
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは。
No.1のご回答と同じ見方であるとおことわりしつつ重ねて回答します。
三つのたとえ――《いなくなった羊》と《失くした銀貨》と《放蕩息子》――のいづれも そのたとえどおりのことをイエスは話しているのではないでしょうか。
いちばんのミソは 次の箇所ではないでしょうか。
▲ (ルカによる福音書 15章) ~~~~
16:彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
17:そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわちさらには
▲ 彼は我に返って
☆ ここにあると考えます。
前のふたつのたとえにはこのような《自己到来》のことはそのままのかたちでは触れられていませんが その当人がそうでなくても 周りの人たちやそのたとえ話を聞くわれわれからすれば 同じことだと言ってよいと思います。
そしてふたたび回答No.1さんと気持ちわるいほど同じ見方になるので言いづらい感じになりますが これらの喩えのすぐ前には――つまり回答No.1さんのマタイから挙げられた文句と同じ内容として―― つぎがあります。
▲ (ルカによる福音書14章) ~~~
26:「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
27:自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ もんだいは 或る種の仕方でさからえ得ない律法でもある《あなたの父母をうやまえ》をたがえることをイエスが言っていることにあるはずです。あるいはつまり
▲ 自分の十字架を背負ってついて行く
☆ ことも じゅうぶんにわれわれ一人ひとりの人間が果たすことはむつかしいと言わなければなりません。
それでは どういうことなのか?
或る種の仕方で 律法のおしえは 《もみがら》なのではないでしょうか? 《麦粒》はその中にある。
おこないによって律法をまもるのではないはずです。アブラハムは 信じたので――つまり おこないによるのではなく 信じることによって――そのあとの歴史に現われて来る《キリストの民》の父と成った。信仰によってこそ《自分の十字架を背負う》ことが出来るし 父母をうやまいつつ家族や身内のそのきづなをも逆らうようにさえしつつ超えてすすむことが出来る。
それは たぶん
▲ 彼は我に返って
☆ という自己還帰のことを言っているはずです。《わたしがわたしである》ということ。これは もみがらを通ってさらに内なるその麦粒のことだと思われます。放蕩な行き方をしていた弟に対して その兄はかれ(=兄自身)が我れに還ったときには じぶんの弟をも受け容れることができるでしょう。
《失くした銀貨なら何が何でも見つかるまで探せ》といったことは言っていないと思います。九十九匹よりも迷い込んだ一匹を是が非でも見つけよということでもないのでしょう。その大切なものをおろそかにしないのだと言っているはずです。もみ殻を追い求めるようにして何が何でも探し見つけ出せというのも おかしな話だと思うからです。
いつでも帰って来いよと言っている者がいるということでしょうか。
おそらく話はここで終わらず 次の展開を見るはずです。
○ もみ殻を追い求め みづからがあたかももみ殻であろうとする場合 つまりみづからがもみ殻であると分かっていて 決して麦粒を欲せず 人びとにももみ殻を指し示しつづける場合 これにどう対処するか。
☆ であるはずです。
○ もみ殻が風に吹かれて飛ばされて行ってしまうことを見ているだけでよいのか。それは麦粒ではなく ただのもみ殻だよと言ってやったそのあと ではどうなのか?
☆ イエスは どう言っていましょうか?
No.6
- 回答日時:
迷える子羊、なくした小銭、the Prodigal Sonですよね。
イエスキリストが税金徴収人やならず者達と食事をしていた時に、パリサイ人や律法の先生達がやってきて、
”まぁた、あんたは、そんな穢れた罪びととかかわりを持つだけでもいけないのに、一緒に食事をするなんて。。”と苦情を言い始めた、その返事として語り始めたたとえ話です。
ですから、1)迷った子羊、2)失われた小銭、3)親からの遺産を使い果たした不良息子は、神の教えからさまよい離れた罪びとたちを指します。
1)と2)は趣旨が殆ど同じです。
もしも罪びとが罪を犯し続け、神の教えから遠くに離れ続けて行くならば、イエスキリストは罪びとたちを捜しにゆく。もしもそこで罪びとたちが神の教えを受け入れるならば、神や天使たちも歓喜するであろう。
3)はルカの福音書の中でも、もっとも感動的なたとえ話で、レンブラントも画題にしています。問題児を持つ親御さんなら、このお父さんの気持ちはよく判るでしょう。
しかし、ここで1)2)のたとえ話と大きく違うのは、不良息子の品行方正な兄である、孝行息子が出てくることです。この息子は、”僕はずっといい子にしていたのに、ご褒美なんてもらったこともない”とぐずります。兄弟としては普通の反応ですが、自分本位で、お父さんの喜びを自分の喜びにはできない未熟者の証明です。
”この兄の態度ははあんた達と同じだよ”
たとえ話を聞いている、尊敬すべきパリサイ人や律法の教師の、イエスに対する苦情、(罪びとと食事をするなんて。。。。)は、品行方正な兄のわがままと全く同じことなんだ、とイエスは痛烈な批判を浴びせました。
いつも思うことですが、聖書の文言を細切れにして、いいように解釈すると、大意を見失ってしまうでしょう。詞書や、この15章が福音書のどの位置におかれているかも加味して、理解することが大切だと思います。
”もしひとつだけ福音書を読むとしたらどれを選ぶべきか”の問いに、ルカ書を挙げるのが常識とされています。
この福音書に登場するイエスは倫理的なモデル、良き師のイメージが強い。
彼は、弱者や貧者、そして罪びとたちに、神の救済をもたらすためにやってきたと説きます。このthe Prodigal Sonのたとえ話は、ルカ福音書のイエスの教えの中核をなすもののひとつでしょう。
以上でした。
No.4
- 回答日時:
結論から申し上げますと、いずれのたとえ話も悔い改めてキリストの下に来た人々を喜んで迎えるべきことを教示したものです(ルカ15:7,15:10、15:32を参照)。
15:1,2で、パリサイ人たち(ユダヤ教の指導者たち)は、イエスが収税人や罪人と食事をして彼らを迎えたことを非難しました。パリサイ人にとって、自分たちの基準で律法を守っていない人たちは罪人だったのです。パリサイ人と書士たちは、一般の人々を足で踏みつける泥のようにみなしていました。実際、彼らは、「地[土]の民」を意味するヘブライ語のアム・ハーアーレツという表現を使って、そのような人々を軽蔑していることを示していました。イエスはこうした彼らの主張に反論するために一連の分かりやすいたとえ話を述べられました。いずれの趣旨も悔い改めた人を受け入れるべきであるということですが、それぞれのたとえ話からさらに詳細な情報を得ることができます。
一番目の例え話は、自分たちは義にかなっており、神の囲いの中にいて安全だが、卑しいアム・ハーアーレツは迷い出て失われた状態にある、と考えていたパリサイ人の観点に立ってイエスは話されました。
二番目の例え話も一番目のたとえ話の精神をさらに強調するために追加的に話されたものです。
三番目のたとえ話に登場する、悔い改めた弟を歓迎しないどころか、弟を迎えた父親を憤って非難した兄はパリサイ人を指していました。
なお、先の方でマタイ10:37を挙げられた方がおられましたが、文脈を見るとその趣旨が理解できます。10:16以降でイエスの弟子になる人は迫害を受ける可能性があることについてイエスは言及しています。そうした文脈の中で、10:34-36で、家族から迫害を受けることも覚悟するように述べておられるにすぎないのです(この聖句を文字通りに解してキリスト教を過激な宗教であると批判する文献を見かけますが、文脈をきちんと見ていないことに起因するもので、論外です)。そして、10:37でたとえ家族から迫害を受けてもキリストの道に従うように述べているにすぎないのです。
他の聖書の多くの言葉は、家族を愛するように明確に勧めています(エフェソス5:21~33など多数あり)。
No.3
- 回答日時:
このたとえ話を通して、イエスが告げようとしていることは何ですか?
○ 主に2つありますね。
一つ目はイエスの愛には濃淡や上下が無いということですね。透明な風のような愛だという意味ですね。
二つ目はちょっと難しいかもしれませんね。
理解できるように例えが良いですかね。
いろいろな鉱物や金属の塊が床に一杯転がっています。その中には金や銀やダイヤモンドや色とりどりのものがあります。あなたに1個あげようといえば、普通は誰しも一番大きいダイヤモンドを取るでしょう。大きなダイヤモンドを手に取れば後はいらないですよね。
イエスの例えはね。ダイヤモンドを手にするものとそうでないものの違いをいっているのですね。
ここに皆が受け取れる大きなダイヤモンドがある、みんなにそれをあげたいと思う者がいる。何故それを拒絶して金や銀や他の鉱物、玉で良いというのか。逆にダイヤモンドしか欲しくない者意外はもらえないということですね。
さて、ダイヤモンドがイエスそのものであり、金や銀やその他の鉱物が家族や職業や地位や名誉やお金などと言い換えればこれが例えではなくなるのですね。
救世主の弟子になるということは、ダイヤを愛する者にしかなれないということですね。
一方、救世主は一人残らずダイヤモンドをあげたい、特にゴミや石を持つ者ほどそうしてあげたいとおもうのですね。でもね。ダイヤをもてる者はより富、石やゴミを持つ者がより貧しくなるのが世の連れですね。いつの時代でもダイヤモンドはころがっているのですがね。
No.2
- 回答日時:
<シオニズム>とか<帰還>のことだと思います。
ヘブライ人は昔からいろんなところに住んでいたんですね。
イスラエル王国というのができたのですが、やがて宗教的な考え方の違いから北と南に分裂し、それぞれ別々に暮らすようになった。
北イスラエルはアッシリアによって統合され、南の権力者3000人ほどはバビロンの繁栄のためバビロンにつれていかれ、バビロンの繁栄に尽力を尽くしたわけですが、やがてほかの国からの干渉でユダヤ人はユダヤに戻ることになった。
この頃創世記に部分は作られたのだと思います。(バビロニアの神話と同じですから)
しかしアイデンティティーというものがあり、バビロンから多大なる知識をもらっいつつ、それに独自性をつけたのがユダヤ教だと思えます。
この頃はまだユダヤ教が完成してはいなかった。
ともかく各地に散ったユダヤ人に対し帰還を呼びかけたわけです。
例えばギリシャ方面だけでもユダヤにいるユダヤ人の8倍ものユダヤ人が住んでいた。
その人たちは、日本人がアメリカに渡り2世3世となり、その人たちはアメリカ流の考え方をするように、外国で生まれ育ってヘブライ語も話せないわけですから、ディアスポラしたユダヤ人のためにその人たちが話す言語で説教しなければならないわけです。
20世紀に出てきた死海文書がいくつもの言語で書かれているのは、各地に離散しヘブライ語がわからないユダヤ人の聖職者のためだと思えます。
帰還運動が巻き起こり、生まれ育った場所にある宗教や文化を身につけた人が、ユダヤの神に帰還することを望んだんだと思います。
ヘブル人とかユダヤ人とかイスラエル人とか呼び名がありますが、聖職者系列の人に言わせると、それぞれ定義が違うそうです。
ヘブル人はノアの5代目の子孫のエベルの子孫を指し、ユダヤ人とは南北に分裂した後の南の王国にいた人たち。
そして新約聖書には何度も「イスラエル」という言葉が出てきますが、イスラエル人とはヤコブの子孫のこと。
ご存知だと思いますが、ヤコブは改名しイスラエルとなっています。
つまり12+1支族のことを指す。
ちなみにヘロデ王の祖先はヤコブのお兄さん。
ヤコブがお兄さんのエサウを出し抜き長子権を奪って父親から「お前の子孫を繁栄させることを約束する」と祝福を受けたので、ヤコブの子孫であるイスラエル人が繁栄するのが正当となったわけです。
出し抜かれなかったらエサウの家系が王位を得ていたと考えられ、それでヘロデ大王はローマから王位をもらい、「やっと取り戻した」と思ったんじゃないかと。
聖書にイエスがエリコの住民を一人残らず虐殺したと聖書に書かれていますよね。
そしてヤコブの子供あるいは親類が族長になり13支族ができあがり、12支族に奪った土地を分配したと書いてある。
13支族はイスラエル王国という国を建国したのですが、その後一派はイスラエル王国から分離し、新たな国を作った。
便宜上ユダヤ王国としましょう。この南にユダヤ王国に住んでいた人の子孫がユダヤ人なわけです。
ユダヤ人はイスラエル人でもある。
サマリア人もイスラエル人でもある。
したがって新約聖書で異邦人にユダヤ教を布教しているかのように見えるかもしれないが、異邦人とはエルサレムに住んでいないイスラエル人のこと。
日本人とか中国人のことじゃなく、ヤコブの子孫で、イスラエルに住んでイスラエルの神に信心になっていないそれ以外のイスラエル人のこと。
その異邦人となったイスラエル人にイスラエルの神に帰還せよ というのが新約聖書の大まかな内容です。
異教の神や律法を守っていない放蕩息子たちである異邦人のイスラエルに「改心して戻ってくれば神が喜ばないはずないであHないか」という内容が質問に書いてあるものですね。
あなたがイスラエル人なら異邦人となっているので、帰還したほうがいいか考えてもいいかも。
何人かの日本人はイスラエルの子孫ということで、イスラエルに移住したらしいですよ。
No.1
- 回答日時:
こんにちは。
miyu06ykさんはクリスチャンでいらっしゃいますか?
一度回答を書いてみたのですが、該当のたとえ話と何ら変わらない内容(私はこの箇所を例えそのままだと思っています)になってしまいましたので、質問→回答という手順ではなく、質問に対する質問などという手順によってお互いにこの箇所への理解が進むようチャレンジしてみます。
どなたか画期的な回答が出るのも並行してお待ちしつつ。
この箇所は、真理をどの位求めているのか、重要視しているのか、基づいているのか、渇いているのかが鍵のように思います。
マタイによる福音書10章37節にこうあります。
「 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」
これについてはどう理解されていますでしょうか?
面倒でしたら返答不要です。
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