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神はどうしてアブラハムにその子をいけにへにささげるよう告げた
のか?

 
神という非経験に相い対する経験存在であるわたしは その関係が 
非思考でありそれとして信仰であると知らねばならなかった。のか?



多くの人びとの父(父祖)となると言われているのに その子のイ
サクをほふれば 血筋は断たれてしまう。

神は そういう約束と矛盾することを命じた。――ということは 
アブラハムに対して 神との関係は 自分のつまり人間アブラハム
の経験合理性にもとづく思考に先行する・・・と言おうとしたのか?

信仰(=わが非思考の庭なる動態)は 経験思考に先行すると言う
ために 我が子の命をささげるという行ないが始まろうとしたのか?

質問者からの補足コメント

  • ちゃおぽるぽさんが 画家でいらっしゃるからか 次のようなヒラ
    メキを得ることができました。

    ▲ (ヨハネによる福音書 15:13) 友のために自分の命を捨て
    ること、これ以上に大きな愛はない。
    ☆ この命題を回答として寄せていただいたと受け取り もしほか
    に考えられるところがあるとしても それは この内容をほっぽり
    出してしまったものとしては あり得ない。とまづ考えました。

    そして この命題一本でよいか? とも思ったわけです。
    《自己犠牲をもとにした愛》 この命題一色でよいのか?

    このひとつの色でカンヴァスすべてが塗りつぶされ得るか?

    おそらく それでよいのだと思います。
    しかも――しかもです。しかも同時に その自己犠牲の愛は なお
    まだ人間の・わたしの思いと考えであるとも見られます。

    わたしが この命題を心に思っている。その色に満ちているわが
    一本の道。

    つづく

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/03/31 11:15
  • つづき

    人間としてのわが思いとそのおこない これが 言ってみればわがカン
    ヴァスです。そこに描くわが絵です。

    ここで いつものようにいたづら思考をしてみます。

    もしその背後にも 画家がいて そのカンヴァスに描かれようとしてい
    る自己犠牲なる一色の絵柄(思い) この命題を超えた絵を 世界に描
    こうとしていたとするなら どうか?

    事実その画家は 生け贄は 欲していないとも語っている。あわれみを
    欲すると。

    愛の命題は語ったが 誰もにその自己犠牲になれと言っているわけでは
    必ずしもない。――と もししたら?

    人間の思考と想像力とを超えた絵が 描かれることはあるか?

    あるいは 背後の画家は じつは われわれ一人ひとり人間としての画
    家と同じなのか?

    ・・・。

      補足日時:2017/03/31 11:29

A 回答 (5件)

NO4の続き


ハハ、あなたは、ここを質問・回答板でなく、議論板と勘違いしてるようですね(笑)
質問者は、回答を得たら、有難く拝受し、回答に異議がある場合はそれを無視すればイイだけのことです。
しかも、ここは哲学カテゴリー。宗教への質問はそちらで行えばイイと思います。
まあ、それはさておき、旧約聖書の有名な言葉「神は自分のかたちに人を創造された」とあるように、神自身、その「人」に神のようなものとなって欲しいとの願望があることは確かでしょう。確か、イエスも「神がするようにあなたもせよ」のような言葉があったと思います。ここの哲学カテゴリーから言えば、子は父なる神の生き方を真似て、そしてやがては父を乗り越えて行く、それが普通の流れと思います。
そして、キリスト教の本来の聖職者は、結婚をしてその子供に未来を託すことはできない。自らがその未来を背負っているのですから。これを恥ずかしとか言うなら、まあ、あなたの頭のレベルがその程度ということでしょう。
まあ、いずれにしても、あなたは「アラシ」の一人ですな。
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この回答へのお礼

何を勘違いしてるんですか。

知っているもので 確実に定説であるか・それと同等であるという
自信がある場合 そういう場合には もちろんこちらからおしえま
す。

分からない事柄については おそわる。

互いに同じ程度に問い求めている最中である課題については 互い
に自論を展開しあう。

こんなことは――情報交換として――あたりまえぢゃないですか。

何を自分の甲羅に合わせて穴を掘ってるんですか。ハハ ちゃんち
ゃらおかしい。


ご回答をありがとうございます。


あとは 取り上げるにあたいしません。あいにくでしたね。

お礼日時:2017/04/07 21:11

まあ、神は、人にその「自己完成」を求めるという基本的思想を知る必要があるかも知れない。

もちろん、人の自己完成とは神へと近づくことであり、最終的には自らが神となることと言える。
成人した人(人間)が、その生殖活動で子孫を残すことは、その自己完成を放棄して、次の世代にそれを託し、自らは滅びの道を進むことを意味している。
しかし、アブラハムの信仰が本物なら、そういう子孫への生命の引き継ぎを望むのではなく、それをスパッと断ち切って、アブラハム自身が神につながる永遠の命、生きる道を選択せねばならない。
神は、アブラハムに「イサク殺害」を命じることで、アブラハムの信仰を試したと言えるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ まあ、神は、人にその「自己完成」を求めるという基本的思想を
知る必要があるかも知れない。
☆ ええっとですね。わたしは 信仰の立ち場と哲学のそれとを使い
分けています。

このように神からの倫理的な要請というかたちで説かれると 抵抗感
を持ちます。

つまり 哲学としては 神が何と言おうと どうでもよいわけです。

信仰の立ち場としては おのが主観の内においては 神とわれとの関
係としていろいろ・あれこれ・ああだこうだと思ったりするわけです。



★ もちろん、人の自己完成とは神へと近づくことであり、最終的に
は自らが神となることと言える。
☆ あり得ません。最終的には 《神に顔と顔を合わせてまみえる》
といったところでしょう。

人間が神ではなく 神になる気遣いはありません。

★ 成人した人(人間)が、その生殖活動で子孫を残すことは、その
自己完成を放棄して、次の世代にそれを託し、自らは滅びの道を進む
ことを意味している。
☆ めちゃくちゃです。恥づかしくて こちらが顔を赤らめます。

★ しかし、アブラハムの信仰が本物なら、そういう子孫への生命の
引き継ぎを望むのではなく、それをスパッと断ち切って、アブラハム
自身が神につながる永遠の命、生きる道を選択せねばならない。
☆ ダメ!!!! アブラハムは 神から信仰をあたえられたんだよ。

それを深め強めるのも 神のしわざ。という舞台の上では アブラハ
ムは 人間としての意志自由にもとづき 言わば実存としておのれの
判断で生きるわけです。


★ 神は、アブラハムに「イサク殺害」を命じることで、アブラハム
の信仰を試したと言えるでしょう。
☆ やはり 試し説ですか。分かりやすいですけれどね。

お礼日時:2017/04/07 18:22

続き物の補足をいただき、沈思いたしました。



イエスが十字架にかかり、復活した上は、”神を愛し、隣人を愛す”のが第一義で、生け贄は不要になったのでした。これは、すでに、人間の創造力を超えているのではないでしょうか。

収支決済でいうならば、人間は丸儲け、神様の丸損になりせんか。

もう一つは、憐み、と、日本語でいうと、何だか、みじめな濡れ犬に対する憐憫の情のように感じられて、居心地が悪いです。英語ですと、Compassion(情を共にする)が、よく使われます。ギリシア語ではどうなっているのでしょうか。

これを私は、憐みと訳さずに、自己犠牲というふうに言ってしまいます。時間なり、お金なり、自分に許されているものを、友人や見知らぬ人のために使うということで。もしかしたら、もっと、良い日本語訳があるかもしれません。質問者さんのおっしゃる、憐みと、私のいうところの、自己犠牲は、同じベクトル上に存在するように、思われます。

そうして、一歩一歩、歩み進めてゆくと、いづれ、正義とか、公正とか、涅槃とか、即身成仏とか、そういったところにたどり着くかもしれません。いびつな自己が、丸くて透明な、円に代わってゆくか、生命の木につながるか、そんなイメージを抱いています。

もうすぐ、復活祭で、十字架を運ぶイエスを課題で描いています。二つ板切れをいただいて、ひとつには、強靭な超人イエス、もう一つには、繊細な若者風のイエスを製作中です。聖書の物語は、読む人によって、あるいは、読むときによって、織物のように、何通りもの読み方ができるように、感じられます。

ご意見は、胸に刻んでおきましょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そのときは 朝すでに起きたのですが 眠くなって横になりました。
目覚めぎわに 画家が背後にもうひとりいるというようなイメージの
ヒラメキがやってきました。

ですから 《意見》と言っても わたし自身のものではないかも知れ
ません。何食わぬ顔で 補足欄に書き込みました。


★ 収支決済でいうならば、人間は丸儲け、神様の丸損になりせんか。
☆ 丸々 おっしゃるとおりだと思います。


★ 憐み、と、日本語でいうと、何だか、みじめな濡れ犬に対する憐
憫の情のように感じられて、居心地が悪いです。
☆ 日本語で元は 《あは! ≒ Ah ! ; Oh ! 》から来ているようで
すが 使用している内に手垢がついて来ることがあるようです。




▼ (Hos 6:6) ~~~~~~~
https://www.blueletterbible.org/kjv/hos/6/1/t_co …

For I desired mercy, and not sacrifice; and the knowledge of God
more than burnt offerings.

▽ mercy : Hebrew: checed (≒ ヘセド)

▽   〃 : Greek: ἔλεος (≒ エレオス)

▼ (Rom 9:15)~~~~
https://www.blueletterbible.org/kjv/rom/9/15/p0/ …

For he saith to Moses(=Exodus 33:19),
I will have mercy on whom I will have mercy,
and I will have compassion on whom I will have compassion.

▽ to have mercy : Grk: ἐλεέω / eleeō /
  to be gracious : Hbr: חָנַן / chanan /
▽ to have compassion: Grk: οἰκτίρω / oiktirō /
  to show mercy: Hbr: רָחַם / racham /
~~~~~

お礼日時:2017/04/01 13:59

近くの藪に引っかかっていた羊は、イサクの身代わりになりました。

私には、この羊はイエスであったように思われるのです。彼は時空を超えて、すべての人間の罪をあがなったわけですから。

そんな風に、聖書の物語は、旧約と新約をまたぎ、強く、シンクロナイズされて、お互いに共鳴し合っている、と、思われるのです。読むたびに、新しさを増します。

羊は、イエスであり、私たち自身であり、神の愛を知ること、受け入れること、そして、与えること、と、いうふうに、成長してゆけば、自身の内部に、完璧な円形を形作ることができるような、予感がします。

まだまだ、道は遠いですが。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

★ この〔イサクの身代わりになった〕羊はイエスであったように
思われるのです。彼は時空を超えて、すべての人間の罪をあがなっ
たわけですから。

☆ そのあがないの問題を否定することはできず またそこから離
れてもダメなのでしょう。

とつよく思いつつ たとえばいまひとつ別の思いも浮かびます。


それは 旧約の時代にあっても 民族の団結やその社会の秩序のた
めには 生け贄も必要とされおこなわれたというその反面で すで
に確かに《生け贄》が 理論上 しりぞけられているということも 
ほんとうではないか?

▲ (ホセア書 6:6) ~~~~~
わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく
神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。
~~~~~~~~~~~

☆ どうなんですかねぇ。

★ 羊は、イエスであり、私たち自身であり、神の愛を知ること、
受け入れること、そして、与えること、と、いうふうに、成長し
てゆけば、自身の内部に、完璧な円形を形作ることができるよう
な、予感がします。

☆ という道には 《羊が命を受けるため、しかも豊かに受ける
ため》というのは どういうことかという問い求めは 起きない
ものでしょうか?

《生け贄ではなく 愛である・あわれみである》というその愛は
《生け贄や犠牲にさえなることのある愛》だと見ざるを得ないか?

お礼日時:2017/03/31 07:50

旧約聖書には、新約聖書、特に、イエスが救い主であることを示す下敷きとなる箇所が随所に見られます。



ご存じでしょうが、アブラハムの神への絶対的な服従は、イサクを生贄に捧げることで永遠に結晶化しますが、これは、のちに、神がわが子と呼ぶイエスを人類のために犠牲にしたことに、遠くから光を照らします。それは、美しい光で、自己犠牲をもとにした愛の、尊い姿を、現しているそうです。

以上。取り急ぎ、お知らせまで。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

イサクは 難をまぬかれました。アブラハムはその儀式を止められ 
イサクはいけにへにならずともよいとなりました。

イエスは 受難について 神の子キリストとしては みづから欲して
その道に就き 人間イエスとしては できればその盃を取り除いて欲
しい でもみ心のままにと言ったと知られます。

★ 自己犠牲をもとにした愛
☆ というのは アダムらの・つまり人類のいわゆる原罪をあがなっ
たという問題・つまりその行為だと思います。


はりつけには それとは別に――微妙に異なると思うのですが―― 
指し示すものがあったのではないか?


ご存じのようにキリスト・イエスは 《わたしは命を捨てることもで
き それを再び受けることもできる》とも語ったと思います。

▲ (ヨハネによる福音 10:7-18) ~~~~~~~
[・・・] わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受
けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のため
に命を捨てる。[・・・]

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわ
たしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父
を知っているのと同じである。

わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていな
いほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわた
しの声を聞き分ける。

こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは
命を、再び受けるために、捨てる。[・・・]
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 《兄弟のためにわが命を棄てるほどの愛はない》と語られていた
と思いますので 反論にはならないと思うのですが 《羊が命を受け
るため、しかも豊かに受けるため》というのは どういうことか?
というふうにも 思いが起きて来ます。

そこに 隣人との倫理的な関係の問題とは別の問い求めがありますか
どうでしょうか。

お礼日時:2017/03/31 07:00

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