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1. 神の子でありみづからも神であるキリスト――ヨハネ福音の冒頭の《ロゴス》――は 勝手に人間イエスとなり磔に遭って死んだのだ。


2. もし人びとの罪を贖うために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは ふつうの《自己主張》である。人間でも犠牲になることはできるとすれば その人間にも出来るただの世話焼きである。

3. 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど;

4. キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。
――ただこれだけの話である。

5. だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。

6. つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。――これだけのことである。

7. この神は 普遍神であるゆえ いちいち神やその名を持ち出す必要がないし 人びとが議論するのも自由であるが 《有る神》だけではなく 《無い神》として捉えて あとは放っておくのも自由だ。

8. これを イエス・キリストが示したのだ。

――ご教示ください。


  * 

 
9. クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。

10. 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁でもないということです。

11. キリスト・イエスが そのこと・つまりヒエラルキア宗教は要らないということを指し示したのだと。

12. 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。なぜなら 思考を超えた非思考ゆえ。

13. わが心に《非思考の庭》が成るということ。これは 《感性の原野(身体) や 思考の緑野(精神)》をも超えている。その《庭》の持続過程が 信じるという動態であると。


――フルボッコでの自由なご批判をどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • 14, じんるいの負った原罪を十字架じょうの死をもって あがなってやったぞ・・・などという恩に着せるようなことをするはずがない。だから 勝手に死んだ。

      補足日時:2022/09/27 20:05

A 回答 (2件)

ヒエラルキア宗教の否定をイエスがするわけない、


高次元の人間的価値や創造をめざしているのであれば
目的や理想を達成しようとする組織は必要だ。園児にも分かる

《非思考》で《信じる》がいかに不幸を招くかご存知ないようですね。
園児にも分かるが
思考により《信じる》がより深まる事こそ重要なのです
頭が崩壊している方には通じませんが。

ヨハネ福音の冒頭の《ロゴス》を《思考》により疑ったのがゲーテだ
ファウストは「太初に言ありき」に納得できず「太初に意りき」「太初に力ありき」と言い換え、最後に「太初に行ありき」と翻訳してみて初めて心から安堵します。
このくだりは謎めいた含意性 におおわれており、さまざまな考察が行われてきしたが、端的に言うと、巨人ゲーテのもっとも東洋的な側面であり、東洋的発想ではないかととらえられます。

「太初に言ありき」聖書のヨハネ伝福音書の冒頭にある。 しかし、
ゲーテは、はじめにあるのは 「言葉(Logos)」ではなく、人間の「行」であると考えた。
「太初に行ありき」だ。 これまでの文脈でいえば、人間の可能性、その 「行動 によって運命を切り開いていくカ」がはじめにある。マルクス主義 のように、理論、 ロゴスがはじめにあるのではない。
人間 には不可能を可能にする力 、矛盾した具体的問題を解決する知恵がある。 その力、知恵の発揮から出発すべきであって、それなしに、どんな立派な理論を作ってもだめだ。
こうした人間の可能性を信じ「楽観主義」への信頼にある、というのではないでしょうか。
ファウストは聖書の否定から始まってますね。
その不定された聖書から、学ぶ事と、トンチンカンな理論になる。


注・・・・質問者:bragelloneさんが
     トンチンカンとか園児に劣るとか頭が崩壊しているとか、
     言っていません
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ ヒエラルキア宗教の否定をイエスがするわけない、
☆ けれども 《〔普遍神を〕信じる〕》のに 集団は要りません。


★ 高次元の人間的価値や創造をめざしているのであれば
目的や理想を達成しようとする組織は必要だ。
☆ それは一般に 形而下の経験行為としての社会活動の問題です。

また 《信じる――つまり ナゾの普遍神を無条件でわが心に受け容れる――》のであって そこでは やはり人間の価値判断は なじまない。


★ 《非思考》で《信じる》がいかに不幸を招くかご存知ないようですね。
☆ いかに元気が出るか ご存じないですか?

★ 思考により《信じる》がより深まる事こそ重要なのです
☆ 神性・霊性・生命性は 感性や理性を超えているのです。


★ ヨハネ福音の冒頭の《ロゴス》を《思考》により疑ったのがゲーテだ
☆ 自由です。

★ ファウストは「太初に言ありき」に納得できず・・・最後に「太初に行ありき」と翻訳してみて初めて心から安堵します。
☆ それは 経験世界と超経験とが――基本として互いのあいだに絶対の隔たりがあるが その上では―― 後者(つまり神)の側から 前者(つまり人間)の側にハタラキカケがあるということを見越して そう表現したのです。


★ ファウストは聖書の否定から始まってますね。
☆ 《否定》ではないのです。

★ ・・・しかし、
ゲーテは、はじめにあるのは 「言葉(Logos)」ではなく、人間の「行」であると考えた。
☆ 神性(信じる)と人間性(考える・感じる:おこない)とを使い分けできていればよろしい。


★ 「太初に行ありき」だ。
☆ つまり 《ことば(ロゴス)が肉(人間イエス)と成った》も その《おこない》の一環です。

★ これまでの文脈でいえば、人間の可能性、その 「行動 によって運命を切り開いていくカ」がはじめにある。
☆ ということを 《信じる》を指し示すことでイエスと成ったキリストは 実践し生きたのです。


★ マルクス主義 のように、理論、 ロゴスがはじめにあるのではない。
☆ まぁ唯物論は 唯心論と同じだと言えるでしょう。


★ 不可能を可能にする力
☆ ちょっと言い過ぎかも。


★ 「楽観主義」
☆ は 経験思想であり 《信じる〔チカラ〕》とは 別次元でしょう。

お礼日時:2022/09/30 14:39
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この回答へのお礼

ご投稿をありがとうございます。


意味連絡が いまひとつ分からないんだけれど。・・・

お礼日時:2022/09/29 09:07

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