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(あ) ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから
――むろんそのコイトスをつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわ
けですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子
でありみづからも神であると言った。――これが ひとつめのウソです。

(い) もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明
することも出来ます。
 
(い‐a) つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。
アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっていると
いった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わた
しが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンであ
る》と言ったわけです。

(う) すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊
を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなはずですが 
イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言った。

(え) すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思
考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウ
ソです。




(お) 第二のウソは 神は どんな名であろうと みなまとめて ただひとつ
であると言いました。

(か) それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま
去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつ
であることが 確認された。

(き) なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から 
もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降り
て行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは 
おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえ
に 奇蹟を起こさなかった。

(く) またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それ
は せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておい
てやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツ
ケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。



(け) このウソによれば 人びとは 泣こうが笑おうが とにもかくにも 元
気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば――《特異点》を見た思いであ
る―― ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの
効用。

(こ) しかも やがては 名の違う神どうしの――または同じ名の神どうしで
あってもの――ケンカは もう用無しとなるという手筈がととのった。

(こ‐a) みな われがわれに還る。世間と完全に和解することができるらしい。
そのために 大嘘をついた。イエスという男。
  
(こ‐b) 宗教のオシヘは――《無い神》という名の神を奉じる無神論なるオシ
へについても――どうでもよい。のだと。普遍神をさししめした。ィエホシュア。


☆ ご教授ください。

A 回答 (23件中1~10件)

だから、その聖霊がヨセフ以外のマリアの恋人でしょう。

何が必然性がないですか。
そういう批判こそ、訂正を求めたい。神とか聖霊とか正体の分からぬ何者かが裏に当然いるでしょう。それはマリアの不倫ということです。マリアの心の支えですから、騙されたという表現は不適切かな。
奇跡には無関心というが、その解明こそが聖書研究の最大の課題でしょう。
逃げないでほしい。
イスラム暦とかいうのはコーランですか。あれはマホメットですな。
まあ、そこにもイエスに当たる人が出てくる。

偽物処刑が推理です。イエスには替え玉がいたわけです。反論せずに認めてほしい。
それでこそ、復活とかが話題になる。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ だから、その聖霊がヨセフ以外のマリアの恋人でしょう。何が必然性
がないですか。
☆ これは 神学ですから――合理性が保証されず 想像裡での議論にな
りますが―― あくまで《霊性ないし聖霊》は それとしてそのまま受け
留めて応じることになるのではないですか?

言いかえると すべてを合理性の効く経験世界の出来事として捉えるのな
らば 《神》についての話ではなくなります。そういう話として議論する
ことも可能かも知れませんが ここでは 神の話として情報交換をおこな
うという前提です。


★ そういう批判こそ、訂正を求めたい。
☆ いえ。話の前提がちがうという意味です。


★ 神とか聖霊とか正体の分からぬ何者かが裏に当然いるでしょう。
☆ 《裏にいる》ということは 聖霊の場合もありましょうが 単に人間
があやつっているという場合もあります。ここでは 神の話に特定したい
ですね。



★ それはマリアの不倫ということです。
☆ 不倫とは成らずに 聖霊がはたらいたという解釈は出来ますし この
問い求めの場合には そのほうがふさわしいはずです。



★ マリアの心の支えですから、騙されたという表現は不適切かな。
☆ マリアが聖霊ないし天使と話をするところをたしかめてください。と
ても騙されてついて行く人間だとは考えられません。万が一そうだったと
しても そのあと そのような事情をしょうじきに話す人間であると見ら
れます。





★ 奇跡には無関心というが、その解明こそが聖書研究の最大の課題でし
ょう。
☆ 見解の相違です。互いに自由に という意味です。



★ 逃げないでほしい。
☆ ですから 少しはあなたの話に乗って これこれの奇蹟ならこういう
ふうに解釈できるかも知れないということを お話しました。


★ イスラム暦とかいうのはコーランですか。あれはマホメットですな。
まあ、そこにもイエスに当たる人が出てくる。
☆ 西暦が絶対ではないと但し書きを書いただけのことです。



★ 偽物処刑が推理です。イエスには替え玉がいたわけです。反論せずに
認めてほしい。それでこそ、復活とかが話題になる。
☆ 替え玉をみとめたなら 復活にはならないぢゃないですか? イエス
は死んでいないんですから。

お礼日時:2019/11/18 09:30

あについてはマリアにはヨセフ以外の男がいて、それが聖書の中で神や聖霊を名乗り、イエスを陰で操る黒幕となっている気がする。


問題はその神なる男が何者かです。
ガブリエルの天使とかいうのは、その男の使いみたいですね。いわゆる神の使者というべきか。
処女懐胎はあり得ません。子供は夫婦の性交でできるもの。イエスはヨセフの養子という設定ですから、マリアには誰か別の男がいたということになる。

キリスト教はどうあれ、世界の暦は西暦と呼ばれ、キリスト生誕の年を元年としている。後でずれていたとわかってもずれは修正されずに今に至る。
その意味で実在は認めるしかない。

もちろん、こうしたキリストの生誕一つとっても多くの奇跡で聖書を経典としてキリスト教は成立。今まで世界を動かす。ただ、奇跡の多くは種の分からぬ手品だと思います。
モーゼがローマ王パロに見せた奇跡とか、様々な聖人とよばれる人々が行う奇跡の多くも手品でしょう。種が分からぬから奇跡という言葉でごまかすだけ。

海が割れる話は天童よしみのチンド物語みたいなものですな。

磔は偽物処刑でしょう。復活というのは狂言。後で、本物が出てきて復活を演じただけ。
イエスにはよく似た替え玉がいたのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ あについてはマリアにはヨセフ以外の男がいて、それが聖書の中で神や
聖霊を名乗り、イエスを陰で操る黒幕となっている気がする。
☆ その男にマリアは だまされた・・・という意味ですか? そういう経
緯について必然性がわたしには感じられないんです。


★ 問題はその神なる男が何者かです。
ガブリエルの天使とかいうのは、その男の使いみたいですね。いわゆる神の
使者というべきか。
☆ 必然性がないとやはり思います。


★ 処女懐胎はあり得ません。子供は夫婦の性交でできるもの。
☆ そのとおりです。


★ イエスはヨセフの養子という設定ですから、マリアには誰か別の男がいた
ということになる。
☆ それは どうでしょうか? 聖霊によって身ごもったとはっきり書いてあ
ります。




★ 世界の暦は・・・キリスト生誕の年を元年としている。・・・その意味で
実在は認めるしかない。
☆ イスラーム暦もあります。



★ もちろん、こうしたキリストの生誕一つとっても多くの奇跡で聖書を経典
としてキリスト教は成立。
☆ 奇蹟は どうでもよいと見ます。


★ 今まで世界を動かす。ただ、奇跡の多くは種の分からぬ手品だと思います。
☆ 奇蹟は 関心がありません。


★ モーゼがローマ王パロに見せた奇跡とか、様々な聖人とよばれる人々が行
う奇跡の多くも手品でしょう。種が分からぬから奇跡という言葉でごまかすだ
け。
☆ エジプト王ですが 奇蹟は何とも思いません。


★ 海が割れる話は天童よしみのチンド物語みたいなものですな。
☆ 敢えて言えば 天候などが イスラエルの味方をしたといった中身を 針
小棒大な話に仕立て上げた・・・とでも受け取ればよろしい。


★ 磔は偽物処刑でしょう。
☆ 推理の内容を〔こそ〕述べてください。



★ 復活というのは狂言。
☆ おかしなことを言いますね。復活なんてあり得ないでしょう。分かり切っ
ています。


★ 後で、本物が出てきて復活を演じただけ。
イエスにはよく似た替え玉がいたのでしょう。
☆ だからどうなんだ? という話になります。

推理の過程も大事ですし その結果 何が言えるか? これも大事。そういっ
た哲学としての思惟をしっかりとかためて欲しいと思います。

お礼日時:2019/11/18 08:45

キリスト教は信用しません。

侵略して布教してないか。神道と仏教は余りしないと思います。但しイエスさんは、判りません。
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この回答へのお礼

わたしは 宗教はどれも アウトだと言っています。

考えるべき思想であるオシヘを 無条件に心に受け容れなさいと――つま
り 信じなさいと――説くのは 人間性に悖ると考えるからです。


★ 但しイエスさんは、判りません。
☆ つまり これは 個人としての信仰の問題だと思います。そう同じく
思います。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/11/17 10:06

ここでいう設定は単なる思考の枠組み=カテゴリーの設定ですけど、カントの悟性認識は、時間空間因果の枠組み=モノサシを使って、事象を類推推理理解する力、understandingのことです。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

カントにかんしておっしゃるとおりだと思いますが それが成り立つかどうかを
問うています。

お礼日時:2019/11/17 00:02

神のデザインの認識=概念認識以前に、事象を理解=悟性するのに、時間空間因果律と言ったカテゴリー=枠組みが、悟性理解understandingそのものとして、働いている、というカントの意見に私は違和感を覚えません。

その通りです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


純粋悟性が たとえば空間についてすでに理性による概念認識に先立って
《認識》している――といった仮説は 必ずしも立証されているとは限ら
ないと思います。

次の問いの趣旨説明欄をごらんください。このお礼欄では 字数制限で引
用するのもむつかしいですから。
○ 【Q:カントは コペルニクス的転回を説いたとき 白だったか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11217901.html

☆ つまり モリヌー問題です。説得力のある反論がすでに提出されてい
るようだと見ます。

お礼日時:2019/11/16 23:51

先経験的は、生まれながらに人に備わってるのではなく、人が認識経験する為に、人が前提として設定しているものです。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 人が認識経験する為に、人が前提として設定しているもの
☆ であるとしたら それは《設定する》という経験行為――そこ
には とうぜん認識という行為がおこなわれている――がふくまれ
ています。


もちろんいまは カントがどういう定義をして用いているかの問題
です。つまり きわめてあいまいなんだと見ています。

お礼日時:2019/11/16 23:39

メガネのないものは、少年ばかりでなく、認識できません。

無知を知ることになります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


四次元の座標つまり空間や時間 あるいはその世界においてものごとの
あり方また人間としての知解行為や意志行為 こういった基本的なこと
を知らないなら その場合の認識は おぼつかないものになります。



つまり メガネにも ふたつの用例があるかと。

いま上に述べた世界についての基本的なものごと〔をわきまえているこ
と〕としてのメガネ。

もうひとつは すでに主観が一定の思想を形成しており その思想内容
をすでに前提(=メガネ)として自己の見解を表現するときのそれ。

この後者のメガネは 少年にはまだ形成されていないと思います。

お礼日時:2019/11/16 23:36

アプリオリは、聖書の宇宙が作られる前の先天的でも、生物学で使う先天的でもなく、人の認識経験に先だって、設定想定し、経験を作る、という先経験的のことです。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

№14の議論は カントの概念を離れて《先天的》という意味に採るな
らばということです。


カントの定義は こうだと思われます。:

▲ (空間概念の形而上学的解) ~~~~~~~~~~~~~~~~
空間は 多くの外的経験から抽象されてできた経験的概念ではない。

或る感覚が私のそとにある何か或るもの(・・・)に関係し得るためには
(☆ 或る感覚を別の或るものによって定義し説明し得るためには)

・・・

空間の表象がそもそもその根底に存しなければならない・・・。
(☆ 空間+時間の四次元の座標のもとに対象を捉えていることが基礎に
なっているはずだ)。

それだから空間表象は 外的現象の種々な関係から 経験によって得られ
たものではあり得ない

むしろかかる外的現象そのものが 〔☆ 主体たる私の側における純粋悟
性を通しての〕空間表象によってのみ初めて可能になるのである。

(I.カント:『純粋理性批判』篠田英雄訳 Ⅰ・第一部門・第一節・2 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



★ 人の認識経験に先だって、設定想定し、経験を作る、という先経験的
のことです。
☆ だと思いますが それは じつはあいまいです。

《理性による一般的な概念認識に先立って起こる純粋悟性のハタラキにつ
いて言っている》。しかもその内実は 《時間や空間といったカテゴリが
純粋悟性として――先験的にはたらくのであるが―― それ自体は 経験
的な行為(または現象)である》。ゆえに きわめてあいまいです。

お礼日時:2019/11/16 23:28

ひとは認識=理解=悟性するとき、必ず、ある思考の枠組みを前提に、これをメガネにして、認識しているのです。

この思考の枠組みこそ、カントでいうアプリオリなカテゴリーであるし、トマス=クーンでいうパラダイムですし、いわゆるフレームワークのことです。こうしたカントの系譜思想で言えば、神という言葉、神フィクションは、これらのことです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ ひとは認識=理解=悟性するとき、必ず、ある思考の枠組みを前提に、
これをメガネにして、認識しているのです。
☆ ふつう そうでしょうね。

そのメガネをまだあつらえていない少年の場合は どうなんだ? と言わ
れるかも分かりませんが。


★ この思考の枠組みこそ、カントでいうアプリオリなカテゴリーである
し、
☆ いや。それは違います。時間・空間あるいは因果関係といったカテゴ
リは 《先験的にそなわっている》んです。思考ないし認識に先立ってす
でに 純粋悟性としてはたらくと言います。それが カントのアプリオリ
です。


★ トマス=クーンでいうパラダイムですし、いわゆるフレームワークの
ことです。
☆ ええ。《メガネ》のことです。

フレームワークは 特定の論文を書くときに特定の準拠枠として設定する
場合もありますが。



★ こうしたカントの系譜思想で言えば、神という言葉、神フィクション
は、これらのことです。
☆ パラダイムは カントに関係なく成り立つと思うですが。

そこに 《神という言葉》がすでに前提としてふくまれるというのは 哲
学として・しかも形而上学としてという条件のもとにであると――先ごろ
は――思われます。

自然科学は 《神フィクション》から自由に――神観といった主観の表明
を禁欲して―― 理論づけますから。

お礼日時:2019/11/16 23:11

ここのアプリオリの神という、そのことばは、神フィクションのことですが?

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

もしアプリオリを《先天的》と採るならば そうです。

《生まれつき自然本性(身と心 また 霊性)にそなわったその霊性》
という神フィクションです。


《身と心》は フィクションではなく 実在として扱われます。

お礼日時:2019/11/16 22:51

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