かれは何を言おうとしていたのか? これを問います。
たたき台として:
◆ 聖ペテロの否認 Le reniement de Saint-Pierre ~~~~
神には天使たちの受けた抗議の電話が届いていないのか。
セラフィームたちは 今や来る日も来る日も汗だくで応対しているではないか。
まさかこのわれわれの咎めの電話が鳴っても 子守唄にちょうどよい
などということはあるまいに。
ひょっとして いやまさか 神はたらふく食って飲んでご満悦だ
というわけはあるまいに。
あのイエスにしたがい人びとは
次から次へと死地に追いやられるわ刑罰を受けるわ。
この人たちのすすり泣く声も 父なる神には持って来いの調べなのか。
それでも一向に動く気配は見当たらぬ。天使たちもよく見ると澄ましたものだ。
たしかに人びとは神を愛していた。そりゃあ勝手に愛したのさ。
それにしてもイエスよ。あんたはあのオリヴの園で
神なる父に懇願していたぢゃないか。
そのあとあんたにははりつけの釘が待っていた。
こんこんと打たれる釘の音もむろん父なる神には心地よい音色であったとは。
あぁ きみはローマ兵らにつばきを吐きかけられていた。
吐きかけられるにまかせていたきみは ばかか。
あたまにかぶせられたいばらのかんむりも
ちっとはとげが刺さったかい? 痛かったかい?
神の子ったって 人の子だろうよ。
やがて腕が血を流してだらりと垂れ下がって来た。
くしゃんとからだが縮こまった。
見ろよ まだ生きていらぁ。汗を吹き出させて生きていらぁ。
だったらみながさげすみの心を向けておまえを見ているのが分かるだろ?
おまえはあの棕櫚の主の日にろばに跨って入城して来た。
その歓迎を受けた日のことがかえってうらやましいか。
国中の棗椰子の枝が道端に並び振られていた。
あの華々しきついこのあいだの日がうらめしいか。
あるいはその前には喜び勇んで おまえは神殿で
物売りたちを咎めていた。鞭まで振り上げて。
ようやく独裁者になったと思ったか。そのことも
悔やみの種か。それがいま磔で槍が突いた脇腹の痛みよ。
そうだろう? 夢のやぶれたキリストなんておいらはおさらばさ。
あんたが逝ってしまうのならおいらはつるぎを振りかざして人をころし
あんたから地獄行きの宣告をいただくほうがましさ。
あのペテロもあんたをあのときは裏切ったではないか。三回も。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ かれは割り合いにしてかなりキリスト者であった。字面に似合わず そうなのではないか? 質問者としてはこう問うています。さしづめ《神の沈黙(――沈黙する神 あるいは 隠れたる神(デウス・アブスコンディトゥス)――)》といった主題でしょうか?
資料:
▲ 原詩および英訳二編: FleursDuMal.org
《 Le reniement de Saint-Pierre 》
http://fleursdumal.org/poem/189
ただし 一つ目の英訳に文字化けがあります。
○ naïveté ・・・ x naヤveté
▼ 日本語訳:お手数ですが 次の論文のpp.33-35を参照してください。
・松本勤:ボードレール「聖ペテロの否認」について
Le Reniement de saint Pierre de Charles Baudelaire
http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?b …
☆ 聖書ないし神学にかかわっていますので 文学あるいは言語のカテではなくここで問います。
取り敢えず問い求めをすすめるという出で立ちで立ち上げました。必要なことがらなど出て来ましたら そのつど対処してまいります。分からないところや出来ないことがあった場合には そうお伝えします。
たたき台の自由訳ぶりを上回るいっそう自由ないろんな感想もどしどしお寄せください。
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは、
お礼の中での質問への回答です。
あちこち調べてみたり、バイブルスタディの友人に尋ねたところ:
イエスはピーターが逃げ出すのもしらを切るのも前もって知っていた。
この時のピーターは師に頼りきりの、何が起きているのか見当もつかない、頑固で素朴な漁夫そのままだった。
自分が一番弟子であるというおごり、師を裏切ってしまった後悔からのへりくだり、そして許された喜び。。。。と我々一般人が信仰する上で、いやでも通り抜ける道筋を、ピーターがなぞる、その人間味がモラルとして教えられているようです。
ピーターが自覚を持って、布教のリーダーシップを取り始めるのは、イエスが昇天した後、聖霊が弟子達に宿ったその後のことであると認識されています。
お説のような神のピーターへの配慮について記したものは見つかりませんでした。
力不足で申し訳ないことです。
この回答への補足
おぎないます。
つぎの《 glaive 》の訳語についてです。
◆ (最後の連 第三行) ~~~~~~
Puissé-je user du g l a i v e et périr par le g l a i v e !
あんたが逝ってしまうのならおいらは ≫つるぎ≪ を振りかざして人をころし
あんたから ≫地獄行きの宣告≪ をいただくほうがましさ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ たとえば《スタンダード仏和辞典》(増補改訂版 1975)には 次のようにありますが 上の訳のように質問者の訳詩では 《神のさばき》に取っています。
▼ (スタンダード仏和辞典) ~~~~
glaive (1)〔文学的、詩〕( a )剣 ( b )戦争 ( c )生殺与奪の権 ( d ) ~~ spirituel 〔教会の〕破門などの権 ( e )~~ de parole 雄弁の力 (2)〔魚〕めかじき
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▲ ( Centre National de Ressources Textuelles et Lexicales )
http://www.cnrtl.fr/definition/glaive
glaive ・・・(ほかの箇所は省略にしたがいます)・・・
・ [Pour symboliser la puissance vengeresse de Dieu] Le glaive de Dieu(=《神のつるぎ》).
Ceux que le glaive de l'ange a chassés dans l'abîme : ces monstres d'orgueil qui refusent le sacrifice de leur Dieu (Daniel-Rops, Mort, 1934, p. 415) :
5. Non, vous n'êtes plus des brigands. Vous portez dans vos mains le glaive des vengeances célestes, vous êtes devenus les anges de la mort, les terribles exécuteurs des hauts décrets de l'Éternel.
La Martelière, Robert, 1793, V, 5, p. 65.
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ご回答をありがとうございます。
今回の質問者からのお応えは かんたんです。
★ イエスはピーターが逃げ出すのもしらを切るのも前もって知っていた。
☆ この《予知》が 《なぞ》だという見方なのです。
あるいは この《なぞ》が イエスという人間における人間としての側面のほかに同時に持つ神の子であり神であるという側面と見るというものです。
《人間イエスは 神の子であり神であるキリストである》という命題です。イスカリオテのユダ〔の裏切り〕に対する振る舞いも まったく同じように《人間としての顔と神の子としての顔》 この両側面を持って相い対していたという見方です。
★ 聖霊が弟子達に宿った
☆ というのは このキリストの顔もしくはその霊つまり聖霊のことです。ただし イエスは この聖霊なる神と――父なる神ともまったく違うことなく――同じひとつの神であると捉えられましたが むろんペテロら人間は 或る種の仕方でこの聖霊が部分的に宿るということだと考えられています。
ひとはみな聖霊を分有するというのは おそらくわたしたちのおのおのの心にどこか窓があってその窓を《なぞの存在》がノックする そのときそのお呼びに応えること――こういう事件であり事態だと思っております。
イエスが言っていたように イエスが去って行かなければ聖霊はやって来ないということだと見ます。(旧約時代においてアブラハムらが聖霊を受けたというのは いわゆる原罪がまだなお贖われていない段階において――同じ聖霊ですが――宿していたということだと捉えます)。
そのような聖霊のやって来る――つまりは 神の背面を見る――前と後とでは ペテロらもその境地が違っていたという問題です。
ボードレールは その前段階についてのみ述べています。字面としては後の段階について触れていません。そこのところをどう捉えるか 微妙だと思うのですが 質問者としては問うています。知りたかったことです。
仮りにボードレールが《聖霊の降りる段階にまで 含みを持たせていた》としたら その仮定は間違いか。それとも それほど大きな差し障りは出て来ないか。このあたりについて知りたかったのでした。
No.3
- 回答日時:
こんにちは、
修行中の私に、面白いけれど、とびきり難しい宿題をありがとうございました。
”ピーターの拒絶”が神の意思であったか否か。
これについては二つの想念が湧き上がってきました。
ひとつはギリシア劇において、悲劇は英雄だけのものであり、我々人間が巻き起こす問題は全部喜劇に振り分けられる; 英雄の父親は神である; この際、いかにピーターがのちのち聖人になるとはいえ、彼もただの人間であるからには、彼の物語は喜劇に分類される; ということです。
その辺は、(人間喜劇がお手の物であったモリエールを産んだ国の人である)ボードレイルですから、感覚的に”Oui、”といって、にんまりしたかもしれません。
質問者さんのおっしゃったように、人間の小ざかしさ、ずるさ、帳尻だけをあわせようとする浅はかさの叙述は、アブラハムの昔から、聖書の作者のお得意ですよね。
教えていただいた、出エジプト記については、初耳でした。
モーゼは複雑な育ちのせいか、高潔なところと卑近なところを併せ持った変なおっちゃんです。大胆かと思えば、ひどく臆病者でもある。”ユダヤの皆に神がどんなお顔をしているか教えてあげたい”という(大胆な)趣旨だとしか思っていませんでしたが、そういえばお返事が長くて謎めいています。謎めいたところは要注意ですね。ご指摘ありがとうございました。
二つ目は、これは私の手に負えないのですが”godhead”についてです。
人間には測り知ることの出来ない神の完全性。
この世に起きることは、全て神によって、前もって組み立てられていた。
アリストテレスの”遠くから見守る神”。
ジョン・カルヴィンの”予定調和”。
これについては、私のほうが質問をしたいくらいです。どう質問をしたら良いのか判らないくらい漠然としています。今のところはばらばらの思念があって、形になりません。科学の発展を待つしかないように思います。
最後に村上春樹さんについて。
”ノルウェイの森”を読んだことがあります。彼には女性性に対する恐怖か蔑視があるように感じて、二冊目を読む気には、とてもなれませんでした。ご自分で翻訳なさるようですから、英語版がどうなっているか、読んでみてもいいかもしれません。
お粗末さまでした。
こんにちは。ご回答をありがとうございます。
どうも表現の仕方をあせったようです 前回においてわたしは。
★ ~~~~~~~~~~
( a ) 人間には測り知ることの出来ない神の完全性。
( b ) この世に起きることは、全て神によって、前もって組み立てられていた。
( c ) アリストテレスの”遠くから見守る神”。
( d ) ジョン・カルヴィンの”予定調和”。
~~~~~~~~~~~~
☆ あらためて表現し直します。《予定調和》は見ません。したがって唱えません。
ただし神を 人格ないし神格を持つ存在として立てた場合には そこに《予知》があると見ます。《人間には測り知ることのできない》かたちにおける予知です。
そしてこの予知は あくまで一人ひとりの人についてのものです。ペテロがどう考えどう振る舞うかについてのものです。言いかえると ペテロならペテロの内面主観の問題であり そこにおさまるかたちです。
そのペテロの心をわたしならわたしという第三者がさらに自分の内面主観としてどう捉えるかという意味において持たれる思いということでした。
その個人個人の主観の積み重ねと重ね合わさりとして
( b’ ) この世に起きることは、全て神によって、前もって〔* 一人ひとりの考えや行動に発して その行為意志のあり方がすでに前もって知られていたというかたちの積み重ねおよび重ね合わさりとしては〕組み立てられていた。
☆ と考えます。( c )のアリストテレスについては残念ながら分かりませんが このことは イエスの振る舞いを捉えるなら 類推できるのではないかと思います。
そのやはり内面主観において 最後のときを迎えるにあたって一方で《この盃を取り除けたまえ》と願い 他方で《みこころのままに》と思っています。後者が《測り知れないなぞ》の部分であるでしょうしそれは 神の予知であり やはりなぞです。言いかえると 無根拠ということそのものです。(つまり 無神と言っても同じことになりますという意味です)。
ペテロらは イエスの生前ではこの《なぞ》の部分をまだ知らなかったという意味に解します。神がその手でかれらを覆っていた。(という表現のみ――つまり レトリック――だと言ってもいいわけですが)。イエスが去らなければ あたまにおいてだけではないかたちで分かることはなかった。ふつうには《何にも無い》というかたちの神のことが分からなかった。
しかもイエスが去ったあとでは この《何でも無い》神がなぞとして――言いかえると その神の背面として――見る人には見えるようになった。それでもなおわけが分からないものであるのですから 霊と呼びます。無神論の無神と呼んでもまったく自由であり有神論の神と同等です。イエスは このような神を指し示したと考えます。子供だましのような話です。
鶏が鳴く前に三度イエスを否定したペテロに イエスは去って行ったあと(復活して?) わたしを愛するかとやはり三度たずねた。三度とも はい愛しますとペテロは答えた。――このようにも子供だましの物語はそのみづからの中身をととのえています。
★ 質問者さんのおっしゃったように、人間の小ざかしさ、ずるさ、帳尻だけをあわせようとする浅はかさの叙述は、アブラハムの昔から、聖書の作者のお得意ですよね。
☆ ボードレールは この世から出て行きたい( Anywhere out of the world )という意味合いのことを言っているようです。これを裏返せば――そこにイエスの言った言葉 すなわち《わたしを信じる者は この世に属していない》を思い起こさせますが そのつてにおいても―― 単純に《まったくわけの分からないなぞとしての神の国》をほのめかそうとしています。そう詩の意味合いを伸ばして解しうる余地があると思ったのでした。
つまりは 一方でこのイエスの示した非思考の場としてのなぞ(神)をそのまま信じているとははっきりと言えないと同時に 他方でその余地をまったくしりぞけることも出来ないのではないかと考えたのでした。
★ ~~~~~~~~~~~~~
この際、いかにピーターがのちのち聖人になるとはいえ、彼もただの人間であるからには、彼の物語は喜劇に分類される; ということです。
その辺は、(人間喜劇がお手の物であったモリエールを産んだ国の人である)ボードレイルですから、感覚的に”Oui、”といって、にんまりしたかもしれません。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この悲喜劇が 非思考の庭(つまり 信仰。つまりあくまで 個人の内面主観のもんだい)にかかわっているのではないか。これが質問者の問いです。
No.2
- 回答日時:
何の背景もなく、フランス語の詩を(ボードレイルと限定せずに)一読した時の感想は、
古典的な形式と、詩想の高さ、簡潔な言葉使いと、踏韻の見事さ。迷いがない。才能が溢れるばかり。
自然を友にしたイギリスの詩人達よりも勝っているかも知らん。
一言キーワードをあげるとしたら、化けてしまったnaiveteでしょうね。キリストのnaiveteは彼自身のナイーブさに通じる。それが彼にこの詩を書けと命じるのでしょう。
キリスト教徒の子供達は、聖書の物語を身近に読みながら成長します。それが現実のモラルとして根付きます。イエスをモラルの基本として育つわけです。
父と呼ぶ神からも、弟子と呼ぶピーターからも裏切られた(ように見えるだけなんですが)イエスの孤独と絶望が、詩人には耐えられなかったんでしょう。その孤独と絶望は、詩人が彼の中核に持って、見たくないけれども、見てしまう、彼の原点だったんでしょう。彼も血の汗を流しているんでしょう。
イエスは父なる神に従順でしたし、ピーターもイエスと仲直りします。そこに希望を見るのが一般人の常識です。
でも彼は剣を持って、断ち切ろうとする。ほのかに見える、希望の光を断ちるんでしょう。彼はへその緒を断ち切り、彼の幼年時代や、彼のヒーローと決別して、近代へのカーテンを開けます。
それがいかに恐ろしいことであったか、仏教徒として育った改宗者の私や、自分は無神論者であると平気で言い放つ人たちには決してわからないでしょう。
ここに、19世紀のフランス、ロマンティシズム、カソリック教徒という背景を書き込むと、少し違った絵が見えてくるでしょうが、今日はここまでで失礼します。
洗濯をしなくては。
ちゃおぽるぽさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
★ キリスト教徒の子供達は、聖書の物語を身近に読みながら成長します。それが現実のモラルとして根付きます。イエスをモラルの基本として育つわけです。
☆ ここに着目されたんですね。つまりこの《モラル》が 残念ながらただの固定観念になってしまいがちだという 人間の慣れや慣わし の問題があるということ。その問題にボードレールは立ち向かったのだと。人間および社会の規範というものには人びとにとって共同の観念となり幻想にまでなってしまう部分があるという問題。
この幻想の雲を突き抜け晴らそうとしてボードレールは 露悪趣味を着て露悪趣味どころか少なくとも言葉としては冒涜の表現をも使った。
そのような――共同の幻想としての――神などはすでに死んでいると分かっているのに そののちにもはっきりとそう表明しなければ人びとの願いとしてイエスの用意した人間の世界はその扉が開かれなかった。というのでしょうか。・・・いまもまだ 観念の神をめぐるもやもやした雲霧の世界が人びとのあたまの中を覆っているでしょうか。(ムラカミハルキ・ワールドがそれです。断言します)。
このつてでは
★ でも彼は〔* 詩作では ペンによる表現としての〕剣を持って、断ち切ろうとする。ほのかに見える、〔* 人びとのあたまの中に巣食う・観念としての言葉としての《文字》としての〕希望の光を断ち切るんでしょう。彼はへその緒を断ち切り、彼の幼年時代や、彼のヒーローと決別して、近代へのカーテンを開けます。
☆ ぎゃくにその《モヤモヤ・ワールドの中でそのまま生きよ》というのが ハルキのメッセージだと考えます。それが現代の世界でもかなり迎え入れられているようです。
単純な話としては こうも考えられましょうか。
たぶん日本風に言えば人びとは―― naïveté ないし simplicité からへそを曲げてしまっていたのでしょうか―― イエスの死を ころしたのはローマ人なのにユダヤ人の所為だと信じ込んでしまいたいと思いつづけたほど 《たたり(祟り)》だとおそれていたのでしょう。ナイーヴでシンプルなのは ばかだというのが世間の相場であるようですから。たしかにイエス神社を到るところに立てたようです。
少しボードレールからはずれるかも知れませんが 基本的なことを確認したい気持ちがあります。
ペテロ・つまり弟子たちみな・つまりは人間が イエスにしたがうということは イエスが神に従順であるようには 人間の意志や努力だけでは出来ないということ。《文字はころし 霊は生かす》ということ。《文字》は 観念の神を生みがちであり 幻想にまで成り得る。
これにもとづくなら ペテロらの裏切りが まさにそのことを示しているのだと分かると思います。いくら口で死に換えてもイエスを守ると言っていても それは 意志としてとうといことだけれど その自由意志のみによっては成るものも成らないのだと。
しかもアウグスティヌスの述べるところによりますと その裏切り(《聖ペテロの否認》)は イスカリオテのユダに対してユダの欲するがままに行動することをゆるしたのと幾分違って幾分同じように 神の力のはたらくところであったと言います。
神がモーセに語ったところを当てはめてそのように論じています。聖書のその箇所のみ引きます。
見よ 私の傍らに一つの場所がある。
私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう。
私はあなたを岩の頂上に置こう。
私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。
私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。
私の顔はあなたに現われないであろう。
(出エジプト記33:20-23)
イエスの十字架の死が成るまで 弟子たちは《かれ》の手で覆われてしまった。その手が除けられると イエスの《背面》を弟子たちは見た。その背面のすがたは 復活したイエスという物語として伝えられることになった。
恰好をつけてごめんなさい。
★ 彼はへその緒を断ち切り、彼の幼年時代や、彼のヒーローと決別して、近代へのカーテンを開けます。 // それがいかに恐ろしいことであったか
☆ こういう歴史の経過を見ますと アウグスティヌスの命題がすでに先にあって 人間はあたふたと正直にも ナイーヴさや脳天気さを人間として取り戻すために いわばたたかって来ているのだぁと思いました。添削をお願いしておきます。
No.1
- 回答日時:
bragelonne さん、こんばんは。
私がボードレールのどういう点に魅了されたかについては、すでにiacta-alea-est が立てられたご質問に寄せた回答中に記しましたし、彼がことさら好んで採用したがる反社会的、背教的、背徳的な素材や主題には、正直申してさほど興味も関心もありません。
ただ、ちょうどドイツ・ロマン派のF.シュレーゲルがフィヒテの自我哲学からdie Romantische Ironie(ロマン主義的イロニー)を導き出したように、フランス・ロマン派の中にあって、一人ボードレールだけがイロニーに覚醒し、「オレは自分の心臓の血を吸う吸血鬼」という反省の底なし沼に陥ってしまった点にこそ、彼の独創性と限界を感じずにはいられません。
つまり、イロニーの犠牲となった代償として、現代批評の嚆矢という栄誉を授けられた点にこそ、ボードレールのオリジナリティがあるのではないか、と。
>そうだろう? 夢のやぶれたキリストなんておいらはおさらばさ。
> あんたが逝ってしまうのならおいらはつるぎを振りかざして人をころし
> あんたから地獄行きの宣告をいただくほうがましさ。
> あのペテロもあんたをあのときは裏切ったではないか。三回も。
>かれは割り合いにしてかなりキリスト者であった。字面に似合わず そうなのではないか? 質問者としてはこう問うています。さしづめ《神の沈黙(――沈黙する神 あるいは 隠れたる神(デウス・アブスコンディトゥス)――)》といった主題でしょうか?
『悪の華』にしても、辞書の助力なしでは一語も読めない私ですが、ペテロに仮託されたボードレールの真意となると、特に最終聯については、以下のように読みたいところです。
— Certes, je sortirai, quant à moi, satisfait
D'un monde où l'action n'est pas la soeur du rêve;
Puissé-je user du glaive et périr par le glaive!
Saint Pierre a renié Jésus... il a bien fait!
――オレ? オレは言うまでもないさ、愚痴はなしで
行為と夢想の仲を引き裂くこの世からおさらばするだけだ。
なろうことなら、みずから剣をとり、剣にて死なん!
かくて聖ペテロはイエスを否認せり、ものの見事に!
そう、ボードレールとしては、ペテロはとっくにイエスを見限っていたと言いたげなのではないでしょうか。
なお、神を罵ることにかけては、ヨブだって負けてはいませんでしたし、ボードレールの神に対する罵詈雑言にしたって、一種紋切り型の域を出ていないような気がします。
さらに、「神の沈黙」ということなら、遠藤周作の『沈黙』の方がボードレールよりもはるかにリアルに描き得ていると思います。
ペテロの仮面を被ったわれらがボードレールの場合、やはり「行為と夢想」の一致を憧れつつ、同時に「この世」にそんな僥倖など起こり得ないことを誰よりも明晰に知り尽くしていたはずです。
そして、この《敬虔》さにおいて、彼は正真正銘のカトリックだったのではないでしょうか。
なお、この詩に二月革命での挫折体験の投影を見る注釈者もいるようですが、いかにも牽強付会を天職と信じて疑わない学者ならではの発想でしょうね。
かどわきさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
ご見解は 質問者のと切り結びしていると言っていいのでしょうか? それとも詩作品にかんしては行き詰まりなのだからその挫折ばかりが目立つのみだという見方になりましょうか。
真っ先にポーンと問い返しを打つとしたら こうなりましょうか。
○ 神に見捨てられたイエスは――物語としては――復活した。あのどうしようもないなまくらな裏切り野郎のペテロも――弟子たちの筆頭としてなら ほかの者も同じように裏切ったあとみな―― よみがえってしまった。人びとにイエスの話をし始めてしまった。――この部分は作品には現われていませんが とうぜんその含みはあるはずです。(たとえボードレール自身が気づいていなかったとしてもです)。この要素についての処理が 今回のご回答における解釈としては 成されていないと見るのですが どうでしょう? 必要がないと見た こういうことになるでしょうか?
☆ このような含みをまづは問いたいと思います。ペテロは《剣で役人に斬りかかった》ことすらありましたね。その報いを受ける身で・しかもその報いの因果関係を超えて――その当否や善悪はともかくとして―― 見事によみがえりました。この含みに触れることは 次のような意味合いを帯びます。
★ ペテロの仮面を被ったわれらがボードレールの場合、やはり「行為と夢想」の一致を憧れつつ、同時に「この世」にそんな僥倖など起こり得ないことを誰よりも明晰に知り尽くしていたはずです。
☆ まづ《ペテロの仮面を被ったわれらがボードレール》という規定にすでに ひとつの要素として 誰であるにせよ裏切りや挫折のあとに 見事よみがえることもありという今の含みを帯びるようです。作品での記述は 《仮面にすぎない》という含みがあるという意味です。
もうひとつに
★ やはり「行為と夢想」の一致を憧れつつ、同時に「この世」にそんな僥倖など起こり得ないことを誰よりも明晰に知り尽くしていたはずです。
☆ を裏返すならば いっぽうの《夢想》は 《この世》をも超えて・しかも《この世》において 夢物語としてなおその限りで現実だと たしかにはっきりと言っています。これが イエスの復活でありペテロらの盛り返しという部分です。むろんこちらの含みのほうが 主要な第一義的な主題であるはずです。
★ ・・・フランス・ロマン派の中にあって、一人ボードレールだけがイロニーに覚醒し、「オレは自分の心臓の血を吸う吸血鬼」という反省の底なし沼に陥ってしまった点にこそ、彼の独創性と限界を感じずにはいられません。
☆ 現実のボードレールが人生の破算に落ち入り自己破滅に到ったという見方を横ににらみつけながら たとえばいまこの《聖ペテロの否認》という詩作品では わづかにでも《底無し沼》のさらに底を突き抜けてみごとこの陸(おか)に上がって来てしまったという含みは 感じられませんか? という問いになっています。その点 どうでしょう?
★ さらに、「神の沈黙」ということなら、遠藤周作の『沈黙』の方がボードレールよりもはるかにリアルに描き得ていると思います。
☆ 人間が生きたという事実にもとづこうとして遠藤は書いていますからその描写には――そして日本人社会のあいだで神が沈黙するという事態について その或る程度は特殊な事例としても――よく思索が練られているとわたしも感じます。ボードレールにも二月革命という人間史実があるかと言えばあるはずです。ただしこの詩では そして一般に詩としては 個人的体験を一般化して表現していますから 具体的な経験事例から独立して創作されているとわたしは(わたしも)考えます。
そしてその神の沈黙を描いたあとのみづからの見解についてですが ひと言で言って遠藤は《観念の神》に逃れました。(行けども行けども泥沼のつづく日本人どうしのマについては 聖母マリアの情感をともないつつ・あなたの触れておられた《日想観》という答えに行き着いた)。ボードレールは どうか。これが知りたかったことです。贔屓目に見れば 復活を見とおしている。と言えるかどうか。
★ そして、この《敬虔》さにおいて、彼は正真正銘のカトリックだったのではないでしょうか。
☆ このご表明のさらに中身が知りたいです。
《復活》を 死後に置くなどということなくすでにいま・ここにおいて 一方で《行動と夢想との破綻》を知りつつ 他方で《しかもその夢想が――無根拠において――その破綻を覆い包む》というかたちで現実だと知っている。のかどうか。反カトリックあるいは非カトリックゆえに わが夢想はカトリックなりと言っているか。
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