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 過去の質問も読み返しましたが、私の中では[指揮者=神]だが指揮者が止まっても「演奏者=プロ」は作品を送り続ける、そんな印象をうけました。
 それで指揮者によって作品が違うって言われるのがわからない。カラヤンが、うん年代の古い録音したのより近年の器機を使った録音のほうが聴き応えある気がするんですが。
 指揮者って何故必要なんですか?
生で指揮者見て演奏見て聞かなきゃわからないんでしょうか?

A 回答 (28件中1~10件)

指揮者に関して、懐疑的なお考えを更に深化させてしまうような回答になると思うので申し訳ないのですが・・・・(笑)


ご質問、なかなか本質的な鋭いお話だと思います。オーケストラと指揮者の関係をとらえなければ、ならないものだと思います。

指揮者の解釈、そしてそれをどのように楽団員に伝達するかについては、下のどなたかがお書きのように、リハーサル映像を見れば判りやすいと思います。
しかしながら・・・カメラが入っていることで、当事者たちが意識的にやっていることもあるかもしれません。指揮者が意思伝達するための練習の雰囲気とスタイルを知る参考資料にはなるでしょう。

ただし・・・オーケストラの楽団員たちの指揮者を眺める眼差しは、非常に辛らつなもので、内部的には大変な不満が鬱積しているのも事実なようです。

かつてケルン放送交響楽団の首席オーボエ奏者で、ベルリン・フィルにもエキストラとして参加していた宮本文昭さんが、レコード芸術誌の対談でも述べていましたけど
「ベルリン・フィルに参加した折、指揮者の指示について練習でわからない箇所があったので、隣のベテラン奏者に尋ねたところ・・・『指揮者の解釈なんてどうだっていい!本番で演奏するのは俺たちなんだから!!』」といった趣旨のことを述べています。

さらにはベルリン・フィルの楽団員たちが終わった後に笑いながら何を談笑しているのかという問いに
『あんな演奏で客は喜んでいるのだねえ。信用しちゃいけないよ』・・・こういったニュアンスのことを話ているといった内容でした(笑)

他にも、ウィーン・フィルの楽団員がさまざまな裏話を書籍として出版している(『舞台裏の神々』ルーペルト・シェトレ著・・・ウィーン・フィルのチェロ奏者)ので面白いのですが・・・
執拗なヨーゼフ・クリップスに対する楽団員の仕返しは凄いものがありますが、中でも日本人が「神様」扱いしているカール・ベームに対し、彼らの反感、苦手意識は相当なものです。それはベームの人間性に起因するものですが、かといって指揮も非常に不明瞭なアインザッツ(簡単に言うと、曲の出だしの合図など棒が曖昧すぎるということ)で、合わせるのが難しい指揮。なので団員がお互いの音を聴きながら探り合うように自主的に合わせていた述べています。これが「ベームのモーツァルト」サウンドとして評価されるようになったのは、なんとも皮肉なことですが。

先の宮本文昭さんも述べていましたが、一流の音楽大学を卒業し、演奏家としてもトップの奏者を揃えてるオーケストラに対し、指揮者はそれより上を行く「音楽的能力」や「音楽の知識」を持っているか、「優れた人間性」を持っていなければ、団員は誰も付いていかない。
経済的利点(レコード収益が増える、大手スポンサーが付くなど)で結びついているのが多数で、もっとも現実的な話だということです。

長くなり申し訳ありません。
このように引用させて頂いたのは、指揮者に対して懐疑的になられる・・・私もあながち「間違い」ではないという思い、話の例示として示させていただきました。
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同じ曲を違う演奏者で聴いて楽しんでいる人たちへの嫌悪感情や差別感情があるようです。


そういう人達に劣等感を感じているのかもしれません。
そういう人達を攻撃したり、指揮者を馬鹿にしたりする理由はそこにあるようです。
指揮者の役割について聞きたいのではなく、単にそういう人達を攻撃したいだけです。
指揮者の意義を認めない理由はそういうところにあるのです。
あなたの目的は指揮者の価値を無くし、そういう人たちを攻撃することですから、指揮者の価値を認めないのです。
違いますか?
そういう人たちを攻撃するのはどうでしょうか。
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師匠からの受け売りです。


ハンガリーは合唱が盛んな国ですが、一番上手な「軍隊合唱団」というところがあり、そこの指揮者は「ハンガリー一へたくそな合唱指揮者」なんだそうです。演奏者がうまければ、指揮者がどんな人間であっても最高の演奏を聴衆に提供できるということなんではないでしょうか。
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こんにちは。


何度もすみません。

> クラッシクに限らず自分と波長のあう音楽を聴くのが一番なんですね?

そうありたい,と思っていますが,若干の補足をさせてください。

自分の感性に自分で従う,というのは,自由でこだわりのない境地のようにも思えますが,実は,非常に不自由なのかもしれません。

音楽に限った話ではありませんが,自分の感性というフィルタを介在させずに対象を知覚することは絶対に不可能,かつ,そのフィルタが無色透明であることも絶対に不可能で,必ず,曇っていて見通しが悪かったり,歪んでいたり色がついていたりします。

この曇り具合・歪み具合の違いこそが「個人の好み」や「演奏家(指揮者含む)の個性」であって,これ自体否定する必要はないと思うのですが,曇りや歪みに無自覚・無批判でいるのは,とても危ういことだと思います。
「自分と波長のあう音楽を聴く」は,「自分と波長のあう音楽しか聴かない」でもある,というのを忘れてはならないと思います。


私は,「自分と波長があわなくても素晴らしい音楽はあるかもしれない」ということを忘れず,自分の感性を少しでもきれいに磨かれたものにしていった上で,いつか,「自分と波長のあう音楽を聴いています」と,堂々と,胸を張って,言えるようになりたいです。
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>曲のイメージが違うのは演奏者様のモノなのではと思ったしだいです。



指揮者の解釈で演奏する、と今までの回答にあります。
なのに、演奏者だけのもの、と思うのは、なぜでしょうか。指揮者とオケによるもの、という答えもいくつかありますが、なぜ、演奏者だけのもので、指揮者は関係無いと思うのでしょうか。
テンポを決めるのは指揮者しょうか。オケでしょうか。両方でしょうか。
指揮者は曲の解釈に関わっていないのでしょうか。
リハーサル映像がDVDで出ているので、それを見るとよいでしょう。

>あと、指揮者が嫌いな訳ではないんですよ。ある人たちが指揮者のみを褒め称えるのがちょっと駄目で、素晴らしい演奏をした事については「指揮者のおかげ」。
演奏者を評価する私が間違っているんでしょうか

>私は流行曲を聴かず、指揮者にこだわらず適当なクラッシック、を聞きます。周囲は指揮者だの何年のどこぞの録音とこだわり[彼らが閉じている]気がします

指揮者によって曲が違うのを質問者さんが認めないのは、同じ曲を違う指揮者で楽しむ人たちに対する嫌悪感情からでしょうか。今までも、回答に対するお礼の欄に指揮者を馬鹿にするような発言がありましたが、それもこのような嫌悪感情が原因でしょうか。

>あははは、全くその通りですね。
俗物の私からすれば、あなたは凄いこだわってるんでしょうね。それは高尚な趣味と一般認知されてますし。

誰も俗物などとは言っていません。凄いことにこだわっているとも。高尚な趣味だとも。全て質問者さんが自分で判断したことです。

>このあなたの意見を通して、そのうちキモオタに分類されちゃってください。

同じ曲を違う指揮者で楽しむ人たちをキモヲタに分類する差別感情を持っているようですね。

ついでですので教えてください。キモオタさんはクラッシクに惹かれるモノは何ですか?

同じ曲を違う指揮者で楽しむ人のことをキモヲタだとは思っていないのでお答えすることができません。

キモヲタという差別感情が邪魔して指揮者によって曲が違うことを認めることができないなら、いくら質問しても無駄だと思いますが、どうでしょうか。
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>それで指揮者によって作品が違うって言われるのがわか


らない。

>最近「世界一早い第九」と解説書に書かれていたCDを聞きまして、演奏や合唱は稚拙ですですが鳥肌が立ち、指揮者による曲の違いを知ったからです。

>>フルトヴェングラーの録音とトスカニーニの録音を聴いて、違いが解らないなんてことは無いと思いますが。
感想ですがねえ、半世紀前の録音ですから変なところに気がむきましたねえ。ぶつぶつ言ってる声がと咳が気になりましたねえ。関東と関西のカップうどん程度の味の違いならわかりましたねえ。

指揮者による演奏の違いが分かるのですか。分からないのですか。

質問の意図がよく分かりません。

この回答への補足

言葉足らずで申し訳ありません。
まずわからないです。そして曲のイメージが違うのは演奏者様のモノなのではと思ったしだいです。

以前の質問者様が例に挙げました2曲の違いは演奏者様の力だと思っています(そして、わざと嫌みにかきました。説明もなしに聞き比べしろとの回答でしたので。)

補足日時:2006/06/11 04:51
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>酒場でバーボンはクラッシュドアイスで頼んでるんですが、これくらいのこだわりでしょうか?



そんなのクラシックを聴く人によって違うでしょう。

>指揮者って何故必要なんですか?

ラトル、フルヴェン、シェルヘン、トスカニーニ、テンシュテット・・・etc
巨匠たちがいたからこそ、ああいう演奏が生まれたのです。これだけで指揮者の価値がある。それに価値を置かないなら、質問者さんにとっては指揮者のいる価値は無いのでは?

>それで指揮者によって作品が違うって言われるのがわか
らない。
ということはオケによっても作品の違いがわからないということでしょう。
どう違うかは聴いてみるより他はありませんが、聴いても解らないなら、こだわる必要は無いでしょう。
これからは一番安いCDを買えばいいでしょう。
新しい録音の方が聴きごたえがあるようなので、新しい録音の方が欲しい場合はそちらを買えばいいだけのことです。
違う演奏家の演奏を聴いても、その違いがわからないとなれば、どれを聴いても同じです。
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この回答へのお礼

あははは、全くその通りですね。
俗物の私からすれば、あなたは凄いこだわってるんでしょうね。それは高尚な趣味と一般認知されてますし。
このあなたの意見を通して、そのうちキモオタに分類されちゃってください。
ついでですので教えてください。キモオタさんはクラッシクに惹かれるモノは何ですか?

お礼日時:2006/06/11 04:50

>私は流行曲を聴かず、指揮者にこだわらず適当なクラッシック、を聞きます。

周囲は指揮者だの何年のどこぞの録音とこだわり[彼らが閉じている]気がします

マニアックになると何でもそうなると思います。
クラシックで言えば、演奏家や録音年にこだわるようになります。それがクラシックファンの楽しみなのです。
そういう世界は、クラシック素人にとっては入りにくいでしょう。閉鎖的ではなく、単に素人には解らない楽しみ方のでは?あとは個々人の性格の問題で、素人を排他的に扱うようなら、閉鎖的なんでしょう。

閉鎖的に関してはTa565さんのおっしゃる通りだと思います。

クラシックファンはクラシックの世界を楽しみ、熱帯魚好きは熱帯魚の世界を楽しみ、ファッション好きはファッションの世界を楽しみ、文学好きは文学の世界を楽しみ。
それぞれの世界は奥深くて、その世界に疎い人からは理解できなかったりするんでしょう。

それぞれの楽しみ方があるのであって、人の趣味にとやかくけちをつける人が嫌われるのでしょう。
クラシックで言えば、ブルックナーはヴァントでなきゃだめだ、という人がいますが、それはあくまでその人の楽しみ方であって他に押し付けるべきではないでしょう。また、それを非難するべきではないでしょう。
文学で言えば、リルケは原語のドイツ語で読まなくてはだめだ、という人もいれば、そこまで深くは読んでいない人もいるでしょう。
まあ、結局、人の趣味にけちをつける奴は駄目で、それに惑わされずに自分の楽しみ方をして、自分の楽しみ方を人に押し付けないってことですかね。マニアが録音などにこだわるのはマニアの勝手。こだわらない楽しみ方をしてる人にとってもそれはその人の勝手。

回答補足にあるゲーテの話について言えば、個々の読み手の思想、感情、性格、感性などの個人的資質によってゲーテの作品に対する感じ方は違ってきます。個人の感性によって感じたゲーテしか存在しないので、読み手の数だけゲーテがあると言いました。平たく言えば、人によって感じ方が違う、ということでしょうか。同じ時代、同じ国でも、人によって感じ方は違うでしょう。

この回答への補足

酒場でバーボンはクラッシュドアイスで頼んでるんですが、これくらいのこだわりでしょうか?

補足日時:2006/06/09 05:41
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こんにちは。



> ベートーヴェンの第九がEUの歌だったと記憶しています。このような場合、どのような解釈いたしますか?

指揮者(やオーケストラプレーヤや合唱団や独唱者)が「EUの歌としての第九」をどう解釈するかはその人たち次第でしょうから,私からは何とも申し上げられません。

私が聴くにあたっての感じ方,ということならば,変わらないです。

*この補足質問の意味,当初のご質問との関係がきちんと理解できておりません。回答が不十分でしたらまた補足ください。


> 私は流行曲を聴かず、指揮者にこだわらず適当なクラッシック、を聞きます。周囲は指揮者だの何年のどこぞの録音とこだわり[彼らが閉じている]気がします

指揮者にこだわらず幅広くいろいろ聴くこと,気に入った曲をいろいろな指揮者で奥深く味わうこと,クラシック音楽を楽しむという点において,両者に何ら差はない,と私は思います。

指揮者にこだわるあまり,いろいろな曲を知らずに終わること,幅広く聴きたいがために指揮者による違いを味わえずに終わること,どちらもある意味[閉じている]のかもしれませんが,人生で音楽を聴ける時間には限りがある中で,どのような聴き方をするかは,個人に完全に委ねられているのではないか,と思います。
質問者さまが,おっしゃるような楽しみ方をすることは,もちろん,何ら問題ないと思います。(というか,私がそのようなことを申し上げる必要もないですよね)

そもそも,クラシック音楽を趣味にして流行曲を聴かない,という時点で,すでに傍から見れば[閉じている]状態かもしれません(私もそうです)。
ただ,私にとっては,その閉じた空間の中は私が楽しむには十分に広いですから,それでよいと思っています。

で,次のご質問につながるのですが,

> 恥ずかしながら「無限の広がりをもつ宇宙」の意味がわかりません。教えてください

指揮者の違いを味わう,という楽しみの広さ(深さ)は,宇宙空間ほどもある,という意味です。

もちろん,質問者さんがそう感じるべきだ,と申し上げているのではなくて,段落全体として,指揮者による違いを小さいと感じて幅広く曲を聴きたいと思うか,大きいと感じて指揮者の違いを深く味わいたいと思うか,それぞれの感じ方次第で,どのように感じるのも自由だと思う,ということが申し上げたかったのです。
分かりにくくて申し訳ありませんでした。


---
また,他の方への補足に対してのコメントで恐縮ですが,

> ある人たちが指揮者のみを褒め称えるのがちょっと駄目で、素晴らしい演奏をした事については「指揮者のおかげ」。
> 演奏者を評価する私が間違っているんでしょうか

指揮者「のみ」とは私も思っていませんが,「指揮者のおかげ」であることは間違いないと思います。指揮者は,紛れもなく,質問者さまも評価する「演奏者」の一員なのですから。

オーケストラ奏者たちは,指揮者の思い描く音楽を奏でようとするのですから,指揮者は音を出さなくても,オーケストラからは「指揮者の音楽」が出てくると感じています。もちろん,指揮者「だけ」の音楽ではないですが。
(アマチュアながら,オーケストラで演奏経験のある者として申し上げています)

長文,失礼いたしました。

この回答への補足

クラッシクに限らず自分と波長のあう音楽を聴くのが一番なんですね?

また最後の指揮者について書かれた事参考になりました

補足日時:2006/06/09 05:33
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どっかの掲示板で、指揮者無しでも演奏できるかどうか、指揮者のいる意味、みたいなことをやり取りしてるところがありました。


まあ、そこ見て思ったことは自分の手には負えない問題だってことです。演奏する人でなくては解らなそうでした。

オルフェウス室内管弦楽団をご存知ですか。指揮者を置かずに演奏する楽団です。小規模なオケのようですが、ベト1のフィナーレの入ったCDがありました。各楽団員が意見を出し合って、どんな演奏にするのか決めるのだそうです。
指揮者が解釈するのではなく、楽団員が解釈するということですかね。
指揮者が解釈して演奏しようが、楽団員が解釈して演奏しようが、結局は作曲家ではなく、演奏家が解釈してるんですね。
質問者さんは指揮を同人誌に例えていましたが、これでは指揮者無しの楽団も同人誌に例えられそうです。
指揮者のやってることが、せいぜい同人誌を書いてるようなものなら、指揮者無しで演奏する楽団のやってることも同じですね。

>それならば自分は演奏者の人たちも評価すべきだと思いました。

評価されています。SKDのファンがいますし。シューリヒトのベトをパリ管弦楽団ではなく、ベルリン・フィルやウィーン・フィルと録音して欲しかったという声も聞きます。フルヴェン時代のベルリン・フィルとカラヤン時代のベルリン・フィルは音が違うだとか言われますし。

この回答への補足

>指揮者が解釈して演奏しようが、楽団員が解釈して演奏しようが、結局は作曲家ではなく、演奏家が解釈してるんですね。

新しい意見ありがとうございます

補足日時:2006/06/02 01:56
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