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原罪はイエスの贖罪でなくなりましたか?
原罪がないのに人が死ぬのはなぜですか?
原罪がないのに最後の審判があるのはなぜですか?

A 回答 (11件中1~10件)

罪が少しも無い完璧な人は誰でも神様の息子です「ピリポ書2:14、ローマ書8:14、1ヨハネ3:1~2」。

                                                                                 最初の人であるアダムも神様を模って作られたので神様の息子でした「ルカ福音3:38」。                                                                 しかし、悪魔の囁きに騙され神様の御言葉を削除、変改、付け加えた結果、死ぬようになりました。                                                                                善悪果を食べたのは神様の御言葉を削除、変改、付け加えた結果に過ぎません。                                                                                       善悪果を食べると「必ず死ぬ」と神様は言われましたが、アダムは愛深い神様がそうなさるはずが無い、「もしかすると死ぬかも知れない」との意味だろうと変改した結果、食べたのです。                                                                                        その結果、アダムは神様の似姿を失いました。                                                                         私達はこのようなアダムに模られて生まれたのです「創世記5:3」。                                                                 即ち、アダムは神様の似姿を失い、悪魔の支配下に置かれていたのであり、私達も悪魔の支配下にいるのです。                                                                     だから、イエスキリストがこの世に来られた時、悪魔が自分に拝むなら世の全てのものをイエスキリストに譲ると言ったのです「マタイ福音4:8~9」。                                                                                                    このように哀れな私たちのために神様は、女の種から生まれた人が、悪魔の権勢を無くす「頭を踏み砕く」と約束されたのです「創世記3:15」。                                                            これを証明するのがルカ福音3:23~38まで書かれてあるイエスキリストの血筋です。                                                             ただ、女は種が無いので花婿の名前を借りて女の血筋を書いているのです。                                                                    旧約時代は罪を犯すと、子羊を犯した罪の身代わりとして捧げて、罪を赦して貰いました。                                                                               旧約時代に捧げられた子羊は、体に傷があるかないかを詳しく調べた後、傷が無いのだけが身代わりの祭物として捧げられました「レビ記」。                                                                      子羊はイエスキリストの模型だったのです。                                                                   即ち、罪「傷」が一つも無い物では無いと祭物としての効果がないと言うことです。                                                                     だから、イエスキリストは聖霊によって宿られたのです。                                                                   もし、イエスキリストが人間であるヨセプによって宿られたならば、聖書の全ては嘘になります。                                                                             先も述べたように、全ての人は悪魔の悪霊「傷だらけ罪だらけ」に導かれている、からです。                                                                       イエスキリストは、傷一つない聖霊によって宿られたから我々の罪の身代わりになって、完璧な祭物として捧げられる事が出来たのです。                                                                  だから、浸礼者ヨハネはイエスキリストを見て、「世の罪を取り除く神様の子羊だ」と明かしたのです「ヨハネ福音1:29」。                                                                     そして、子羊になるイエスキリストは私達の罪の身代わりとして捧げられたのです。                                                                       これによって、アダムから長い間、悪魔の悪霊に捕りつかれていた私達は罪から逃れて全ての罪が無くなったのです。                                                                       イエスキリストが私達の全ての罪の身代わりになられ、私達を罪一つ無い完璧な状態に取り戻したからです。                                                                       即ち、創世記3:15の予言が成し遂げられたのです。                                                                        だから、イエスキリストは十字架で「全てを成し遂げた」と宣言されたのです「ヨハネ福音19:30」。                                                               {1}私達の全ての罪は無くなりました。                                                                  {2}イエスキリストが私達の全ての罪をなくしてくれたのを信じる人は罪が無いけれども、信じない人は相変わらず罪があるのです。                                                                          また、信じない人の霊は死んでいるのです。                                                                             霊が死んでいる人は真理の御言葉を分からず、悪魔によって地獄まで導かれます。                                                                                   聖書で死んだという意味は、主に霊が死んでいる人を指します。                                                                                     霊が死んでいるから聖霊の字である聖書の意味をわからないのです。                                                                               そして、聖霊の導きを受けられず、自分勝手な解釈をするだけです。アダムのように。。                                                                             {3}最後の審判の時に裁かれるのはこのような事実を信じなかった人々のみです。                                                                     これを信じる人は死にません。                                                                                  また、彼らの霊は蘇られ御言葉を分かるようになります。                                                                               肉体が亡くなっても復活されます。                                                                         だから、信じる人が亡くなっても死んだと言いません。                                                                          寝ていると言います「1テサロニケ4:14」。                                                                        代わりに、信じない人はいつも死んだ人だと言われます。                                                                            真理の御言葉を分かることが出来ないからです。                                                                     最後の審判の時、裁かれる人はみな死んだ人のみです「ヨハネ啓示録20:11~15」。                                                                       {後記}ここに書かれた内容は聖書の基本の基本です。                                                                       日本には救われた人が書いた書物は無いけれども、外国には多くあります「Dr.Peter S.Ruckmanサマ,M.R.De Haanサマなど」                                                                                    しかし、ここに書かれた内容は当然わかっているという前提で書かれています。                                                                       ここに書かれた内容を信じる人を救われた人、或いは生まれ変わった人だと言われます「ヨハネ福音3章」。                                                                               今年、聖書についての回答の中で救われた人は一りもいませんでした。                                                                     救われてない人は救われてない人の字を読むと「なるほど」となります。                                                                        彼らの父は同じだからです。                                                                         救われた人は救われた人をすぐ分かります。                                                                          彼らの御父も同じだからです「ヨハネ福音3:8」。
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もし、「汝の敵を愛せよ」「汝を苛むもののために祈れ」が簡単に実行できるなら原罪は消えているし、実行が非常に困難だったり不可能だったならば原罪は消えていないと思います。

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原罪とは人間の心の分裂の事です。

すなわち自我意識ともう一つの意識が別れてしまって、自我意識が、別れた心に圧迫を受けている事です。漠然とした不安、或いは罪悪感の事です。

原罪が有ろうが、無かろうが人間も、生き物として、何時かは死にます。

原罪がないのに最後の審判があるのはなぜですか?
この事は、まったく分かりません。「明日の事を思い煩うな、明日は明日自身が決めてくれる」と言う事にしませんか?

人間は自分の髪の毛一本でさえ白くも黒くも出来ないですので。計らうのをやめて、自分の何も出来ない我を捨てて、全てを受け取って生きて行くしかありません。自分の中のもう一人は、目の前を全て肯定して見ています。このもう一人と和解する時に、心の分裂が解消します。

その時が「神の思し召しのままに」と言う肯定する心が芽生えます。苦しみからの解放です。心の分裂の解消です。二つの心が幼子のように一つになります。ここが天国となります。永遠の命と、天国の獲得と言う事になります。
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こんにちは、



聖書を前提にして単純に考えると、、、、

>原罪がないのに人が死ぬのはなぜですか?

命の木の実がないと、原罪が無くてもアダムもイヴの死んだと思いますよ。

命の木の実は、現在見つかっておらず、(ノアの洪水で枯れた?)したがって、死は避けられないものになりました。

>原罪がないのに最後の審判があるのはなぜですか?

原罪と、自分が犯す罪は違いますよね。これで、お分かりになりますか?
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#NO4の回答者です。



>人間は死んで罪を犯すとは言われてませんが
どういう意味ですか?

 キリスト教の聖書にある死後の世界観です。死後の世界でも、終末(キリストの再臨)を待つまで、眠りに就くとされています。具体的な聖書の箇所は、Iテサロニケ4:13~17と、マタイ25:31~33が分かり易いと思います。

 取り急ぎ、聖書箇所のみ。長いと読むのも大変なので。
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まず、原罪って誰が生み出したのだろう?って思いました。


この原罪と親って誰だろう?って。

原罪の父親はパウロで、母親はアウグスティヌスかな?
二人が手に手を取り作り上げたのが、原罪で、これによってキリスト教は自虐こそ美徳だってことになったんじゃないか と、

昔の映画を見ると、修道士がよく好んで自分を鞭でひっぱたいているシーンがある。
うわっ 痛そって思ったが、「中世って設定だから 今じゃこんなことしない」って思ったら、ダ・ビンチ・コードで修道士がやっていた。

自虐大好き人間が犯人だったわけで、神への愛を示すために、思いっきり自分の体を痛めつけ、痛めつけるほどに神へと近づいたと感じていた変態クン。

バチカンに優等生と選ばれたオプス・デイという修道集団が自虐をモットーとしているわけですが、一般信者はこんなことしないだろうと思っていたが、念のために確認したところ、カトリックの女性信者は家に鞭があり、時々使用していると言っていた。
罪を感じた時、使用するのだそうです。
その熱心な自称敬虔的なカトリック女性信者は、もう一方では夫との性交をとても楽しく感じておりカトリックでは禁止されている体位をいろいろやってセックスを楽しんでいると述べていた。
ということは、彼女じゃわざわざ鞭で体をひっぱたくために、そういうやってはならないという体位を好んでやっているってわけです。

イエスよ 彼女の歪んだ魂を、、無理ですね、なんのかんのいいながら、結局は快楽を希求する熱心な女性信者ですから。
自虐教の信者って言った方がいいかも。

ですが、子供にまで手を出しちゃダメですよね。


さて。イエス作家は原罪という概念を持っていたのか?
私が知る限り、そんな概念は持っていなかったと思う。
なんたってイエス作家はユダヤ教徒だったと思うので。

キリスト教が原罪という概念を作り出したが、ペラギウス主義の派閥には原罪なるものは無かったそうです。
ですが、自虐するのが大好きな人達が多かったようで、ペライウス主義派閥は異端と退けられ、原罪はあるとする自虐派閥がキリスト教ってなったらしいです。


それ以降は、理屈をつけては、自分に体罰を与えることが美徳だとされるようになったらしいです。
人間って、苦労すればするほど、その後の喜びが大きいに違いない と思いがち。
それで努力する人もいる。
成功した人は、振り返ってこれだけ努力をしたのだから、成功は当然の報いだと思うが、どんなに努力をしても成功しない人が圧倒的多数じゃないかと。
運が大きく成功を左右していると思う。


それでも、苦痛が大きいほど、その後の喜びは大きいに違いないと感じやすいのは古今東西変らず、古今東西の信者も、罪が重いほどに、救いも大きいに違いない という心理が働いたからじゃないかと。

さて、古代では聖王が女神によって選ばれ人々を統治するが、王の精力が尽きると、大地は枯れるので、精力が尽きた王は人々を救うために、十字架にかけられ、鞭打たれ殺されなければならない なんて変な風習があったらしい。

ユダヤ教には無い救済のやり方。
バビロニアとかそっち方面にあったんだったかな? この概念。
ってことは、キリスト教はバビロニアの宗教が復活したってことかな?

バビロニアはペルシャに吸収されたそうだが、ギリシャ方面に移り住んだ人もいたでしょう。
で、バビロニアの宗教概念がギリシャに伝わり、プラトンの義人の証明として、罪が無い人を罪人として鞭打ち、十字架にかけ槍で突く という発想ができて、それが何百年後かにイエス作家に影響を与え、人々を救済するため罪を犯していないイエスを罪人として鞭打ち十字架にかけて槍で突く って物語ができたんじゃないか と。

物語ってそっくりそのまま伝わらず、途中で変っていっちゃうんですね。
脳はそっくりそのまま記憶できないとう特徴があるので。


イエス作家はこんなことをイエスに言わせている。
「私が救いにきたとでも思っているのか? とんでもない お前らを罰しにきたのだ」みたいな。
地上に火を放ちにきた みたいなことを言わせている。
火で穢れを消すってことじゃないかと。
じゃあ 結局 穢れが炎で焼き尽くされるので、地上は清くなるじゃないか?
まあ 理屈ではそうですが、なりました?

野焼ってどうしてするか知ってます?
緑を復活させるためですよね。


原罪が無い人は死なないってどうして?
聖書に登場する人物 みな死んでますよ。
アダムとイヴ、モーセらあたりは1000歳近くまで生きたとされますが、それでも死んでますけど。

唯一死んで無い人としてエリアが挙げられ、「エリアをきたりませ」と到来を望まれていますが、実はエリアに関しては死亡年月がわかっていないってだけ。
死亡したことが確認されていないと死亡届出せないじゃないですか?
それじゃ 再婚できないってことで、最近法律が変りましたけどね 日本では。

というわけで、イエス物語を作った作家も人間ですから死んでますって。

人間は死んでもイエスが又来ると言った以上、最後の審判の時にイエスがやってきて、死人を生き返らせ、裁判をして天国行きと地獄行きを決定する?

いや 最後の審判ってのはまず第一にエジプトの宗教。
死んだら42の否定告白をする。(モーセの十戒律の元ネタ)
で、天秤の片方に心臓が置かれ、もう片方にマアトの羽が置かれ、天秤の均衡が取れたものは、オシリスが支配する死者の国に行き、均衡が保てなかったものは、心臓をワニに食われ永遠の復活できない と。

でも イエスはこの世の終わりと又来るって言ったじゃないか。
うーーん 解釈の違いかも。
この「時代」の終わりを、この「世」の終わりと<誤訳>したのが、この「原罪」じゃないかと。

弟子は「この時代に終わりに我々はどうしたらいいですか?」とイエスに聞いており、「新しい館に水瓶を持った男がいるからその家に入れ」みたいなことを答えとしていっている。

イエス作家が生きた時代は牡牛座から魚座の時代に変る頃だった。
一つの時代は約2000年(2150年)。
だからイエス作家が時代の移り変わりを感じて物語を書きたくなったように、今は魚座の時代からみずがめ座の時代というニューエイジに以降しているので、盛んに新興宗教が乱立しだしているわけです。

次は俺の宗教が新しい時代の象徴となってやると ワラワラと。
で、自分の前世は仏陀でありイエスであり、また生まれた とか。

おいおいおい、コロコロ変りません、一つの時代は2150年くらいですが、一周するのに2万5千8百年かかる。

従ってイエスが又来るって言うのなら、その言ったときから2万5千8百年後の話。
その頃 地球あるのか??????


さて、信者のみなさん 今から死んでもイエス様が来るのは2万年以上先の話です。
というか、イエス作家は死んだので、もう続編書けません。
次の続編は直接記憶できない特徴を持つ人間によって、さらにさらに改変された物語になるでしょ~。
っていうか 本当に地球はその頃あるのか?
いや 少なくともイエスを恋人として熱愛する宗教だが、その宗教の信者である男はこの世にはいないことになる。
このままのスピードなら次の魚座の時代の頃には、人間の男はとっくに滅んでいることになるから。
それ以前に、もう新しい時代になりかけているので、キリスト教は数十年以内には滅びますね。
次の王の到来によって倒される運命にあります。
今までそうだったように。
キリスト教がユダヤ教徒を迫害したように、キリスト教徒は新しい宗教によって大迫害を受けるでしょう。
自業自得だと人類は無関心なのか???
どうなんでしょうねぇ。
人間が試される時代 ああ めんどくさい。
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原罪というのは、エデンの園で神の子が、蛇に誘惑されて知恵の実を食べた事です。

それが原因で、神の子は、脳の自我と合体して人となり、天国から地上に落ちてきました。だから人が天国に帰るまで続きます。最後の審判とは、この世が終わり、人が皆、天国に帰る時です。2012年この世とあの世が無くなり、ここが神界になるそうです。
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 >原罪はイエスの贖罪でなくなりましたか?


無くなってません。

 >原罪がないのに人が死ぬのはなぜですか?
無くなってません。無くなったとすれば、死もなくなるのかも知れませんが・・・。キリストは、罪から救うために来た。それは信じて救われるため。しかし、それでも人間はキリストを忘れて、罪を犯す存在と言われる。故に罪を犯す。そこに原罪は残っている。

 >原罪がないのに最後の審判があるのはなぜですか?
上の解釈でも分るとおりです。人間は死んで罪を犯すとは言われてませんが、命のある間、罪を犯す性質を持っています。死んで罪がなくなる訳でもない。日本的な考えは、死んで生まれ変わる(その際に罪がなくなるような感覚です)が、キリスト教的な考え方では違う。カトリックでは煉獄(れんごく)と言われる審判を待つ世界があると言われます。ダンテの神曲など参考に。

 ですから、質問の前提が正しくないと思いますが?

この回答への補足

>人間は死んで罪を犯すとは言われてませんが
どういう意味ですか?

補足日時:2009/04/25 07:20
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 こんにちは。



 そもそも 信仰とは何ぞやから入らないと 原罪の扱いは 言葉だけ もしくは 論理だけになってしまいます。

 わが信仰を もし ひとに伝えるとなれば それは 比喩としてしか・あるいは広く物語としてしか できないはづです。もし仮りに 言葉どおりに簡単に伝わったとすれば それは 人間の気持ちであったり 理論であったりするものでしかありません。
 それ以上の何かが伝わったという感覚をも持つときがありますが その感覚の内容を では また 言葉でどのように伝えるかが 問題になります。

 こういうわけで すべては 表現の問題です。物語として伝えられて来ています。
 光は 曲がります。光も 曲がります。わが心も かなしいかな 曲がります。しかも じつは じつに わたしが曲げるのです。うそをつかなかった人間は いません。本心を曲げて いつわりの証言をしたりします。本心とは何かも 容易には 分かりませんが(説明できませんが) うそをつくときには やましさを感じるものです。気持ちよいものではありません。
 要するに このへそ曲がり 始原的にして普遍的なその曲げ これを 原罪と言ったのだと考えます。言いかえると へそを曲げる自由も 曲げない自由も どちらも備えた意志の自由を われわれ人間は 与えられていると捉えられました。

 へそを曲げるとき たしかに わたしたちは いわゆる良心の責めを感じます。ですが この世は 似たりよったりの人間が おもしろおかしく生きていくだけだ 寿命が尽きれば あの世行き という考えになる人びとも出て来ます。
 こうなるとまた 一生のうちの《へそ曲がり》の積み重ねについて 死ぬときには 清算して逝くのだというおとぎ話も紡がれます。良心は良心ですし 自由意志は自由意志として 大事なものです。そういう主張も 現われますし とうといものです。そうでないと 社会における人びとの振る舞いは 収拾がつかないことになります。
 交通整理は 必要です。最後の審判といった大いなる物語にまで 発展すると考えます。
 
 原罪をあがなったというイエスの物語は いくらか 毛色を異にしています。
 イエスというひとは ナザレ出身のふつうの人間でした。人間も――しかしながら―― 互いに 交通整理をする意志もあれば その能力もある。光は たとえ 曲がっても 光である。腐っても鯛と言ったかどうか知りませんが さらに 光を超えた光もあると――もともと いわゆる旧約聖書をつうじて 言われて来ましたし―― 明らかにする仕儀に かれは 到りました。
 へそ曲がりを 曲がったへそのまま 包み(あるいは 覆い) 心も体も 何ものかによって わたしたちは それぞれ 掬われると言いました。人をすなどるとも言いましたからね。たも(網)で掬うというわけです。
 原罪というとげが われわれの良心には刺さったままになっていたのを この棘は引き抜かれたと言い この言葉のままを 生きました。生き切りました。そのように伝えられました。
 棘の刺さっていた患部は まだ 残されているかも分かりません。すでに癒えていても あざや ほくろや 蒙古斑のごとく 残っているかも分かりません。原罪というのは つまり 原初のへそ曲がりというのは 現在 そういう状態にあると考えられます。

 ★ 原罪がないのに人が死ぬのはなぜですか?
 ☆ この肉(つまり いまの人間の精神=身体)から 何ものか分からない(それゆえ 霊と呼ぶ身体としての)かたちにおいて あらたに生を始めるという復活については 基本的には 将来すべきこととして臨むのが ただしいと言われます。
 突然変異があるのか あるいは もっと違ったかたちが現われるのか よく分かりませんが いま分かっていることは(憶測しうることは) たとえば百年の倍として 二百年 これくらいは ひとは 生きるようになるのではないでしょうか。二百年も生きれば だいたい 《永遠》ではないでしょうか。
 むろん 丸めこもうとするのではありませんから 将来すべきことのほうが――《新しい天と新しい地》の物語のほうが―― 正統だと思われます。
 あとは ken3333111 さん あなたが どう捉えるか これにかかっているのではありませんか。あるいは 人びとおのおのが それぞれに どう思うのか。つまり とりあえずは 自由意志の問題でしょうし その自由意志は へその曲がることからも自由な こころの問題なのでしょうね。
 それには 心が清められなければならなかったと言われます。清ければ かみを見るゆえ 分かるようになるでしょう。どうですか。
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原罪はイエスの贖罪でなくなりましたか?


答え:もう無いですよ。イエス様はもう2000年もそうおっしゃってますよ。

原罪がないのに人が死ぬのはなぜですか?
答え:誰しも生まれた者は年取って死ぬことになってるんです。

原罪がないのに最後の審判があるのはなぜですか?
答え:それぞれが生きた人生のへの評価ですね。不遇でも善人は天国へ。この世を謳歌しても悪人は地獄へというですね。人間が裁くのではなく神の裁きがあるということですね。この裁きは聖職者であろうが裁判官であろうが職業や地位に関係なくすべての者が平等に裁かれるのですね。自分は正しいと思っている聖職者ほど本当は怖い審判なのですね。
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