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 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

 第三章 補論: 聖母マリアは 聖霊と精子と両方により身ごもった

 1. 聖母マリアは 許婚のヨセフとの交渉によって人であるイエスを生み それと同時に 聖霊による受胎において キリストを生んだ。


 飛躍のある理論ですが これをたたき台として ご批判をどうぞ。賛成票も どうぞ。

A 回答 (8件)

bragelonne様、こんばんは。




「懐胎するためには、男女の交わりが必要だ」というのは、
二千年前にも「常識」だったのでしょう。

あれ、でも、聖母とヨセフは「そんなこと、してないのに?!」と
いうことでは、なかったですか。

(即ち、「イエスとヨセフとは、生物学的には?何も無い」と、
そういうことになるのが、スジでしょうか・・・
でもイエスは「完全な「人間」だった」とか、説かれるのですよね)
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ▼ (ヰキぺ:処女懐胎) ~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A6%E5%A5%B3% …

 § マリアの懐胎

 マリアの処女懐胎が記述されているのは、新約聖書の福音書中では、マタイによる福音書とルカによる福音書である。
 どちらも聖霊により身ごもったことが記述されている(マタイ伝 1章20節、ルカ伝 1章35節)。

 処女懐胎の記事は、両福音書が参考にしたマルコ福音書、また、マルコかルカの福音書を知っていたかもしれないヨハネが記した福音書には、言及はない。


 マタイ福音書では、天使のガブリエルの告げる言葉が、七十人訳聖書(ギリシア語訳の旧約聖書)のイザヤ書からそのまま引用されている。即ち、

   「見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。
   その名はインマヌエルと呼ばれる」
    (マタイ伝 1章23節、イザヤ書 7章14節)
 

 この伝承をヘレニズムに由来するものと考える研究者がいる(H. ケスター他) 。新約の諸文書は、ヘブライズムだけでなくヘレニズムに大きな影響を受けており、実際にこの種の伝承は、当記事の例にもあるように地中海やオリエントの神話に見られるもので、珍しいものではない。

 処女懐胎の物語は、イエス・キリストがその誕生から神の子(神性)であったということを明示する意図を持っている。
 しかし、マリアに関しては全く神聖視していない。マリアを普通の女とみなすのは、マルコやヨハネも同じである。

 後に、キリスト教が他の地中海世界に広がるに際して、処女信仰や太母神信仰と複雑に絡み合い、カトリックや東方教会ではマリアは聖母として崇敬の対象となり、処女懐胎は最も重要な教理の一つにまでなった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 どうでしょうか。
 次の二点が おもな内容だと思います。それを たたき台のように表現しています。

 ▼  処女懐胎の物語は、イエス・キリストがその誕生から神の子(神性)であったということを明示する意図を持っている。
 ▼ しかし、マリアに関しては全く神聖視していない。マリアを普通の女とみなすのは、マルコやヨハネも同じである。


 ☆ イエスは ふつうの人間です。キリストは 神の子でありみづからも神であるその神を――霊としてですが―― 指し示すことばです。つまり イエスが 人間であると同時に神であったと言おうとしています。むろん いわゆるドグマです。《非思考の庭》における主観的な思いないし見方です。

お礼日時:2013/12/24 09:08

一般理論であれば処女が懐胎をするとは考えられない。


これはキリスト教徒だけの自宗教に盲目的に信じた結果である。
普通の女性が処女で妊娠をした。だれが信じる?
これを土台に考えれば不義密通の結論もありうるのである。
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この回答へのお礼

 あらん62さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 一般理論であれば処女が懐胎をするとは考えられない。
 ☆ そうですね。微妙なところがあると思います。

 一般性と言っても 神と信仰および宗教にかんするものであるのですから それこそ一般に神学というものには 特異な内容をふくむという場合もあるかと考えます。すなわち

  第三章 特異な内容のオシエ――イエス・キリストという補助線説明について――

 については もろに経験合理性による説明をあきらめなければならない部分が出て来ると覚悟のうえでの一般理論です。

 けれども 経験思想として一般性を持つ内容とそして非経験の場をめぐる想定上の・虚構としての神学内容とがあって これをなるべくきちんと区別して捉えるなら 或る程度は一般性を持ち得るのではないかと踏んでもいます。

 ですから まづふつうには 処女は懐胎しない。ヨセフとのコイトスなる経験行為を経ているはずだ。というのが 人間の貌としての側面であり 他方 同時に――同時にです――神の貌としては 聖霊によって 処女のまま 身ごもったという仮説です。――これら両面を見るかたちでの理論です。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 これはキリスト教徒だけの自宗教に盲目的に信じた結果である。
 普通の女性が処女で妊娠をした。だれが信じる?
 これを土台に考えれば不義密通の結論もありうるのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 最後の一文でのご見解は そのままおっしゃるとおりだと考えます。

 ただしその《土台》は その内容も受け取り方も たぶん違うと考えます。

 《盲目的に信じる》のは ワケの分からないナゾの何ものかなる神をです。神だけをひとは信じるのです。

 聖書記事やオシエは 人間は《考える》ものです。
 女性が妊娠したと聞けば これは 信じるのではなく 考えるものです。
 もし仮りに コトバのナラワシによって 信じるとも言う場合があるとすれば それは 信じるの第一義としての《非思考において受け容れる》ではなく そうではなく《考えることをすべておこなった結果 なお分からない事態や事情がある。そのときそれでも これこれというひとつの見方が妥当性がありただしいとつよく願い思う》といった意味合いで使っているのでしょう。つまりこれは 《考える》の次元にとどまりおさまっています。

 ただしたしかに 盲目的にそれがただしいと思い込む場合はあるようです。そしてそのことを《信じる》というコトバで表わす場合です。

 ですからクリスチャンに対しては それは――オシエを《信じる》というのは―― コトバのあやまった遣い方であると指摘してやらねばなりません。

 この点は おおむね最初の段落で説明し得たかと思います。


 こういった感じになるかと思います。どうでしょうというのが 問いです。

お礼日時:2013/12/23 09:26

聖書記事の中で、処女が懐妊するというくだりが絶対に信じることができないということでしょうか?




もし、聖書記事の中で起こる、「奇跡」や「イエスの復活」が「絶対に起こりえないこと」
と前提条件にするならばそもそも神も存在しないでしょう。奇跡を起こせないなら神とは言えないでしょう。
それならば精子と聖霊の両方で身ごもったなど回りくどいことを言う必要はありません。
ただ単に「精子で身ごもった」といえばいいだけの話です。そういってしまったらもう議論はできません。

「神は人間の知らない形で存在するかもしれない」とそこまで認められるなら、
「奇跡は起こるのかもしれない」「処女懐妊は起こったのかもしれない」
という話が議論できます。

マリアがイエスの死後、キリスト教に帰依してクリスチャンになったことは知っていますか?
また、イエスの兄弟のうち、二人もイエスの死後クリスチャンになっています。
エルサレムの初代教会にはかなり早いうちから「信条」がまとめれていました。
その中にははっきり「イエスは処女から生まれた」と言明されています。
これを信じなければクリスチャンにはなれません。

つまり、マリアは、「イエスが処女から生まれた」ということをはっきり信じていました。
だからクリスチャンになったのです。そして、信条に書いてあることは正しいと証言ができたのです。
そして、そのことによる大変大きな代償を払いました。

子供を迫害により失ったのです。

イエスの兄弟のうち一人はヤコブであり、キリスト教会のエルサレムの指導者でした。
もちろん彼もイエスが処女から生まれたことを信じていました。
もし、マリアが、子供の命を救いたかったら、もし本当ならば「イエスは神の子ではない」
といえばよかったのではないですか?「イエスは不義の子です」といえばヤコブはクリスチャンに
ならなかったでしょう。
しかしマリアはそれをしませんでした。
また、ヤコブのほかの子も迫害による死が迫っていました。
マリアはそれを救うことができたはずです。もしイエスが不義の子ならば。

しかしマリアはそれをしませんでした。

私は、この件に関してはそれだけでも十分だと思います。
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この回答へのお礼

 hひつじさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 聖書記事の中で、処女が懐妊するというくだりが絶対に信じることができないということでしょうか?
 ☆ あのう こまかくなりますが きちんとお答えしていきたいと考えます。

 基本は 神とは何かを問い求めているところから出て来た解釈です。(つまり この解釈というのは パウロにしたがって《預言》の一種だと思っています)。

 余計なことになるかも知れませんが 聖書の記事――つまり すでに言語表現となったもの――を《信じる》ということは あり得ないという考えでいます。

 言いかえると イエス・キリストが指し示した神を受け容れ信じた結果 さきほどの《預言》をおこなった。――こういう事情にあります。

 つまり 処女懐胎についてのひとつの解釈として さらにほかの人の解釈と照らし合わせて さらに問い求めて行く。こういう作業であると理解しています。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もし、聖書記事の中で起こる、「奇跡」や「イエスの復活」が「絶対に起こりえないこと」
 と前提条件にするならばそもそも神も存在しないでしょう。奇跡を起こせないなら神とは言えないでしょう。
 それならば精子と聖霊の両方で身ごもったなど回りくどいことを言う必要はありません。
 ただ単に「精子で身ごもった」といえばいいだけの話です。そういってしまったらもう議論はできません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おっしゃるところの《前提条件》は そのままでは内容が捉えられないと考えます。その違いにしたがって 解釈も違って来ます。

 聖書がしるす《奇蹟》や《イエスの復活》は 経験事象としては《起こらない》ことであると理解しています。
 つまり ここは細かくは触れないとすれば 要するに 《自然のからだ》があれば《霊のからだ》もあるという捉え方において・つまりこの両方の視点をもって受け留めるという理解の仕方であることを意味します。

 ですから そこからは 《精子と聖霊との両方によって身ごもった》というかたちの捉え方が出て来ています。

 ★ 奇蹟を起こせない神
 ☆ あるいはつまり 《奇蹟を起こす神》。こういった命題は 人間が軽々と提起することではないと考えます。

 基本は 聖書の語る奇蹟については 経験事象としては起こらないというふつうの歴史知性をもって捉えてよいと考えます。あとは 信仰――これを わが心なる非思考の庭 なる動態と呼んでいますが――の領域に入ると見ます。

 かんたんには 奇蹟の記事は たとえとして受け留めるのが ふつうであるとも見ます。
 
 つまりは 《復活》とは――たとえとして捉えるならということですが―― たとえば《真理がすべてにおいて真理でありすべてである状態》であると 経験事象に出来るだけ沿って理解します。それ以上のことは いま鏡に映しておぼろに見ている真理については なかなかわれわれには知り得ないのではないかと受け留めています。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「神は人間の知らない形で存在するかもしれない」とそこまで認められるなら、
 「奇跡は起こるのかもしれない」「処女懐妊は起こったのかもしれない」
 という話が議論できます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そもそも神とは何かについては 《人間に理解できるかどうか その行方が理解し得ないそのナゾの何ものか》だと捉えています。

 神は存在するか。それが 分かったらその認識は 神ではありません。
 神は ナゾですから 有ると見る(想定する)のなら 神は存在するとして受け容れるのですし 神は無いなら 神は存在しない――つまりは 無い神が存在する――として受け容れる。これが 神と人との関係のあり方・つまり信仰のかたちであると見ます。両様があります。

 そのあとは――《たとえとして解釈する》のも別とするならば―― 奇蹟や処女懐胎については 人間の内にあっては《非思考の庭》における信じることであり そこからも離れるならば 非経験の場としてとらえておく(つまり そのように想定しておく)ことであると理解しています。つまり 神なる霊の世界であるという意味です。



 ★ キリスト教に帰依して
 ☆ キリスト・イエスの指し示した真理つまり みづからのことでもある神は 信じる・つまりその名を心で受け容れるものであって 《人間が自分のチカラで帰依する》ものではなくましてや《そのオシエを信じる》ものではない。と考えます。オシエは 経験思想となっているのですから 考えるものです。思考を超えているなら そのように受け留めるものだと見ます。



 ★ ~~~~~~~~~~~~
 その(初期教会の信条の)中にははっきり「イエスは処女から生まれた」と言明されています。
 これを信じなければクリスチャンにはなれません。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから このようにオシエや経験合理性で取り扱うべき命題や思想を《信じる》ということは あり得ません。

 ただし 信仰の抜け殻としてのオシエを絶対命題としてかかげる宗教においてなら 現象としてありえましょう。しかも それは 狂気の沙汰としてです。《信条》は 《考える》の問題です。すでに信じた結果のその日から日への動態において得られるヒラメキや観想から 思想としてまとめて得たものだからです。またそのように 信仰という蝉の抜け殻にしか過ぎません。

 キリスト者というのは エレミヤ書31:31以降の聖句によれば(これは ヘブル書8に取り上げられていますが) 世界中のすべての人を言います。主を知れと言っておしえることは無くなっているからです。キリストの神は 万人の神です。宗教はいっさい関係しません。一人ひとりの心・その主観内面の問題です。


 おれは パウロ派だだのクリスチャン派だだのと言い争うほどこっけいなことはありません。そんなことをしていたら イエスを十字架から引きずりおろしていることになります。また初めから始めなければなりません。



 ★ 〔マリアは〕子供を迫害により失ったのです。
 ☆ つまり この事態についても 二重の側面があります。
 人間の貌としてイエスは 大泣きに泣いてその・まあ迫害によるさかづきを飲みました。神に対して みこころのままにと言って。
 神の貌としてキリストは 言わばもともとの計画にもとづき 父なる神かつみづからなる神を差し示すために 十字架上に去って行くという手段を採って そのように実行しました。

 去って行ったあと やっと弟子たちも イエスがキリストであったと分かったのです。つまりは マリアが 人間イエスを生んだと同時に キリストを聖霊によって受胎し生んだということを――非思考の庭において――理解したのです。これが 信仰です。

 奇蹟を信じるとか マリアは処女にて懐胎したとか そういう命題を《信じる》のではありません。キリストも聖書も すべての人に開かれたものです。あたらしい革袋に容れて受け留めましょう。いな 見えざる革袋です。さきほどのエレミヤ書を参照してみてください。

お礼日時:2013/12/22 23:00

新約聖書には「イエス・キリストが死から復活した事を信じる事ができないなら意味が無い」という旨の箇所があります。



死者が復活する事を信じる事ができるかどうかがある種の最低ラインとなっていると言えると思います。

死者が復活するなら性交渉なくキリストも生まれるのでは?

聖書はこういう次元のお話なので、「普通の現象に対する知識」を身につけただけで「普通ではない現象」の存在の否定ができていない事を棚に上げるならその人の智慧もまた低レベルと言わざるを得ません。

我々よりも遥かに高い専門知識を持っている熱心なクリスチャンがアメリカ等には沢山居そうです。
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この回答へのお礼

 神の国からの外交官(あぽすとろす)さん おはようございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 死者が復活するなら性交渉なくキリストも生まれるのでは?
 ☆ というより 神の独り子でありみづからも神であるキリストは――ということは 父なる神についても 父と子とから発出する聖霊なる神についても いづれの場合にも―― すでに永遠であり つねにこの地上の国にあっても遍在していると受け取られます。

 問題は イエスなるふつうの人間の誕生にあたって 母となるマリアが 受胎するときに 同時に聖霊によっても身ごもったという記事をどう捉えるかだと考えます。

 言いかえると 聖書記事の扱いというかたち(また段階)において すでに《考える》の問題になっているということにあります。

 まだヨセフを知らないあいだに マリアは身ごもったと書かれている。これをどう――そもそも《信じる》によってひとはあゆむという土台のその上において―― 《考える》のか?


 おそらくあぽっするさんのお考えは いっさい考えない つまりいちいちわざわざ解釈をしない こういったお答えなのであろうと受け取ります。



 ここで道は ふたつに分かれるでしょうね。

 パウロの言うように――信じるの土台のうえにおいて―― 《異言》を発することが出来るに越したことはないが 預言つまり異言の解釈が出来れば なおよいということであれば ひとは 聖書記事をとうぜんみづからの主観として 読み解こうとするでしょう。

 つまりは 解釈をしない場合――これは パウロの言う預言をしないということですから あまりもろ手を挙げて賛成することは出来ないと思っていますが―― この場合も けっきょくひとつの主観としての読み解きである。となるのではないかと思います。

 おそらく信じる者にとって 預言としての主観内容は まづ自由である。でしょう。そういう共通の出発点に立って もし出来るのなら 互いにその主観を言わば外化して自己表現するかたちにおいて語り合う。ここまでは やはり自由におこなってよろしいかと考えます。





 ★ 我々よりも遥かに高い専門知識を持っている熱心なクリスチャンがアメリカ等には沢山居そうです。
 ☆ ぜひご紹介ください。



 なお 老婆心ながらですが
 ★ 新約聖書には「イエス・キリストが死から復活した事を信じる事ができないなら意味が無い」という旨の箇所があります。
 ☆ というとき この《信じる》というのは――《信じることが出来る》というのは―― あくまで聖霊なる神のはたらくところであって 人間の能力や努力によってなのではないということ。すべては 《めぐみ》であるということ。を覚え書きします。

お礼日時:2013/12/22 08:59

もし仮に聖書が正しいとすれば、マリアは不義密通を働いて夫以外の子を孕んだ。


それを隠すために信心深い夫を洗脳をして神の子を孕んだと言い含めた。
それを真に受けて夫は有り難かった。
そう考えるのが自然でしょう。

「おとうちゃん。僕どうして生まれたの?」
「神様から授かったんだよ」

キリストの幼少時代のこの会話を聞いて真に受ける奴は何人いるか?
ただ触れてはいけない話の一つです。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 もし仮に聖書が正しいとすれば、マリアは不義密通を働いて夫以外の子を孕んだ。
 ・・・
 そう考えるのが自然でしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうしてでしょう? どう《自然》なのでしょう?

 《聖書が正しいとすれば》という条件も その中身が必ずしも自明ではありません。

 記事が事実をしるすものとしてマチガイがなければとか。あるいは 律法の決まりがただしいものであるならということなのか。

 でも聖書の記事は あくまで《処女懐胎》としてつらぬかれています。つまり記事じたいにマチガイはないようなのです。

 どう読むか? どう受け取るかにかかっているように思います。
 つまり 《不義密通をはたらいた》という解釈が どうして自然であるのか? まだよくつかめません。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 それを隠すために信心深い夫を洗脳をして神の子を孕んだと言い含めた。
 それを真に受けて夫は有り難かった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これなどは ひとつの可能性ですね。ひとつの解釈のあり方です。そこからまだ多くの議論が必要でしょう それが共同化され常識となるまでには。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 「おとうちゃん。僕どうして生まれたの?」
 「神様から授かったんだよ」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは そういう事態があったかどうかは 何とも言えませんね。
 たとえば マリアの受胎告知などは ハナから何もなかったかも知れません。つまり あとで――イエスが十字架上に去って行ったあとで やっと――イエスがキリストであると弟子たちに分かって イエスの物語を編むようになったとき マリアのもとへ天使がやって来るといった脚色をした。のかもしれないぢゃないですか。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 キリストの幼少時代のこの会話を聞いて真に受ける奴は何人いるか?
 ただ触れてはいけない話の一つです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 解せません。それか わたしにはさらにくわしい説明が 要るようです。納得するようになるには。

お礼日時:2013/12/21 20:01

こんにちは。



☆「お釈迦様は脇の下から生まれた」というのと同じように
◇という話がありますが、
このお話は、実は、
─────────
『リグ・ヴェーダ』に収載された「プルシャ賛歌」によれば、神々が祭祀を行うにあたって原人プルシャを切り分けた時、口の部分がバラモンとなり、両腕がラージャニヤ(クシャトリヤ)となり、両腿がヴァイシャとなり、両足はシュードラとなった、という

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9% …
─────────
というバラモンの《原人神話》が伏線になっているんですよ。
ですから、
「お釈迦様は脇の下から生まれた」は、
お釈迦様はクシャトリア階級出身だ、
ということを意味していま~す。

ですから、
ゴータマさんの出生に関する、この話はそれほど不思議な話ではない。
「ゴータマさんは、不思議な生まれ方をしたのだ」と考えていけない・・・。

マリアとの関係性を取り上げるのならば、
─────────
『ラリタ・ヴィスタラ』(『普曜経』、『方広大荘厳経』)などによれば、マーヤーはヴァイシャーカ月に6本の牙を持つ白い象が胎内に入る夢を見てシッダッタを懐妊したとされており、その出産の様も、郷里に帰る途中に立ち寄ったルンビニーの園で花(北方伝ではアショーカ樹(無憂樹)、南方伝ではサール(娑羅双樹))を手折ろうと手を伸ばしたところ、右脇から釈迦が生まれたと伝える。これは『リグ・ヴェーダ』10.90.11-12 プルシャの歌でプルシャ(原人と訳されることもある)を解体した際、両腕からラージャニアが生まれたことから、ラージャニアすなわちクシャトリア階級の出産は脇から生まれたと表現されることによる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A9%E8%80%B6% …
─────────
の話の方がいいのでしょう。
マリアの《受胎告知》と、この話はよく似ている、
と思います。

《白い象》は、
大乗仏教では、
普賢菩薩が乗っているもの、普賢菩薩の《アトリビュート》ですので、
この話は似ているんです。
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この回答へのお礼

 あぁ そうなんですか。
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「お釈迦様は脇の下から生まれた」は、
 お釈迦様はクシャトリア階級出身だ、
 ということを意味していま~す。

 ですから、
 ゴータマさんの出生に関する、この話はそれほど不思議な話ではない。
 「ゴータマさんは、不思議な生まれ方をしたのだ」と考えていけない・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ じつは――おっと まづは ねむりねこさん あらためましてこんにちは。ご回答をありがとうございます。――なんだか見え透いた虚構のように感じていましたから 直前の回答でのやり取りでは パスしました。

 出身階級を表わすのなら なんでもないことなんですね。



 マーヤー夫人が郷里へ帰る途中に出産したうんぬんなどなど。これについては わたしの印象では マリアの出産のほうが 単純でいいように思います。

 ベツレヘムの宿で ふつうの部屋ではなく馬小屋を当てられたというのは お腹が大きかったのでもし分娩するに到ると 不浄と見られる。ゆえに 一般客から離れたところに宿りした(させられた)。という解説を読んだことがあります。ごくふつうで 単純な話だと考えます。

お礼日時:2013/12/21 16:13

以下のとおりお答えします。



>聖母マリアは 許婚のヨセフとの交渉によって人であるイエスを生み それと同時に 聖霊による受胎において キリストを生んだ。
⇒素晴らしい記述だと思います。男性との交渉によって人の子を身ごもり、神(の息)との交渉によって神の子救世主を身ごもった、ということですよね。The Virgen Maryなどと言うよりずっといいじゃないですか。Virgenで子を生むはずはないのですから。

「お釈迦様は脇の下から生まれた」というのと同じように、聖母マリアの「聖性」を高めるための方便と分かってはいても、事実にそぐわないことはなるべく避けるべきだと私は思います。もっとも、「聖母マリアと言われる女性は、その昔、実は淫売婦だった」と、ある社会学の書物にありましたが、そこまで貶める必要もないでしょう。

現代は、魔術や奇跡で宗教的な信仰を持ったり捨てたりする時代ではないのですから、そういう特定の「粉飾」や「思惑」に惑わされず、(それでいて)聖書や経典やコーランの価値ある教えは学び取りたいものと思います。

以上、(私的な見解からの)ご回答まで。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 これは ありがとうございます。ほとんど全面的に賛成票を投じていただいたと受け取っています。
 
 ★ 男性との交渉によって人の子を身ごもり、神(の息)との交渉によって神の子救世主を身ごもった、ということですよね。The Virgen Maryなどと言うよりずっといいじゃないですか。Virgenで子を生むはずはないのですから。
 ☆ これです。この思想を基本としました。

 そして確かに解釈なのです。記述にさからっています。ヨセフを知る前に身ごもったと書いてありますから。


 ★ ・・・その昔、実は淫売婦だった」と、ある社会学の書物にありましたが、そこまで貶める必要もないでしょう。
 ☆ これも単純に同意します。ふつうに考えて そこまで貶める意味が分からない。ですから。


 これは じつは 初めてです。賛同していただいたことです。ありがとう。

お礼日時:2013/12/21 16:03

こんにちは。



☆1. 聖母マリアは 許婚のヨセフとの交渉によって人であるイエスを生み それと同時に 聖霊による受胎において キリストを生んだ。
◇でしょう。
もしくは、
「誰の馬の骨ともわからない男の人の子供をマリアが身ごもり、この事実を隠すためにヨセフと結婚した、結婚させられた」
のいずれでしょう。
どちらにしても、
ユダヤの律法にしたがうならば、
イエスは《不義》の子です。
これは宗教的に都合が悪い、由々しき事態。
ですから、
《処女懐胎》という荒唐無稽な話が生まれた。
───わたし的には、
《イエス》はマリアの《不義》によって生まれた、
という方が、律法の破壊者にして完成者であるイエスにふさわしい、
と思うのですが───

さらに、
このマリアの《処女懐胎》のお話は、
創世記の《サラ》の話が関係しているのでしょう。
サラは閉経していた。にもかかわらず、アブラハムの子供(?)である《イサク》を生んでいます。
《サラ》と《マリア》の不思議な妊娠のお話には、共通点があるのでしょうね。


ところで、
最近、ネットで
「アメリカ人の中に、100人に1人程度の割合で、
とあるアンケートに
『処女や童貞で、(自分の)子供を生んだ、子供が生まれた』と答える者がいる

というような内容の記事を読みました。

宗教的に敬虔な人は、もしくは、宗教的に厳しい人たちの環境で暮らす人たちは、
「宗教的タブー、《不義》をおかし、その結果、自分は妊娠した(or誰かに自分の子供を身ごもらせた)」
と答えるわけにはいかず、
新約の《マリア・処女懐胎》を根拠にこのような見え見えの嘘をついているのでしょう。
イエスの出世譚も、実は、これと同じなのかもしれませんね。

いや~、宗教とは何なのでしょう(ニコニコ)。
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この回答へのお礼

 まあまあまあ。そうとう荒いですね。

 まづは ご回答をありがとうございます。こんにちは。

 ◇ ユダヤの律法にしたがうならば、 / イエスは《不義》の子です。
 ☆ これは 法律としての話ですよね。結婚以前に身ごもったことが。

 ◇ 「誰の馬の骨ともわからない男の人の子供をマリアが身ごもり、この事実を隠すためにヨセフと結婚した、結婚させられた」
 ☆ 《子の父親が不明》ということはないようです。というのは ヨセフとともにマリアは 毎年過ぎ越しの祭りには 故郷のガリラヤからはるばるエルサレムの神殿にまでやって来ているといったところからです。そういう意味では 律法をまもるのに忠実であろうとしたようなのです。――イエスを生んでからそうなったという見方も出来ますが。


 ◇ このマリアの《処女懐胎》のお話は、 / 創世記の《サラ》の話が関係しているのでしょう。
 ☆ 超自然のチカラがはたらいたということで 同じおもむきでしょうか。あまり突きあわせて見てはいなかったのですが。


 まあ ヨセフを知らない前に 身ごもったとは書いてありますが。
 人間イエスは 神の子キリストであるという命題を しっかりと受け留めない場合が多いと思います。その問題に合わせて この質問を立てました。

 オシエになると――正式な教義になると―― いろいろ面倒なことが起きるようです。人間は オシエとなるとそれを扱いづらいのでしょうか。天使でさえ 人間のためにあるということであるのに。

お礼日時:2013/12/21 14:13

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