンは、このような掟破りをしてまで、イエスを処刑したかったのです。しかも、わざわざ過ぎ越しの日の前に処刑したかったのです。それは、イエスがそれほど彼らにとって危険な存在だったからです。イエスは、それほどまでに当時、大きな存在になっていたのです。

サンヘドリンは、確かに優秀な人間の集まりでした。その中にはユダヤ教の著名な哲学者、ガマリエルや、さらに非常に優秀で、有名な若者が含まれていました。それが、タルソのサウロ。後に回心して使徒となるパウロです。

なぜパウロがサンヘドリンのメンバーだったのに、回心したか。それは興味があると調べてみるといいと思います。そのような文献は死ぬほどあります。

下記のようなインチキ説はよく流布されますが、正直週刊誌と同じレベルだということは忘れないでください。
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この回答へのお礼

 hhitujiさん たいへんありがとうございます。なるほどと さらに思いました。
 サンへドリンの動きについての疑義は 紹介者の小滝透のほうを信用していました。マルコの記事 よくわかりました。学問としての聖書学 これにも けっこう気を配ってはいたのですが 逆説的なことを言っているので 田川建三を読んでおけば よいだろうと思っていたようです。うぅーん。なんとも はや です。
 
 パウロが もうその頃から サンへドリンにいたのですか。これも 残念ながら 初耳でした。
 ともかく カンギュウジュウトウなのですね。一つひとつ押さえていくようにします。ありがとうございました。
 もういちど なんとも はや です。

 みなさん ありがとうございました。そろそろ締めることにします。

お礼日時:2008/03/08 20:17

基本的には、当時の風俗や文化を知らない後世の人間が主張している根拠の乏しい説である、と言えます。



聖書以外の当時の資料は、ヨセフスのユダヤ戦記や同時代人の書簡などかなり限られた物しかありません。しかも、同時代人はユダヤ教の一派である新興宗教には大して紙幅を費やしてくれていません。ですから、#2さんの補足にお書きの内容は、「現在のユダヤ人が語る」口伝でしかない訳です。これが、紀元200年ころの羊皮紙に同じ内容が記されていれば、相当信憑性は高いでしょうが口伝では検証できません。
>>タルムードなどは事実 罪に問われた男が死刑場へ連行されるとき
と書いていますが、これはいつの時代でしょうか?ローマ統治下では死刑を執行する権限がサンヘドリンには無い事は、ローマ側の資料で知られています。そして、それ以降ユダヤ人は祖国を失い小規模なコミュニティしか形成できませんでした。どこのどの時代の死刑風景でしょうね?これ。

四つの福音書の内、ヨハネによる福音書は非ユダヤ人に対して書かれています、なぜなら幾つかの場面で「ユダヤ教徒の風習について解説を記している」からです。(ヨハネ18:28など)
では、他の福音書(特にマルコ)は誰に対して書かれたか?当然ユダヤ人がメインです。何故ならイエスこそ(旧約)聖書で預言されている救世主である、という正統性は(旧約)聖書を聖典とする民にしか通じないからです。勿論、その後使徒たちが国や民族にこだわらない宣教を行う事によって世界宗教へと変貌するのですが、宣教の開始時点でユダヤ人向けに書かれた福音書に、明らかにユダヤ人にとって嘘と分かる事が書いてあったら信憑性は皆無だと思いませんか?
当時のユダヤ人が違和感を持って読まなかった書物であればこそ、正当性が高い記述である、と思います。

このカテゴリでも長文回答者が、ユダの福音書やトマスの福音書など正典になれなかった無数の福音書がある、だから新約聖書はアヤシイと唱えています。しかし、ニセモノが出回るのは本物の証拠ですよ。仮に、かの長文回答者が主張するようにイエスは実在しない、としたらどうしてそんなに複数の福音書が書かれるでしょう?イエスはいなかった、という文章を書けば良いと思いません?
公平に考えて、イエスほどニセ者が多い宗教家はいないと思います。それだけ、イエスの教えは人間の魂に影響力が強いと思いますが如何に?
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この回答へのお礼

 frisk_blue_loveさん お教えくださってありがとうございます。
 一時期 テクスト・クリティークとかで 史的イエス〔のみ〕を浮かび上がらせるように捉えるといった書物を読んだことがありましたが 史実の問題については ほとんど注意を振り向けていませんでした。
 判断基準が まだ自分の中に出来ていないのす。
 ヨセフスについても 後世からの加筆の疑いであるとか どうもはっきりしないという印象のみが残っていました。
 いまは 大貫隆を読み始めています。『イエスの経験』を読み終えて 『イエスの時』にかかりました。
 最初 史的イエスを明らかにしてくれるようだと思ったのですが そうでもなく むしろ神学の方面でした。ほかにも 史実関係の著書があるようですので 引き続きあたろうとは思っています。
 
 ユダの福音書やトマスの福音書などは けっこう 共観福音書の記事と同じようなものも あるのですね。むしろ そちらのほうに関心が向かったことを覚えています。
 おしえていただいたこと これは 新しく知ったことであるとともに その信憑性のあり方としては 意外と 情況証拠であったり執筆の事情や背景説明であったりするのですね。これでは なかなか結着が付けがたいのも無理ないかなと思ったりもしますが そういうところも むしろ面白いのかも知れません。つまり 信仰ということにとって 何の問題にもならないと言うべきなのかも知れません。そんなことにあまり注意を向けずに 聖書を読んでいました。
 たいへんありがとうございました。これから少しづつ学んでまいりたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/07 21:45

信仰とは もしその内容が実現した場合には 消えてなくなるものです。

その時には見えていなかったものが 見えたというのであれば もはや信じる必要はなくなっています。

そうだよね。天国にいける、イエスを信じれば。
これがわかれば安心して信じることが出来ると思う

>さらにつまりはまた 信仰とは もしその内容が実現した場合には 消えてなくなるものです。その時には見えていなかったものが 見えたというのであれば もはや信じる必要はなくなっています

合意して欲しいならもう質問と言わないですね

絶対にだれもわかりません。ただ信仰によって信じるのみでしょう。

この回答への補足

 katyan1234さん ご回答をありがとうございます。

 つい最近こういう記事を読みました。《福音書の描いた記述を不当と見なし続けている》その主張ということで紹介されています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 福音書が述べていることをまとめてみると その国の最高裁ともいうべきサンへドリンの命令によって イエスは夜間に逮捕された。そしてサンへドリンにより冒涜もしくは宗教的堕落のかどで死罪をいい渡された。死刑は買収された証人の立ち会いのうちに 大祭司の宮殿で執行されることになった ということになる。さらに福音書の語るところによれば ポンテオ・ピラトはユダヤ人群集を怖れるあまり 非常に渋々とその死刑宣告を認めた ということになっているのである。
 聖書時代のユダヤ人の裁判手続きを知っている者なら 福音書のいうところを文字どおり信じるのは難しいと考える。その当時のユダヤ教の法によれば 夜間の逮捕は禁じられていた。安息日 もしくは祭礼の前夜(日没後)あるいは当日に 裁判を行なうことも法で禁じられていた。サンへドリンの会議は《切石の間》と呼ばれた部屋のみで行なわれ 大祭司の宮殿とかその他のいかなる場所でも行なわれることは決してなかったのである。
 サンへドリンが逮捕という行為に出ることはできなかった。まず二人の証人が宣誓して告発しないかぎり なに人もサンへドリンで裁かれることはなかった。検察官というのはいなかったから 告発する証人は被告のまえで法廷に対して罪がどのようなものであるか陳述しなければならず 被告は自分のために証言してくれる証人をよぶことができた。それから法廷は原告と被告と被告側証人を尋問し 反対尋問した。
 タルムードなどは事実 罪に問われた男が死刑場へ連行されるときにも 先触れが《だれだれ すなわちなにがしの息子のだれだれは かくかくしかじかの罪を犯したかどで死刑になるところだが 証人はだれだれである。被告の有利になるようなことを知っている者は出て 早速その旨を述べよ!》と大声で叫ばなければならないと定めている。ユダヤ人の高等裁判所が進んですべての法を被り そのような長いあいだの慣習を破るとは考えられない。
 サンへドリンのように威厳ある機関がそのようなことをすると考えるのは アメリカ合衆国の最高裁が夜間に誰かを逮捕し その罪状を成立させるために その夜のうちに証人を探し出し ただちに死刑にせよ と宣告するようなことを行なうと考えるのと同然である。それもすべて十二時間内に行なうのである。(マックス・I・ディモント:『ユダヤ人』)
(引用紹介=小滝透:『神の世界史 キリスト教』1998 pp.50-51)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 これは 歴史事実の比定の問題なのですが そこから問題が延びてゆくかどうかなどを 知りたいと思います。

補足日時:2008/03/02 19:40
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お、適任みっけ。


brageloneさん、キリスト教には原罪という考え方があるじゃないですか。
これは知恵の実を食べるわけですが、その結果によって自我或いは自意識が生まれた事を示唆しているんですか?
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この回答へのお礼

 shift-2007さん ご回答をありがとうございます。
 回答としては その原罪が解かれるイエスの出現というところでしょうか。
 しばらく前に 《Q:キリスト教(イエスの遺体の引き取りと埋葬の具体的な事実経過を問うています) http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3700662.html 》という質問があって このような史実の問題に わたしは暗くて どうしたものかと思っていました。
 イエスにより新しい契約が成り立ったのかどうか。成り立ったのなら 知恵の木の実を食べたことも 忘れられるということ(エレミヤ書31:31以下)なのでしょうね。
 善と悪を知る木とも訳されていますよね。そして その実を食べたあとには 《アダムよ きみはどこにいるか》という声を聞いて 身を隠していなければならなかったというのが 実際だったですよね。どうなんでしょう。そういう変化としての情況経過で暗示されるような何か事件が あったのでしょうね。どうなのでしょう。

お礼日時:2008/03/02 19:59

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