
▼ (コトバンク:コペルニクス的転回) ~~~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%8 …
▽ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 ~~~~~~~~~~~
1. われわれの認識は対象に依拠すると考えられていたが,カントはこ
の考え方を逆転させて,対象の認識はわれわれの主観の構成によって初め
て可能になるとし〔た〕。
▽ 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
2. カント(1724 - 1804)は、認識の対象である世界は、空間・時間
および範疇という感性・悟性の先天的(☆ もしくは先験的)形式にのっ
とってもともと主観が構成したものである、と主張 [武村泰男]
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3. このとき 《空間》という先験的(アプリオリ)な認識形式に注目
します。果たして ひとにその主張どおりに備わっているか? です。
4. もともとその当時にも 《モリヌー問題》として研究対象になって
いたのでした。
▲ (ヰキぺ:モリヌークス問題(Molyneux's Problem)) ~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AA …
5. 哲学問題の一つ・・・で、触角・視覚による認識の違いと経験につ
いての問いである。
§ 3 医師・学者たち
6. イギリスの医師ウィリアム・チェゼルデン( William Cheselden
1688-1752)〔による〕・・・開眼手術の経過(1728年)・・・
7. 開眼者は13才の先天性白内障の少年だった。
8. 当時の開眼手術は白内障だけで、光が網膜に届くのを邪魔している白
濁した水晶体を針で眼球の中(ガラス体)に堕(お)として邪魔ものをなくし
眼底まで光を通す、という紀元前から行われている墜下法(couching)だった。
9. ・・・ 少年の手術は成功したが、開眼直後の報告では彼は対象の区別
ができず、当然距離も判らず「すべての対象が」「眼にくっついてる」よう
に感じた。
10. フランスの外科・眼科医ジャック・ダヴィエル(1693-1762)の手
術例
11. 彼は22例の開眼症例をまとめ、「手術後、目の前に出された対象に
触らず、眼で見ただけでそれとわかった患者はひとりもいなかった」(1762)
と報告している。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
12. すなわち 視覚による空間の知覚は 開眼直後では――つまりは 先
験的にはたらくかどうかの問題としては アプリオリに生まれつき備わったと
主張されたままの状態では―― はたらかなかった。という実証である。
13. 見るという経験行為の積み重ねと――そのとき むろん世界とそこに
おける対象に向き合うという経験がふくまれますが そのほかに――触覚の経
験とがあいまって やがて 距離感覚ないし空間の知覚が得られる。というの
である。
14. 現在の科学的知見が どうであるか? ヰキぺだけでは 不十分なの
かどうかも わたしには定かではありませんが 問題は カントが その『批
判』を世に問うたとき( 1781~ )このモリヌー問題は じゅうぶん問い求め
がすすめられていたということである。
☆ さらに詳しい問題点など おしえを乞います。
A 回答 (6件)
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No.6
- 回答日時:
逐条的なような返信、並びに更なる質問と、私のコメントも意味があったか? いえ、単に役に立たなかったということのようです。
返信に目を通したという足跡は残しておきましょう。
海外にもa prioriの意味を取り損なった人が居るかいう探索ですか? まあ皮肉はおいて、
触覚・視覚の問題を詳細に論じたのはバークリーだったでしょうか。誰であったかはさておき、感覚器官によって距離はどう把握されるのか、という論考は当時有ったのでしょう。「触覚による《アポステリオリな経験》が必要である」と認識した上で、カントが自説を立てたということは、
イ)そこに矛盾があると気づかないアホーであった、カントは。と「理解」するか。
ロ)見え透いた矛盾を放置する者など居るはずはない。ということは矛盾と見る解釈に問題があると再考する。
私としては後者に資するためにコメントしたのですが、カント擁護の論陣であるかに見ている向きもありますね。私としては、カントを批判するにしても、ズレた解釈では益がなかろうというものだったのですが。ヤレヤレ。
ご回答をありがとうございます。
★ 逐条的なような返信、並びに更なる質問と、私のコメントも意味が
あったか? いえ、単に役に立たなかったということのようです。
☆ 外国の資料に当たろうというキッカケになりました。
★ 海外にもa prioriの意味を取り損なった人が居るかいう探索ですか?
まあ皮肉はおいて、
☆ いや そういう指摘の場合は 最後まではっきりさせなければいけ
ません。
★ ~~~~~
・・・感覚器官によって距離はどう把握されるのか、という論考は 当
時有ったのでしょう。「触覚による《アポステリオリな経験》が必要で
ある」と認識した上で、カントが自説を立てたということは、
イ)そこに矛盾があると気づかないアホーであった、カントは。と「理
解」するか。
ロ)見え透いた矛盾を放置する者など居るはずはない。ということは矛
盾と見る解釈に問題があると再考する。
私としては後者に資するためにコメントしたのですが、カント擁護の論
陣であるかに見ている向きもありますね。私としては、カントを批判す
るにしても、ズレた解釈では益がなかろうというものだったのですが。
ヤレヤレ。
~~~~~
☆ この問い求めの進展は すでにその後のふたつの質問においてわた
しの考えを述べました。
【Q:カントの打っちゃり術!?――モリヌー問題をめぐって――】
【Q:《物自体》は お化けである。(おまけ)】
わたしの考えは:
ハ) カントがこの問題に触れたとしたら 人間学講義のように 開眼
手術の結果をなぞるだけでは ダメだと言わねばならない。
ハ₋1) やはり 純粋直観による先験的な客観があるなら なお論証を
つづけなければいけないし 仮説を破棄するのなら はっきりとコペル
ニクス的転回説を取り下げますと言わなければいけない。
☆ 学問的なとしても人間的なとしても 良心にとぼしい。と結論づけ
ます。その意味では 言葉としてイ)のアホ―です。
あなたは 自分の推理が合っていたか間違っていたかという点にだけ気
を遣っている。
カント説は 学問においても世界の思想(=生活態度や社会のあり方)
においても どんな意味を持ったか? これを問い求めるのが われわ
れのたましいです。
No.5
- 回答日時:
>さらなる専門的な知見
---素人見解は不要というのはあまりに当然なことですから、これで引っ込みますが、舌っ足らずの箇所の言い訳は書かせて下さい。
>「立体図形として与えられるはずだ」と解釈していませんし その解釈がありうるとも言っていません。
---即ち、「立体図形として与えられる」という私の言い換えにご不満と言うこと。
>見えている世界が 三次元の座標にきちんとおさまったかたちが捉えられ
>経験に先立って空間における位置感覚が認識しうるという仮説
>ものどうしの・あるいは ものと認識主体たるわれとの 距離感覚
---とすれば、私の言い換えに問題はないはずです。立体図形=「幾何学」的図形として、という意味と受け取られたならそこは誤解が生じうると言えますが。
>「すべての対象が」「眼にくっついてる」ように感じたりするようでは アプリオリな純粋悟性概念〔がそなわっているの〕だとは言えないでしょう。
---即ち、カント説では、物体は分離して捉えられ、且つその物体間には距離感覚が加わったものとしてある、という解釈なのですね。
>何のために? そのときカントの先験的な純粋認識説が出ていたわけではないです。
---私の憶測はそのようなものと無関係です。単に、周りからよってたかって聞かれ、本人も何とか答えたいと思っただろうと言うことです。専門的な訓練も受けずに描写するのは難しかっただろう、と同情したに過ぎません、ちょっと割り引く必要があるだろうと。
>「結局は他の人々と同様な図形の認知に進む」のは アポステリオリなふつうに言う認識です。カント問題とは別です。
---実在物をそのまま認識するという見解にとっては、何の問題にもならないことですが、物の認識は地球の裏側の人と何故一致するのか。否、目の前の人とも何故一致するのか。それは各人が同型のカテゴリー群を事前に持っているからだ、と一応説明できる。それもカント説の一部、と私は理解しているのですが。
開眼手術の例は、カントが直接触れているかどうかは知りませんが、カントの考えを見るのに適切ではあるでしょう。しかしカントに沿って説明するのはかなりやっかいです。
「ものどうしの距離感覚」以前に、対象を「もの」として捉える必要がある。例えば、白球が空に打ち上がっている場面。それが「ボール」・「球体」といった言葉に結び付かなくとも、青空の染み、視野の欠落、等ではなく対象物として見えるということには、それを或ものとして捉えるという判断が働いている。対象物の変化は内的直観が教える。それらを総合して或物が動いていると判断、それらは悟性の働き(その部分は構想力やら、統覚やら素人には説明しがたい)。人に直接与えられるのは開眼直後の患者のように、識別されていない多様である、というのがカントの仮定。開眼後いつから物さらに立体視が生まれるかは経験科学の研究対象に過ぎない。赤ん坊は見えるようになってから、動く物を目で追うようになりますが、それは観察者の判断であって、赤ん坊が「動く物を目で追う」のかどうかは何とも言えない。目で追うことから「物」としての判断が生まれるのかも知れない。当時の心理学的知見がどうであるのかは知りませんが、恐らく、悟性の働きが生まれたばかりの赤ん坊にもある、とはカントも考えていなかったでしょう。カントが主要課題としたのはその対象物に対する「判断の普遍妥当性」でしょう。
bragelloneさんは、カント説によれば、人は生まれながらに判断する能力が授かっている、とし、開眼直後から立体視されていなければならない、と仰る。いや「距離感覚」ですか。生まれたばかりの赤ん坊にも距離感覚はある、とされていたかどうか。カントからすれば、そのような「生まれながら」などは自分の課題ではない、としただろうと思います。
まとめますと、カントのa priori云々から、「経験に先立って空間における位置感覚が認識しうるという仮説」をカントのものとした側に問題がある。
ご回答をありがとうございます。
☆☆ >さらなる専門的な知見
★ ---素人見解は不要というのは・・・
☆ 不要とは言っていません。必要で歓迎し 《さらなる・・・》という意味
です。
★---即ち、「立体図形として与えられる」という私の言い換えにご不満・・・
☆ おそらく問題は 《立体図形》だと認識するのは 先験的な純粋悟性概念
(その作用)ではないでしょう。位置関係や距離感覚を言うのだとわたしは理
解しています。
★ ---とすれば、私の言い換えに問題はないはずです。立体図形=「幾何学」
的図形として、という意味と受け取られたならそこは誤解が生じうると言えま
すが。
☆ その立方体ひとつを取り上げて言ったのではなく それらが見えている空
間の全体を 《立体図形》だと言いかえたんでしょうか? それなら 同じ理
解です。もし同じ理解なら いちいち――言いかえてもかまいませんが――
つっかかることはないでしょう。
☆☆ 13. 距離感覚ないし空間の知覚
☆ と言っているのですから。
★ ---即ち、カント説では、物体は分離して捉えられ、且つその物体間には距
離感覚が加わったものとしてある、という解釈なのですね。
☆ 先ほどの《立体図形》というのは いったいどういう意味なんでしょう?
カント説で 空間という認識形式がはたらくというのは 先験性を別とすれば
(なぜならそれは かたちには現われないでしょう) ふつう一般にものが見
えているということです。ゆがんだり 離れているものどうしがくっついたり
はしない。
★ ---単に、周りからよってたかって聞かれ、本人も何とか答えたいと思った
だろうと言うことです。
☆ 目が見えるようになって どうか? と聞かれた時 《よく見えます》と
答えるように仕向けられたというのなら 分かります。そうではないからには
見えているありさまをふつうに答えたと考えられます。
つづく
No.4
- 回答日時:
専門的に勉強された方が答えるべきところでしょう。
私のはカント大先生など大昔の拾い読みだけで、確定的には言い難いけれど、ズレているように見えます。人は生まれながらに立体図形を認識する能力を持っている、と言う説は捨てられるべきですって? ではそうしましょうか。その時捨てられるのは、カント学説であるのか、過てるカント解釈なのか。
>12. すなわち 視覚による空間の知覚は 開眼直後では―― はたらかなかった。
---おかしな結論ですね。
>9. ・・・、当然距離も判らず「すべての対象が」「眼にくっついてる」ように感じた。
---即ち、しっかり空間に定位されているじゃありませんか。生まれて初めての視覚が、自分の目の位置という箇所に在ると何故分かるのか。
私の憶測では、恐らくそうではない。言わされたのではないか、空間の何処にも定位などしていず、何とも言い難いから「眼にくっついてる」と触覚になぞらえた。
まあ、私の憶測は横に置いて、カントが言うのは「立体図形を認識する能力」なのか。直接的にはそうは言っていないでしょう? それは、bragelloneさんが「先に働くのだったら立体図形として与えられるはずだ」と解釈したからですね?
立体図形の認識と言うのと、空間の認識と言うのは等しくありませんね。後者は一層曖昧です。事物が空間中に在ると言うことは、それは立体的に有ると言うことだ、と常識的には思いますね。空っぽの空間だからその中に物が入ることが出来る、云々。それは良いとしても、対象を立方体のサイコロと認識することと、それが空間中にあると認識することは別個のことでしょう。カントの言う、時間・空間は感性的直観の純粋形式である、という言葉は、感性的データは或時刻に或立体図形として在るとして意識にもたらされる、と解釈されるものか? その解釈は、データが形式を与えられる=整形されて与えられる、と見ているのでしょうか? カントが言うのは、外的なものとして与えられる=空間の形式、内的なものとしてある=時間の形式ということではないか。
その開眼手術の例は、寧ろカントの説に味方する。与えられるのは多様なデータであるにも拘わらず、チャンと外的であることは認識される。そのデータがどう立体図形の認知に進むかどうかは経験科学の問題であって、当面のカントの研究の対象ではない。カントがカテゴリーをa prioriだというのは、多様なデータが生まれながらに持っている能力によって勝手に整形される、という意味としてではない。与えられるのは多様なデータであるにも拘わらず、結局は他の人々と同様な図形の認知に進む、という意味でしょう。実際は、手術の時期によって視覚データが混沌のママで終わることもあるのだろうと思いますが。
カント説を正規に解説するのは私の任ではないので、曖昧さをあまり突っ込まれても、困りますが、こんなところで。
ご回答をありがとうございます。
★ 確定的には言い難いけれど、ズレているように見えます。
★ 過てるカント解釈
☆ さて 具体的には どこがか?
★ カントが言うのは「立体図形を認識する能力」なのか。
☆ お察しのとおり そうではないでしょう。ものどうしの・あるいは ものと
認識主体たるわれとの 距離感覚を言うのでしょう。
言いかえると 見えている世界が 三次元の座標にきちんとおさまったかたちが
捉えられ その基礎の上で 具体的なモノや情況がアポステリオリに認識される。
少なくとも:
▲ 「すべての対象が」「眼にくっついてる」ように感じた
☆ りするようでは アプリオリな純粋悟性概念〔がそなわっているの〕だとは
言えないでしょう。
わたしは:
★ 「先に働くのだったら立体図形として与えられるはずだ」と解釈し
☆ ていませんし その解釈がありうるとも言っていません。
★ 生まれて初めての視覚が、自分の目の位置という箇所に在ると何故分かるの
か。私の憶測では、恐らくそうではない。言わされたのではないか
☆ 何のために? そのときカントの先験的な純粋認識説が出ていたわけではな
いです。
開眼した目が慣れるまで慣らし運転をするとしましょう。
そうすると おそらくカントの説にしたがうなら 球も立方体も そのものが何
であるかの認識より前に ふたつの間の距離や自分との間の隔たりが 捉えられ
ている ただし それらが球や立方体だとはっきり認識しうるには到らない。
――そういう事態ではないか? と推測されます。
ところが 実証されたことは 球などのモノはいちおう見えているが ただしそ
れらの空間における位置関係が 分かりづらかった。
――だとしたら 経験に先立って空間における位置感覚が認識しうるという仮説
とは 矛盾している。そういうことです。
さらなる専門的な知見については 分からないので 質問しています。
★ カントの言う、時間・空間は感性的直観の純粋形式である、という言葉は、
感性的データは或時刻に或立体図形として在るとして意識にもたらされる、と
解釈されるものか?
☆ コメントしました。
★ 結局は他の人々と同様な図形の認知に進む
☆ のは アポステリオリなふつうに言う認識です。カント問題とは別です。
No.3
- 回答日時:
>生まれつき備わった五感の要素と世界との接触という経験 これらが合わさって人間の認識が成る
うん。これは赤ちゃんが自分の周りの世界を認識する過程において、そう言えますね。赤ちゃんは無意識に自分の感覚を総動員して世界を認識しようとしますから、世界(対象)の方も、その認識に応えるべく最大限、自らを開示していくんでしょうね。そして赤ちゃんは成長する。大人になるにつれて、自我が芽生え、いろいろな意味でだんだん世界に向き合うことが苦痛になるので、感覚の矛を鞘に収めてしまう。だから認識も歪んだり、うまくいかなかったりするんじゃないでしょうか。
ご回答をありがとうございます。
▲ (アプリオリとは) ~~~~
経験そのものが認識の一つの仕方であり この認識の仕方は悟性を要求
するが
☆ ここだけを読むと 先験的な悟性概念は 対象との接触において
対象からのハタラキカケと同時に自己(悟性概念)からのハタラキ
カケ(つまり 基本的な空間の把握ないし空間における対象の把握)
をおこない 作用は双方向的である・・・かに思えます。けれども
それは 次を見れば 違います。
悟性の規則は 対象がまだ私に与えられない前に 私が自分自身のうち
にこれをア・プリオリに前提していなければならない。
そしてかかる悟性規則はア・プリオリな悟性概念(☆ たとえば いま
の場合は 空間という形式)によって表現せられるものであるから 経
験の一切の対象は 必然的にかかる悟性概念(カテゴリー)に従って規
定せられ またこれらの概念と一致せねばならないということである。
(『純粋理性批判』 第二版序文 ⅩⅧ)
~~~~~~
☆ つまり 純粋悟性概念としての・たとえば空間は 対象からくる一
切の刺激よりも前に(その触発に先立って) われわれの側から対象に
当てはめつつ―― 一方的に――捉えており認識するものであるのだ と。
そのあと 対象をめぐる色や形などなど具体的なものごとについては
アポステリオリに経験行為として認識するのだと。
――おかしいですよね? つまり 開眼した人が しばらくは目を慣れ
させなければならず そのあとふつうに視覚をはたらかせるようになる
のだとすれば:
① 対象をめぐる空間の純粋認識についても 慣れさせる必要があるの
か?
② 純粋悟性概念については 慣れという経験を持つ前に すでにはた
らいているということではないのか?
③ つまり 球や立方体についてそれらとの距離やそれらの形の違いに
ついては アプリオリな空間形式のハタラキによって得られているが
それらが一体全体何なのかは ぼんやりとしか見えていないし見てもい
ない・・・という慣れの過程での中身なはずではないのか?
No.2
- 回答日時:
たとえば、シュークリームについて考察してみます。
シュークリームが美味しいと思うとき、私は味覚だけでなく、シュー皮のサクサクした食感、カスタードクリームのなめらかな舌触り、焼きあがるときの香ばしい匂い、こんがりと膨らんだフォルム。いろいろな要素を含めて、美味しさを判断します。つまり、視覚、嗅覚、味覚、触覚でしょうか。聴覚は、そうですね。シュー皮がオーブンの中で焼成する音、カスタードクリームを煮詰める音、お客様の「美味しそう!」という声、ですかね。
どれが欠けても美味しさは半減するし、人間の五感のどれが欠けても完全な美味しさを再現することは、至難の技になると思うんです。だから、体の不自由な人の成功体験は並外れた努力の賜物と言えます。
ここでは、触覚で球体と立方体を識別していた人が、開眼した直後、視覚だけで球体と立方体を区別できたかですね。どうだったんでしょう。興味はありますけど。でも、私は思いますが、視覚は使わないことで退化していた可能性がありますから、そもそもいきなり土俵の上で、アプリオリに備わっているんだから識別できるでしょっていうのも、少し酷かもですよね。たぶん、備わっていたとしても気がつかない人もいると思います。
私はたぶん気がつかない人間で、普段、経験に頼ることの方が多いので、アプリオリに備わっているかもしれない、という概念には惹かれるものもありますが、訓練?直観を磨くとか、発想力を鍛えるとか、そういう日頃の心がけが必要かもしれませんね。
ご回答をありがとうございます。
★ たとえば、シュークリームについて考察してみます。
☆ 面白そうですね。
★ シュークリームが美味しいと思うとき、私は味覚だけでなく、シュー皮
のサクサクした食感、カスタードクリームのなめらかな舌触り、焼きあがる
ときの香ばしい匂い、こんがりと膨らんだフォルム。いろいろな要素を含め
て、美味しさを判断します。
☆ きちんと言おうとすれば そうなりましょうね。
★ つまり、視覚、嗅覚、味覚、触覚でしょうか。聴覚は、そうですね。シ
ュー皮がオーブンの中で焼成する音、カスタードクリームを煮詰める音、お
客様の「美味しそう!」という声、ですかね。
☆ まぁ そうなるでしょうか。
★ どれが欠けても美味しさは半減するし、人間の五感のどれが欠けても完
全な美味しさを再現することは、至難の技になると思うんです。だから、体
の不自由な人の成功体験は並外れた努力の賜物と言えます。
☆ さて 結論ですよね?
★ ここでは、触覚〔☆ および人びとからの言葉による情報〕で球体と立
方体を識別していた人が、開眼した直後、視覚だけで球体と立方体を区別で
きたかですね。
☆ このときに《視覚〈だけ〉で》という条件をつける必要はないと思いま
す。触覚を同時には使っていなかったというだけです。そして やがて手で
触ることもおこなう。
★ どうだったんでしょう。・・・視覚は使わないことで退化していた可能
性がありますから、そもそもいきなり土俵の上で、アプリオリに備わってい
るんだから識別できるでしょっていうのも、少し酷かもですよね。・・・
☆ ちょっと どうですかね。つまり 球体や立方体を実際に見ていること
は すでに見ているんです。見えているんです。ただし・しかも それらは
目に張り付いたように感じた。つまり 距離感が取れず 丸い球と四角い物
体とを識別し得なかった。という事態です。
さらにそして 触覚経験をともなって やがてその四次元(ないし三次元)
の感覚が ふつうに 得られた。というものです。
★ 訓練? 直観を磨くとか、発想力を鍛えるとか、そういう日頃の心がけ
☆ は 関係ないと思いますよ。
生まれつき備わった五感の要素と世界との接触という経験 これらが合わさ
って 人間の認識が成る・・・とふつうに自然に言えばいいぢゃないですか?
No.1
- 回答日時:
可視光線の範囲内が原価稲岡、
それkら、ヘリウムのしウ門が難しくて
キュリーとか先が長いですね。
どうも。
☆☆ ~~~~~
12. すなわち 視覚による空間の知覚は 開眼直後では――つまりは 先
験的にはたらくかどうかの問題としては アプリオリに生まれつき備わったと
主張されたままの状態では―― はたらかなかった。という実証である。
~~~~~
☆ なにしろ 空間という認識の形式が アプリオリにそなわっているという
のは――そしてそれが 視覚や聴覚の知覚経験に先立ってはたらくというのは
―― カントの当てずっぽですから。証拠などはないのですから。
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▲ (空間概念の形而上学的解) ~~~~~~~~~~~~~~~~
空間は 多くの外的経験から抽象されてできた経験的概念ではない。
或る感覚が私のそとにある何か或るもの(・・・)に関係し得るためには
(☆ 或る感覚を別の或るものによって定義し説明し得るためには)
・・・
空間の表象がそもそもその根底に存しなければならない・・・。
(☆ 空間+時間の四次元の座標のもとに対象を捉えていることが基礎に
なっているはずだ)。
それだから空間表象は 外的現象の種々な関係から 経験によって得られ
たものではあり得ない
むしろかかる外的現象そのものが 〔☆ 主体たる私の側における純粋悟
性を通しての〕空間表象によってのみ初めて可能になるのである。
(I.カント:『純粋理性批判』篠田英雄訳 Ⅰ・第一部門・第一節・2 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
№5つづき1
★ ---物の認識は・・・目の前の人とも何故一致するのか。それは各人が同型
のカテゴリー群を事前に持っているからだ
☆ 説明不足です。① 《事前》では足りません。カント説でなくとも 人間
が科学的に得た知見を 見る前に知っていた場合があり得ます。
② あるいは カテゴリも そのような経験科学としての知見であり得ます。
それが 先験的なハタラキだというのは いっさい証明がなされていないので
す。
③ 《モノの認識が 人びとそれぞれにとって互いに一致する》とは 一概に
言えません。《同型のカテゴリ》が――②と同じですが―― 科学の成果であ
り得て そういった基礎的な認識の形式としては 万人に共通だという見方が
カントに関係なく 成り立ちます。
④ カント説は――まさか―― カントがそう言ったから確実だ 信じよ と
いうのぢゃないでしょうね?
つづく
№5つづき2
⑤ つまり モノ(対象)と認識主体たるわれとの間で 前者からは感官への
刺激があり 後者からは認識するという意志行為がはたらくといった双方向的
な(それも同時一体の)あり方も 仮説されます。
⑥ けっきょく どちらも証明し得ないからには 同時一体説とカント説とが
同等な仮説として提出されている。これが 科学の見方です。
⑦ しかし このモリヌー問題では カント説は 不利です。
証明のむつかしさを 《物自体》の想定で逃れたに過ぎません。それは お化
けのようなものになっています。
つづく
№5つづき3
《お化け》問題です。
▲ (純粋悟性概念 あるいは 物自体または先験的客観) ~~~
内観により時間において表象された『私』と 空間において私のそとにあると
ころの対象とは それぞれの特性から言えばまったく異なった現象であるが
しかしそれだからといってこの両者は異なった物と見なさるべきでない。
外的現象の根底にも また同様に内的現象の根底にも存するところの先験的客
観は 物質でもなければまた思惟する存在者自体でもなくて これら両種の経
験的概念を与える現象の根拠をなすものであるが しかしこの根拠がなんであ
るかは我々には知られていないのである。
『純粋理性批判』篠田英雄訳 下巻 p.203 )
~~~~
▼ Brigitte Sassen:Kant on Molyneux's Problem
https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/0960 …
☆ この短い批評(あらまし)では次のように言っています。(コピペが出来
ないようです)。
① カントは モリヌー問題について 何も述べていない。
② もし チェゼルデンの開眼手術の事例を知っていたなら その批判哲学を
書いてはいなかったであろう。
超越論的感性論( Transcendental Aesthetic )は成り立たない。
③ けれども知らなかったということは あり得ない。
☆ そのほか いくつもの論文等が参照できるようです。
▼ Quora: What would Kant think about Molyneux's problem?
https://www.quora.com/What-would-Kant-think-abou …
▲ (カント:《人類学講義 Anthropology Lectures (1792)》要旨)
視覚だけでは ダメだ。つまり 純粋直観は 空間の知覚について はた
らかない。触覚を伴なう必要がある。
▲ Touch is the main objective sense, ・・・the eyes present us objects
only in a plane, ・・・
☆ 触覚による《アポステリオリな経験》が必要であるなら 先験的直観は成り
立たない。
カントは 黒である。