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 すごくぼやけた表現で申し訳ないのですが、私がある締め切り済みの質問を覗かせてもらっていたら、
とある宗教をなさっている方の、ものずごい一方的で、独断的な投稿がありました。その回答の解釈は
「神様を信じていればそれで救われる」ということを前提に、論理的にどう考えてもおかしいことばか
りを長々とのたまっているというものでした。
 私は、宗教を否定するわけではありません。「神様仏様」という心のより所があるとほっとしますし、
宗教の種類を問わず、どの宗教においてもすばらしいことが教えの中に盛り込まれていると思います。
 そこで、宗教家さんと(信仰する宗教がおありの方)できれば無神論者さんに質問いたします。あな
たがなぜ宗教を信じるか、また、何故信じないのか、その理由を教えてください。

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A 回答 (31件中1~10件)

私は家が阿弥陀経なので、盆・正月に先祖供養でお経を唱えたりはします。



でも私個人は宗教は基本的に信じてません。私が信じてると和えて言うなら「無一物」と言う教えだけです。
その教えを基に?その教えが付随して?どちらかはわかりませんが、その上で私は自分の為に、自分の心に正直に生きるようにしています(当然、人様に迷惑はかけないように)。

自分に正直に、周りと争わずそれで自分が納得できるならそれでいいんじゃありませんか?「この宗教がいいから」「宗教なんてばからしい」等意見を相手に押し付けても救えない事の方が多いと、むしろ争いを生む事もあります。

私は私の事で手一杯です。それを見て誰かが真似て良かったと言ってもらえるならそれで良し、悪くなったと言っても面倒を見てる余裕などさほど持ち合わせておりません。

そんな理由で基本的に宗教は信じておりません。
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この回答へのお礼

 honronさんにはもうしわけありませんが、このログをお借りしてここに来ていただいた皆様に一言。

 私自身が宗教にアンチな感情を抱いていて、また、私以外に宗教に対してアンチな感情を抱いている方は
どのように思っているのかということを知りたくてこの質問を皆様にしたのですが、正直、レスの
合計が31という途方もない数になるとは思いませんでした。
 とりあえずここで締め切らせていただきますが、どの答えも大変参考になる答えでした。(良くも悪くも
ということですが)しかし、一つ一つの答えが長いのと、意味が重いというのが重なっているのが
多いので、コツコツ解決していきます。
 正直、私は宗教というものをナメていました。
 でも、その解釈がこんなにたくさんあるとは思いませんでした。
 本当にお付き合いどうもありがとうございました。

お礼日時:2002/02/22 13:13

 いろいろと回答者から議論されていますが、今は、悟る必要も無く、答えはもうすでに750年程前から出ております。

それを、教えて戴くだけでいいのです。我見等は謗法に当たります。

 正法は、難信難解・難解難入です。
 要するに、仏の悟りをそのまま説いた最高真実の教えは、あまりに深すぎて、凡夫の知恵では理解し難く、正しく信ずることが難しいのです。
 それ故、せっかく信仰に入ることができても、途中で、自分なりの浅知恵によって、仏法を曲げて解釈するケースも多々出てきます。
 これを、そのまま放置しておけば、十人十色で好き勝手な解釈や考え方が横行し、ついに仏法は内側から破壊されてしまうでしょう。
 厳格な宗旨ですから、そういうことも許されておりません。だから、異流義を称える創価学会も破門にされたのです。

 信じなければ、不幸になり、地獄に堕します。誰が堕すわけでもなく、法を守らない我が身の責任であり、自業自得だと申し上げている通りです。
 知っているから、信じているので、云うだけです。

およそ、この宇宙間のあらゆる事象において、原因なくして結果が生じたり、原因はあっても結果が生じない、などということは何ひとつありえない。我々の日常生活においても、かくすればかくなるという、道理や筋道(因果)のわからぬ者は、とうてい正常とは認められぬものである。
 それ故、世に存在する諸々の教えにおいても、いちおう、因果を立ててはいるが、それが、じつに不徹底な、部分的因果に止まっているのである。
 たとえば、唯物論では、世の中のすべての現象は物質が進化して発生したものであり、物質こそが本源的存在である、という。つまり、すべては物質から生じたという、いちおうの因果を立てているわけであるが、では、その物質は何から生じたのか、といえば、物質は根本の存在であって生じるものではない、といい、そこで因果が断絶してしまうのである。
 この点は、唯物論だけにかぎらず、むしろ対立的立場にある唯心論においても、またキリスト教のような造物神信仰においても、ただ、本源的存在が、物であるか、心であるか、神であるかの違いだけで、皆、大同といえよう。
 このように、いかに因果を立てているといっても、それが部分的、不徹底な因果であるかぎりは、所詮、因果無視の偏見の域を出ないのである。

 ただただ、邪宗謗法の恐ろしさを痛感致します。
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まだ締め切っていないようなので、最後に。



noribou11さん、なんか喧嘩ごしに言ったようで申し訳なかったです。
あなたの話はよくわかるつもりです。
それからodd-artさんに対する意見についても、ちょうどその「阪神星野監督」の質問にも回答しているのも見て、最初の内は笑ってすませる範囲でした。むしろ、質問者さんの反応を過剰かな?と感じていた程です。
しかし、No.13の後ろの方の、「信じなかった者が交通事故で死んだ」というような話に、聞き捨てに出来ない物を感じて再度意見を書いたのです。
ここに来ているほとんどの人がおっしゃるように、どのような意見や信仰を持とうが、自由だと思います。でも、上のような意見にどうしても黙っていられなくて意見を書きました。
私自身の考えも、所詮独り善がりなのかも知れません。
だから、私は自分の考えに質問者さんなどの他の人が倣ってほしいのではないですが、考える材料にでもして頂けたら嬉しいと思います。
では。
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再びの登場です。

なんだか仏法論争になっているようですね。それにしても・・・。

ここで日蓮さんと法華経を云々言っている人は悟っているのでしょうか。わかる事は日蓮さんと法華経を絶対視して話している坊さんのような在家信者であるという事です。

ただ、この場合、日蓮さんと法華経を絶対視して信仰するのがその宗派の教えでありましょうから、それはそれで結構なんじゃないでしょうか。信じるものは救われるというではありませんか。

世の中絶対というものは(特に日本では)ないのですから、どうしても絶対が欲しくなる。それがたまたま日蓮さんと法華経だったという事です。

だって、なんでも日蓮さんが言っているから、法華経が言っているからとすれば良いんですもの、悩む必要などありはしない。
自らはそれらを遵守しているからよいのだ、他は逆らおうとするからろくなものでない。なんと言う自信でしょう。

これ以上、何も申しますまい。
神様も仏様も、懐が広いのですもの。私はたとえ地獄に落ちるといわれようが、頭が七つに割れるといわれようが、気にはしない。ただ心を安楽に保っていれば、何もこわくありませんもの。
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#17の一神教の続き。



koutatoreikunさんは、一神教を「論語」に例えていました。私的には意外な考えでしたが、それもありかな?とも思います。

私は、バックボーンが「八百萬の神々」の神道ですので、正直一神教って肌が合わないんです。私見では(あくまで私見です。他の神職さんがどう思っているかは知りませんので、予めご了承下さい)、八百萬の神々の中には、ゴッドもアラーもシャカも何でもありだと思っています。またそういう国だから、日本人は神仏習合も当然のことと受け入れてきたのでしょうし、今日の「産まれたら神社へ初宮詣、クリスマスは心から祝い、亡くなると仏様になる」ようないい意味での「好い加減」さを持ち合わせている民族なのだと思います。そういう意味で、私は所謂国家神道や廃仏毀釈といった考え方には賛同しかねますね。最も神道らしくない思想のように思えます。

さて、こちらに色々な意見をお持ちの方がいらっしゃるようですね。個別に意見を挟むことは差し控えますが、どなたも別に、無理に他人の信条に土足で踏み入ることはないと思いますよ。自分はこのような信条を持っているのだ、ということは素晴らしいことですし、簡単に捨てるべきではないですが、他人に強要するのは感心できません。またそんな資格はないでしょう?

私は個々の方がそれぞれ己の信じる道を進むことは理解しますし、また敬意を表します。しかし、それを強要したりする教義については、断固として一線を画します。始めにも言った通り、宗教とは「心の安寧」を求める人たちへ安らぎという名の施しをするものであって、信者が宗教(教祖)へ無償の奉仕をするといったものではないということです。このようなことで一々いがみ合っていたのでは、健全な社会生活など望めませんでしょう?ここでバトルをしている方へは、「協調」という言葉を贈りますので、今一度己を見つめなおすことをお勧めします。
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 本当に仏教を知れる者は、何が大事かを知っている筈です。

それとも、似非宗教でしょうか?

 仏道修行には折伏と摂受との二つがある、と示されております。
 折伏ということは、相手の考え方や教えの、どこがどう間違っているか、ということをはっきりと破折して、正しい教えに屈伏させることであります。
 それに対し、摂受ということは、相手の考えや教えを受け容れる、相手の言っていることがどんな内容であったとしても、それはそれで良しとして、それを責めずに認めてあげ、徐々に引き込んでいく、という在り方であります。
 この、折伏と摂受という二つについて、いったい我々はどちらをしたらよいのか、というと、大聖人は、折伏でなくてはいけないのだ、と教えられているわけであります。すなわち、
 「今の時は権教即実教の敵と成る。一乗流布の代の時は権教有って敵と成る。まぎらはしくば実教より之を責むべし。是を摂折の修行の中には法華折伏と申すなり。」
 今この末法の時代は、権教が即実教の敵となっている、と言われています。
 実教とは真実の教え、権教とは仮の教え・方便の教え・低い教えのことです。末法時代は、真実の教え一つだけがあるのではなくて、仮の教え、方便の教え、間違った教えが、世の中に充満しており、どれが真実の教えであるかを、まぎらわせています。
 もし、真実の教え一つだけが存在するのであれば、誰も迷いませんし、その真実の教えだけが弘まるわけですが、いろいろな教えが雑乱して存在しているために、真実の教えがわからなくなってしまっている、つまり、真実の教えが弘まろうとするのを、その他の低い教えが邪魔しているわけです。
 だから、権教が即実教の敵になっている、と仰せられているのです。
 そこで、実教の上から他の権教を責める・・・他の教えのどこが間違っているのか、どうして低い教えなのか、どうして仮の教えなのか・・・そのことを、真実の教えの上から明らかに顕わして折り伏していく、これが法華経の折伏なのである、といわれているわけです。
 「天台云はく『法華折伏・破権門理』と。良に故あるかな。」
 このことについて、中国の天台大師が、「法華は折伏にして権門の理を破す」法華経の教えというのは折伏であって、方便の低い教えを打ち破っていくのである、と言われている、まことに根拠のあることだ、と仰せられています。
 「然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば、冬種子を下して益を求むる者にあらずや。」
 法華経の中にも、安楽行品などには、弘教の方法として、相手の間違った教えを責めないで、それはそれで良しとしてあげて、徐々に引き込んでいく、そういう摂受の修行が説かれております。
 しかし、大聖人は、摂受の修行をこの末法の時に行ずることは間違っている、とお示しであります。
 真実の教えだけがあるときはよいけれども、その他に、いろいろな方便の低い教えが混在している末法の時代には、摂受を行じてはいけないのです。
 それは、あたかも、冬に種を植えてそれを収穫しようとするものだ、と言われています。
 種は、春に植えて秋に収穫しなければいけないわけですが、それを冬に植えたら、種が皆だめになってしまいます。それと同様に、仏法には摂受と折伏という二つの修行があるけれども、末法の時には、摂受はしてはいけないということです。

 何があろうと屈しることは、否を認めた事でしょ。
 それ位なら、最初からしない方が増しかもしれません。
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返事もないのに何度もすみません。


私への意見がありましたので少し書込みます。

maruru01さん、どうも星野監督の件でもお世話になりました。
(締め切りはもう少し待ってください)
誤解ではないんですよ。あえて引用させて頂きました、ごめんなさい。
maruru01さんを非難する気はないんですよ。
ただ、前述のように人間は社会生活を営んでおります。まだ仲がよくない人物でも
付き合っていかなければいけないでしょう。そういうときに自分自身や友人・家族を
精神的基盤においていると言われても、その友人や家族が犯罪を悪いと認識しているか
どうかなど、本人を知らないので理解はできません。もちろん、極端に言ってしまえば
ですよ。そういう意味でどこの宗教だろうと特定ではなくてもいいです。
kawakawaさんのおっしゃるような言い方が一番、理解できるというだけです。
信仰する宗教がない人と信仰そのものを否定する人(共産主義のように)は
違いますよね。私は後者の意味で無神論者は信用できないと思っているだけです。
なので、maruru01さんに対しての発言ではないんですよ。

後半の部分はちゃんと理解してますよ。なんせ、私は宗教に関する正邪なぞ、
言及してませんもんね。私は信仰を中心とする宗教ではなくて、
自己を研鑽する、すなわち、なぜ、人間は生きているのか?を考えているだけです。
そういった意味で宗教はとてつもない哲学書のように思えます。
とくに日本においては哲学という学問が形作られたのが近代であるため、
どうしても哲学的発想は宗教方面に求めなくてはなりません。

その上で、吉事は周りの人々に感謝するのは当然のことなにかしらの力、
(別に神でなくても運で風水でもOKです)にも感謝の念を抱くだけです。
感謝の気持ちは多ければよい。それらの協力者を無視して、神にのみ感謝するようでは
本末転倒もいいとこですね。ある意味「情は人のためならず」です。
一つでも多くに感謝すれば、感謝されることも多いだろうと思うわけです。
まあ、嫉妬をさけるためにある程度、特定の神様に感謝しますけどね(笑)
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三度maruru01です。



まず、noribou11さんへ。
私の言葉を誤解されているようなので、補足します。
「仏法の中身は別に知りたくないので、長々と説明するのは不要です」
という発言は、odd-artさんに対して、
「自己完結した理論の押し付けは不要です」
という意味で言ったのであって、仏法自体を毛嫌いしているわけではありません。

それから、一番最初に自分のことを「無神論者」としたのは、質問の中に
「宗教家さんと(信仰する宗教がおありの方)」とあったので、信仰する宗教がない者=無神論者としたわけです。

>多くの人にとって神は心のよりどころになっているのです。そういう意味で無神論者は信用できません。物理的の神がいるのか云々ではなく精神的基盤がどこにあるのかが不明だからです。

心のよりどころは人それぞれです。神を信じない人の精神的基盤がどこにあるかが不明というのは、どうでしょうか。人は自分自身を基盤にしている人もあれば、それが他人(親兄弟を含む)である人もいるでしょう。もちろん神を精神的基盤にしている人も。ですから、神を信じる・信じないで線引きをするのはどうでしょうか。

世界には様々な宗教があり、様々な教えがあります。私はそのほんの一部をしているに過ぎませんが、あるひとつの宗教の教えが100%正で、それ以外は全て邪という考え方に納得できないのです。
お釈迦さまの教えに素晴らしいと思えるところがあれば、素直に聞き、キリストの教えにそう感じれば、やはり自分の糧にすればいいのではないでしょうか。

それから、私は正義はひとつだとは思っていません。自分が正義だと思っていることでも、おそらく正反対の正義があると思っています。つまり、この世の中にあるのは正義対悪などということはなく、ある方向から見た正義対別方向から見た正義ということだと思います。

だから、アメリカの正義の押し付けも好きではありません。
最後に私が最も嫌いなのは、「正義教」の信者たちです。

ちなみに、おそらくお分かりだと思いますが、途中からはnoribou11さんに対しての意見ではありません。もう一人の人に対するものです。
とりあえず、この質問が布教活動に利用されているようなので、それが嫌であれば、質問者さんは、もう締め切った方がいいと思いますよ。
では。
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再々度の登場です。

今回は軽い気持ちで読んでください。

たぶん、koutatoreikunさんにはodd-artさんが理解できないと思いますので
ちょっとした解説を。最初はodd-artさんが創価学会の方かなと思ったのですが
今年の学会は「対話拡大」ですので他の日蓮系の団体のようですね。

仏教といっても多くの宗派があることは御存知かと思いますが、
日蓮系ほど新興団体が多い宗派はありません。というのも日蓮系は正邪がはっきり
しているからなんですね。そして彼等が他宗の信者を改心させること折伏(しゃくぶく)と
言います。この折伏には大きく二通りの方法があります。一つは相手の主張や信心を
尊重しつつ日蓮大聖人の言わんとする方向へ導く方法。いま一つはまさに
odd-artさんが書かれている、相手を徹底的に批判・否定をし、真の摂理を
押し付ける方法です。これを破折(はしゃく)といいます。

善意で解釈すると(笑)この方法はまさに天魔に犯されているkoutatoreikunさんを
早く救わねばという緊急措置になるんですね。ということで、koutatoreikunさんが
「あなたに間違っているとは言われたくない」とか「もう掲載しないでください」
とか書いても意味がありません。相手にしてみれば拒絶すればするほど悪魔の誘いに
のっていると思うわけですから、さらに難しい仏教用語を引用せざるえないんです。
もっとも広島やら交通事故を引用することは感心できませんがね。
悪意で解釈すると、言うことを聞くまで殴り続けて、最後にちょっとしたやさしさを
見せて女をものにするやくざと同じ手口です。

AX1さんもおっしゃているように、この手の折伏のやり方があるとその宗教自体が
うさんくさいように思えて残念です。ひいては仏教徒がこのように思われてしまいそうで
不安です。日蓮系も立派な教義があり、大抵の信者はおだやかでやさしいんですよ。
もちろん、知らないが故の間違いはあるものです。例えば念仏を唱えていれば
良いというのは浄土系と呼ばれる宗派であって日蓮系や禅宗系、密教系にはないとかね。
仏教といってもいろんなのがあるんですよ。なにせ、日本はインドから直接、仏教が
もたらされたのでなくて、あらゆる影響を受けたあとに伝わったものですからね。
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 正を邪といい、邪を正とする意見、考え方には、賛同出来ません。


 
 邪宗という言葉は、やみくもに他宗を攻撃するために勝手に使っているのではありません。 釈尊は法華経に、
  「正直に方便を捨てて但無上道(むじょうどう)を説く」(方便品第二・開結一二四)
と、四十余年にわたって説き続けてきた方便の経経を捨てることを説き、これ以後に説示する法華経こそ最高唯一の無上道であると言われています。また方便の経経に執着していた弟子の舎利弗(しゃりほつ)は自ら、
 「世尊我が心を知しめて、邪を抜き涅槃を説きたまいしかば、我れ悉く邪見を除いて空法(くうほう)に於いて証を得たり」(譬喩品第三・開結一三二)
と述懐(じゅっかい)していますが、ここにも低級な教えによる考えを「邪見」と称しています。
 また、日蓮大聖人は末法の教主として、
 「正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てヽ、正直に正法正師の正義を信ずる」(当体義抄・新編七〇一)
ことが、もっとも大切であると教えています。
 これらのことからも、邪宗・邪法などの言葉は仏の経説にしたがって使用していることがわかると思います。
 ではなぜ他の宗派に対して、攻撃的なしかも刺激の強い邪宗という呼び方をするのかといいますと、個人の苦しみや社会の不幸はすべて邪(よこし)まな宗教が元凶となっているからであり、言いかえると誤った宗教、低劣な教えがこの世の不幸のたねだからです。
 昭和二十年に広島市と長崎市に投下された原爆は一瞬のうちに何十万人という市民、それもなんの罪もない子供や老人まで無差別 に殺戮(さくりく)しました。いま私たちが、核兵器の行使(こうし)が悪魔の所業であると叫び、この憎むべき不幸を二度とくり返してはならないと訴えるのは当然でしょう。そしてその不幸の原因が戦争であり、戦争は人間社会の誤った思想によって誘発されたことを考えますと、誤った思想が何十万人、いな世界大戦で戦死した人を含めると何百万人、何千万人の命を奪ったことになるのです。
 このような殺人思想に対して、邪教・魔説と指弾することは言いすぎでしょうか。失礼に当たるから控えるべきなのでしょうか。
 涅槃経(ねはんぎょう)に、
 「悪象のために殺されては三趣(さんしゅ)に至らず、悪友のために殺されては必ず三趣に至る」
と説かれています。この意味は災害や事故によって命を失っても地獄・餓鬼(がき)・畜生というもっとも苦しむ状態にはならないが、誤った教えを信ずるものは死して後に必ず三悪道に墜ちて永劫(えいごう)に苦しみ続けるということです。
 一切の不幸の元凶となる誤った宗教は、あたかも覚醒剤や麻薬のように、本人も気付かないまま、いつしか次第に身も心もむしばみ人生を狂わせていくのです。
 正しい仏法に目醒めた私たちが、誤った宗教を不幸の根源であると破折(はしゃく)し、邪宗と称することは、悪法に対する憤(いか)りであり、いまなお知らずに毒を飲んでいる人に対する警告の表れでもあるのです。

 なぜ人は信仰し、宗教を求めるのかと問う時、ある人は神仏に守ってほしい、ある人は願いを叶えてほしいといい、またある人は先祖の冥福を祈りたいなどとさまざまな答えがかえってくると思います。
 現在日本だけでも何十万という数の宗教がありますが、そのなかには、合格祈願のための神社をはじめ、水子供養専門の寺院とか、虫封じの神社があるかと思えば“とげ抜き地蔵”なるものまで、多種多様の宗教があります。
 また信仰する対象も、同じキリスト教でも十字架を拝むものや聖書・マリア像・キリスト像を拝むものなどさまざまですし、仏教でも釈尊像を拝むものや、大日如来(だいにちにょらい)、阿弥陀如来(あみだにょらい)、薬師如来(やくしにょらい)などの仏や、観音、弥勒などの菩薩、あるいは大黒天、弁財天などの天界の神を祭るものなど、宗派によって多岐に分かれています。
 もし宗教が単に気休めや精神修養のための手段ならば、それはちょうど音楽の好きな人が名曲を聞き、読書家が名作を読んで心をなごませることと同じでしょう。またそれならば、どの宗教によって、どのようなものを拝んでも、その人その人の好みによればよいということになるかもしれません。
 でも少し考えてみて下さい。私たちが生活する上で、無関係なものや無縁のものからは生活に直接影響を受けませんが、身近なものや、信用したものは、その善悪、真偽、正邪によって大きな影響を受けることになり、それが人生の指針にかかわるものや、人命に関するものであればなおさら大きな力として影響を受けることになります。
 たとえば、進学や就職、結婚などは誰でも慎重に選択するでしょうし、日常生活でも乗物や食べ物あるいは医薬品などは、より信用できるものを選ぶものです。その選択の基準として、自分の経験や、道理の適否・実験の結果 ・保証の有無・他者の評価などを考慮したうえで、できる限り、よい価値を生ずるもの、すなわち満足できるものを選ぶのではないでしょうか。
 これと同じように、宗教もそれぞれ本尊が異なり、教義もさまざまですが、日蓮大聖人は、
 「小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(高橋入道殿御返事・新編八八七)
と仰せのように、三毒強盛の末法の衆生には、真実の教えである妙法蓮華経の大良薬を与えるべきことを教示されています。
 釈尊も法華経において、
 「唯一乗の法のみ有り、二無く亦三無し」(方便品第二・開結一一〇)
と説かれ、仏になる道はただ法華経以外にないことを明かされています。
 いいかえると、この経文は一乗の法すなわち法華経以外の教えは、真実の教法ではないとの意味です。
 このように、宗教には正邪の区別があることを知らなければなりません。

 誤魔化して、終えれるような代物では有りませんよ。  
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