初めて自分の家と他人の家が違う、と意識した時

最近の哲学では世界の本質は無意味的であり、人間の方が意味を見出してるというのが主流派的でありますが、個人的には世のシステムにおいて、無駄なものは淘汰され排除されていくという観点から、この世にも何らかの意味(目的)があると考えております。

しかしながら、逆説的にそう捉える事で整合性がとれ、納得できる部分もあります。
人間は普段、希望や理想を追求し、仕事や目的に従事し、時間や激務に忙殺されることで、虚無や絶望といった暗い淵(現実)から目を逸らしている所があります。

むろん、そうした行為も人間には必要でしょう。
しかし、ひとたびそうした行為を失えば、暗い現実が待っております。
著名な(哲学の)作家や学者など、世を研究する者が相次いで自殺や発狂をする様も、こうした事を踏まえるとなんとなく分かるような気がします。

ただ、私はアンチニヒリスト(リアリスト)であり、むしろそうした意見に否定的で、そのような現実は認めたくないと感じております。

これらについて、皆様の闊達な御意見を伺いたく思います。
できれば、感情論・宗教論・空想論ではなく、現実的・理論的・客観的な論理でお願い致します。
(個人的にはそうじゃない事を願いたいものです)

A 回答 (9件)

それは東洋哲学だと多分答えがありますね、仏教とかになりますが、



私は老荘の思想が好きなので、その観点、荘子の思想の観点から考えると、無用の用という考え方があるのですが、その意味は、人間的視点のみでみた世界と、人間を存在としてのみで考えたときの世界、の2層に考えるということなのですが、

つまり、真理が一つと考えるから、限界にぶつかる、二つだと考えたら、答えになる、ご質問の場合は、人間の主観いよる必要性、と、人間の主観をはずしたときの真理、この二つめの真理の場合は、人間の主観の上では、問題や害であったり、人間の主観にとっての真理ではないこともある、が人間という主観のを離れれば真理であるわけです。

つまり、人間の主観においての必要性と、人間を消し去った状態での必要性、それは同じ物ではないから、分離して、二つの真理のような形を持つこともある、

荘子の言う無用の用というものは、私の捉えた感じだと、こういう感じですけど、参考になればと。
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この回答へのお礼

なるほど、実に興味深い回答でした。
仏教や老荘は私も共感する部分が多く、感銘を受けた書物は数知れずですが、どうやら読みが浅かったようで…。

確かに人間の視点と世界の視点は違うのかも知れませんね。
いえ、人間の視点では「限界があるという意味」なのかも知れませんな。
老荘や仏教でいう「神のみぞ知る」ではありませんが、人間の視点では推し量れない、違った心理が存在するというのは、ある意味そうかも知れません。

老子も釈迦も、人間には推し量れない「真理」が世界には存在する、と説いておりました。
それらに対して彼らの答えは、疑問にもち苦悩するのではなく、ありのままの現実として受け入れ、人として悠々と生きられよ、と仰っていましたね。
しかし、私も人間である以上、やはり持って生まれた「知能」がある故、意味や目的はいわば人生の中核、問題でいえば解答、ゲームでいえばゴールのようなもの。
おのずと欲してしまうのが性というもので御座います。

それが人間と違った視点に「答え」があるとするならば、それを人間が理解するのは到底先で困難な事でしょう。
先はまだまだ遠いです…;
しかし、「真理」が2つあるというのは面白い考えですね。盲点でした。
いつか私もその「真理」とやらへ辿り着きたいものです(願わくば、発狂しないものでありたい…)。

お礼日時:2006/04/16 06:38

>最近の哲学では世界の本質は無意味的であり、人間の方が意味を見出してるというのが主流派的でありますが、


世界の本質とはマクロの宇宙観でもミクロの素粒子論でも社会学的な見地からも、虚無=無限の意味(意味の豊饒)
という解釈なのではないでしょうか。

>個人的には世のシステムにおいて、無駄なものは淘汰され排除されていくという観点から、
>この世にも何らかの意味(目的)があると考えております。
無駄なものが淘汰されるのは、生命進化のプロセスであって社会とはむしろ混沌に向かうのが
自然という認識があります。ローマクラブが1970年に出した「成長の限界」以降、生命的進化を
科学技術、社会システムの進展のアナロジーに使うことは地球という閉じた系の中での
バランスを無視して考えることはできないという考えにより放棄せざるをえなくなりました。
世の中は熱力学的にいうえば、エントロピー増大の方向に向かう。
これが唯一あるとすれば明白な「意味」であって、人間の文明はその拡散するエネルギーや混沌に
むかう力を、意思と欲望によって逆行させてきたのです。


>しかしながら、逆説的にそう捉える事で整合性がとれ、納得できる部分もあります。
意識が全てを作るという言説を「宗教的」と言ってしまえばそれまですが、主観というのが常に
単一の視点を持つしかできない存在である以上、世界は1000の目を持つと想像してみても
自分の「生きられる」世界は時空なかに描かれる一本の線にすぎません。

>人間は普段、希望や理想を追求し、仕事や目的に従事し、時間や激務に忙殺されることで、
>虚無や絶望といった暗い淵(現実)から目を逸らしている所があります。

メメント・モリ
死を忘れるな。

人間はモータルな存在。いつかは死すべき運命にあるのです。
生きている限り、主観も存在するし、知覚も思惟も存在する。存在することが保証されています。
しかし、世界はさておき死んでしまったらオレはどうなるんだ・・というのは虚無や絶望といった
暗い淵以上に確かな「現実」であります。

>むろん、そうした行為も人間には必要でしょう。
多忙にかまけて虚無感を忘れるというのは、なんとなく心理的な不安レベルの話しで哲学的思惟
とは縁遠いような印象です。揚げ足をとる気はないのですが
藤村操という青年がその昔「人生不可解」とつぶやき華厳の滝に身を投げたという話ですが
死んで花見が咲くものかという気がします。
死ねばもっと虚無じゃないか・・・みたいな。

>しかし、ひとたびそうした行為を失えば、暗い現実が待っております。
別に、虚無を避けたくて仕事や趣味や娯楽や恋愛に夢中になっているわけではないです。
生きがいを見いだせなくても、人生の意味は、思いがけない発見や喜び、人とのふれあいの
中に見出せたりします。
愛や、感動、ひとから受ける感謝や尊敬、そういうものの中に生きる意義のようなものが
見える瞬間があるのではないでしょうか。
能動的に追い求めるものでなく、天恵のように降ってくることもある。恋なんてそうじゃないですか?
もちろん、そういうものがなくなったらどうか・・・って言われたら、それは空気から酸素や窒素や
二酸化炭素などの分子を取り除けば真空じゃないかというのと同じ理屈。

>著名な(哲学の)作家や学者など、世を研究する者が相次いで自殺や発狂をする様も、こ
>うした事を踏まえるとなんとなく分かるような気がします。

喩えていえば、息をしないでいたらどうなるかやってみたとか、逆に吸い続けて過呼吸になった
みたいなもので
ユングが内的宇宙を探索しすぎて気が狂ったり、数学の天才ナッシュのような特殊な意識の空間を
生きた人もいたのかもしれないです。

>ただ、私はアンチニヒリスト(リアリスト)であり、むしろそうした意見に否定的で、
>そのような現実は認めたくないと感じております。
どういうことですか?

>これらについて、皆様の闊達な御意見を伺いたく思います。
要するに何について語れというのでしょう。
この世が虚無かどうかではなく、自我の意識の存在する時空ににおいてのみ虚無ではない
といいうるのみです。死が虚無でないと誰が証明できますか。
逆に生をうけた以上、意味は自分で構築する。それが近代自我というか、哲学でも
宗教でも基本なんだと思います。
無意味というのは、無駄とは区別すべきです。
無駄なことはたくさんあります。効率と有効性と無駄と無意味も厳密には別のものです。
意味は、主観が定義するものと対象に内包されているものがあると思います。
主観と客体、彼我の差。
目の前の若く美しい女性は、虚無とはいいきれない。口説くのが無駄かもしれないけど
私は虚無に向かって口説くのではない。
存在とsとして柔らかな腰の曲線とたおやかな細い腕はそこに厳密に存在する。
私という意識がその女性を美しいと感じる。彼女の生を賞賛する。その意識は虚無では
なく意味を持つ。
意味を持つと信じるから自分は命を永らえることを希望する。
人を生かす源泉は究極のところで欲望とつながっている。自我の中に欲望を認識できれば
人は虚無感とは無縁の時空を生きられる。
欲望を否定することは、虚無に通じる。そこから悟りを開こうという道もある。

この回答への補足

これほどマクロな事をミクロに例えるには限界があります。
それこそ、私の言いたい事を正確無比に書くには辞書何冊に及ぶか分かりませんし、残念ですがはっきりいって無理です。
また、それを書いたからといって皆が理解できるとは限りません。

「如何に皆に分かりやすく、簡単に書くか」が質問の焦点で御座いますが、私にはこれが限界で御座います。
文字が稚拙で分からないというのは、ご容赦頂く以外他に方法がありません。
「言葉狩り」ではありませんが、私の発言にいちいち細かな部分に反応するのではなく、全体を把握し質問の趣旨と本質をご理解頂けたら、と思い質問させて頂きました。

yamadanaokakashiさんのご回答は、質問と批判と回答がごっちゃになっていて、散文した文章をなんとか把握しようと致しましたが、結局何が言いたかったのか私には測りかねます。
もう少しまとめて頂けると幸いです。

補足日時:2006/04/16 07:01
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ANo.6です。



誤解を生むといけないので補足。

ご質問者さまの仰る「暗い現実」は
ニューチェが言うところの「消極的ニヒリズム」もしくは「病的な中間状態」
ではないかと判断し下の回答を書きました。

下の回答で私が書いた
> 私はアンチニヒリスト(リアリスト)ですので
は、ニューチェが言うところの「積極的ニヒリズム」に近いつもりですが
ソクラテス以前の根源的な自然が内包している生成の原理=「力の意思」
のようなレベルに言及する気はありません。
この議論はあるレベルからトートロジーになってしまう筈です。
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アンチニヒリストと自認するなら


> この世にも何らかの意味(目的)があると考えております。
といった形而上学的態度は否定すべきと思うのですが、違うかしら?

少なくともニューチェは
> この世にも何らかの意味(目的)があると考えております。
といった、混沌としたこの世界の形而上(彼岸)に
イデア界と呼ぶ目的論的世界を想定することを
「ニヒリズム」と呼びこれを否定したのだと私は学びましたが
間違っているのかしら?

私の理解では
本質とか意味とか目的といった概念が実在するイデア界は
諸行無常な現実世界に生きることに倦み疲れた怠惰な者が
苦悩の現実にたいするルサンチマンから捏造した虚構であり
虚無や絶望といった暗い淵は現実ではありません。

> 最近の哲学では世界の本質は無意味的であり
この一文もおかしいと思うのですが
現代哲学は世界の本質を「無意味だ」と言っているのではなく
形而上学が考えてきた本質のようなものはない、もしくは
形而上学では「人間の方が意味を見出してる」ことを超えない
と言ったことが言いたくて、記号論やらデコンストラクションに
走ったのではないかと思います。

> この世にも何らかの意味(目的)があると考えております。
何にとっての「意味」なんでしょう?
誰にとっての「目的」なんでしょう?
ご質問者さまは神や創造者、イデアの代わりに
「世のシステム」といったもの想定しているようですが
世のシステムって何ですか?
少なくとも現代哲学のコンテクストに従えば「そんなものない」でしょう。
それは「人間の方が勝手にシステムとして見立てている」のであって
私は、この世はそんな組織だった/系統だったものではないと見る現代哲学に共感し
私はアンチニヒリスト(リアリスト)ですので
虚無や絶望といった暗い淵(虚構)に滞留することなく
現実世界を生きていきたいと思います。

この回答への補足

>アンチニヒリストと自認するなら、形而上学的態度は否定すべきと思うのですが、違うかしら?
アンチニヒリストだからこそ、目的も無く存在するという「矛盾」に疑問を抱いているのです。

>少なくともニューチェは混沌としたこの世界の形而上(彼岸)に、イデア界と呼ぶ目的論的世界を想定することを「ニヒリズム」と呼び、これを否定したのだと私は学びましたが間違っているのかしら?
哲学者はニューチェ一人ではありませんよ?
私はニーチェについてだけ論じている訳ではありませんし、また「ニヒリズム」を最初に唱えたのも彼でなければ、彼一人によって唱えられたわけでもありません。

ニーチェが唱えたのは、既存の秩序や権威による世界の退廃に終わりを告げ、超人的・超越的な思想によってこれらを乗り越えるというのであって、目的論的世界を想定する事を「ニヒリズム」と呼びんだわけでも、またこれを否定したわけでもありません。
それと、「イディア界=目的論的世界」というのは極端過ぎると思うのですが?

CUE009さんはニーチェにかなり傾倒しておられるようですが、彼自身が自らの唱える「怠け者」であり、ニヒリストである事は十分理解しているのでしょうか?

>何にとっての「意味」なんでしょう?
誰にとっての「目的」なんでしょう?
私はこれを聞いているんです。

>私は、この世はそんな組織だった/系統だったものではないと見る現代哲学に共感し、私はアンチニヒリスト(リアリスト)です
現代哲学は今だ議論の中です。
そもそも、「哲学」自体「科学」から見ればナンセンスです。

私はCUE009さんがリアリストでないとお見受けしました。

補足日時:2006/04/14 23:53
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この世には何らかの意味があるのでは、と考えることを生きる意味とするのが人間であると思います。


人間は生きる限り、何らかの意味を見出し続けたいと思うものですし、その理由を求めることも既にその内に含まれます。
世界は虚無であると捉えることも、自身の世界観であり生きてゆくための糧となる、数ある考え方の中のひとつです。
人間は、何らかの問題や命題(政治、宗教、環境、哲学など)を生産し、それを解決するという消費によって生きるわけではありません。生産と消費の構図によって人は生きるわけではないのです。
人が生きてゆくときに大切なのは、世界がどうであれ、ある場所において自分が本当に周囲と調和し、思いのままに生きてゆけたかにあると思います。
いかなる問題提起も、それを生きる目的として自身を縛ることはできません。なぜなら、問題は生まれたときから解決されることを目的とされており、そして目的とされている以上、それは既に解決されているからです。
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この回答へのお礼

仕事の都合で、回答が遅くなってしまいました。
申し訳ありません;

なるほど、確かに人が生きてゆくときに大切なのは、世界がどうであれ「ある場所において自分が本当に周囲と調和し、思いのままに生きてゆけたかにある」というのは、私も一理あると思います。

しかし、それだけでは足りぬと考えています。
やはり人間が生きていく以上、明確な目的や希望が無ければ、現実を前にしてそれを見過ごすのは困難かと思います。

>問題は生まれたときから解決されることを目的とされており、そして目的とされている以上、それは既に解決されているからです。
どこかで聞いた哲学者の言葉ですな~。
「目的とされている以上、それは既に解決されている」というのは少々、無理がありませぬか?

ご回答有難う御座います。参考にさせて頂きます。

お礼日時:2006/04/14 22:58

めちゃくちゃ単純な回答で申し訳ないですが、ニヒリズムはそれ自体矛盾しているのではないですか?



だって、ニヒリズムはニヒリズムを否定しないのですか?

否定の否定は肯定でしょうから、もし、ニヒリズムが正しいのなら、ニヒリズムを否定する事が正しいニヒリズムだという事になります。
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この回答へのお礼

私はアンチニヒリズムと書きましたが、この問題はニヒリズムとは言い難いです…;

そもそも、「虚無」とはニヒリズムでもリアリズムでもない(とは完全いいがたいですけど…;)、「無」であり「虚」であります。

そこには肯定も否定も存在しない、一切の「無」があり、それを見せる為の「虚」が存在します。
これこそが「虚無」であります。

いえいえ、ご回答有難う御座います。「めちゃくちゃ単純な回答」だからこそ逆に難しかったりするんですよ^^;

お礼日時:2006/04/10 23:55

>個人的には世のシステムにおいて、無駄なものは淘汰され排除されていくという観点から


世のシステムとは何でしょうか。淘汰され排除されていくものは本当に無駄なのでしょうか。もしそうなら世界の本質は「虚無」で無駄なので排除されてしまうんではないでしょうか。
「虚無」を「暗い」と言っているところからすると、あなたは悪いものとお考えのようですが、必ずしもそうとは思えません。「虚無」という結論を出した人間が多いと考えるならばその中には「虚無」を直視できなくなって自殺した人もいれば、正面から向き合って近づくために自殺した人もいたのではないですか。前者は「虚無」を嫌ったのでしょうが、後者は羨んだのだと思います。「虚無」はある意味では純粋にも見えます。
「虚無」も絶望も人間が意味を見出しているものではないでしょうか。
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この回答へのお礼

>もしそうなら世界の本質は「虚無」で無駄なので排除されてしまうんではないでしょうか
それが「滅び」なのではないでしょうか?

>「虚無」を「暗い」と言っているところからすると、あなたは悪いものとお考えのようですが
「暗い」=「悪い」とは限りません。
ただ、「暗い」のです。
ただ、そこに「闇影」が存在しているです。

>「虚無」も「絶望」も人間が意味を見出しているものではないでしょうか
意味についてはそうだと思います。
しかし、意味を人間が見出す以上、付き合っていかねばなりません。

ご回答有難う御座いました。参考にさせて頂きます。

お礼日時:2006/04/10 23:40

>世界の本質は無意味的で………



本質って何だろう

物質はそれぞれ分子からできている
分子は原子で構成されている
原子は陽子と電子で成り立っている
原子の陽子と電子の関係は太陽を回る惑星みたいなもの
宇宙空間にそっくり
引き合うエネルギーで成立しているだけ
ほとんど「虚無」空間だ

そこらにある石や樹や、我々の体だってそういう原子から成り立っている

この世で眼に映る全ての現象は磁場による単なる空間の歪みなのかも知れない
人間の営みも単なるエネルギーのゆらぎなのかも知れない

この回答への補足

しかし、だとするならば、何故、虚構・無意であるはずの人間がこのシステム自体に疑問を抱いたのだろう…。
全ての悲劇と矛盾はそこから生まれたような…。

補足日時:2006/04/09 23:56
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この回答へのお礼

宇宙に存在しているのは光と重力だけで、あとは力の差だと言われています。

>人間の営みも単なるエネルギーのゆらぎ
そうなのかもしれません。
最近は科学だけでなく、哲学でもそういわれるようになりましたね(もっとも、哲学と科学は切っても切れない縁だったりしますが…)。

独創的な問いかけ有難う御座います。
まさか、逆に質問されてここまで深く考えさせられる羽目になろうとは思いませんでした^^;

お礼日時:2006/04/09 23:52

何かをお尋ねになっているのではなく広く意見を募っておられるアンケート的な御質問でしょうか。

どうも何をどう答えてよいのか迷いますね…。
世界の本質が「虚無」なのかそうでないのかをお尋ねですか?それとも「虚無」であったとしたら、どう思うかということなのでしょうか?

確かに「暗い現実から目を逸らす」ために何かに忙殺されようと或いは、されている人々もいるんでしょう。
しかし私などは「虚無」や「絶望」を抱え込みながら忙殺されておりますよ。アホらしさに反吐が出る思いをしながら走り回っております。時間が奪われれば奪われるほどに「暗い淵」を覗き込むようです。

>世を研究する者が相次いで自殺や発狂をする様も、こうした事を踏まえるとなんとなく分かるような

それは、いくら答えを求めて研究したって結局は【真相が分からない】からであって「虚無だ」ということが分かったからということではないのではありませんか?

私に言わせりゃ取り敢えず「目を逸らす」ことができる「希望」だの「理想」だのを追求できるんなら、もっけの幸いだと思いますんですが。

この回答への補足

>世界の本質が「虚無」なのかそうでないのかをお尋ねですか?それとも「虚無」であったとしたら、どう思うかということなのでしょうか?
その両方で御座います。
難しい問題ゆえ、不慣れなところはご容赦願いたく存じます。

補足日時:2006/04/09 03:41
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この回答へのお礼

>「虚無」や「絶望」を抱え込みながら忙殺されておりますよ。アホらしさに反吐が出る思いをしながら走り回っております。
まったくで御座います(笑)
おそらく、今の世はそうした方が殆どだと感じております。
ただ、私の場合色々と訳あって現実と向き合わねばならぬ事が多々ありましたので、質問させて頂いた次第で御座います。

>いくら答えを求めて研究したって結局は【真相が分からない】からであって「虚無だ」ということが分かったからということではないのではありませんか?
確かに、分からぬ事に対する苦悩はあるかと思いますが、実際にその結論を行き着いている人間が多いと感じます。

>もっけの幸いだと思いますんですが。
当事者としては、「目を逸らせない」故の嘆きで御座います。

御回答有難う御座いますよ。

お礼日時:2006/04/09 03:41

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