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1. そして 虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?

2. まづ すべては 推測がゆるされるとしたらのお話です。

3. 虚数は 現実とどうかかわっているのか?

この問いから出た考え(推理)ですが その名のとおりに:

4. 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。か?

5. しかも 《わたし》は この想像なる虚数の世界を持つとすれば全体として 複素数なるかたちで生きている・・・のだろうか?

        *

6. 背景事情に触れて 趣旨説明を述べていきます。

7. まづ ことは ひとの意志行為です。これに着目します。

8. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。

9. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?

10. たとえば イエスもノーもまだまだ決める心の状態にはない。いえ その情況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(――つまりこれが 虚数の世界であるかも知れないのですが――) 実数としての意志決定をしぶっている。

11. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。
――ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?




12. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう? 

13. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。・・・と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。

14. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしがわたしする》動態であると見ます。

15. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。 

16. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つまりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ生きる。
1 ^ n = 1




17. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 元のわたしの動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。《壁抜けの世界》がひろがっている。

18. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすということかも知れない。
 
19. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?

20. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。
 a + bi →〔 a = 0, b=1 〕→ ⇒ i ^ n = i or -1

21. これでは 社会における交通(まじはり)が成らない。成し得ない。

22. という仮説を得ました。ご教示ください。




23. 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?

24. つまり 《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていはしまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。――かさねて ご教示を願います。

質問者からの補足コメント

  • №2 つづき

    ★ 24 記号だけ・仏教だけでは複雑な人や社会を充分には説明できないのでいろんな学問が要ります。

    ☆ この主題は おっしゃるように多岐にわたり複雑ですね。

    [24]にかんして 一つ事例を挙げます。

    《さとり》にかんして 《仏と仏とのみよく知る》といった説明がなされる場合です。

    凡夫では分からん。といった命題です。けっこう見かけます。つまり 相手に対する口封じです。あからさまな。

    つまり その自分自身は 何も知らないのです。だって さとりの中身を言えないんですから。(ちなみに ゴータマ・ブッダも法華経でおしえてほしいと言われたとき 明らかにすると大衆が混乱するから 言わないと答えています)。

    とにかく自分が上から目線の立ち場に立てるならよいという或る種のマジックです。

    さとりたければ ブッダになれというようなオシへが けっこう流行っているのではないでしょうか。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/03/16 09:05

A 回答 (2件)

5 《わたし》を構成し包含するせかい=主観世界(観測・確定済み・理性・頭の中・自己)+客観宇宙(物自体・不確定・肉体・頭の外・他者?)で、どちらを実部・虚部とみなすかは任意ですが複素数っぽいです。


12 頭の中だけ(独善・夢想・認識偏重)でも頭の外だけ(洗脳・現状追認・実体偏重)でも生きにくいので実部も虚部も要ります。
24 記号だけ・仏教だけでは複雑な人や社会を充分には説明できないのでいろんな学問が要ります。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 5 《わたし》を構成し包含するせかい=主観世界(観測・確定済み・理性・頭の中・自己)+客観宇宙(物自体・不確定・肉体・頭の外・他者?)で、どちらを実部・虚部とみなすかは任意ですが複素数っぽいです。
☆ そう来ましたか。

いやぁ 《虚数( imaginary number )》の世界とは もっと単純・簡単ではないですかね?

ボケッとしている瞬間から始まるのでは?

あるいは ここ質疑応答の場で相手から自分の持論に不都合な内容のことを言われたとき そおっと(いえ バレるのですが)論点をズラシにかかります。――これは 自分の想像した虚数なる列車に乗ったことではないでしょうか。

あるいは――心身は互いに一体であって どちらも主観の意識におさまりますが・そしてそういった主観としての意識にかんするかぎり《他者》も 知覚の対象にとどまるものと思われますが―― 物自体やそれに見合ったような《他者》などは ひとまづ《虚数領域》なのではないでしょうか?


《他者》は 認識できないとしても その人の精神ないし主観は生きているなら 現実であり実数の世界です。認識できないだけです。

《物自体》は 奥の手を使って《究極の智慧》と捉えると扱いやすい。
しかも 《不可知》にも関わらず 知ろうとしあたかも知ったとうそぶく場合がある。――これは 虚数の領域に足を踏み容れたのかもと


★ 12 頭の中だけ(独善・夢想・認識偏重)でも頭の外だけ(洗脳・現状追認・実体偏重)でも生きにくいので実部も虚部も要ります。
☆ 私見ですが まづフィクションは 虚構です。想像の世界です。

ただし この生活現実なる経験事象に見合った概念なる言葉で表現されます。その経験領域に基礎を置くなら おそらく描かれた全体は なお《実数》としてあつかうことが出来る・・・のでは?
(《壁抜け》なる虚構は どうか? 死んだ人間がまた生きるといった虚構は?)

ですから 虚構の世界が けっきょく《実数》の世界にとどまっているか。またはすでに《虚数》の領域へ入り込んでいるか。

このことは それぞれ個別に判断されることになるかと。


つづく

お礼日時:2023/03/16 08:57

この問いから出た考え(推理)ですが その名のとおりに」←

「《わたし》は 基本として数では《一》だと」の回答画像1
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