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1. イエスは ナザレの人たるヨセフとマリアとのコイトスによって
生まれた子であり 《ふつうの人間であると同時に 神の子でありみづ
からも神である》。

2. 言いかえると マリアは 許婚のヨセフとの性交によってイエス
を身ごもり生んだと同時に 神なる聖霊によっても身ごもったと言われ
る。

2-1. ひとがこの世に生まれてくるのは 感性(身)と知性(心)
とから成る自然本性をとおしての誕生のほかに 霊性(霊我アートマン
ないし仏性ブッダター)における超自然本性としての誕生がある。



3. イエスは 神の子でありみづからも神であるゆえに イエス・キ
リストと呼ばれるわけであるが その《人間であるイエスが キリスト
なる神である》というのは 大嘘でありひとつの物語である。

3-1. 前項[2-1]は 証明し得ざる命題であるゆえ そう言わざ
るを得ない。。




4. ただし この虚構によって 神は――世界のどんな名の神も 神
という神は  《無い神》をもふくめて―― すでに要らないと見なさ
れるかたちで 揚棄された。

4-1. 普遍神へと揚げて それらいろんな民族のまたいろんな集団
のそれぞれの神とその名は 実質的に棄てられた。

4-2. 引き続き使用されても――信教・良心の自由および自己表現
の自由にもとづき―― まったく自由である。削除するためにアウフヘ
ーベンされたわけではない。




5. だから もう神を知れ・うやまえとか神を信じなさいとか神など
はいないんぢゃあーとか いや いるに決まってるぢゃないかとか い
ちいちあらそうこともなくなった。理論上 そうである。

5-1. これが 神についての哲学としての理論である。理性的なも
のは 現実的である。

5-2. 強いて言えば 去って行ったキリスト・イエスがこのことを
指し示したのだと わたしには思われる。




〔6. なお 神論については 解釈――想定じょうの仮説・理論――が
多様でありうる。

6-1. という前提で ここでは特に表現じょうの冒険をおかしてい
る。

6-2. 同じわたしが 別の表現のかたちを採ることがある。〕


 
☆ どうでしょう?

A 回答 (19件中1~10件)

”信仰の自由”” ってか ”嘘つきはドロボウの始まり” ってか コレを言ったモン勝ち これで”金無垢の偶像”確保” 終生安泰  天

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~
5. だから もう神を知れ・うやまえとか神を信じなさいとか神など
はいないんぢゃあーとか いや いるに決まってるぢゃないかとか い
ちいちあらそうこともなくなった。理論上 そうである。
~~~
☆ このように言っております。

お礼日時:2020/03/29 19:02

イエス・キリストを殺したのは、父親とイエス・キリストにジェラシーを感じていた連中、最後の晩餐にナイフを散らかせる奴が居ましたね。

しかし、あらゆる宗教の始まりは、日本の神道からと言われてます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ イエス・キリストを殺したのは、父親とイエス・キリストにジェラシー
を感じていた連中、最後の晩餐にナイフを散らかせる奴が居ましたね。
☆ そんなことを言うのなら 十字架にはりつけにした兵士か誰かかもしれ
ません。


★ しかし、あらゆる宗教の始まりは、日本の神道からと言われてます。
☆ 内容に類似性あるいは共通の内容がある かもしれません。ね。

お礼日時:2020/03/28 19:07

ヨセフとマリアという生物を使って、神がイエスを設計、工程、ロードマップを作成し、生物学的に生ませている、という発想を「神のデザイン説」と言ってますね。

西欧人がそう「人の誕生」を考えていたですよね。さもありなむ、と思ってしまいますね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 西欧人がそう「人の誕生」を考えていたですよね。
☆ その地のキリスト教という神学としては その流れがありましょうね。

わたしの批判点は ささやかに次です。

★ ヨセフとマリアという生物を使って、神がイエスを設計
☆ ィエホシュア(つまり イエスまたはヨシュア)という名の人間はほ
かの人間とまったく同じ設計(そう言うのならば)です。

そして 聖霊によって身籠りこれを生んだという側面では――つまり キ
リストであるという存在については―― キリストじしんが設計したので
すよ。神の子でありみづからも神であるのですから。(ヨハネ福音の冒頭)。





いわゆる三位一体なる神という説は 証明しがたい神観であり――つまり
は 特殊絶対性であり―― ドグマです。

(DNAにかんしても セントラル・ドグマとよぶかたちになっているんで
すね)。


或る主観の紡いだ神観は 宗教のオシヘになり得ますが 思想として扱い
得る要素もあります。

特殊絶対性が 或る程度――扱い方によっては―― 一般性のある特殊性
であり得るようです。

それは 三位一体なる神を 光のタトへによって捉え これを 人文科学
あるいは社会科学に応用することができる・・・かも知れない。可能性が
あると思われます。


ですから 神のデザインは 特殊絶対性である神観(神学)を超えて経験
科学として人間の実存思想へと編んでゆくことができればと思います。

お礼日時:2020/03/25 11:31

また 崇神イリヒコは 神武イハレヒコとは別に《はつくに知らししす


めらみこと》だとも書いてある。

読みが同じだけ。意味と漢字は全く異なる。だから同一視するのは全くの誤解。
神武は大和朝廷創立者。橿原に都を作り、治政始める。始馭天下之天皇
崇神は弭・手末調を決め、四道平定して御肇国天皇

間の天皇に大した事績ないことで欠史時代とされる。
これは前660という古き時代に無理やり時代を遡らせた嘘がばれぬようにするために
秘密にした事項が多すぎたのであえてぼかして書いたためにあらぬ疑惑を招いたため。
現実は神武~崇神まですべて実在。架空人物一人もおらず。

まあ、話がずれたが、崇神の時代とイエスの時代を一緒にするのは大いなる誤りといえる。

キリストは神の御子では決してない。正真正銘人間の子。
処女懐胎は作り話。

キリストはマリアと正体不明男の実子でヨセフの養子。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ また 崇神イリヒコは 神武イハレヒコとは別に《はつくに知らししす
めらみこと》だとも書いてある。

★ 読みが同じだけ。意味と漢字は全く異なる。だから同一視するのは全くの
誤解。
☆ 同一視などしていません。神武イハレヒコは けっきょくカフチ(河内)
のワケ(また タラシ)政権の初代を表わしており その年代は勝手に日本の
(列島の)大昔のどこかにすべり込ませただけでしょう。

崇神イリヒコのミワ(三輪)政権が 歴史知性としての市民社会として誕生し
たあと いま言ったワケ政権の系譜が 応神ホムダワケ(400年ごろ)およ
び雄略オホハツセワカタケル(500年の前)のときに・そして実際には継体
ヲホド(500年を過ぎたころ)によって ミワ市政は 乗っ取られたという
経緯です。仮説です。



★ 神武は大和朝廷創立者。橿原に都を作り、治政始める。始馭天下之天皇
崇神は弭・手末調を決め、四道平定して御肇国天皇
☆ そういう編集が成されているという読みです。

★ 間の天皇に大した事績ないことで欠史時代とされる。
☆ 歴史編集の結果です。


★ 現実は神武~崇神まですべて実在。架空人物一人もおらず。
☆ おもしろいですけれどね。


★ まあ、話がずれたが、崇神の時代とイエスの時代を一緒にするのは大い
なる誤りといえる。
☆ そんなことは 言っていない。よく読んでね。



★ キリストは神の御子では決してない。正真正銘人間の子。
処女懐胎は作り話。
☆ 《人間の子》だという部分は ここでも言っています。

★ キリストはマリアと正体不明男の実子でヨセフの養子。
☆ おもしろいですね。

お礼日時:2020/03/19 17:40

鬼は「カミ」と読む。


鬼道は実は神道の書き換え、
日本では神道ですが、中国では鬼道に見えるもです。
卑弥呼は巫女です。
男の場合はカンナギ・シャーマン。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 鬼は「カミ」と読む。
鬼道は実は神道の書き換え、
☆ 諸説あります。

当時の日本との交流のなかで 魏志倭人伝にも情報が載ったのでしょう
から 日本の説明を聞いて 中国の人たちが解釈してそれを《鬼道》と
表現したのでしょう。

問題は たとえば卑弥呼を《共立》しているとあります。

崇神ミマキイリヒコの場合はすでに 神武カムヤマトイハレヒコからの
継承として伝えられています。

それが どれだけ史実に合っているか分からないのですが 卑弥呼の共
立とは異なる情況にあると見られます。

また 崇神イリヒコは 神武イハレヒコとは別に《はつくに知らししす
めらみこと》だとも書いてある。

そういう事情は 卑弥呼とは 明らかに異なる。と見るのがふつうでし
ょう。

お礼日時:2020/03/19 14:14

卑弥呼は 三世紀半ば。

崇神ミマキイリヒコは 300年ごろでしょう。

あなたは古事記を読んでいるのでしょう。なら、こんな説は捨てたほうがいいですよ。
古事記には崇神帝の崩年干支があるでしょう。あれで258年崩御と出る。
300年に当てる説は無理があります。不採用にしておきます。
卑弥呼と崇神帝は姉弟の関係。これでいいのです。

なお、活玉依姫とマリアを一緒にするのも解明の足りない人のやる説。
捨てたほうがいいですね。活玉依姫にはきちんと旦那さんがいたでしょうね。
大物主神というのも所詮は三輪氏で大国主系。生きた人間。

処女懐胎などありません。マリアだろうが、活玉依姫だろうが、きちんと男と女の性交で子供をなしたのです。

質問者さんはクリスチャンですか。
でも新約聖書は所詮信仰の教典。

弟子が宣教用に作り変えた謀略の書でしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます

☆☆ 卑弥呼は 三世紀半ば。崇神ミマキイリヒコは 300年ごろでしょう。

★ 古事記には崇神帝の崩年干支があるでしょう。あれで258年崩御と出る。
☆ ヰキぺでは こうあります。:
▲ 3世紀後半ごろに実在した大王と推定されるが、定かではない。

★ 卑弥呼と崇神帝は姉弟の関係。これでいいのです。
☆ めちゃくちゃだ。そもそも 卑弥呼は 中国の文献にしかない。それと
《鬼道》のことを考えないといけません。


★ なお、活玉依姫とマリアを一緒にするのも解明の足りない人のやる説。
☆ 神の霊によって身籠ったと採れば 類似性がある。というのみ。

★ 処女懐胎などありません。マリアだろうが、活玉依姫だろうが、きちん
と男と女の性交で子供をなしたのです。
☆ 両方の側面があるのだと言ってるぢゃないですか。

人間性と霊性と。霊性の側面で 処女懐胎と言ってみるのです。




★ 質問者さんはクリスチャンですか。
☆ だから 神という神は 普遍神へと揚げて棄てられたと言ってるぢゃな
いですか。

お礼日時:2020/03/18 23:22

経験とか経験不可能という意味は「抽象」にありません。

あくまで「共通項」「共通性」のことです。
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この回答へのお礼

そうですけれど 問題は 《超自然ないし超経験》です。


《ひとには 神の霊がやどる》というとき 神の霊は あたかもすべて
の人(具象)に共通の抽象物として・かつ超自然なるものを指し示すシ
ルシとしてあります。

ですが この場合 霊は 超自然です。ひとは 自然かつ経験です。

ですから その命題は 想定としてあります。



《ひとには 精神がある》というとき 精神は すべての人(具象)に
共通の抽象物です。

そして 精神も 自然かつ経験ですから 特別に何かのシルシであると
言う必要はありません。具象と結びついています。

世界および人間の認識として・経験科学の知見として得られたものです。


そういう違いを言いたかったのですが。・・・



ご回答をありがとうございます

お礼日時:2020/03/18 21:25

共通性は言葉においてのみ、受け取れます。

博くん、太郎くん、明くんの「共通するもの」は、男という項目です。
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この回答へのお礼

そうですよ。

わたしが言いたかったのは:

具象(博くん、太郎くん、明くん)も抽象(男)も まおまだ経験事象
だということです。

抽象(命のみなもと)が 神であるのではない。

抽象も――何かを指し示す仮りのシルシとして―― 経験事物です。

《命のみなもと》は ひとつの解釈例ですね。

だと思うんですが。



ご回答をありがとうございます。


ただし 《いのち・生命》を すでに超自然・超経験だと定義している
のだとすれば それは すでに神のことです。


▲ わたしは 真理であり 道であり いのちである。
☆ イエスの言葉です。出典は・・・。

お礼日時:2020/03/18 20:47

abstract 抽象は「共通するもの」のことです。

concreteness 個別、具体、特殊、個物、「このもの」のことです。
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この回答へのお礼

ということは 抽象は 観念(≒ことば)となっているのでしょうが あく
まで経験的な事物でありつづけていると思われます。

と思うんですが。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2020/03/18 20:31

確かに、言葉で物語るとき、全地球人の命の源である神は、全人類の共通なものとして「抽象」ですが、イエスは個人特殊存在であるために、具象な存在、ひとつの命ゆえ、物語上、言葉上、彼を神というのは嘘、になりますね。

けれど、全人類の心に、そのイエスなる特殊具体なものが、共通共有して刻まれ、心の拠り所、魂の源泉になったとき、人々の心の神として抽象となるので、神と同じ位置に立ちますね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 確かに、言葉で物語るとき、全地球人の命の源である神は、全人類の
共通なものとして「抽象」ですが、
☆ げんみつに表現しようとしますと:

《いのち・生命》の定義が まづ必要ですね。

ふつうに経験的な存在について言うのであれば その《みなもと》という
のは これまた あいまいです。そういうひとつの見方が成り立ちましょ
うが あくまでひとつの見解としてです。

いえ 《いのちのみなもと》はよいとしても それは 《抽象》ではない
のです。かたち(象)からおもな要素を抽き出すというのは 経験事象に
ついてのみ言うことばです。

神は 絶対性として 具象および抽象を超えた場ないしチカラであるはず
です。




★ イエスは個人特殊存在であるために、具象な存在、ひとつの命ゆえ、
物語上、言葉上、彼を神というのは嘘、になりますね。
☆ そのとおりです。経験的で有限で相対的な存在ですから。


★ けれど、全人類の心に、そのイエスなる特殊具体なものが、共通共有
して刻まれ、心の拠り所、魂の源泉になったとき、人々の心の神として抽
象となるので、神と同じ位置に立ちますね。
☆ それは 物語としての存在です。

▲ (ヨハネ福音 1:1 ) 初めに ことばがあった。ことばは 神であっ
た。
☆ んです。

イエスが キリストとして 神の子でありみづからも神であるという命題
は 強引な想定(仮説:アブダクション)なんです。

《人間イエスである と同時に 神キリストである》という想定を どこ
かから《拉致》してきたのです。


・・・

お礼日時:2020/03/18 20:20

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