出産前後の痔にはご注意!

日本史を学習していて疑問に思ったことです。
日米修好通商条約が不勅許調印なのは有名ですが、日米和親条約は勅許を得ているんでしょうか?
いろいろ調べたのですが分かりません。
知っている方、よろしくお願いします。

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A 回答 (6件)

No5です。

肝心の質問の答えに成ってなかっようですね(^_^;)
http://www.gameou.com/~rendaico/bakumatuseihenco …の黄色の部分の上「朝廷は、幕府の判断を事後承認」
↓のURL五 安部正弘の決断の中断当り「孝明天皇も後の通商条約の時とは異なり、和親条約に「御安心」した(「孝明天皇紀」)」と有りますので勅許は得ていないのは間違いないと思います。気持ち的には(得ようともしていない、得る必要性すら感じねぇ~)だったかもしれませんが 私は安部正弘さんに会った事も無いし話をした事も無いので 本当のところは解りません。

 勝手に私の考えで言わせて貰うとしたら「べらんめ~!幕府が決めた鎖国を幕府が開くそれのどこがいけねぇて言うんでぇ朝廷なってぇもんは只のお飾り!いちいち化粧面の公卿どもの顔色を伺ったとあっちゃ恐れ多くも東照大権現様に申し訳がたたねぇ!おいらに腹切れって言うのかぇ」って言ったとか言わないとか 言ったと思う・・・たぶん言ったんじゃないかな?・・・・いや、言った方がかっこいいかなぁ~・・・

 あくまで 勝手な創造です。ちょち調子に乗りすぎました すいません(^_^;) 

参考URL:http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00035/ …
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この回答へのお礼

詳しい説明、ありがとうございました。よく分かりました。

お礼日時:2006/06/06 19:49

No1の補足に関して


この時期はすでに尊皇攘夷派等によって天皇が担ぎ出された後で 幕府としても無視できない状況だったと思います。
幕府にしてみれば 天皇も認めたと言うことで不穏分子の反乱の言いがかりを付けられる要素を少しでも減らす狙いが有ったと思います。(所詮天皇など形式的なもので幕府の決めたことに判を押すだけ判さえ貰っておけば グチャグチャ言う奴は押さえつけりゃ良いじゃん!位に思ってたんじゃないかな?)
 結果的には裏目に出たわけですが当時の状況を考えると間違った選択では無いと私は思います。

とにかく明治維新の前は時代の進行が急速で 色々な策略が うごめき昨日の友は今日の敵 誰が味方で誰が敵やら・・・・幕府首脳陣の事を無能者扱いしている物が多いですが 物凄く大変だったと思います。

昔、白虎隊のドラマに使われたベーやんの歌の題(副題?)が「もう少し時がゆるやかだったなら」と有りましたがまさに其の通り もし自分だったらと考えるとこの時代は頭が痛く成ります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。「この時期」というのは日米修好通商条約の時期ということですよね。幕末から明治維新にかけては色々な策略がうごめいていたことは学んでよく分かりました。ところで、日米和親条約は皆さんがおっしゃるように勅許は得ていない(得ようともしていない)ということですね?

お礼日時:2006/05/27 19:53

日米和親条約に限らす、修好通商条約以前には、どんな重要な政策を実行する場合でも、幕府が天皇の許しを得ることはありませんでした。


また、たしかハリスの日記にも出て来たかと思いますが、当時の幕府は勅許は簡単に得られる、形式的な手続きと考えていたようです。
(往復にかかる日数+&程度で調印できる、などの内容の記述が出て来ます)
勅許が得られなかったのは、孝明天皇が強固な攘夷思想の持ち主であったことに加え、将軍継嗣問題をめぐって一橋派の一部が、自派を主張を通りやすくするように妨害したこともあったようです。
天皇が、幕府の思う通りに行動しない、などということは、江戸時代の天皇の状況を考えれば予想外の出来事ではあるのですが。

ちなみに、日米修好通商条約は不平等条約でしたが、それは外交の経験がなく、不平等な点に気づかなかったからで、例えば、「アメリカ人が犯罪を犯したら、アメリカの領事が裁判をしてくれる」と言われれば「それではよろしくお願いします」といった程度の認識だったのでしょう。
それから、通貨レートは「同種同量」という規定ですから、金同士、銀同士の交換なら別に不平等ではありません。ただ、日本国内と国際的なレベルでの金銀の交換比率が大きく違っていたのです。
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この回答へのお礼

よく分かる説明、ありがとうございました。ちなみに「禁中並公家諸法度」はこのことに何か関係ありますか?

お礼日時:2006/05/27 19:45

日米和親条約は、朝廷の怒りに触れる内容ではありませんでした。



難破船を救助したり、水、食料の補給をしたりです。
もちろん、アメリカ船籍の船の入港は認めてはいません。

人に聞かなければいけないレベルではなかったようです。
(政府として、国と国としての当たり前の約束)

これに対し、
日米修好通商条約は、
治外法権、
不当な通貨レート。
1ドル銀貨と一分銀の重さで比較。1ドルがほぼ1朱(現在の1ドル130円が、1ドルが1両の1/4)

こう言う、とんでもない条件であった訳です。

更に孝明天皇が外国人を忌み嫌っていて
「攘夷」外国人を追い払う思想でしたので、

相談しに行った。
そしたら、
「ならぬ、ならぬ!神国日本を異国人に汚させてはならぬ。」
日米修好通商条約の勅許など問題外の怒りようであったそうです。

何故相談しに行ったのか?
幕府の責任逃れ。

治外法権
1ドル(130円)が1両の1/4。

許しを得て責任を逃れようとした。
問題が起きたら勅許を盾にすれば済む。

この時点で、幕府は政府としては終わりです。
(無責任政府)

テレビで良く国会中継されてますね。
でも、ここまで酷い政治家は見た事はありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。「怒りに触れなかった」ということは、勅許を出した、ということですか?それとも天皇に相談はなかったが、特に問題はなく問題にならなかった、ということですか?

お礼日時:2006/05/27 19:43

「堀田正睦が日米修好通商条約の許可を孝明天皇に(必要がないのに)求めてしまったことが、朝廷や尊皇派の発言権を増すことにつながり、歴史に大きな影響を与えてしまった、という理解でいいのでしょうか?」



はい、そのように理解しております。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2006/05/27 19:39

勅許は得ていません。

そもそも、勅許を得なければならないという考え方がありませんでした。

アメリカの側からしますと、ジャパンの元首はタイクン(将軍)です。タイクン以外にミカド(天皇)というローマ教皇の如き存在がいるとは知られていたでしょうが、ミカドはジャパンの元首とは看做されていませんでした。
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この回答へのお礼

早速の回答、ありがとうございました。
と、いうことは、堀田正睦が日米修好通商条約の許可を孝明天皇に(必要がないのに)求めてしまったことが、朝廷や尊皇派の発言権を増すことにつながり、歴史に大きな影響を与えてしまった、という理解でいいのでしょうか?

お礼日時:2006/05/26 20:49

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「討幕」:軍を集めて武力で圧力をかけ、場合によっては武力で幕府を攻め滅ぼす場合。

ポイントとして、天皇から幕府追討の院宣が出た後でないと、反幕府軍は「官軍」になりません。(単なる武装集団)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
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 当然ながら、侵略行動を起こしています。その方法は、今までインドなど人工の多い国の場合と同様の伝統的な方法で行っています。

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 日本でも、薩摩・長州にはイギリスが、幕府にはフランスが支援し、内戦が長期化しても資金提供(後で返済を要求されますが)・武器供与を継続しますという申し入れを受けていました。

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 戦力を持ちながら、ほとんど戦わずに政権を移譲した「徳川慶喜」は、日本の植民地化を防いだ、隠れた功労者と言えます。(朝廷側が政権を確立するまでに幕府兵力とまともに戦ったのは、鳥羽伏見と上野の彰義隊程度で、合計二日しかありません。)

 当然ながら、侵略行動を起こしています。その方法は、今までインドなど人工の多い国の場合と同様の伝統的な方法で行っています。

 インドでは、敵対的な関係の藩王国に、イギリス・フランスなどがそれぞれ借款による資金提供・兵器輸出をして戦争をさせ、提供した資金の返済に「徴税権」などを担保にして、停戦後にその国の税収を差し押さえ、統治機構を徐々に乗っ取っていきました。(借金返済を拒否すれば、資金提供・武器輸出をしてもらえなくなり、敵対国に負けて自国が消滅してしまうので、欧米列強に対...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
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世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Q原敬の内閣が日本初の本格的な政党内閣と言われるのはなぜ?

米騒動を経て内閣を組閣した原敬ですが、その内閣は本格的な政党内閣と言われています。これはなぜですか?原敬は党首から首相に選ばれたわけですが、この内閣以前はどうやって首相を選んでいたのでしょうか?天皇が勝手に首相を選んで良かったのでしょうか?大日本帝国憲法下における組閣の仕組みが良くわかりません。選挙によって選ばれた与党の党首が首相になるということはなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣ですが、予算案や法律案を通して政治を円滑に進めるため、衆議院の多数を占める政党と仲良くする人が出てきます。そういう意味で「政党内閣」の原形は原敬以前に成立していました。

原敬内閣が『初の本格的政党内閣』と呼ばれるのは、原敬が「爵位をもたない」「選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ」「政党『政友会』の党首」であり、原内閣が「陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任した」内閣であったことが、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」という『政党内閣』の定義にほぼ近かったことによるものです。

(上記の「政党内閣」の定義は完全に正確ではない可能性がありますが、だいたいこのような内容だったかと思います)


以下、詳細な説明です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

■ 大日本帝国憲法(明治憲法)下での首相の選定方法

大日本帝国憲法(明治憲法)には、内閣総理大臣の決定方法は記載されていません。

大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。かといって、天皇が内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与せず、行政機関である内閣の決めた方針にもとづいて「YES」と言うだけでした。内閣総理大臣を決める時にも、天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣をそのまま任命するのです。

大日本帝国憲法(明治憲法)
http://www.edogawa-u.ac.jp/~kiuchih/home/statutes/teikokukenpou.html


では、内閣総理大臣の決定方法ですが、

歴代内閣総理大臣一覧
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.promised-factory.com/100years_after/pm/pm-list.html


上の一覧をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでもあり、内閣総理大臣や各国務大臣として明治初期~中期の政治を引っ張っていけるのは、この人々しかいなかったのだと推測されます。

明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。
伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。

その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。

元老 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

ちなみに、昭和に入って、最後の元老の西園寺公望が死んでからは、天皇の側近で天皇の仕事を助ける役職であった「内大臣」が中心となって「重臣会議」を開いて、内閣総理大臣を選んでいました。

内大臣 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3


■ 内角総理大臣と、議会や政党との関係

内閣総理大臣は、別に議会での選挙で選ばれているわけではないので、議会を無視して勝手に政策を決めて政治を行なっていくことができる、・・・というわけではありませんでした。

選挙で選ばれた政党系議員が多数を占める衆議院は、予算案を貴族院より先に審議するので、内閣が政党と対立してしまうと、予算案が議会を通らず、政治が一気に止まってしまうのです(政党を無視して独自に政治を行なおうとす『超然主義』の方針をとる内閣と、衆議院で多数を占める政党が対立して混乱したのが、1890年代の『初期議会』と呼ばれる時期です)。

そういうシステムの中で、内閣総理大臣のなかには、政党に理解を示して協力してもらい政治を行なおうとする人が出てきました。代表的なのは、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信などの人物達です。彼らは政党の党首も兼ねていたので、一応、「政党内閣」と言えなくもありません。


では、原敬とその内閣の場合は、彼らと何が違うのでしょうか?

「原敬」個人に対する注目点は3つ
  ○爵位をもたない
  ○選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ
  ○政党「政友会」の党首

「原内閣」のポイント
 ○陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任

つまり、「選挙によって選ばれた多数党の党首(衆議院議員)が内閣総理大臣に選ばれ、内閣閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」というところが、『本格的な政党内閣』と呼ばれる意味です。


ですが上で述べた通り、原敬は議会で選ばれたわけではなく、やはり「元老」による推挙によって天皇から任命されています。

原敬が内閣総理大臣に選ばれた理由としては、その前の寺内正毅内閣が米騒動の対応に失敗して総辞職して、政府に対する国民の不満が高まっており、「元老」としても国民の意見を反映した内閣を作らないといけなかったこと、原敬がもともと官僚出身で、内務大臣も務めたこともあって、内閣総理大臣に任命しても行政を行なうのに問題がないこと、そして、原敬は元老や貴族院の勢力とも対立しないで上手くやれる政治家であったこと、などがあげられます。

原敬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣...続きを読む

Qなぜ歴史授業でウソ(?)を教えるのでしょう

歴史について素人なので「ウソ」という表現が妥当なのかどうか自信はないのですが・・・

歴史に多少興味をもっています。
学生時代はあまり真面目に歴史の授業を受けていなかったのですが、歳をとって歴史を学んでいると、時々
「あれ?実際はこうなのに、どうしてこんな風に教えるのだろう」と疑問に思ってしまうことがあります。

例えば小学校・中学校レベルの社会の授業で黒船来航について学ぶとき、授業ではいかにも
「日本は鎖国をしていて、それまで出島のような例外を除いては全然外国との交易・交流をしていなかった。
ところが幕末に突然ペリーの乗った黒船が現れて、日本は右往左往の混乱に陥った。
これを世の人は『太平の眠りを覚ます蒸気船 たった四杯で夜も眠れず』と表現したんですよ」

みたいなニュアンスで教わります。

ところが実際にはそれ以前にゴローニン事件もあればフェートン号の件があったり、薩摩に外国船が寄航したり等々
外国との関わりは山ほどあったわけです。

これらはもちろん高校の歴史授業レベルだと教わるわけですが、いくら詳しいことまで深くは学ばない小中レベルの授業でも、なにもあえて
「それまでは全然無かったのに突然黒船が来た!」っていうニュアンスでウソをインプットしておく必要も無いと思うのです。

「実はそれまでも何回かそういう事例はあったのですが、黒船の来航にはこれこれの特殊な事情があるから、中学生の皆さんもちゃんと知っておきましょうね」
でいいと思うのですが。

黒船の件に関わらず、歴史を知れば知るほど、歴史をちゃんと学んでいなかった私のような素人には
「えっ!?そうだったの?全然史実と違うじゃん!」
みたいなことに出会ってしまいます。

近現代史のように政治的思惑とのからみで解釈が議論のあるようなものは別論。
そういうような事項でもないのに、時々散見されるこのような「ウソ」はなんのために教えるのでしょうか。

ご意見をください

歴史について素人なので「ウソ」という表現が妥当なのかどうか自信はないのですが・・・

歴史に多少興味をもっています。
学生時代はあまり真面目に歴史の授業を受けていなかったのですが、歳をとって歴史を学んでいると、時々
「あれ?実際はこうなのに、どうしてこんな風に教えるのだろう」と疑問に思ってしまうことがあります。

例えば小学校・中学校レベルの社会の授業で黒船来航について学ぶとき、授業ではいかにも
「日本は鎖国をしていて、それまで出島のような例外を除いては全然外国との交易・...続きを読む

Aベストアンサー

やはり、あまり詳しい内容や難しい内容を教えることは望ましくないという考えからだと思います。授業時間数の関係からいっても、小中学校の頃は歴史にそんなに多くの時間を割けないので、一般にも有名な事項を教えるのだと思います。こういうカリキュラム上の問題は何も小中学校だけにあるものではありません。私は今大学で日本史を学んでいるものですが、大学で学んだ事と比べると、高校の授業内容もけっこう適当なところがあります。

ただ、今手元に中学の教科書が無いのでなんともいえませんが、黒船の来航についてそこまで単純に教えていることは無いんじゃないだろうか、とも思います。

ついでに、黒船の来航について一言。
tewpiさんがおっしゃるように、ペリーがやってくる以前にも、ゴローウニン事件やモリソン号事件など、外国人が日本近海にやってくることはたくさんありました。ただ、そういった単発的な外国との接触よりももっと重要なのは、当時の日本の状態そのもの、つまり「鎖国」そのものの実態です。
今では、江戸時代をいわゆる「鎖国」として捉えることはあまりありません。そもそも「鎖国」という言葉自体、江戸後期に日本にやって着たドイツ人医師ケンペルが記した『日本誌』という本を志筑忠雄と言う人物が翻訳したときに用いた言葉であって、「鎖国」が始まった当時には存在しない言葉でした。
「鎖国」の時代には長崎の出島だけに外国との交易が制限されていた。とよく言われますが、実際にはそのほかに3つの外交ルートがありました。
一つは松前(北海道)で、アイヌとの間での交易を行いました。ここで得た俵物と呼ばれるフカヒレやナマコは、対中貿易の重要な商品でした。
もう一つは対馬を通した朝鮮との国交です。有名な朝鮮通信使です。
最後の一つは薩摩藩が実効支配していた琉球王国との間の関係です。当時の琉球は東アジア一体の中継貿易で非常に発展していたので、琉球と交易するということは、間接的に東アジア、および東南アジアと交易することでもありました。
このように、江戸時代の日本は「よつのくち」と呼ばれる4つの交易ルートを使って、東アジア全体で繰り広げられた経済圏、交易圏にしっかりと組み込まれていたのです。
また、幕府はオランダと交易を行い、オランダ商館長に「オランダ風説書」という報告を提出させていたので、当時のヨーロッパ情勢などにも明るかったです。ヨーロッパの政治変動や、アヘン戦争の情報などは逐一幕府の耳に入っていました。さらには、ペリーが来ることも幕府は知っていました。庶民はそんなこと知らないので、それこそ「たった四はいで夜も眠れず」のような状態だったと思いますが。
つまり、「鎖国」は、外国勢力を防ぐためだけでなく、幕府が貿易や情報を独占することを目的としていたのです。

tewpiさんがおっしゃる「ウソ」を教えないようにすると、少なくともこういったことに少し触れなければならないと思います。小中学生には少し難しすぎるでしょう。だから、授業では最低限覚えておいたほうが良い事柄についてだけ、分かりやすい形で教えるのだと思います。

やはり、あまり詳しい内容や難しい内容を教えることは望ましくないという考えからだと思います。授業時間数の関係からいっても、小中学校の頃は歴史にそんなに多くの時間を割けないので、一般にも有名な事項を教えるのだと思います。こういうカリキュラム上の問題は何も小中学校だけにあるものではありません。私は今大学で日本史を学んでいるものですが、大学で学んだ事と比べると、高校の授業内容もけっこう適当なところがあります。

ただ、今手元に中学の教科書が無いのでなんともいえませんが、黒船の来航...続きを読む

Q軍部の暴走を止められなかった理由

戦前の軍部はなぜ暴走したのですか?
張作霖爆殺は、なぜ軍の指揮権を持つ天皇に許可無く行われましたか?
そして、その実行犯を天皇が罰しろと言ったのに、罰せられませんでしたか?
柳条湖事件、満州事変、盧溝橋事件、日中戦争と、軍部と天皇との関係も教えてください。

Aベストアンサー

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に対する恐れから、戦前の日本では本来過渡的な体制であったはずの明治体制の抜本的な変革は、さしずめ戦後日本における改憲のごとく、タブー視されるようになってしまいました。
しかしながら元老のカリスマ性に頼った体制が長持ちするはずが無い事は自明の理であり、このために大正期は「軍の統帥権とはあくまでも純粋な作戦面に限定される」という言わば「解釈改憲」でこの問題を乗り切っていたのです。
しかしながら抜本的な改革が行われなかった結果、軍と政府の分立状態は次第に亀裂が大きくなり、張作霖爆殺事件でも真相究明ではなく田中義一内閣総辞職で幕を引く結果となりました。
そしてロンドン軍縮条約調印時、野党であった政友会は政府を攻撃するために「海軍軍令部の同意の無い軍縮条約の調印は統帥権の干犯である」と非難し、軍の統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。
この結果、これ以降に政府や議会が軍の行動を統制しようとすると「統帥権の干犯だ」と揚げ足を取られる事になってしまいました。
(当時の書籍を読むと現役の軍人でも「統帥権の独立は時代遅れであり、国家の将来に禍根を残す」と激しく非難している例もあります)

そしてもう一つ重要なのは、当時の日本では中国大陸に有していた利権(いわゆる「特殊権益」)は「日露戦争で多大な犠牲の末に獲得したものであり、絶対に手放してはならない」という、これまた戦後の日本における一時期の憲法九条のように、その是非を論じる事の出来ない不可侵の存在であるかのように評価されており、その利権の保持を目的とした武力行使は世論やマスコミの強い支持があったのです。
この為に満州事変では軍中央の意向に逆らって占領地を拡大し、現地軍が勝手に満州国建国を行った事をマスコミがこぞって支持し、軍中央も政府も暴走を追認してしまいます。
当然ながらこの結果として「軍中央や政府を無視しても戦果さえ挙げれば認められる」という「下克上」の風潮が生まれ、その後の日中戦争においてズルズルと占領地を拡大する現地軍を止めることが出来なくなってしまいます。

総じて言えば本来、過渡的な体制であった筈の明治維新体制が、皮肉にもその成功故にこそ維持され、時代に合わなくなった状態で行われた普通選挙による民主化が、党利党略しか考えない近視眼的な政治家を生んでその問題を拡大し、また政府及び軍中央が武力行使を支持する世論に阿って誰もが責任を取ることを回避していった結果だと言えるでしょう。

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に...続きを読む


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