No.4ベストアンサー
- 回答日時:
補足拝見しました。
こういう主旨の質問であれば、回答しなかっただろうと思います。
一応、乗りかかった船というか、回答に対する補足要求ということですので、回答致します。
> 小説の内容は創作なのか、それとも、ほとんどが事実なのか
創作です。
詳述はしませんが、文学において、「事実」ということは、それほど単純な問題ではありません。
創作はあくまで創作として、仮に、それに基づくような出来事が年譜などで確認できたとしても、それは作品に描く、というプロセスを経たものであれば、それは「創作」とみなすべきです。
あるいはまた「自伝である」と本人が位置づけていても、年譜などと照合して、必ずしも「事実」と一致しないことも、ままあることです。
作品に描かれた出来事をとりあげて、「このような事実はあったのか、なかったのか」「これは事実なのか」ということを問うことは、それほど意味はないとわたしは考えます。
少なくとも
> 「金閣寺」と性的不解消+買春の部分が、類似していたので、
両作品が書かれた根拠を、そのような事実があったからではないか、と推測するのは、別になさってもいっこうにかまいませんけれども、作品を読解していくうえでは妨げになるのではないかなと思います。
三島由紀夫に関しては数多くの研究や評論が出版されていますが、ここでは比較的読みやすい本を参考文献としてあげておきます。
村松剛『三島由紀夫の世界』(新潮社)この第二章「自己改造をめざして――『仮面の告白』から『金閣寺へ』」に、「仮面」の創造、として、三島が自己の戯画化に向かっていったプロセスが描かれ、『仮面の告白』が書かれるに至った背景、そうして、そこから『金閣寺』に向かっていくプロセスが、作家に近かった人物の手によって詳細に描かれていると思います。
この回答への補足
ペルソナを読んでみて、私の結論は
畢竟は「他人(三島)の心のなかが見れない限り、どちらと言い切ることはできない」でしたが
>創作です。
そう断言できる根拠があるのでしょうか?
それと、> 小説の内容は創作なのか、それとも、ほとんどが事実なのか
と聞いたのですが、創作と、ほとんど事実、の違いについて聞きたいです。事実を元に、些事についてだけ手を加えたものは創作でしょうか?それだと、そもそも 創作か? ほとんど事実なのか? という選択の意味がないように思えてしまいますが。
>作品に描かれた出来事をとりあげて、「このような事実はあったのか、なかったのか」「これは事実なのか」ということを問うことは、それほど意味はないとわたしは考えます。
精神的な意味での事実かどうか?ということは重要な点だと思います。
No.5
- 回答日時:
> 創作と、ほとんど事実、の違いについて聞きたいです。
事実を元に、些事についてだけ手を加えたものは創作でしょうか?それだと、そもそも 創作か? ほとんど事実なのか?この区分には、ほとんど意味がありません。
というのは、「事実」というのは、一般に考えられるほど、自明のものではないからです。
山田風太郎の明治もののなかに(たぶん『明治波濤歌』ではなかったかと思いますが)、子供時代の漱石(当時は金之助)と樋口一葉(夏子)がすれちがう場面があります。
わたしたちは、これをフィクションとして読みますが、はたしてこれは事実ではないのでしょうか。年代的に、十分可能性はあるはなしですし、現実に、すれちがっていたのかもしれません。けれども、それをわたしたちは知ることができない。事実であったかもしれないし、事実ではなかったかもしれない。その判定ができる人はいません。
多くの「出来事」は、「出来事」として、ただ、起こります。
けれども、それが「事実」となるためには、記述する人が、あるいは、少なくともその出来事をとりあげて、記憶する人が必要なのです。
わたしたちは過去に起こったことを「出来事」として記憶しますが、そのときにはかならず記憶する人によって、ある種の情報の取捨選択というものが起こっています(天気は、気温は、湿度は、風速は…から始まって、わたしたちは決して完全に情況を記述することはできません)。そうして、多くの場合、「出来事」は、その後に起こった「出来事」と関連させながら記憶していくものなのです。
ここで、かならず一種の物語化が起こっています。
一般的に「歴史的事実」といわれることに関しても、歴史記述は物語構造を持つ、としたのはヘイドン・ホワイトの『メタ・ヒストリー』を初めとして、いま、歴史記述とフィクションの間の線引きというのも、きわめて微妙なものになってきています。
ここからここまでが「事実」、ここからさきはフィクション、という線引きなど、決してできないのです。
では、フィクションかノンフィクションか、あるいはノンフィクション・ノヴェルか。この分類はどうやっていくのか。これはひとえに作り手の意識によるといわざるをえません。
現実に、圧倒的に多くのフィクションは、著作者の具体的な体験、いわゆる「事実」に基づいて書かれています。
たとえば、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』はコンラッド自身の1890年のコンゴへの旅にもとづいています。
サマセット・モームの『月と六ペンス』は、ゴーギャンの伝記に触発されて、あえて断片的で小説らしくない文体を採用して描かれています。作中のストリックランドにふりかかる出来事や行動も、事実に基づいている部分が少なくありません。
D.H.ロレンスはオーストラリア滞在中に接触したさまざまな人との出会いをもとに『カンガルー』を書きました。
森鴎外の『舞姫』は、自分の留学体験が根底にあることは言うまでもありませんし、漱石が『坊ちゃん』を書いたのも、荷風の『あめりか物語』や『ふらんす物語』も、あるいは太宰治の『人間失格』も、さまざまな作者の実体験が創作の根本にあることは言うまでもないでしょう。
それがどうして「創作」と言えるのか。
それはたとえ「事実ありのまま」でも、フィクションの文脈に作者が意図を持って配置したということで、フィクショナイズされた、と見なされるからです。
下で「半自伝」ということを書いていらっしゃる方がおられますが、あまりそういう下位区分も一般的ではありません。むしろ、今日では「自伝」と「創作」を対比するのではなく、「自伝」も一種の「創造」である、という見方の方が一般的であるかと思います。
> 精神的な意味での事実かどうか?
ということを質問者氏が重要と見なされるのであれば、それに関してはまったく批判するつもりはありません。ただ、いまの多くの文学理論や評論では、「作者はこのときどう考えてこんなことを書いたのか」「作者の意図は」ということをほとんど問題にはしないのだ、ということを申し添えておきます。このことに興味がおありでしたら、ロラン・バルトの『物語の構造分析』のご一読をおすすめします。
この回答はいくつかの典拠をもとに書いています。
おわかりになりにくい点もあるかと思いますが、これ以上補足要求をくださっても、ある程度の前提となる知識を共有しないところでは、わたしとしても答えることができず、いたずらに議論になってしまうことを危惧します。
ですから、どうか、知りたいことがおありでしたら、典拠にあげた本をお読みになってくださるよう、お願いいたします。
最後に村松剛が『三島由紀夫の世界』(新潮社)のなかで書いている一節を引用しておきます。
-----(p.148からの引用)-----
『仮面の告白』(※「仮」は旧字体)を単純な「告白」とうけとり、三島と作中の「私」を同一視する人びとがいまもむかしも少くない。ただの性倒錯者の手記として読んだのでは「裏返しの自殺」や「私といふ存在の明らかな死」などという三島の説明は、何を意味するかわからないことになる。
三島にとって『仮面の告白』は、新しい文学的人生への再出発の書だった。『仮面の告白』の「私」と三島当人とを混同することは、彼のこの時代までの作品にろくに目を通していない事実を自認しているのにひとしい。
------------
この回答への補足
>ここからここまでが「事実」、ここからさきはフィクション、という線引きなど、決してできないのです。
私の規定する事実とは、
例 ある投手が二死満塁で三振を取りました。
ほんとうはラクラクだったとします。しかし打算的に「苦しい中を戦い抜きました」と発言します。
この投手が1「ラクだった」2「きつかった」どちらを言おうと否定はできませんが、現実的に事実といえる事実とは、ある投
手が二死満塁で三振を取った、という事だけだと思います。この点によって三島氏は性的倒錯者であったか?を考えることが重
要だと思います。本を読んでないで言うのもアレなんですが
>ただの性倒錯者の手記として読んだのでは「裏返しの自殺」や「私といふ存在の明らかな死」などという三島の説明は、何を
意味するかわからないことになる。三島にとって『仮面の告白』は、新しい文学的人生への再出発の書だった。『仮面の告白』
の「私」と三島当人とを混同することは、彼のこの時代までの作品にろくに目を通していない事実を自認しているのにひとしい
といいますが、正直「裏返しの自殺」「私といふ存在の明らかな死」という言葉は、なんとでも意味を求められるような曖昧な
言葉だと思います。自分の仮説を述べる「根拠」が本を読んだ印象や、何とでも意味を求められるような曖昧な言葉では、なん
というか説得力が感じられません。仮説を断言できるだけの状態でもないのに、断言するというのは思い込みが激しいとなりま
すので、現段階での私の結論は「畢竟は「他人(三島)の心のなかが見れない限り、どちらと言い切ることはできない」になっ
てしまいます。
あと上記の二死満塁の事実とまでは行きせんが、曖昧な言葉よりはソレに近いと思われるモノとして
ペルソナより
「現地案内役となった朝日新聞南米特派員茂木政は、不思議な行動を目撃した。茂木は、三島がブラジル青年を伴ってホテルに
入ってくる所に出くわした。色の浅黒いずんぐりした特徴のない男なので、ふーむ、こういうのが三島君の好みなのか、と奇妙
に思った。翌日、顔を合わすと、まったく悪びれずに切り出した。「ホテルの前の公園でぼんやり坐っていたら眼が合った。こ
の世界は言葉など通じなくとも、情が伝わるんですよ」
「だから「人間」編集長の絹らの証言のほうが見過ごせないのである。「代表作『仮面の告白』を発表する半年ほど前の日曜日
の午後(三島は)私の家にやってきた。私と同じ町内に住むある心理学者を訪ねた帰りだったという。そのとき、私は初めて三
島君の倒錯性向を聞かされたのだった。心理学者を訪れたのも、それについて意見を訊きにいってきたのだということだった。
」
まぁ、結局のところ「畢竟は「他人(三島)の心のなかが見れない限り、どちらと言い切ることはできない」になってしまうの
ですが。
No.3
- 回答日時:
小説には「半自伝的小説」というものありますよ。
『仮面の告白』も半自伝的小説と呼ばれているようです。
全部本当ではないが全部架空でもない。
『金閣寺』は実際にあった事件にヒントを得て創ったフィクションですよね。
まあ、三島さん好きは世の中にたくさんいらっしゃるでしょうから、詳しいコメントが来るかもしれませんが、、、
素顔の三島由紀夫さんについては仲が良かった美輪明宏さんが語っているのを最近たまたま読みました。
なんかすごい極楽みたいな表紙なんですけど、この本。
参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087752 …
No.2
- 回答日時:
#1です。
すいません。部分的に書き直したら、書き直した文章を入れるのを忘れてましたぁ。
ゴメンナサイ。
中央部「けれどもそれは」に続く部分、
> 「金閣寺」と性的不解消+買春の部分が、類似していたので、
の前に以下の文章を入れて読んでください。
-------
「作品」として、単独で、あるいは、作品の発表された時系列に沿って作者の問題意識の深まりとして、あるいは、時系列を並べ替え、モチーフの変遷として、比較されるべきではあっても、「事実だから繰りかえし書いた」という見方はしないほうがよいのではないかと思います。
-------
長い上に読みにくくなっちゃってごめんね。
No.1
- 回答日時:
ノンフィクションというジャンルに関しては、厳密な定義があるわけではありません。
この言葉自体が20世紀に入ってからの、出版の分類上の用語としてありました。
今日では、詩や小説ではないもの、かつ実用書でないもの、具体的には、ドキュメンタリーやルポルタージュ、あるいは自伝、評伝、日記、書簡集、身辺雑記、旅行記、航海記や探検記、歴史読本といった、具体的な事実にもとづいて書かれた散文形式の作品をさすようです。ただし、エッセイや評論というのは、著者の見解が中心となっていきますから、一般的にはノンフィクションには含まれません。
ですから通常文学に分類される三島由紀夫の『仮面の告白』は、ノンフィクションではありません。
さて、ノンフィクションとは相対的に別個に、文学の一ジャンルとして、ノンフィクション・ノヴェルという分野があります。
こちらはさらに若いジャンルです。
そもそも、このノンフィクション・ノヴェルということを言い出したのは1966年のトルーマン・カポーティの『冷血』が最初です。
ノンフィクション・ノヴェル、人によっては(トム・ウルフなど)「ニュー・ジャーナリズム」と呼ぶ場合もあるのですが、このジャンルの作品は、事実に基づいて取材したことが、大きな骨格となっているのが特徴です。ただし、これが従来のルポルタージュと異なるのは、それが綿密な調査記録だけでなく、作家の筆によって、ルポルタージュや歴史書には見られない興奮や迫力や情感をを生み出されていることです。
読者は、実在の事件の被害者や加害者、あるいは宇宙飛行士の不安と苦悩を、あたかも小説の登場人物のように親近感を覚えつつ、心理を知ることができるようになった。ノンフィクション・ノヴェルというのは、そういうものとしてありました。
もちろんこのジャンルの作品は、歴史なのか、ルポルタージュなのか、想像力の産物なのかさまざまな毀誉褒貶にさらされることになります。
たとえばトマス・キニーリーの『シンドラーのリスト』はアメリカではノン・フィクションとして出版されましたが、イギリスではフィクションとしてブッカー賞を受賞しています。
つまり、ノンフィクション・ノヴェルと、一般的な小説の間の線引きというのは、それほど簡単にはいかないところがある。
というのも、小説自体、初期のジャーナリズムから進化したものであるからです。犯罪者の告白や、戦争や災害の報告、あるいは奇怪な出来事の目撃談。そうしたものは、当初「実話」として回し読みされてきましたが、たいがい創作の部分を含んでいた。ダニエル・デフォーの『ロンドン・ペストの恐怖』などは、そのようなものの延長上にある作品と言えます。あるいはトマス・カーライルの『フランス革命』、これは歴史書なのか、歴史小説なのか。いまなおこの問題は、文学理論のほうでも、実はさまざまに検討されているもんだいです。
さて、ここで三島の『仮面の告白』を考えてみましょう。
これはまず、「事実に基づいての取材」が大きな骨格になっているか。
この「事実」というものが、個人に関わるできごとである場合は、ふつうは「自伝」と呼ばれ、ノンフィクション・ノヴェルに分類されることはありません。個人の出来事を離れ、有名・無名の第三者が遭遇した出来事を取材したもの、それを臨場感を持って、いきいきと描いたもの、というノンフィクション・ノヴェルとは大きく異なります。
そうした意味で、少なくともこれはノンフィクションでもノンフィクション・ノヴェルにも分類されることはないでしょう。
さて、つぎにこれを「事実のありのままの告白」であると受け取るべきかどうか。
日本には「私小説」という系列の作品があります。
主人公=作者であり、書かれていることもだいたいが事実である、とされ、実際にそのように読まれてきたわけです。
そうして、「私小説」の系列の作家ではなくても、たとえば太宰治の『人間失格』であるとか、森鴎外の『舞姫』、そうしてここで上げられた三島由紀夫の『仮面の告白』であるとかは、主人公=作者としたうえで、この人はこういうことをしたのか、こういうふうに考えたのか、と受け取って、読者はそのあれこれに感動したり、反発したりする。未だにこのような読まれ方をする傾向があるようなのですが、これは作品を鑑賞する上で、非常な妨げになる読み方だと言わずにはおれません。
作品というものは、作者が実際に送った人生とは切り離して読まれるべきものであり、主人公=作者ではなく、作者の創造した自律的な人物として読まれるべきものだと思うからです。
作者が創造したあらゆる登場人物は、なんらかの形で作者を反映しているだろうし、実際にあった出来事が元になっている場合も少なくはない。登場人物は、さまざまな作品において名前と姿を変えながら、繰りかえし出てくることも少なくはありません。けれどもそれは
> 「金閣寺」と性的不解消+買春の部分が、類似していたので、
『仮面の告白』でも、『金閣寺』でも、ともに自分の世界に閉じこもりがちな主人公が登場します。
そうした意味で、類似したモチーフのいくつかは登場します。
ただ、『仮面の告白』では、外界は、汚穢屋や不良少年というまったく異質な世界の他者として、主人公の内面に土足で荒々しく踏み込んでくるものです。
そのような異質な他者に、主人公は深く惹かれつつ、引き裂かれる。
いっぽう『金閣寺』はもう少し複雑な構造をとっています。主人公と他者、外界との関わりも、もっと複雑です。加えて
「世界を変貌させるのは、決して認識なんかじゃない……
「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」
という部分に見られるような、この行動者=美の殺戮者となっていく主人公というのは、『仮面の告白』の中には見られません。
中村光夫は『金閣寺』のことを「観念的私小説」と言っています。むしろ、「告白」とタイトルについている『仮面の…』より、こちらのほうが三島の心情を直接に投影させたものであったといえるのかもしれません。
ですから類似した主人公や、いくつかの類似したモチーフはあるにしても、『金閣寺』を『仮面の告白』の
>アレンジ版
とみなすことができるかどうか、というのは、あくまでもこれはわたしの意見ですが、どうかな、と思います。
この回答への補足
>ノンフィクション
>ノンフィクション・ノヴェル
>日本には「私小説」という系列の作品があります。
主人公=作者であり、書かれていることもだいたいが事実である、とされ、実際にそのように読まれてきたわけです。
>この「事実」というものが、個人に関わるできごとである場合は、ふつうは「自伝」と呼ばれ、ノンフィクション・ノヴェルに分類されることはありません。
なるほど、質問をこうするべきでした。「仮面の告白」は自伝か否か?
つまり、あの小説の内容は創作なのか、それとも、ほとんどが事実なのか。という点が知りたかったです。
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