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仏教に毎日の礼拝はあるのでしょうか。
うちの家は元々母の家系が熱心な創価学会員でしたが、母の代で脱会し、今は真言宗に改宗しております。
子どもの時から神仏に興味があったのですが、母から改宗した話を聞き、本格的に仏教の勉強を始めました。
また仕事上外国人とかかわる職務についているため、宗教をより身近に感じることが多く、それもあって仏教についての勉強をしています。
そこで質問なのですが、キリスト教やイスラム教のように、仏教には毎日の礼拝は存在しますか?
それとも礼拝はなく、日々の修行をもって神に仕える、ということになるのでしょうか。
ご回答よろしくお願いいたします。

A 回答 (12件中1~10件)

在家で考えていくと



「礼拝」とか「神」と言う単語とは多少は意味合いが異なるが、
食事をする際に「いただきます」と言うのは仏法における礼拝であるし、毎日、仏壇へお供え(ごはん、水、お茶、線香 など)も礼拝である。
 https://hitsuji-syukatu.com/everyday-otsutome/
 また、食事の前に唱える経(偈)があります。
 [曹洞宗] https://www.soto-kinki.net/sp/okyo/list_gokannog …
 [日蓮宗] https://www.honkouji.com/glossary/show/129
  ★創価学会は「日蓮正宗」の門徒でした。
   「日蓮正宗」は「日蓮宗」を認めていない宗派です。
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仏教とは、仏教の教えを会得して人間らしい人生を送ることを目的とした宗教。



仏教の教えとは、欲を捨て、人を許し、俗物的なものからは距離を置き、良くない言葉や考えを持たぬよう戒めるもの。

悲しいかな、世界には宗教(仏教、キリスト教、イスラム教)を悪用する輩がいます。

仏教団体を自称しながら、俗物の代名詞である政治に熱心で、選挙の時期になると「公明党に入れてください」と投票依頼に駆け回る創価学会信者。

「悪を放置することは悪である」と煽り、「仏敵を滅ぼせ」と暴力や謀略を教唆する創価学会幹部。
悪のレッテルを張られた宗教団体や脱会者などは、焼き討ちにされ、集団リンチをされて殺されたことも。

1円でも多く寄付金を徴収しろ、と全国の地区長にハッパを掛ける幹部職員。

仏教的な要素がゼロです。

ユートピアの実現のためにサリンをまいて信者以外全員をポアする計画を立てていたオウム真理教。

霊感商法をしていた統一教会。

いずれもニセ宗教なのですが、こういうものにはまる弱い人は一定数おり、悪と知りつつも選挙利用するためにカルトと不健全な関係を構築する輩(自民党など)もいる。

近代の宗教、とくに新興宗教団体は、社会を惑わし、荒んだものにする邪悪な結社と化しているところが多いですね。


ちなみに宗教辞典では、創価学会は新興宗教団体という扱いになっています。

海外の図書では「新興勢力による政治運動体」と書かれています。宗教団体とみなされていません。

創価学会は仏教と無縁ですから、当然といえば当然なんですが。

既に仏教界から破門にされており、スキャンダルやトラブルが多く、国内外からカルトと批判されている団体を信仰しても功徳は得られないと思います。

天台宗、真言宗、臨済宗、浄土宗、日蓮宗など、怪しい新興宗教団体ではなく、何百年も続く由緒正しい仏教に入って学びなおしたほうがいいと思います。

創価学会は30年も前に、対象としていた日蓮宗の寺院から破門、除名にされています。

日蓮が公開している破門までの経緯と破門通告書
https://www.nichirenshoshu.or.jp/jpn/soka-j.html

この措置で、創価学会はお寺、本山、住職、仏法を教えてくれる指導者、ご本尊、すべてを失いました。

創価学会には、お寺もない、本山も無い、住職もいない、本山の本尊も拝めない、仏教団体の組合にも入っていない、それ以前に仏教団体の信徒資格すらない。
仏教たるものを教えてくれる師もいない。

さすがにこれでは組織として成り立ちませんから、
信仰の対象を、日蓮上人から創価学会名誉会長の池田大作教祖に変更し、
お寺から盗んだ本尊を複製して偽本尊をつくり、経典なども真似をして信者に配布し、日蓮風なニセ宗教団体として生きていく道を選んだのです。

仏教界から破門にされ、信仰の対象である日蓮寺院と無縁になっているのに、他の宗派(天台宗、真言宗、浄土宗)のお寺に入って仏法を学ぶ素振りすらも見せません。

創価学会は仏教と無縁の、仏法を学ぶ意思すらもない新興宗教団体ということになります。

創価学会仏やら、池田仏やらを作って、まがい物のインチキ宗教を運営する手段を選んだのでしょう。

https://ameblo.jp/cultsoudan/entry-12675356894.h …
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詳しくは、判りませんが毎朝仏壇と神棚に手を合わせます。

礼をして神棚は、柏手になります。
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一神教ほど厳格でないけど、たとえば読経供養というのがあるよ。


毎日必ずお経を読むこと。
でもやる人もいるしやらない人もいる。

どんなに年数をかけても、毎日必ずやるというのは面倒くさい。
疲れた日は休みたくなる。
旅行のときなどはそれを口実にさぼりたくなる。

その気持ちに負けるに続ける。
その取組で培われた克己心や辛抱、意志の強さが、人生の困難にも立ち向かえる心につながる。
それが「仏教の救い」となる。

以下長くなるが、背景要因として語る必要がある。

仏教に「神に仕える」という概念はない。
大乗仏教などの僧侶には「仏に仕える」という表現があるが、しかし仏とは「この世の真理」というものである。
人格神はいない。
ブッダが悟ったのは「縁起(縁りて起こる)」であり、宗派があまたあろうとこれが仏教の根本原理である。
そこから「諸行無常」「諸法無我」が展開しそれを悟った者が行き着く「涅槃寂静」を合わせて「三宝印」となる。
さらに涅槃寂静に至る道筋として「四諦」「六波羅蜜」「八正道」などとなってゆく。
少なくともブッダの時代、どこにも神は出てこない。
四苦八苦を乗り越えるための、論理的な修養法だった。

では、一神教における絶対神の役割を担うものは何か。
それは「法」と「自分自身」である。

ブッダの最後の説法とされる「自灯明法灯明」は「自分を拠り所にし法を拠り所にする」ということである。
自分はもちろん自分自身、法は「この世の真理」というくらいのものである。
つまり「自分はこう考えるがそれはこの世の真理に照らして合っているだろうか」という思考である。

法句経の中にこのような偈がある
「自分を拠り所とせよ
自分の他にいかなるものを拠り所にできようか
揺るぎない自分を確立できた時
人はこれ以上ない拠り所を得るのである」
これがまさに仏教における修業の目標である。

ある宗派では「禅」という。
論語にも同じ意味の言葉がある。
「自らの欲するところに従ってしかも法を超えず」

自分を拠り所にできるようにしたいなら、日々の修業も強制でなく自主的でないといけないということだろうね。
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仏教は毎日をまじめに生きる。


それが、仏陀が求めたものである。
仏教に礼拝は無い。仏教はまじめに生きる。それが仏教である。
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仏教と言う事なら 神は関係ありません



トイレットペーパーなら 関係あるかも知れないけどね・・
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朝の勤行てのがありますね


でも一般家庭では仏壇拝むぐらいでは?
水を変えて炊き立てのご飯は最初に仏さんへ
線香立ててチーン
でもこの場合の仏様は釈尊というより
ご先祖様や自分が知ってる祖父母とかかなぁとも

あと「日々の修行をもって神につかえる」って
仏教は神様に仕えるわけじゃないでしょう?
なんか色々混ざってません?

仏教によっても宗派や信者によっても
かなり行動はかわってきます
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仏教は基本的には「礼拝はない」でも宗派によっては「ある」特に日本の仏教は「あると言っていい」です。



仏教というのは、釈迦が開祖で「煩悩から解脱すること(解脱すると仏という煩悩から離れた存在になる」を目的とした主張や行動様式が最初です。
 これはあくまでも「自分が解脱すること」を目的としていますので、修行方法や訓練方法はあっても「誰かに祈る」というものではありませんでした。

しかし、このやり方だと訓練する時間を取れる裕福な人々しか解脱することができないわけで、実際、釈迦はインドの王子だったし、釈迦に弟子入りするのも裕福な人々ばかりだったのです。

でもそれだと農民や奴隷などの煩悩とか苦悩を抱えた人々を救うことができません。なので、仏教は次第に「誰でも祈りを唱えることで解脱出来る方法」を考えるようになります。

これが上座部仏教と呼ばれるインドやチベット・タイなどで行われている仏教の形式で、マニ車と呼ばれるお経を書いた車輪を回すことで「解脱に向けた修行をすることができる」と言う形に変わりました。
 なのでマニ車を回しお経を唱えることを「礼拝」とするなら、そういうものがあるともいえます。

仏教はこのように「人々を救う」と言う形に変化しながら中国を通り日本にやってきます。日本にやってくるさい、中国に沢山あった経典の中から日本の僧侶は日本の民衆を救えるお経だけ探して利用することを思いついた人達がいました。

これが空海や親鸞・日蓮などの民衆仏教の始まりで、この時ほとんどの僧侶が「ただ単にひたすら念仏を唱えれば極楽浄土に行ける」と民衆に説明したのです。

やり方としてはマニ車とそれほど変わらないのですが、日本人は文字が読めたため「経典をよみ念仏を唱えなさい」となったのだと思いますし、その経典の種類によって「ナミアムダブツ」「ナムホウレンゲキョウ」と念仏の書類や経典が異なるわけです。

経典が異なれば、細かい教義ももちろん変わってきます。
日本の場合「念仏を唱える」というのは、事実上「仏さまに向かって一生懸命唱えれば、仏様が救ってくださる」というやり方になっているので、この点において「礼拝」といえます。

創価学会は日蓮宗の一形態なので、法華経とその中に表される久遠の仏・釈迦の大慈悲によって救われるという方式を取ります。そのために釈迦に礼拝し念仏を唱えて慈悲をお願いするわけです。

真言宗は空海が開いたものですが、日蓮や親鸞のように「誰でも念仏を唱えれば救われる」という鎌倉仏教徒は違って、個人にある程度の修行や実践を重んじています。これを「自力本願」とよびます。

(鎌倉仏教は「他力本願」と呼び、仏の力で救ってもらえることを教義の主軸としています)

なので、真言宗の場合念仏を唱えるのは修行であって、礼拝ではありません。ただ高野山に座しておられる弘法大師への礼拝は行います。
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昭和の頃は、近所でも朝晩のお勤めと称して仏壇の前で手を合わせて読経をしていた声があちこちから聞こえました。

当然仏教でもあります。最近は聞く事もありませんが。私と家内の所も門徒ですので、毎日読経はしませんが、見送った2人の親3人の写真を前に朝晩手を合わせています。
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お坊さんとかは勤行と言われるモノをするんじゃないですかね。


礼拝とは言わないかもしれません。
熱心な信徒さんもするのかもしれませんが、現代日本では少なそうですね。
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