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幻想、頭の中だけで考えられた事柄と、現実、考えではなく厳然としてあるものとの間に、自分があるような感覚でいます。
完全に現実的になることも、完全に幻想的になる事も叶いませんが、多かれ少なかれ、人というものはそのような狭間に生きているのではないかと思います。
先日、このカテゴリにて、幻想を捨てて、現実的になるべき、と言うような旨のご意見を頂いたのですが、このご意見をうまく自分のものとする事が出来ないでいます。
どの程度現実的でいられて、どの程度なら幻想も許されるのでしょうか。どのような生き方が、調和の取れたものと言いえるでしょうか。

A 回答 (16件中1~10件)

許されるも許されないもないと思いますけど、、


現実でない物などなく、幻想・妄想・空想・幻覚などの
定義・確信・断定は、それらの背景・仕組みへの無知と
素養のない理解力のなさになると思います

迷い・混乱という不幸があれば、許容は求めたくなるの
は自然かもしれませんが、、その姿勢は的確・本質的と
はいえないと思います

500万年もの間2才のままでい続け、これからも地球
が生命を育む期間が終わるまで、2才のままでいる必要
はないと思いますけど
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この回答へのお礼

確かに現実への理解の無さが幻想を生んでいるようにも思えます。
文章後ろのほうがちょっと良くわかりませんでしたが、シビアなご回答を有難うございました。

お礼日時:2013/07/17 21:29

私の見方考え方です。



幻想は、あくまでも幻なので私は追いかけません。
想像はやります。

事実認識を見直して、そこから組み立てる
発展性のある想像が主です。

現実は、想像したものをやり方に移行して行動したことが現実です。
実りが現れたから現実と言えますね。

何をどのように実らせたいかが、現実を作っていく原動力です。

他の人から見て幻想のように見えたとした内容でも、事実から組み立てていけば
実現可能なので他者の意見は問題ありません。
他者に制限をかけられて、鵜呑みにすることは無いようにしています。

常識で考えてありえるかありえないかなど、私にはどうでもいいことです。
何を現実にしたいか。
それだけが存在する現実を創りだすものだと思います。


あなたに、より良き現実が訪れんことを。
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この回答へのお礼

具体的かつ力強い御回答有り難うございます。大変参考になりました。

お礼日時:2013/07/17 21:27

「善く生きることについて」書こうとしたら締め切りくコ:彡 残念です



幻想と現実ですか 現実は厳然と在る真理のものですよ。現実にどう生きるか 現実をどう変えるか

と言っても現実の方も一瞬たりとも止まらずに変化し続けていくものです

我々は精神です。 幻想と言うものは精神のものですねえ

幻想以外にも心(精神)の営みはあるでしょうけど 幻想は我々自身ですよ。

心を持たぬ機械なら現実のみに存在するでしょうし 真理を究めた者が もしも居たならば現実に生きて

何の違和感も不自由もない事でしょう。

しかしその様な人は居ない イエス・キリストでもおそらく怖れ 嘆いた事でしょう。

我々幻想は現実とどう関わっていくか 現実が我々幻想の思った様に反応してくれるか?

それも真理に適えば思った様に行くでしょううけど 違えば時に失望し 打ちのめされる事もあります

ですから我々幻想は 精神の世界に想いつつ 真理を求めることも必要です

日々の営みも大切ですし 現実に生きてこその我々精神ですから 現実を無視する事はできません

しかし天賦人権説も愛も夢も精神由来のものは幻想から始まって実現していく訳ですから

幻想も大事な我々自身でもあるのです。

この哲学質問欄も幻想に満ちてますよねえ^^ 
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この回答へのお礼

早々に締め切ってしまい申し訳ありません;;。
精神としての我々、確かに無視できないと思います。
精神としての我々でありかつ、自己としての現実に着地していること、そういったことを目指そうと思いました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/17 21:26

あなたの感じておられる「現実」も、幻想に過ぎない事は、


たとえばその「色」というものが物理的には単なる連続的な
光の波長の変化であり、「赤は青の反対」とか、「光の三原色」
などといったものは、受け取り手の側の構造に由来する幻想
に過ぎない事から明らかです。

我々が睡眠中に見る夢と、目覚めている間に見ている夢との
違いは何でしょう?
それは「物理的な相補性」です。
前者の夢は、自由自在に見られますが、そこには“見ている
自分”という先入条件があるのに対し、後者は「自我仮説
(時間的流れ)と時空仮説(空間的広がり)の相補分化」と
して、原理的に補完的(不確定性原理の相補的確率性)で
あるという点です。

全ての存在は、量子的不確定性=確率波動性に基づいており、
無限に詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と等しく
なります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に
認識体の仮定断面の運動を想定すれば相対的に無の風は光に
なり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに
自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識します。
先述の認識の不完全さによる階層現象表面的な定性化による
非光速性の派生は、その本質における無への還元を理解でき
ない事により、その外部に世界を空想するのです。
無とは分からない事が、有なのです(夢=現実)。

物理とは、その仮象的な世界を無へ還元する過程であって、
そうした自己存在の本質に根差した自覚に基づかない
『幻想だから自由になる』という思いは、自己矛盾として阻害
されるのです。
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この回答へのお礼

なにか重要無いことを行っておられるようにも思うのですが、難しいのであとでよく読みたいと思います。

>『幻想だから自由になる』という思いは、自己矛盾として阻害
されるのです。

という帰結に至るまでをよく咀嚼したいと思います。

お礼日時:2013/07/17 21:24

ジャン・ボードリヤールが『悪の知性』で質問者様の疑問ど真ん中を論じています。


必ず参考になると思われます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考にしてみます。

お礼日時:2013/07/17 21:23

補足



先の回答を書いていて思ったのですが

かって、家の建築という具体的問題をしっかり検討していたから
より抽象的な問題に(正誤は傍らに置くとして)応用できたわけです。

そして、それは現実と幻想(抽象)の統合ではないかとも思うのです。

ここで注意すべきは、抽象操作の為の材料は現実から得るという点でしょう。
つまり、現実があって抽象可能となり、その逆ではない。
そして、抽象操作をして得た知見は、精査をして現実にださなければならない。

ここらへんは、憲法の精神的自由と表現の規制に関わるところなのでしょう・・・
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この回答へのお礼

つまり、現実があって抽象可能となり、その逆ではない。
それは然りと思います。やはり、現実的な立脚点は重要なものですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/07/17 21:22

例えば、建築した家に欠陥がたくさん。

どうしょう?
補修の優先順位判断基準としては
・重要な部分かどうか
 ・危険を自他ともに与えないか
 ・建築の目的を達成できないかどうか
・過分な費用が必要かどうか

以上を参考に考えれば
・生命に関わる判断
・仕事に関わる判断
・人生に関わる判断

でなく
過分に手間がかかるならば
優先順位は低いのではと考えます。
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この回答へのお礼

御回答有り難うございます。
この場合は、生命、仕事、人生に関わる重要な判断と思います。

お礼日時:2013/07/17 21:21

カテゴリの回答でなくてすみません。


幻想と現実との区別されにくい状態を、認知的フュージョン(思考フュージョン)と言うらしいです。
海外ではWELLSさん、国内では熊野さんが、メタ認知法の研究で言及していました。
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この回答へのお礼

参考回答ありがとうございます。メタ認知法というもの、機会もって調べてみたいと思います。

お礼日時:2013/07/17 21:19

幻想とは感性が造り出す幻だとするならば


それはそれで、流れゆくままに自然に眺められたらいいのではないでしょうか。
無理に変える必要もないような気がします。

きれいに見えたなら きれいだと思えばいいし
暗く見えたなら 暗いな、と思えばいいのでは・・

ご自身の感性に逆らう理由は 何もないと思います。
また、その事が現実の認識の妨げにはならないと思います。

幻想と仰られていますが 控えめな表現のようにも感じられます。
感覚の鋭さが時には 通常の捉え方とは違った認識をもたらしてしまう といった事もあるように思います。
もし そういった意味で 「幻想と現実の狭間で」と仰っているのでしたら
その認識は 自分だけの認識である というように割り切ってしまう事も必要になるかもしれません。
ご自身の感性の世界を他者に理解してもらおうとするよりも、その方が楽だからです。
簡単に言えば 自分だけの現実である というように整理してしまう事です。
幻想としか受け取ってもらえない自分の現実は 幻想だよ と言えばいいだけの事です。

人によって違いはあっても 誰でもそうした世界をもっているのかもしれません。
そして その世界を誰もが大切にしている といった感じもします。
自らの感性を粗末にしないという ごく何でもない自らへの優しさはあってもいいのではないでしょうか。
それは他者の世界を粗末にしないという事でもあるように思います。
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この回答へのお礼

なるほど。
おやさしいご回答ありがとうございます。
幻想は感性の創り出すもの、とても救われたような気がします。
しかしながら、この感性にまつろうものと、ある種厳格な哲学の規範とも言うべきものとの間に葛藤があるのも事実ですし、また、そんな誰もが大切にしたい感性の世界と、実際のこの世界のルールとがミスマッチすることも多く、戸惑っています。
私はフーテンであり、弱虫なのですが、力強く生きたいと思ってきました。どうすればしっかりと地に足をつけて生きていけるのか、そんな模索を含んだ今回の問いでした。

お礼日時:2013/07/16 22:47

幻想が、夢や理想となっていて、それを実現するために行動しているとき、結果がどうあれ、調和がとれた生き方となっているでしょう。


幻想が、ただ脳内で醸し出されるアドレナリンや、エンドルフィンなどの快楽物質を引き出すためだけであれば、それは現実から大きくかい離して、調和の取れないものとなるでしょう。
また、夢も希望もなく、ただ現実を生きているというだけの状態も調和の取れないものとなるでしょう。
幻想を抱くことは、人間をここまで発展させてきた原動力です。
現実に還元することを目的としているかぎり、幻想は有益となります。

しかし、無益でも良いじゃないか、という信念であれば、それもまた良いでしょう。
調和がとれているかどうかは、他人が判断することですので、それを求めるのであれば、現実に還元するという、社会貢献が必要となります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
バランスの取れたご回答だと感じました。よりシビアに生きるならば、事実をより正しく洞察しようと務めるべきなのでしょうが、少し窮屈なようにも思います。
夢や理想が原動力となって、生活を形作って行けたら、それこそ理想なのでしょう。

お礼日時:2013/07/16 21:44

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