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三位一体を否定している人に伺いますが、なぜ三位一体は間違えているのでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

NO3です。



三位一体論は、西暦325年のニケア公会議で、ほとんど聖書を理解していなかった、当時のローマ皇帝コンスタンティヌス(当時はキリスト教徒ではなく、後に改宗したが、洗礼を受けることはなかった)が政治的目的を達成するために積極的に後押しすることによって基礎づけられたものでした。つまりこのような形で異教徒とキリスト教徒をうまく融合させ、人々を一致させることが支配層にとっては非常に都合がよかったわけです。彼は聖書の内容よりも自分の権力の確立に関心を抱いていたのです。

ブリタニカ百科事典(英語)は次のように述べています。ニケア公会議では,「コンスタンティヌスが自ら主宰者となり,討論を積極的に導くと共に……同公会議で発布される信経の中でキリストと神との関係を『父との同一実体』とする重要な定式を……じきじきに提案した。……同皇帝に威圧された司教たちは,わずか二人の例外を除き,多くは不本意ながらも,その信経に署名した」。
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父と子と聖霊は,ひとりの神の三つの位格です(父=子=聖霊)・・・というのが三位一体の定義ならば聖書の中でイエスがそうは言っておられない事は注目に値します。

一例、聖書、ヨハネ17:3

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。

彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています。

どの訳でも別存在として述べられています。
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「聖書は初めから終わりまでおとぎ話や夢の中の話のような物語であふれている。

」というのがいわゆるクリスチャンでない方々の聖書に関する印象ではないかと思います。私はプロテスタントのクリスチャンで聖書をそのまま神の言葉として読んでいます。おそらく多くの方は人間が書いたものを神様の言葉だと述べる根拠を示せと言いたくなるのではないでしょうか。

聖書の目的は、聖書の中に書いてありますが、ひとつだけです。この一つが理解できますと、おとぎ話や夢に出たような話の背後にある聖書の目的が「そうだったのか」と一人うなずくことができるようになります。ご質問者さまのご質問は「なぜ三位一体は間違えているのでしょうか」となっておりますが、この言葉さえも実は表面的な理解では納得できない言葉の一つです。つまり常識的なあるいは科学的で数学的な思考では理解ができないのが聖書といえます。

たとえばイエスが私の父はと述べたとき父とは神であることはわかりますが、常識的にはイエスは子供以外の何物でもないと判断せざるを得ません。しかし聖書はおとぎ話の一部やある文章だけを取り上げて議論すべき書物ではございません。聖書は読むかたに決断を要求しておりますので、何らかの傍観者的な態度でお読みいただいても得るものは極めて少ないと思います。おおむねインテリのつまみ食い程度の知識にしかなりえません。

イエスはあるとき姦淫の現場でとらえられた女に石を投げている群衆に対して、この中で自分に罪がないと思うものが先に石を投げよと言われました。聖書はご自分に罪があるのかないのか吟味せよと述べています。私は石に打たれるべきは自分であると思いました。聖書は神様の言葉を自分に向って語られていると思って読む必要があり、事実が語られているならばそれを認める必要があります。ここでも自分の罪を認めるという決断が求められています。そのような態度で聖書を読み進められましたら、必ず「三位一体....」という質問にご自身で回答を見出すことができると思います。くれぐれも言葉のお遊びに陥ることがないようにご注意ください。あなたの人生を遊びで終わらせないためにも重要なことと思います。
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誤謬1 神のこイエスについて



実質母子家庭に育って、ワガママ放題
自分は最高と思い上がっているオレオレ君が、

一人ぼっちであることは神に近いことであると信じ込み、一人ぼっちの自分は現代の「イエス」であると思い自分はキリスト者だと主張する。
いい年こいて他人から説教されてもその本意がわからないうぬぼれやが、三位一体の基礎を作ります。

狂った嫡男がキリスト教を信じることで家系・地域・国が滅びる。

だから三位一体は間違っている。

誤謬2 処女受胎と父の関係について

キモイおっさんに虐げられて、自分はわが子と共にあるということだけに執着。

心のつながりを一方的に斬り

理想だけを語り
まだ生まれてこない子どもに対しては、なんとか生まれてこないようにもみ消す。

生まれてきた子どもには、「父は不在であり、父親がいなくても自分たちは素晴らしい人生をおくれる」と話して聞かせ、だます。

猜疑心と後悔の渦の中で理想化されたわが子
自分の息子は最高だと信じて疑わないモンスターママ。自分が浮気したことを一生隠し続ける偽善が間違っています。

誤謬3 精霊と世界について

他人の扇動に惑わされ、3つのものが1つであるといううそを信じ、
1+1+1=1をみとめることで、全てのうそを認め
自分には夢があると錯覚する。

精神は素晴らしいといいながら、物と金・自分の株だけに興味がある醜い人。

サンタさん・ねてるくんをはじめとして
メディアで宣伝されていることが現実だと信じさせられている惨めな消費者。

主体性がなく 宣伝に負けて
すぐ壊れ古くなってしまう価値のないものを執拗に買占め、

いらないものがありすぎるので、その処理に困る物欲の塊。

なぜそういう人が自分には夢があると思えるのか不思議な現象であるともいえる。

自分が「奇跡」の買い物中毒者なのに、精神的には満ち足りているという思い違いが
まちがっています。

以上
偽善者の妄信が間違っています。
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 こんにちは。



 ★ なぜ三位一体は間違えているのでしょうか?
 ☆ 思うにですが ひとつは 人間の経験合理性によって論証しえないことだから分かりがたいでしょうし ひとつに キリスト・イエスという存在についてきちんとした理解が得られていないからでしょう。
 これは 訪問者やほかの回答者に向けて書きます。

 これは いわゆる非思考の場について 想定として捉えた物語に属します。ただ《絶対》を想定するだけではなく これを擬人化して《絶対者》と表現し さらにこれを存在するところの神と名づけています。そういう結構(構え)のもとに――その中では 論理的に――仮りに明らかにした内容となっています。

 その解釈例をかかげてみます。

 ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 ☆ この内容を図式において示すかたちです。

 ○ (ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~~~~~~~~~~~

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

 ☆ もう一つには イエス・キリストの存在について つぎの命題です。

 ○ イエスは ヨセフとマリアから生まれたひとりの普通の人間である。このイエスが 人間であると同時に キリストと呼ばれる神――神の子であり みづからも神――であった。

 ○ 言いかえると まづ三つの位格(ペルソナ)が一体であるという意味は 上に光のたとえで説明しましたが そのとき 一つひとつのペルソナは ほかのペルソナと等しい。ということが 大事です。
 子の父は 父の子および聖霊とそれぞれ等しく 父の子は 子の父および聖霊とそれぞれ等しく 聖霊は 父および子とそれぞれ等しい。また それぞれのペルソナは その一体なる全体とおのおの等しい。
 無限の三分の一は 無限です。

 ○ 弟子たちでさえ 十字架にはりつけになってさらには復活して現われるまで イエスが何ものであるかを知らなかった。だから イエスの生前のことがらを書くときに いくら復活のさらにあとで書くと言っても 初めから《イエスは 人間であり同時に神であった》とは書けなかったか もしくは わざと書かなかったかだと思われます。

 ○ ただし《人の子》という呼び方のほかに 《神の子》だとも書いている。
 ▼ (ヨハネ福音1:15-11) ~~~~~~~~
 はじめに ことばがあった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。
 このことばは はじめに かみとともにあった。
 すべてのものは これによってできた。・・・
〔このことばは〕世に来た。かれは世にいた。・・・かれは自分のところにきた・・・。


 ・・・父の独り子・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《ことば》が 神の子キリストです。それが《世に来た》その貌として 人間イエスです。

 ▼ (ヨハネ福音14:6-7) ~~~~~~~~~~
 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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なぜ三位一体は間違えているのでしょうか?



○ 父と子と聖霊は個性の異なる神だからですね。救世主が地上に肉体を持った時には、天上界の全ての権限〔父と聖霊の権限)を預かっているという意味が三位一体という意味なので統合したものがあるわけではないということです。
これは会社も同じですよ。役員や部長が外国で商談をする場合、会社の全権を預かって実行しますね。それと同じことですね。この例では会社が天国にあり外国がこの世の仕事と置き換えればいいだけですね。
まあ、キリスト教は霊的な側面を魔女裁判という形で前向きに切り落としてきましたから、霊的事実と異なる解釈になってしまったということでしょう。
さりとてイエスはあの世でもNo.2のえらい神様ですからね。イエスのえらいところはNo.2を自覚していたところですね。大抵の神様は我こそは1番といいたがるのです。そのほうがわかり安いからですね。
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三位一体の考え方には、二通りあります。


カトリックやプロテスタントの考える三位一体と、正教会や単性派やネストリウス派の考える三位一体です。
そもそものキリスト教の考える三位一体は、正教会などのものでしたが、カトリックが意図的にニケーア信条を誤訳し、カトリックの考える三位一体が生まれてしまいました。
カトリック地域である西ローマ帝国の版図では、誤ったキリスト教がローマ教会により広げられてしまったため、ローマ帝国共通のニケーア信条では、矛盾が生じてしまうために意図的に誤訳したものと思われます。
ですので、カトリックやプロテスタントの主張する三位一体「父(神)と子(キリスト)と聖霊は、同一である」とする説は誤りであり、正教会などの主張する「父の性と子の性、そして聖霊の使命を持った者キリスト」とする考え方が正しいと考えます。
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キリスト教って、異教徒の宗教をパクったわけです。



異教のシンボルを自分たちのシンボルとしたので、キリスト教は十字架がシンボルになっているんですね。

三位一体も他の宗教のパクリ。
例えばエジプトの神話で最後の審判で登場するマアト。
この女神は<法><正義><真理>を司るとされたんです。
一つだけじゃなくて3つを併せ持つ女神。

あとは神は創造主・養育者・破戒者という三相を持っているともされたんです。
ヒンドゥー教だと、創造主がブラフマー、維持神がヴィシュヌ、シヴァが破戒神。
名前が違うので3つの神が別々にいるかのように見えるが、見せる面でそれぞれ呼び分けていたわけです。
例えば阿修羅像など三位一体を表してますでしょ?
3つそれぞれの顔が違うが、胴体は一つですよね。


まあ いわば出世魚も似たようなもん。

で、キリスト教では 父 子 精霊 ってなってますよね。

父の遺伝子が精子を通して子どもに伝わるので、父と精子と子どもは同一人格だとするのかというと、、、、
古代ユダヤ教では、子どもは父親の分身だとしたんです。
だから子どもができるってことは、自分の分身ができるっと考えられており、子どもができないってのは、神に呪われているから分身ができないと思われていた。

当時の哲学者が頭を悩ました問題が、子は男の分身なのに、何故男の子じゃなくて女の子ができることもあるのか だった。

で、こう考えるしかなかった。

   きっと男が善くない人間だったので、それに準じた不具者(チンコが無いから)の女を神はお与えになったのだろう。


うーーん 精子は目で見えますが、卵子は見えませんからねぇ・・・・・
そうとしか当時は考えられなかったのでしょうね。



まあ 間違いですが、当時はそれが常識だった。

で、今の知識でいけば、父親と精子と子どもは 別ですよね?

精子ぴゅーって出ちゃって「おお 私の分身よぉ」って精子を抱きかかえて育てる人います?
なわけで 男と そのチンコから出た精子と 精子と卵子が受精してできた子どもって別物。

親が車のドアに指はさんだら、家にいた子どもが「いてーーー」ってなりはしないでしょ?


なわけで、神とその子どもとされるイエスと精子 違った精霊は同一じゃあない。

子どもができるには卵子が必用。
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 こんにちは。

エホバの証人です。聖書中のイエスキリストの言葉が根拠です。

(マタイ 4:10) その時,イエスは彼に言われた,「サタンよ,離れ去れ!『あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない』と書いてあるのです」。

(マルコ 10:18) イエスは彼に言われた,「なぜわたしのことを善いと呼ぶのですか。ただひとり,神以外には,だれも善い者はいません。

(ヨハネ 5:19) それゆえ,それに答えてイエスは彼らにさらにこう言われた。「きわめて真実にあなた方に言いますが,子は,自分からは何一つ行なうことができず,ただ父がしておられて,自分が目にする事柄を[行なえる]にすぎません。何であれその方のなさること,それを子もまた同じように行なうのです。

(ヨハネ 7:16) それに対し,イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教えはわたしのものではなく,わたしを遣わした方に属するものです。

 このように聖書は神とイエスキリストを区別していると考えています。他にも根拠聖句は多数存在します。ちなみに「キリスト教に見られる異教の起源」という本は、「三位一体の起源は完全に異教に発している」と述べています。

 ご参考になれば幸いです。
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「神様なんていないんだよ」ってコトではないかと。

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