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 過去の質問も読み返しましたが、私の中では[指揮者=神]だが指揮者が止まっても「演奏者=プロ」は作品を送り続ける、そんな印象をうけました。
 それで指揮者によって作品が違うって言われるのがわからない。カラヤンが、うん年代の古い録音したのより近年の器機を使った録音のほうが聴き応えある気がするんですが。
 指揮者って何故必要なんですか?
生で指揮者見て演奏見て聞かなきゃわからないんでしょうか?

A 回答 (28件中11~20件)

作曲家自身が自作の曲を指揮して演奏することもあります。

CD化されているものではストラヴィンスキーの自作自演集。ラフマニノフのピアノ協奏曲などがあります。

ペルトやメシアンなどは指揮者のミュンフンのリハーサルに立会い、ミュンフンと話し合いながら、リハーサルを進めています。自分では指揮してません。
ショスタコーヴィッチは自作の交響曲の初演に立ち会いました。指揮はムラヴィンやコンドラシンです。
作曲と指揮の能力は別なのでは?

「指揮は二次的なものです。作曲家は本物の天才です。その天才に追いつこうとします」
みたいなことを指揮者のハイティンクが言ってました。


私はスコアとともに生き、スコアは私の一部になります。その瞬間、私は作曲者の召使になる。作曲家は天才で、私は何者でもない。
 
私は最大の野心以外に、野心を持たない。それは音楽することである。

曲を知っているというのは第一段階にすぎない。第二段階は曲について瞑想すること、第三段階はそれが血になるまで吸収し、その曲が体の一部になった時、はじめて指揮する用意ができます。

これはジュリーニの言ったこと。

まあ、同人誌の例えは全然違うと思います。
難解な文学の二次的創作作品というのは例えが分かりません。
原作を知らずに云々を言ったら、リルケの詩も読み手の解釈でしかありません。リルケがどう思って書いたか(=原作)は読み手の解釈に委ねられます。

ゲーテのウェルテルやファウストがどんな気持ちであるかは読み手に委ねられます。ゲーテの言う「憂鬱」と読み手の考える憂鬱は違うかもしれません。しかも、違う時代の違う国の話で、ドイツ語は今とは違うし、和訳で読むし、キリスト教徒じゃないし、究極には「俺、ゲーテじゃないし」。
読み手から見たゲーテが在るのであって、ゲーテがあるのではない。読み手の数だけゲーテがある。

指揮者が嫌いなら自分でスコアを読んで、頭の中で音楽奏でるしかないのでは?それか、自作自演を聴くとか。
演奏を聴いて作曲家が認めたものだけを聴くとか。
作曲家の自作自演だって毎回、同じ演奏じゃないでしょうし。

この回答への補足

>読み手の数だけゲーテがあるetc
それは時代の流れと多国籍化で今後変わっていくのでしょうか?

 あと、指揮者が嫌いな訳ではないんですよ。ある人たちが指揮者のみを褒め称えるのがちょっと駄目で、素晴らしい演奏をした事については「指揮者のおかげ」。
演奏者を評価する私が間違っているんでしょうか

補足日時:2006/06/02 01:46
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三たびこんにちは。


補足拝見いたしました。

> 曲のbeat(拍子)を7/8や11/16に変えたり、ゴアテクノに曲入れ込んだりしてカタルシスをもたらしてくれます。
> 指揮者の存在はわかりませんが、これも「新たな生命を吹き込む」と思いますか?

もちろん,この例も「新たな生命を吹き込む」のひとつの形だと思いますが,同人・インディーと言われる人たちの再創造がそうした形で行われるのであれば,指揮者の役割はそれとは明らかに違うものだと思います。

クラシック音楽でも,ある作品のテーマをモチーフにして「別の作品」を作る,という事はよく行われていますが,それは指揮者の役割ではありません。
どの指揮者の演奏でも,ベートーヴェンの交響曲はベートーヴェンの交響曲です。

しつこくもう一度お答えしますが,指揮者の存在理由とは,作品という枠の中でそこに新たな生命を与えること,だと思っています。

その枠は,蛙が遊ぶ程度の井戸くらいの狭さしかないのか?
あるいは,無限の広がりをもつ宇宙なのか?
質問者さまの感じ方次第です。

この回答への補足

>どの指揮者の演奏でも,ベートーヴェンの交響曲はベートーヴェンの交響曲です。

 ベートーヴェンの第九がEUの歌だったと記憶しています。このような場合、どのような解釈いたしますか?

>感じ方次第です。
私は流行曲を聴かず、指揮者にこだわらず適当なクラッシック、を聞きます。周囲は指揮者だの何年のどこぞの録音とこだわり[彼らが閉じている]気がします
 
 恥ずかしながら「無限の広がりをもつ宇宙」の意味がわかりません。教えてください

補足日時:2006/06/02 01:25
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こんにちは。


私なりに感じたことを。

>原作を聞いた事のない指揮者が自己解釈で指揮する。コレって二次創作いわゆる同人作家と変わらないのではないのか?

どちらかというと、原作と二次創作との関係と言うより、原作(脚本)と演出家の芝居(演劇)との関係の方が近いように思います。

と、いうのは。二次創作というのはその原作のキャラクターを元に原作の雰囲気や好み等をふまえ、「創作」するものだからです(なんていうことは質問者様には言うまでもないこことかもしれませんが)。

芝居に例えたらどうか。役者が変われば芝居も変わるだろうということは、オーケストラよりもわかりやすいように思います。容姿が違う、声が違う、雰囲気が違う(衣装でも違う)、つまり視覚での情報が多いから。

役者だけで芝居ができるか? それも練習の積み重ねで可能です。ただ、役者は自分とその関わりのあるところまでは把握できても、全体を見て判断することは難しい。役者は木であって、森全体のことは見えにくいからです。つまり、その森のことを判断するために、演出家がいる。全体の雰囲気を見る。役者の個を判断して全体との調整をする、役者が上達するための方法を考える。そうして、自分なりの森を作り上げる。

シェイクスピアの作品があります。彼の作品もやはり、制作当時から脈々と受け継がれてきています。演出家によってその作品の見せ方、解釈の仕方は当然違う。原作の背景(と思われる)に忠実なこともあれば、思いっきり現代風にアレンジすることもある。これは演出家の考え方でしょう。

これをオーケストラに当てはめても同じなのでは、と思います。役者=演奏者で、演出家=指揮者です。

オーケストラでは、芝居ほどの印象はないかもしれませんが、やっぱりそういうことはあると思います。

芝居もオーケストラも、日によって出来は違います。同じ指揮者(演出家)、同じ演奏者(役者)でも、前日は良かったのに、今日は?ってこともあります。それは実は客側の雰囲気も微妙に関係したり……。

そういった中録音され、多くの人にいいと評価されたものがある。つまりはそういうことなんじゃないかなあと思います。

CDで聞くよりは、生の方がやっぱり「わかりやすい」とは思います。視覚ってやっぱり大きいと思います。それから皮膚感覚。楽器から放たれる生の音の「波動」のようなものを全身で受け止めるあの感覚は、スピーカーからでは味わえないかと(少なくとも私が持っているような安ーい機械では)思うので。

最後に思うのは。
例えばカラヤンのCDとして、「この年代の録音の演奏でこんなに感動するならば、生だったらどれほどのものだったのだろう」と、いうことです。
#生で感動しても、それがそのままCDになったときに同じように感動できるかは?ではないかと。

なんだか脈略のない長文になってしまいましたが、これで。

この回答への補足

>そういった中録音され、多くの人にいいと評価されたものがある。つまりはそういうことなんじゃないかなあと思います。

そうですね。それならば自分は演奏者の人たちも評価すべきだと思いました。

補足日時:2006/05/22 14:22
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#6です。

再びこんにちは。
みなさんへの補足を拝読して思ったことを少々追加させてください。

音楽の価値はもちろん音楽であって,指揮者は大変な事をやっているから凄い,と考える必要は全くないと思いますよ。(他の方の回答にある通り,本当にすごく大変で凄いことではありますけれども。)

前回の回答の繰り返しですが,私にとっての指揮者の最も大切な存在理由とは,作品に新たな生命を吹き込む事ができる,です。

指揮者に限らず,演奏家たちは,クラシック音楽の演奏行為そのものが,ある意味では複製である事を承知の上で,演奏する事に価値や喜びを見出し,そこに全身全霊を傾けている,と思っています。
私は,演奏とは,コピーを作る事ではなく,再創造であると感じています。

私は同人作家さんたちの創作行為やその作品のことは知らないので,それと上に書いたような指揮・演奏行為を比較して考えようとは思いません。同様に,質問者さんも,自分の知っているもの(質問者さんが同人作家さんの事を知っているのかどうか分かりませんが・・・)に当てはめて考えようとせずに,ご自身の感性に素直に感じていただけたら,と思います。

感性の扉が前向きに開かれてさえいれば,ごくごく自然に感じ取れるようになると信じています(^^

この回答への補足

同人・インディーと呼ばれる人達凄いですよ。
曲のbeat(拍子)を7/8や11/16に変えたり、ゴアテクノに曲入れ込んだりしてカタルシスをもたらしてくれます。
指揮者の存在はわかりませんが、これも「新たな生命を吹き込む」と思いますか?

補足日時:2006/05/22 14:04
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No.13です。


>原作を聞いた事のない指揮者が自己解釈で指揮する。コレって二次創作いわゆる同人作家と変わらないのではないのか?
 そうですね、私が高校生の時(100年位前かな)ベートーベンの交響曲(どれだったか忘れましたが。)の初演の時、彼はもう耳が聞こえなくなっていたので、補助の(?)指揮者がついた。演奏者はみなそちらの指揮に従い演奏した。ベートーベンの指揮で演奏したらどうだっただろうと音楽教師が言っていました。結局は音楽はその演奏者によってまた二次的に作られていくのではないでしょうか。一旦作者の手を離れたら、それぞれの解釈により音楽を作り上げてよいと私は思います。オタクといわれるほど勉強をしていませんが、同じ曲で色々楽しめるのは面白いです。

この回答への補足

>同じ曲で色々楽しめるのは面白いです。
そーなんですよね。同じ曲でもハズレ引く場合もありますが。

補足日時:2006/05/22 14:02
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私は“ど”素人の歌好きです。

歌手の追っかけはしていませんが、毎年『第九』の歌いっかけ(?)です。
私のような素人でも指揮者により毎回『第九』が違うことが分かります。勇壮な感じのもの、流れるような滑らかなもの、指揮者によりみな違いました。同じオーケストラの演奏なので、確かに違いを感じました。
指揮者がその場の音楽を作っているんですね。
 昔、知人にモーツアルト狂いが居てどの指揮者の何がいいとか話しておりましたが、私には理解できませんでした。しかし、自分で体験してみて実感出来ました。それからは、同じ曲でも色々な演奏家を聴いてみる事にいたしました。なかなか通になったようでひとりで笑って楽しんでおります。
素人ですが感じたことを述べさせていただきました。

この回答への補足

>指揮者がその場の音楽を作って
>どの指揮者の何がいいとか話しておりましたが

 私は思うんですよ。原作を聞いた事のない指揮者が自己解釈で指揮する。コレって二次創作いわゆる同人作家と変わらないのではないのか?指揮者に至るまでの過程など、調べたり話し聞いたら、指揮者はスゲー人ですが、極論「オタクに対し売れてるエロ同人作家」と表現できるんじゃねーかと。そー思います。
 

補足日時:2006/05/11 11:35
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私もクラシック音楽を聴き始めの頃は「そんなに指揮者によって違うものなの?」


「どの演奏も同じじゃないか!」と思っていましたよ。

事実CDで同じ曲を違う指揮者とオーケストラで聴いても全部同じ演奏に聴こえましたしね。でも「やっぱり違うんだ!」と気づくようになったのはやはり好きな作曲家が出来てからですね。私の場合はショスタコーヴィチでした。

ショスタコーヴィチは生涯に15曲の交響曲を作曲しています。15曲の交響曲全てのCDを揃えようとすると当然同じ曲のCDを違う指揮者とオーケストラで買わないと15曲揃わないという事態になって来ます。ですから「じゃあこの機会に色々買って聴き比べてみよう」と思ったんです。

やはり最初の内は全部同じ演奏としか思えませんでした。でも繰り返し繰り返し聴いているうちに徐々に聴き分けられるようになって来ましたよ。好みのCDとかも出来て来たりして・・・4番はこの指揮者、11番はこの指揮者とオーケストラなんてね!

そうすると不思議なもので以前は聴き分けられなかった、つまり同じ演奏にしか聴こえなかった他の作曲家のCDも違いが分かるようになって来ました。つまり「聴く耳」が出来て来た!というわけです。ですから他の回答者の方も言ってみえますが、やはり同じ曲を違う指揮者とオーケストラで聴くことを私からもオススメしますよ。

それとクラシック音楽というのは様々な要素が組み合わされて形成されているんです。
その要素の1つが「アーティキュレーション」

アーティキュレーションというのはメロディ・フレーズの音の切り方や続け方のことで、たまたま私が所有している200クラシック用語事典という本では4つの連続音を例に挙げて説明しています。

まず普通に演奏すると「タタタタ」、長めになると「ツツツツ」

はじめの2つだけつなげると「ティヤパタ」、あとをつなげると「ラタティア」

とまあ、このように1つのフレーズでも正しい弾き方が何通りもあるのだそうです。

プロのオーケストラのリハーサルというのは演奏される曲がスタンダードになればなるほどアーティキュレーションの確認作業が主な内容になるんだそうです。指揮者は「俺のやり方はこうだ!」と言ってオーケストラの人達は前の指揮者のを消しゴムで消して書き直す。これがプロ・オケのリハーサルなのだそうです。ですから同じ演奏など絶対にあり得ないということなんですね。

この回答への補足

>同じ演奏など絶対にあり得ないということなんですね。
聴き比べご苦労様です。当然だと思います。世の中kazuto2_23様が言われるような指揮者だらけだったら、この世界終わりですね。

補足日時:2006/05/06 21:27
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意外とウィキペディアに載っている。



参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87%E6%8F%AE

この回答への補足

指揮者の曲を吟味し、指揮者の曲を語るのには、指揮者の背景を知ることも大切だと思います。
当然ながら原曲は聞けないのだが、曲より指揮者に価値を見いだす心理が理解できなく、この質問を投稿しました。

補足日時:2006/05/06 02:00
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>指揮者って何故必要なんですか?



ものすごく簡単に言ってしまうと、指揮者とは「交差点の真ん中に立って交通整理をするおまわりさん」だと思います。

信号が壊れてしまった都会の交差点を想像してみて下さい。それが指揮者のいない状態だと思います。
車や歩行者全部が気をつけていれば別段事故はおきないでしょうが、非常に流れが悪くなると思います。

状況をいちいちみきわめて、適切な指示を出す人がいた方が、絶対に便利だと思います。

この回答への補足

なるほど、それだと「指揮者」によって心地よさも違いますし印象も変わる。簡潔で面白い意見ありがとうございます。

補足日時:2006/05/05 23:43
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>それで指揮者によって作品が違うって言われるのがわからない。



同じ曲を違う指揮者で聴き比べることはしてみましたか?

ベートーヴェンの交響曲第5番で言えば、
フルトヴェングラーの録音とトスカニーニの録音を聴いて、違いが解らないなんてことは無いと思いますが。


詳しくは知りませんが、指揮者という職業ができたのはベートーヴェンが死去した後だったと思います。


作曲家自身が指揮をするよりも、別の指揮者が指揮をした時の方が素晴らしい演奏に仕上がることが多々あるそうです。作曲家本人が指揮するよりも別の人が指揮する方がいい演奏なんですねえ。
作曲家の意図を表現したいなら、作曲家本人が指揮すればいい、というわけでもないそうですねえ。

この回答への補足

>フルトヴェングラーの録音とトスカニーニの録音を聴いて、違いが解らないなんてことは無いと思いますが。

感想ですがねえ、半世紀前の録音ですから変なところに気がむきましたねえ。ぶつぶつ言ってる声がと咳が気になりましたねえ。関東と関西のカップうどん程度の味の違いならわかりましたねえ。

補足日時:2006/05/05 22:59
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