これからの季節に親子でハイキング! >>

お世話になります。
森鴎外と夏目漱石、ともに日本を代表する作家です。
森鴎外のいくつかの小説には、夏目漱石の名前もしくは夏目漱石をモデルにしたと思われる人物が出て来て、森鴎外が夏目漱石を一目置いていた事が分かるのですが、逆に夏目漱石は森鴎外の事をどう思っていたのでしょうか?2人の間には交流はあったのでしょうか?
そのような事が分かる本などは有るのでしょうか?
宜しくお願い致します。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (4件)

まず、漱石と鴎外では、実際の年齢に五歳、差があります。


しかも、漱石が執筆活動に入った時期、鴎外はすでに押しも押されもせぬ大家の位置にあったことを、まず押さえておくべきでしょう。

漱石は明治二十四年、帝大の学生だった当時、正岡子規宛に以下のような内容の手紙を書いています。
--------
鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き、申訳も無之(これなく)、是(これ)も小子嗜好の下等な故と只管慚愧致居候(ひたすらざんきいたしをりそうろう)。元来同人の作は僅かに二短篇を見たる迄にて、全体を窺ふ事かたく候得共(そうらえども)、当世の文人中にては先づ一角ある者と存居(ぞんじおり)候ひし、試みに彼が作を評し候はんに、結構を泰西に得、思想を其学問に得、行文(こうぶん)は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者と存候。右等の諸分子相聚(あつま)つて、小子の目には一種沈鬱奇雅の特色ある様に思はれ候。(八月二十三日付け:引用は江藤淳『漱石とその時代』第一部から)
--------

鴎外は明治二十三年一月、『舞姫』を、同年八月『うたかたの記』、明治二十四年一月に『文づかひ』を発表しています。

後の漱石、当時はまだ金之助であった彼が読んだ「二短篇」がなんであったかは明らかではありませんが、この冒頭から、二作品を読んで高く評価した漱石に対して、子規が、それはおかしい、と反論した背景があったことがうかがえます。

江藤淳は『漱石とその時代(第一部)』(新潮全書)のなかで、鴎外の作品は、前年に帝大の英文科に入学してからの漱石の状況を考えながら、この手紙を以下のように解釈しています。

-----(p.202から引用)-----
「洋書に心酔」し、しかもそれを意志的・知的に理解しようと努力するうちに、いつの間にか虐待されつづけていた金之助の感受性を覚醒させずにはおかないものであった。つまり鴎外の小説の「結構は泰西」に仰がれていたが、そこにはまごうかたなき旧い日本――金之助が英文学専攻を決意して以来置き去りにして来た「日本」があったのである。

……『舞姫』に描かれた才子佳人の恋は、舞台こそ独都ベルリンに求められていたが、ほかならぬ晋唐小説の伝統を「文明開化」の時代に復活させた恋である。金之助が鴎外の「二短篇」に見たものは、いわば崩壊しつつある旧い世界像の残照であった。その光を浴びた彼の衝撃がいかに深かったかということは、のちに金之助が英国留学から帰国して発表した小説、『幻影の盾』と『薤露行』に痕跡をとどめている。この二短篇の雅文体の背後には、ほぼ確実に『舞姫』や『文づかひ』の鴎外がいる
------

つまり、漱石が英文学の研究から執筆活動へと移っていったのも、鴎外の存在があったことが、理由の一つであったと考えることができます。


後年、両者はそれぞれに、当時の文壇から離れた場所で、それぞれに仕事をするようになります。

このことを中村光夫はこのように指摘しています(『中村光夫全集』第三巻)。ここで「彼等」というのは、漱石と鴎外の両者を指しています。

-----「鴎外と漱石」p.160-----
おそらく彼等が表面冷やかな無関心を装ひながら内心激しい憤怒に燃えてゐたのは当時の文壇といふやうな狭い世界ではなく、むしろこの文壇をひとつの象徴とする或る社会風潮であつた。いはば彼等の誇り高い教養と抜群の見識とは、当時の我国民が無意識のうちに徐々に陥つて行つた或る根深い精神の頽廃を鋭く直観した。そしてこの抗ひ難い社会の風潮に対して勝つ見込のない敵意を燃やしてゐた。…

では彼等がここで生涯を賭して闘つた敵は何かと云へば、それは一口に云つて、近代欧米文明の一面的な輸入の結果たる所謂文明開化の時潮であったと僕は信じてゐる。…明治大正を通じて我国が存立の必要から強ひられて来た欧州文明の物質的側面の急激な輸入と、その結果として我国民の精神の深所に徐々に食ひ入つた或る微妙な歪みを指すのである。
-------

当時のふたりがなぜ交友をもたなかったのかは、さまざまな事情があったことと思います。

なによりも、漱石が専業作家として活動したのは、わずか十年であったことを忘れてはなりません。成熟するまでに時間がかかり、一人前になってからわずかな時間しか与えられなかった漱石は、自分の生命を削り取って作品に結実させていった、といっても過言ではありません。

二葉亭四迷没後、一時期は同じ職場に籍を置きながら、実質的には交遊がなかった二葉亭に対して、『長谷川君と余』(『思い出す事など』所収 岩波文庫)のように、実に心情にあふれた追悼文を残した漱石ですから、たとえば鴎外が自分より先に亡くなってでもいたら、間違いなく、何らかの追悼文を残したでしょう。

こういう位置にあった鴎外と漱石が、たとえ表面的には交遊がなかったにせよ、互いに反目したり、あるいは嫉妬したり、排斥したりということは、非常に考えにくいと思います。
漱石の弟子宛ての書簡にも、鴎外の名は散見されます。
ともに意識のうちにあったのは、日本や日本の文化の行く末であったことを考えると、互いに深い敬意を抱いていたと理解してかまわないかと思います。
    • good
    • 8
この回答へのお礼

詳しく、かつ分かりやすい説明、ありがとうございます。漱石の正岡子規宛の手紙はとても興味深いです。奇遇ですが、私は最近「幻影の盾」を読みまして、鴎外の「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」を思い出していました。(私はこれら鴎外の3作品、とても好きです)
>つまり、漱石が英文学の研究から執筆活動へと移っていったのも、鴎外の存在があったことが、理由の一つであったと考えることができます。
やはりそうなんですね。

>ともに意識のうちにあったのは、日本や日本の文化の行く末であったことを考えると、互いに深い敬意を抱いていたと理解してかまわないかと思います。
なるほどと思います。

「漱石とその時代」「中村光夫全集」読んでみたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2006/03/28 09:21

鴎外と漱石がお互いをどのように思っていたのかは定かではありません。


しかし、基本的な面で正反対の文学界の両巨頭は、胸中では互いに排斥していたのではないかと思われます。

★鴎外の基本的な特徴は、保守的エリートの地位を道徳的に弁護し肯定したことにあります。この特徴は、同時代の四迷、一葉、漱石と対照的なものです。
 
★漱石は下層の人間が得る果実を知りませんでした。彼はエリートとして、エリートやブルジョアの得る富や地位の力に反発し、それを拒否することを精神的な価値と考えていたのです。
その上で、その道徳的な批判意識が無力であることを具体的に認識し、そのことを通じて日本的なエリートの本質をとらえる事が、漱石のエリートらしい果実となったのです。

★鴎外は、エリートとして非難される側面を道徳的に弁護した点で漱石とまったく逆の立場にありまし。二人がともに文豪と称されるのもそのためでもあるのです。
★明治の日本が西欧諸国に追いつくためには、発展を担う人材の育成が急務であり、人材は少なく貴重であったために、一方で実質的に発展を担う優秀な人材を生み出すとともに、他方では、そのエリートの特権的な地位によって堕落する人材をも多数生み出したのです。

★鴎外はこのエリート内部の対立のなかで生じる日常生活での瑣末な不満を表明し、また瑣末な批判に対して自己を弁護したのです。エリートやブルジョアは上からの改革を担う積極的な力をもっていたが、鴎外はその役割を担うことなく、その役割に対立しつつ、エリート内部で生ずる道徳的な批判から自分の地位と名誉を守るための独自の道徳的な精神をまとめあげました。

★漱石と鴎外の両文豪に見られる対立関係は基本的には明治の必然の反映であり、大正時代には鴎外は自分の使命を終えています。
★漱石は明治の精神の終焉を客観化して描写し、新しい精神を形成するにいたりましたが、鴎外にはそれはできず、過去の歴史的な実証的な世界に住処を求めたのです。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

詳しい説明ありがとうございます。鴎外、漱石について分かっていなかった事を知ることが出来、勉強になりました。小説を読んでも、両者には正反対の部分があると感じていました。これをもとに、さらに鴎外、漱石の作品を読み進めていきたいです。

お礼日時:2006/03/27 17:34

二人は音楽会などで余所目で見た程度でしょう、正式に出会った事は無い筈です



漱石も森鴎外を尊敬して朝日新聞の用事で手紙を貰った時にはわざわざ日記に大書しているほどです

時の文学界を代表する大作家二人はお互いに尊敬しあっていた事は漱石の伝記に出ています

当時日本の文壇を独占していた自然主義の陣営から二人は疎外されていたので余計に親しみを感じていたのでは無いでしょうか
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます。漱石は鴎外から手紙を貰っていたのですか。その日記というのは書店などで手に入るものなのでしょうか?また、互いに尊敬しあっていたと書かれている漱石の伝記を教えていただけないでしょうか?

お礼日時:2006/03/27 17:38

興味深い質問だと思います。

二人とも当時のエリートであったはずですが、ある意味では正反対のところがあったと重います。鴎外は自分の存在に関する疑問を全く持っていなかったと思います。一方漱石は自分の存在に関して常人以上の不安を抱いていたようです。鴎外が求めていたのは社会的名声だけだったと思います。ただ彼は虚名でなく裏づけのある名声を求めていたと思います。一方漱石は鴎外の学識以上のものを持っているという自負と共にその様な学識は自分の存在に対する懐疑を全く解決してくれないことをよく知っていたので鴎外の存在などは問題にしていなかったと思います。これは素人の想像です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。私も2人は正反対の部分があると感じていました。でも、鴎外が求めていたのは社会的名声だけだったとありますが、本当にそうなのでしょうか?また、漱石は鴎外の存在など問題にしていなかったのでしょうか?両者がお互いにどう思っていたのかが書かれていたものは以外に少ないですね。

お礼日時:2006/03/27 17:45

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q反自然主義とは

文学で、反自然主義とは写実主義のことですか?

Aベストアンサー

要するに自然主義のアンチはすべて反自然主義です。それ自体で自立し、確立している理論ではなく、さまざまな方向からのアンチがある幅の広い概念です。

自然主義の「自然」というのは、自然科学の自然です。科学の時代といわれる19世紀は、遺伝や進化、実験医学といった新概念が一世を風靡していました。その自然科学の理論にもとづいて、人間を科学的に認識・実証しようとしたものが自然主義なのです。
その自然主義の特徴には、人間(または人間社会)の卑小性、無理想、無解決、技巧的には客観描写(観察・分析・実験)があげられます。

ヨーロッパでは、まず古典主義(昔が良かった派)の一派から反自然主義の口火が切られました。象徴主義やロマン主義です。これらは神秘、象徴、唯美などに傾倒し、やがて世紀末文芸に移行していきました。これがヨーロッパの反自然主義です。要するに物語のもつワクワク・ドキドキ、笑い、不っ思議ぃ~、まぁキレイ、などの情緒感を文芸からなくしたくなかったのです。

日本では、この西洋的反自然主義の並びとして、雑誌『明星』があげられます。与謝野鉄幹や晶子たちですね。この雑誌は反自然主義の論文を数多く掲載し、まさに反自然主義の拠点ともいえるものでした。このようなロマン主義が日本では狭義の(本来の)反自然主義だと考えられます。この流れは『白樺』にも引き継がれます。武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎などです。

また、日本には広義の反自然主義というものがあります。これはどちらかというと「反」というより、非自然主義というべきものです。これらには硯友社(尾崎紅葉、山田美妙など)、漱石や芥川の小説、新感覚派(川端康成、横光利一など)、新心理主義(伊藤整)などがあります。しかし、これらは世界的には反自然主義とはいえません。

さらに、日本では反リアリズム・反私小説を反自然主義というばあいがよくあります。前者はリアリズムと自然主義を混同したことにより誤りです。
私小説は、日本の自然主義が科学精神と相交わることは少なく、事実尊重と告白を特徴としたためにエッセイのようなスタイルに傾斜していった、日本独特の小説です。これに対抗する流れが起こるは当然といえば当然でしょう。「四畳半フォーク」と「はっぴいえんど」の対置と考えればわかりやすいでしょうか? (ちと古い?) 日本ではむしろ、このような文脈(反私小説)で語られることが多いと思います。

要するに自然主義のアンチはすべて反自然主義です。それ自体で自立し、確立している理論ではなく、さまざまな方向からのアンチがある幅の広い概念です。

自然主義の「自然」というのは、自然科学の自然です。科学の時代といわれる19世紀は、遺伝や進化、実験医学といった新概念が一世を風靡していました。その自然科学の理論にもとづいて、人間を科学的に認識・実証しようとしたものが自然主義なのです。
その自然主義の特徴には、人間(または人間社会)の卑小性、無理想、無解決、技巧的には客観描写(観察...続きを読む

Q反自然主義とは?

反自然主義小説ってどんな小説の事ですか?
分かりやすく書かれている本等があったら、書籍名を教えて下さい。

Aベストアンサー

高田瑞穂「反自然主義文学」(明治書院)というのもありますが、
昭和36年と古い本ですね。

文学史から見た反自然主義についてはこちらをご覧ください。
http://s-houkin.hp.infoseek.co.jp/kokubun/simazaki01.htm
http://www.geocities.co.jp/HiTeens/3807/mondaisyu/Bungakusi1.htm

反自然主義文学の舞台となった慶應大学の「三田文学」については
以下が参考になるでしょう。

それから、ドイツ文学にも反自然主義文学があるようですが…

参考URL:http://www5c.biglobe.ne.jp/~kiryudo/souseki11.htm,http://www.keio.ac.jp/staind/194.htm

Q写実主義と自然主義

日本文学の、写実主義と自然主義の違いがよくわかりません。
写実主義は明治初期に坪内逍遥が提唱して二葉亭四迷が確立したものですよね?
自然主義は明治末期より田山花袋などの私小説的なものをいうみたいですが、なんだかどっちも人間の心理とか真実とかを描き出すことには変わり無いと思うんですが・・。
主義というだけには何か決定的なものはないのでしょうか?ただ単に時期が違うというだけなんでしょうか?日本の自然主義はヨーロッパのものとはまた違うなどあるみたいですが・・。
便覧見ても人に聞いてもいまいちしっくりこなくてしこりを残してます。

Aベストアンサー

 実は僕も疑問に思いまして、調べてみたことがあるんです。
 本当に、疑問に思われても無理もないことだと思います。というのは、明治の文学史を見てみると、ひっじょーに奇妙なことが起こっているからです。
 まず、写実主義の方は、おっしゃるとおり、坪内逍遥の『小説神髄』に始まり、二葉亭四迷の『浮雲』を本格的な出発点とする流れです。言文一致が特徴ですね。文字通り、現実を描写するという意味で写実的でした。
 で、自然主義にいく前に、浪漫主義という流れがあったのをご記憶でしょうか。雑誌『文学界』を拠り所に、北村透谷や初期の森鷗外らが活躍しました。その『文学界』の創刊当初のメンバーに、あの島崎藤村がキッチリ顔を見せているのです。彼は、浪漫主義抒情詩人として出発していたのでした。これがハナシをややこしくする元なんです。つまり…日本においては、自然主義というのは、写実主義からではなく、浪漫主義から派生したと言える部分がある、ということです。ヨーロッパとは全然ちがう経緯を辿っている。そのため、「自我」であるとか「内面性」であるとか、そういう浪漫主義的要素を多分に引きずることになりました。
 さらに、日本における自然主義の出発点をなした、藤村の『破戒』、これがまた問題なんです。
 ヨーロッパにおける(つまり、もともとの)自然主義は、写実主義の客観的描写姿勢を受け継ぎつつ、より科学的・実証的・体系的に現実を捉えようとする、実験的な文学様式でした。現実を、あるがままに、しかも、歴史的状況や因果関係や社会全体の中での位置付けも視野に収めて、現実のナマの姿を浮き彫りにしよう…みたいな。
 で、『破戒』なんですが、まず、被差別部落問題を背景としている点に、上記の意味での自然主義の特徴を認めることができます。一応。あくまでも、一応。
 ところが、作品全体として見ると、明らかに焦点は主人公・瀬川丑松の内面的苦悩に置かれています。被差別部落問題は、ただ単に「背景」でしかなく、作品を通してこの問題の核心を追究しようという姿勢は、もうぜーんぜん見られない。つまり、本来の意味での自然主義文学としては、要件を十分に満たす作品ではなかったのです。
 にもかかわらず、『破戒』は発表当初から「自然主義小説」として宣伝されてしまった。おまけに、小説としての完成度が高かったことから絶賛を浴びた。大成功を収めた。…これが、皮肉なことに、日本における自然主義文学の方向を決定してしまったのです。社会的視点を欠いた自己告白的小説が「自然主義だ」ということになってしまった。藤村自身が、「いやー、実はねー、自然主義って、ほんとはこうなんだよ」と、ちゃんとフォローするような仕事をしてくれていればよかったかもしれませんが…やってないんです、結局。
 こういういきさつで、要するに、日本では写実主義も自然主義も、中身に大したちがいはないんです。強いて言えば、自然主義の方は、「浪漫主義混じり」のせいで内面描写に突っ走ることになり、自己告白が露悪的な方向に傾きがちになった点に、写実主義との違いがあるでしょう。写実主義の方にも露悪的なものはありましたが、どちらかというと、「現実って、こんなに厳しくて悲惨なんだよ」という、現実世間の描写でしたから。

 どうでしょ? これで、「しこり」、消えます?

 実は僕も疑問に思いまして、調べてみたことがあるんです。
 本当に、疑問に思われても無理もないことだと思います。というのは、明治の文学史を見てみると、ひっじょーに奇妙なことが起こっているからです。
 まず、写実主義の方は、おっしゃるとおり、坪内逍遥の『小説神髄』に始まり、二葉亭四迷の『浮雲』を本格的な出発点とする流れです。言文一致が特徴ですね。文字通り、現実を描写するという意味で写実的でした。
 で、自然主義にいく前に、浪漫主義という流れがあったのをご記憶でしょうか。雑誌...続きを読む

Q初期鴎外は、なぜ「浪漫主義」なのか。

森鴎外は初期に文語調で小説を発表していましたし、「浪漫主義的」と言えるような活動は評論と訳詩くらいでしたから、小説の内容とスタイルから考えるとあれは「擬古典主義」になりませんか?
例えば有名な「舞姫」は完全に文語です。そして、例えば「擬古典主義」にカテゴライズされる露伴「五重塔」や紅葉「金色夜叉」と比較して、いわゆる「リアリズム/ロマンチシズム」で考える場合に、内容は明らかに「舞姫」がリアリズム小説寄りです。
このように、初期鴎外が、いわゆる「擬古典主義」の作家たちと比較してもまったく「浪漫主義」的傾向を持たず、同時に、特に文体の「擬古文度」が劣っているわけでもないのに、「浪漫主義」と考えられているのはどうしてでしょうか?
ご存知の方いらっしゃいましたらお教え願います。

Aベストアンサー

 鴎外がロマン主義と呼ばれる理由は、『舞姫』によって日本にロマン主義を輸入したからです。現代人がどう評価するかは関係なくて、当時の人が『舞姫』を読んで「こういう題材で小説が書けるんだ」と感心して真似したことが大事なのです。
 後発の『金色夜叉』や『五重塔』がロマン主義的なのだとすれば、それは『舞姫』の影響です。

 紅葉や露伴が擬古典主義と呼ばれるのは、わざわざ西鶴などの文体を真似して小説を書こうとした活動を指すもので、ただ文語で書いただけの鴎外は擬古典主義とは呼ばれません。
 鴎外は言文一致で文章を書こうとしたけど、うまくいかないから文語に戻しただけで、そこに創意があったわけではありませんからね。

 当時の日本の「なんとか主義」はヨーロッパのそれとは違って、思想や主義に基づいた活動ではなく、単純に西洋の手法を輸入できないかを試行錯誤していただけです。
「こっちの手法の方がよりよい」という形での議論はありましたけど、思想的な対立があったわけではないですから、いろんな主義がごちゃ混ぜになった作品を書いても構わなかったわけですね。神様仏様などとお祈りする日本らしい風景とはいえます。

 鴎外がロマン主義と呼ばれる理由は、『舞姫』によって日本にロマン主義を輸入したからです。現代人がどう評価するかは関係なくて、当時の人が『舞姫』を読んで「こういう題材で小説が書けるんだ」と感心して真似したことが大事なのです。
 後発の『金色夜叉』や『五重塔』がロマン主義的なのだとすれば、それは『舞姫』の影響です。

 紅葉や露伴が擬古典主義と呼ばれるのは、わざわざ西鶴などの文体を真似して小説を書こうとした活動を指すもので、ただ文語で書いただけの鴎外は擬古典主義とは呼ばれません。...続きを読む

Q自然主義文学と反自然主義文学の違い

自然主義文学と反自然主義文学の違いを中学三年生(理解力小学生の高学年並み)でも分かるように教えてください!

Aベストアンサー

現実の人間世界は汚いものだ。
そうした現実を正面から見つめよう、というのが
自然主義文学です。
現実を自然に見つめる、ということです。

これに対して、人間には理想がある。
理想を追い求めるのが大切だ、というのが
反自然主義文学です。

反自然主義文学には、理想と現実の距離に
より、色々な派ができました。

Q日本文学における「近代的自我」って、わかりやすく言うとどういうこと?

いまいち、ピンときません。近現代の日本文学を理解する上では必須の概念のようですが。たとえば、封建時代には無かったこういう考え方が、明治以降の思潮として生まれた…というような具体例をふまえて、わかりやすく教えていただけませんか。素人にわかるようにお願いいたします。

Aベストアンサー

明治以降、戦前までの、あるいは現代にいたるまでの日本の文学を貫く大きな主題を「近代的自我の確立」として見ていく、というとらえ方があります。

大雑把に言うと、
西洋近代社会の根本には、近代的自我があった。
それに対して、封建時代を続けていた日本には、近代市民社会というものは存在しない。そして、その核となる近代的自我もない。明治に入って、外圧によって開国を余儀なくされ、西欧列強に植民地化されないために、社会は急激な近代化を遂げた。

けれども、それは、西洋のように、近代的自我が自然な発達段階を経て成熟し、それと軌を一にして市民社会も成熟した、その結果としての文明ではないわけです。
そのギャップを埋めようとして、なんとか個人の内側に「自我」というものを確立しようとして苦闘した、一連の作家がいる、という考え方です。

ではヨーロッパの近代をささえた「自我」とはなんなのか。

これをまた考え始めると、大変なのですが、ここでは簡単に、「わたしとはなんなのか(わたしはなぜわたしなのか、わたしと他者はどうちがうのか、といった一連の質問も含みます)」という問いを立て、それに答えていくこと、としておきます(もし自我とはどういうことか、に興味がおありでしたら、宮沢賢治の作品を自我という観点から読み解いていく見田 宗介『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』 岩波現代文庫が大変おもしろく、参考になるのではないかと思います)。

ヨーロッパ社会では、キリスト教の強い支配と、封建的な身分関係のなかにあって、ひとは、社会からも、神からも自由で独立した「わたし」を想定してみようとも思わなかった時代から、近代に入って、自我が哲学の中心的な問題となっていきます(ヨーロッパ社会の中で「個人」という意識がどのように確立していったか、ということに興味がおありでしたら、作田啓一『個人主義の運命』岩波新書を。この本は手に入りにくい本ですが、非常によくまとまっています)。

近代社会を構成するのは、ひとりひとりの市民である。そしてその市民は「自我」を有している。これがヨーロッパの近代を支える思想であり、ヨーロッパの近代文明を裏打ちしているのは、その思想であったわけです。

さて、上でも言ったように、ヨーロッパでは百年~二百年の期間を経て成熟していったところへ、日本は一気に追いつかなくてはならなくなってしまった。

文学も、それまでの戯作文学のように、楽しみのためだけに読むようなものではダメだ、西洋の芸術観に基づいた新しい文学が生まれなければならない、と、そのように考えられるようになった。そうやって、明治二十年代に入って、新しい文学が起こってきます。

その代表的な作品が、二葉亭四迷の『浮雲』、あるいは森鴎外の『舞姫』です(『舞姫』に関してはhttp://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=993639で回答しているので、もし興味がおありでしたら、ご覧になってください)。

両者とも、知識階級の青年を主人公にしています。
主人公は、どういうふうに生きたらいいか考え、悩み、自分が良いと信じる生き方と、社会の現実が相容れないことに悩みます。
つまり、現代までつながってくる問題が、明治二十年代に、初めて登場したのです。

この二葉亭や鴎外がここで提出した問題は、そののち、鴎外自身や漱石によって深められ、あるいは明治四十年以降からは私小説という表現形式をとって現れたりもします。

その現れはさまざまだけれど、いずれも、社会のなかで生きる「わたし」は、社会から独立した存在である、それゆえに、社会とは相容れず、みずからの理想を、社会のなかで体現することもできない、その「わたし」は、いったいどう生きていったらいいのだろうか、ということを、日常生活のなかに描き出そうとするものだった。そういうものが、日本の近現代の文学であった、と概観することもできるわけです。

非常に大雑把に書きましたが、「日本文学における近代的自我の確立」と言ってしまうとずいぶんたいそうなことのようですが、その内容は、そうしたものである、と考えて良いのではないでしょうか。

明治以降、戦前までの、あるいは現代にいたるまでの日本の文学を貫く大きな主題を「近代的自我の確立」として見ていく、というとらえ方があります。

大雑把に言うと、
西洋近代社会の根本には、近代的自我があった。
それに対して、封建時代を続けていた日本には、近代市民社会というものは存在しない。そして、その核となる近代的自我もない。明治に入って、外圧によって開国を余儀なくされ、西欧列強に植民地化されないために、社会は急激な近代化を遂げた。

けれども、それは、西洋のように、近代的自...続きを読む

Q太宰治と志賀直哉の確執について

最近太宰治の「如是我聞」を読んだのですが、その中で太宰が志賀のことを名指しでけちょんけちょんにけなしていました。
ウィキペディアで調べたところ、太宰が最初に「津軽」の中で志賀を批判し、それに立腹した志賀が太宰をけなす発言をし、だんだんエスカレートして遂に「如是我聞」が発表されたということらしいのですが、この対立の経緯について詳しく知りたいのです。
参考になる書籍やHPがあったら教えてください。また、上に書いたこと以外のことをご存じであれば教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

こんにちは

太宰は「津軽」で、蟹田町に行った時に旧友達が太宰を囲んで宴を開いてくれた
時のことを書いています。その中で、当時、大作家として名を馳せていた"五十
年配の作家"(志賀直哉と名指しはしてないが「神様」と呼ばれている、と書い
たことで明白)について聞かれ、人の悪口を言って自分を誇るのは甚だいやしい
ことだが、と前置きしながらも、世間も文壇も、その大作家を畏敬に近い感情で
評価していることに、一種、腹立たしい感情を持っていたのか、彼の作風を厳し
く批判しています。きっと志賀直哉自身にというより、彼に象徴される世間の偏
った高尚趣味(と太宰は思っている)若い作家達の彼へのとりまき、へつらい、
に嫌悪感を抱いていたのかもしれません。(やっかみも少しはあったかもしれま
せん)(^^) それを読んだ志賀直哉が、座談会の席上で仕返し(?)に
太宰の作風をけなすなどしてバトルが始まったようです。

でも、私は、ことの発端は、有名な、太宰と井伏鱒二との確執のような気がします
。井伏は太宰が故郷青森から上京した時から頼っている文壇の先輩であり、私生
活でもいろいろと面倒をみてもらっていた作家です。太宰は候補になっていた第
一回芥川賞を逸したり、その後もあの手この手で受賞の依頼をするなどしても
(川端康成におねだりの手紙を書いたりしていますね)思うように行かず、また
女性問題等でもトラブルがあるなど、徐々に生活に行き詰まりを感じ、
薬物中毒に陥ったりしていきます。
井伏も当時は貧乏作家で、さほど将来を嘱望されるような作家ではありませんでした。

そんな中、井伏が「ジョン萬次郎漂流記」で直木賞を取りますが、
その作品に盗用が見られるとし(後に大傑作とされる「黒い雨」にも盗用
論争)それに嫌悪した太宰が、井伏批判、そしてその背後にある文壇、世間、そ
の象徴である"老大家"の志賀直哉批判、と日頃の不満が発展し、たまりにたまったうっぷんを
はき出すように、意を決して「如是我聞」を発
表するに至ったのではないでしょうか。
遺書には「井伏さんは悪人です」とありますね。

「如是我聞」で太宰は「その者たち(老大家)の自信の強さにあきれている。
……その確信は……家庭である、家庭のエゴイズムである」などと言ってますが、
私は、津軽の名家に生まれながら真の家庭的愛情に恵まれなかった太宰の本音が
そこに伺えるかなぁという気がしています。

「如是我聞」は、死ぬ数ヶ月前、心中した山崎富栄の部屋で、
新潮社の編集者、野平健一が口述筆記し、死後に発刊されていますね。

参考文献といえるかどうか判りませんが、「ピカレスク」(猪瀬直樹・小学館)
にはとても興味深いものがあります。

私見ですが書いてみました。

こんにちは

太宰は「津軽」で、蟹田町に行った時に旧友達が太宰を囲んで宴を開いてくれた
時のことを書いています。その中で、当時、大作家として名を馳せていた"五十
年配の作家"(志賀直哉と名指しはしてないが「神様」と呼ばれている、と書い
たことで明白)について聞かれ、人の悪口を言って自分を誇るのは甚だいやしい
ことだが、と前置きしながらも、世間も文壇も、その大作家を畏敬に近い感情で
評価していることに、一種、腹立たしい感情を持っていたのか、彼の作風を厳し
く批判しています。き...続きを読む

Q文豪たちの血液型

福沢諭吉
菊池寛
遠藤周作
森鴎外
志賀直哉
樋口一葉
島崎藤村
金子みすず
の血液型をどなたかご存知の方教えてください。

Aベストアンサー

遠藤周作: AB型
 言及 → http://www.hatirobei.com/%E6%9C%AC%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%99/%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E3%81%8B%E3%82%89/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%91%A8%E4%BD%9C

志賀直哉: AB型
 言及 → http://blog.alc.co.jp/blog/2000455/3250

森鴎外: B型?
 言及 → http://yaplog.jp/mnbvcxz1/archive/351

明治の人は、そもそも血液採取することが稀であったろうし、病院のお世話になったにしろ、「あなたの血液型は * 型です」といって、いちいち患者に教えることもなかったろう(今もそうだろうけど)。
だから、本人も知らないことが多かったと思われます (まして他人は知らないから、記録にも残らない)。
例外は、先の太平洋戦争を経験した人たちで、いつ負傷するか分らないから、イザという時の輸血の便のために自分の血液型の札を首にかけたりしていた (だから、少なくとも親や本人は知っている)。
それと、侍の時代を生きた人たちの中には、血判状を書いた人もあった (赤穂浪士など)。それが残っている人は分析できる。
それ以外は、ほぼ勝手な推測によるものがほとんどであると思われます。

遠藤周作: AB型
 言及 → http://www.hatirobei.com/%E6%9C%AC%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%99/%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E3%81%8B%E3%82%89/%E9%81%A0%E8%97%A4%E5%91%A8%E4%BD%9C

志賀直哉: AB型
 言及 → http://blog.alc.co.jp/blog/2000455/3250

森鴎外: B型?
 言及 → http://yaplog.jp/mnbvcxz1/archive/351

明治の人は、そもそも血液採取することが稀であったろうし、病院のお世話になったにしろ、「あなたの血液型は * 型です」といって、いちいち患者に教えることもなかったろう(今もそうだろうけ...続きを読む

Q森鴎外 ペン・ネームの由来

久しぶりに、”雁”を読み返しまして、そういえば、森鴎外というペン・ネームには、なにか、友人の使っていた雅号を借りた、とか、若いときのあまり名誉にならない思い出にまつわっている、と聞いた事があります。どうも、うやむやになっていたようです。

はっきりとした事情をご存知の方がいたら、教えていただけないでしょうか。

こんな説もある、というようなことでもかまいませんので、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

#6です。

>鴎外が、春の嵐の様子を描いた杜甫の詩句から取られたものだというのは、初めて知りました。お弟子の斉藤勝寿氏と、どんなやり取りののちに、この詩句を採用したのか、興味の湧くところです。
 :
明治23年「衛生新誌」紙上での漢詩文の内容は未詳ですが、ここに大正11年の「新小説臨時増刊」上での「文豪鴎外森林太郎」において、「私ごときの雅号が…」と鴎外追悼文中に認めていることを、斎藤茂吉は「童馬山房夜話. 第2」の「179 「鴎外」の雅号」において転載しています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1141874/63

ちなみに、斎藤茂吉はこの後も「190 再び「鴎外」の號に就て ​」、さらに「192 鴎外の號に就て(三たび) ​」において、あらゆる角度から鴎外漁史の来歴研究を行っており、これを以て結論として捉えて構わないと思ってます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1141874/75
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1141874/80

これらを具に調査報告した茂吉の報告を集約してみると次のようになるでしょうか。
1.明治13年7月28日付「桂林一枝 第36号」に載った「泛品海」では、「佐藤應渠(元萇)曰。合作」との注が付記されていること。(少年一人のそれでなく、あくまでも義父の手が入っていること。)
2.「雁」の文中にて当時「桂林一枝」を「岡田」が読んでいた記載があること。
3.火災に遭ったせいもあり千住の父の医院に引越しした鴎外と、岩代から当時は千住に移住していた佐藤父子との交流も通り一遍のそれではなかったこと。
4.鴎外の人柄からして、佐藤父子の「鴎外漁史」の後追いの形で、密かに自身の雅号に用いていたとは信じ難いこと。
5.唐詩選中の杜甫の五言律詩が出所と思われること。
ちなみに中西梅花 (幹男) 「新体梅花詩集」博文館(明24.3)の「鴎外漁史」においては杜甫を踏まえたものか、次の文句があります。
「…
柳ねふりし空を高み、
空をたかみて鳴くと云ふ、
かまめの外に知るよしあらじ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876384/48
(蛇足ですが、万葉時代の鴎は「加万目」でした。)

およそペンネームもその発端には怪しくも覚束ない草草・来歴があるもので、であればこそ正岡子規の100を超す雅号は例外としても幾十ものそれらの中から定着したただ一つという次第なのでしょう。

半村良のペンネームから一年後に、イーデス・ハンソン(良いです、半村)が活躍。両者は全くの偶然とのことです。

漱石が初めてその名前をペンネームとして記した際、サンズイに「欶(サク・ソク/すう)」なのに、その「束」の旁が「欠(あくび)」ではなく「攵(えだにょう)」の「敇(サク)」にしてしまい、慌てて訂正を入れて詫びた事。その際に「実名を曝すは恐レビデゲスと少しく通がりて当座の間に合わせに漱石となんしたり」などと言い訳しています。
とまれ、若き頃の鴎外といい漱石といい、当座間に合わせのペンネームがこうも重い歴史を持つに至るとは知らぬ仏だったのでしょう。
もはや小倉で森少将閣下となっていた時代のご本人にとっては、いまさら「鴎外漁史とは誰ぞ」なのでしょう。そのレトリック多用の文調からして真面目に裏打ちされており、まあむしろ可愛いもんなのですが…。

#6です。

>鴎外が、春の嵐の様子を描いた杜甫の詩句から取られたものだというのは、初めて知りました。お弟子の斉藤勝寿氏と、どんなやり取りののちに、この詩句を採用したのか、興味の湧くところです。
 :
明治23年「衛生新誌」紙上での漢詩文の内容は未詳ですが、ここに大正11年の「新小説臨時増刊」上での「文豪鴎外森林太郎」において、「私ごときの雅号が…」と鴎外追悼文中に認めていることを、斎藤茂吉は「童馬山房夜話. 第2」の「179 「鴎外」の雅号」において転載しています。
http://dl.ndl.go.jp...続きを読む

Q明治文学と大正文学について

明治文学と大正文学の違いについて教えて欲しいです。小さなことでもいいのでお願いします。

Aベストアンサー

日本文学は時代に繁栄しています。
なので日本史で明治時代~大正時代をみるとわかりやすいですよ。

明治文学…西洋文化をとりいれ、小説等の基礎をつくった。
大正文学…基礎が固まり応用へ。個性的な作家が多い。

明治時代は試行錯誤しながら、小説とかを書いていたけれど
その試行錯誤のおかげで基盤ができた。代表作家:尾崎紅葉、幸田露伴、島崎藤村、森鴎外、夏目漱石他

その基盤の上で大正時代は、いろいろな作家がいろいろなスタイルで作品を書く。
代表作家:芥川龍之介、志賀直哉、川端康成、梶井基次郎他

本当に簡単だけれど。。。

検索キーワード
「明治文学」「大正文学」「違い」「相違点」
などなど、いろいろ調べてみてください。まだまだ調べる事ができます。
頑張って!


人気Q&Aランキング

価格.com 格安SIM 料金比較