アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

聖書の「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」
(マタイ福音書5:28)というイエスの言葉。

質問です。
この言葉が本来意味しているのは、自慰も厳しく罰すべきだというのではなく、情欲を抱かない人などいないのだから、神の前では罪人という点では同じであり、悔い改めて神を求めよ、ということですか?

A 回答 (4件)

違うでしょう。




情欲を抱くな、といっても
無理だが、
罪悪感は感じて欲しい。

罪悪感を抱くことにより、
道徳が保たれるのだ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2023/06/30 07:33

普通に内心に於いても清浄であるべきという意味

    • good
    • 1

多分違うでしょう。



「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、」
  ↑
この意味は、「情欲をいだいて女を見る者は、」、「誰でも」、
と読むべきであり、このことは、

「情欲を抱かずに、女を見る者」が「存在する」と
言っているに等しい。

そうしないと、「神の道を説く、己」も「欲情」に
溺れていることを、認めることになる。

そんな奴が、「神の道を説く」資格はないだろう。

イエスも、「欲情のとりこ」になっていたことになる。
    • good
    • 0

そもそもこの言葉でなんで「自慰を罰する」ってなるんですか?

    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!