
すごくぼやけた表現で申し訳ないのですが、私がある締め切り済みの質問を覗かせてもらっていたら、
とある宗教をなさっている方の、ものずごい一方的で、独断的な投稿がありました。その回答の解釈は
「神様を信じていればそれで救われる」ということを前提に、論理的にどう考えてもおかしいことばか
りを長々とのたまっているというものでした。
私は、宗教を否定するわけではありません。「神様仏様」という心のより所があるとほっとしますし、
宗教の種類を問わず、どの宗教においてもすばらしいことが教えの中に盛り込まれていると思います。
そこで、宗教家さんと(信仰する宗教がおありの方)できれば無神論者さんに質問いたします。あな
たがなぜ宗教を信じるか、また、何故信じないのか、その理由を教えてください。
A 回答 (31件中21~30件)
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No.11
- 回答日時:
正月には初詣に行き,彼岸には墓参りに行き,クリスマスにはケーキを食べ,神前で結婚式をし,神社でお宮参りをし,お守りを持ち‥
私自身は,おそらく大多数の日本人がそうであると思われる,特定宗教は信じていないが,さりとて完全に無心論者という訳でもないという位置付けであると言えるでしょう。
現実のところとして,宗教が生活の基盤となっている国は多数あります。けれども,日本では大多数の国民は「日本教」ともいうべき,冒頭に書いたような生活を送っているのですネ。原始宗教の流れを継承しているのでしょうネ。
本来,心の平和を求め,魂を救済するための宗教は多くの悲劇を招いてきました。戦争の原因となったケースも沢山ありますが,それらのことについて,宗教家の方々は触れようとはしません(イスラム教は別にして)。
2000年前はキリスト教も新興宗教の一つに過ぎなかったわけですし,仏教もイスラム教も同じですよネ。そして,その普及のために多くの殺戮を行い,同時に奇跡をみせるために医学をセットとしてきたのですネ。
古典的な宗教である仏教にしても,日本に伝えられたときは非常に攻撃的なものでしたネ。
僧兵は豪族にとっての脅威でしたし,織田信長が比叡山の僧兵と戦ったり,石山本願寺と戦ったことは有名です。
一向一揆は日本中を混乱させましたネ。
キリスト教にしても十字軍の遠征というナチスドイツも真っ青というような蛮行を行なってきました。
イスラム教信者による9.11テロ‥
その宗教に属していない者は敵であり,悪魔であり,殺すこともかまわないということをしてきた訳ですネ。
毒ガステロを起こした某宗教団体と変わるところはありませんネ。
私自身は現在のところ,宗教にすがらなくても大丈夫という状態ですので,特定の宗教に帰依はしていません。
他人に強要しない限りにおいて,誰が何を信仰していようが構わないと思いますネ。
ただ,命に関する仕事をしていると,人を遥かに超越した何かの存在に思いを巡らせることがあります。
以上kawakawaでした
ご回答ありがとうございます。確かに、信仰とは関係なくても、人知を超えた何かのことを
考えることはありますね。私の場合宇宙の存在とか粒子は誰がどうやって作ったのだろうとか。
殺戮と医学をセットというのはまた面白い視点をご提供いただきましてありがとうございました。
ちょっとこのことについて考えてみたいと思います。
No.10
- 回答日時:
私のような若輩者が何を言えるかどうかはわかりませんが。
取敢えず思う事を。私は神社も行きますし、お寺も行きます。いわゆる典型的日本人ですが、日本には神仏習合、和光同塵というのが100年前まで当たり前だった事を思うと、別にどうという事はありません。
私が思うのは、宗教はあれが正しい、あれが邪道だという問題でないと思います。宗教は人々の祈りの形です。
但し、その行為が人に対して押し付けがましいものになったり、どう考えても教えの曲解であるものは別です。
私は、聖職者を人智を越えた様なものというのはわからない人です。聖職者というのはあくまでも媒介人であると思うからです。
私は基本的に仏様と日本の神様を信じますが、それはあくまでも自己を見つめる為です。誰かに脅されたわけでもありませんし、勧められたわけでもありません。自己責任の上です。ただ、○○宗と言うのには属してません。
ご回答ありがとうございます。神仏習合は歴史でやった記憶があります。「そういやそうだ!」
なんて思いました。
「聖職者」=媒介人、つまり、宗教を知るきっかけということでしょうか。あっさりしているご回答ですが
受け入れやすいご回答でした。
No.9
- 回答日時:
以前、神社にて奉職しておりました。
神道では(他宗教については分りかねますが)、特に信仰の強要をするなどはありませんでした。
これは私見ですが、宗教の起こりから年数が経っている程に、比較的穏健的なものが多く、年数の浅い(若い)宗教ほど過激的な傾向があるように思われます。また、多神教の宗教よりも、一神教の宗教に過激な印象を抱いてます。
まあ、どんな宗教にしても、信仰のレベルであるうちは特に申し上げることはないですが、その活動自体が社会問題化してしまったのでは本末転倒のような気も致します。宗教に入信される方って、心の安寧を求めてる人が多いですけど、入信後かえって過激に他宗教の人達を「邪教撲滅」のように排斥したりしますから。。。
koutatoreikunさんも、どのような宗教を信じるも(信じないも)一切自由ですが、世の中にはそれだけ価値観の異なる人が共存していることを意識し、自分と異なる考えの人とも割り切って付き合っていくのがいいと思いますよ。
取りとめのない話になりましたけど、信じる信じないはともかく、皆さんの幸せをお祈り致します。
ご回答ありがとうございます。
過激度が年数に比例するというのは初めて聞きました。たしかに過激なのはオウ●と言った
若いものですし、タ●バンもイスラム教ですが起こりはつい最近ですしね。
異なる思想の人とは割り切ってつきあう、うーん、結局そういうことになりますね。でも、
同じ思想の人間ばかりで固まっちゃうと一辺倒になりそうだし、それに同じような考えを持つ
人であっても差異はありますしね。難しいところですね。
No.8
- 回答日時:
生命科学の研究者ですが無神論者というわけではありません。
日本人はどうも特定の宗教団体に属している人物が宗教家というイメージが
あり残念です。いかに日本人が神学を勉強しなくなったのかという結果ですね。
本来、宗教とは社会生活を営む上での道徳であり公共心でもあります。
私の経験ではボランティア精神に長ける人は大抵なんらかの信仰心を
持ち合わせているように思えます。なんらかの力によって
生かされているという認識が彼等を慈悲深くさせているんでしょうね。
インチキ宗教は許せません。しかしながら、信仰心が道徳の基盤になって
いることは多くの宗教で見られることです。多分、No.2さんが所属しているで
あろう団体も多くの会員は普通の人よりおだやかですしね。
No.3さんの反論のようになってしまって恐縮ですが
自分の言動に自分で責任を持つというのは難しいことです。
そこに甘えがあれば犯罪じゃなければいいんだという精神が生まれます。
自分の行動を自分で推考し実践する院生には悪い結果が続くと精神的に
まいってしまう人がけっこういます。こういった状態のときに
インチキ宗教と出会うとメロメロになってしまうのですが、始めから
信心があるものは、これも試練と打たれ強いところがあります。
海外で宗教の話しになったとき(本ではタブーとされてますが、仲が良くなれば
宗教の話しはけっこうします)無神論者なんて言えば「じゃあ、あなたの道徳の
基盤はどこにあるの?」なんてことになります。そんなときに「自分」と
答えても「法律」と答えても空しいだけです。
と、言っても私は禅宗であり、浄土系のように南無阿弥陀仏を唱えていれば
救われるものではありません。仏に助けを乞うのでも、日蓮系のように
釈迦の教えに固執するのでもなく「いかに釈迦に近付けるか」を自問自答し
なぜ、我々は生きているかを考えます(生物学者ですから生物的には理解してますけどね)
そもそも、医学、文学、工学、哲学、芸術の根本は神学にありますからね。
宗教とは勉強することだと思っています。
宗教とは社会生活の規範であり、それが全てではありません。
故に同じ宗教でも土着文化と融合した結果、地域差が生じます。
仏教とてヒンドゥ教、道教、儒教、神道など、さまざまなものの影響を受けています。
仏教は死んだら輪廻転生によって他に生まれ変わるのだから先祖がいつまでも
天国にいるはずがないのに位牌に礼拝するとか。葬式なんてキリスト教の影響ですしね。
確かに歴史的みれば宗教はろくなことがないように思えます。
しかしがなら、それは組織が問題なのです。人間の残酷なところは
団体になると善悪の判断がつきにくくなることです。個人の信心が問題ではありません。
神を信仰するが故に幸福が訪れるのではなく、神の教えに従い己を律することで
道徳心と公共心を養うことが信心の理由です。
繰り返しますが多くの信仰者にとって信心とは生活の規範であります。
それが全てであるような妄信家ではありたくない。
無神論者を気取るほどの自分は持ち合わせていない。
成功すれば周囲の人達と出会えたことをただ感謝するのみ。
なにごとにも「ありがたい」という信心のみを大切に。
この道を行けばどうなるものか危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。
踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ。
行けば分かるさ。
アントニオ猪木ではありません。一休禅師です。
ご回答ありがとうございます。
>自分の言動に責任を持つのは難しい。そこに犯罪じゃなければいいという甘えが生まれる
たしかにnoribou11さんのおっしゃるとおりかもしれません。しかし、そのことを「甘え」という
風に見るのか、「自由」という風に見るのか、それは個人によるものだと思います。自由と言っても、
フリーではなくてリバティーです。
>「自分」と答えてもむなしいだけ
これがどうもわかりません。何で「自分」と答えてむなしくなってしまうのですか?そんなに
自分は空虚な存在なのですか?私の場合を述べさせていただきますが、私は若輩者であるがゆえ、
宗教上の方々と比べると、明らかに人間ができていません。いや、誰と比べても未熟でしょう。
しかし、完成されてはいませんが、逆に変化の可能性を秘めています。私はその変化の可能性が
完成された何かを上回る可能性を秘めていることだと思っています。「宗教」ははっきりと
形のあるものですが、別にこれから作っていくでもいいと思いますね。普遍的な根本にすがる
気はありませんから。
>神の教えに従い己を律することで道徳心と公共心を養う
これは私の解釈なのでまちがっていたら申し訳ないのですが、つまり、心の中に神の教え
という道徳規範を作るということでしょうか。うーん、私の考えでは、「規範の一つ」ということになりますね。
ルールなんてこの世にゴマンとありますし。
>何事にも「ありがたい」という信心を大切に
このように思える人は、宗教をしているしていないにかかわらずすばらしい人だと思います。
No.7
- 回答日時:
こんにちは。
#1のBTです。>「自分教」ということは、自分に自信があるということでしょうか。
特に自信があるという訳ではありません。
ただ、私は無神論者である故に、参考にすべき“教え”(?)がないわけです。
ですので、自分で考えたり、いろいろな人に相談をしたりして決定いたします。
しかしながら、最終決定は自分自身で行う所から、あえて「自分教」と書かせて頂きました。
まぁ、一般的な無神論者と同じ立場ですね。
あと、あまり宗教家と無宗教家との間での攻撃的討論は避けましょう。
無宗派の方が宗教の中での絶対的存在の“神”(代替)を否定するのは、きっと親(家族)を否定する位きついものと思います。
お返事ありがとうございました。
「自分教」とお書きになり、また、このお返事を読んでみても、私はBlack Tigerさんが
「自分に自身をお持ちになっている」と感じます。それは「ナルシスト」になっている
ということではなくて、「思想が自立してらっしゃって、人の話を聴くことができる」
ということです。こんな書き方をするともしかするとお怒りになるかもしれませんが、
それができるということは、周囲に流されない自分がいるということだと思います。そして、
私の中で、「周囲に流されない自分」=「自分に自信があることが大前提」という図式があるのです。
>攻撃的討論
ついつい熱くなると思ったことを何も加工しないでそのまま口に出してしまいます。
気をつけます。
No.6
- 回答日時:
>私は冒頭で、宗教についていいところもあるといったことも書きましたが、このような態度が 気に入りません。
「すばらしい」ことと「絶対」というのはまったく異なることです。どうもあなたの信仰は一面的なような感じです。いや、信仰と言うのもはばかれるような「狂信」です。
私は、上から押し付けるような言い方をするのもされるのも嫌いで、特に思想に関してここまで うるさく言われるのが宗教であるならば宗教に対して否定的にならざるを得ません。
ということですが、質問に有るように、何故、宗教を信じているかを述べさせているだけであります。
別段、信心を強制しているのでもなく、宗教とは、こういうものですよと述べているに過ぎません。
これも、ある回答で記述したことですが、
そもそも宗教は、その人の生活の根本であり、人生を左右するものです。そして、それぞれの宗教の教えをよく調べてみれば、そこには高低・浅深・正邪という厳然とした違いがあり、低い教えや間違った宗教に関われば、その人が不幸になってしまう、という現実があります。
それを知った私達は、知らずに不幸になっていく人をそのままにしておけず、正は正、邪は邪として、はっきり言いきっていくのです。
それを、「他の宗教をけなすのは良くない」とか「他の宗教を悪くいうから寛容でない」というとしたら、それでは、知らずに毒を飲もうとしている人を見ても放っておくのが寛容、火事の現場で遊んでいる子供もそのまま遊ばせておくのが寛容、ということですか。
このようなことを寛容だなどとはいわないことは、あなたも、よくおわかりでしょう。
しかも、他をけなしたり、ただ「自分の信じているものだけが正しい」などと言えば、抵抗を感じる人の多いのが世の中の現実です。
したがって、自分の宗教を弘めるため、ということだったら、他をけなさず、悪く言わない方が得策といえましょう。
それを、あえて「他の宗教は間違っている」と言うのは、けっして、自分の宗教を弘めようとして我田引水で言っているのではない、ということです。
先程も申し上げたように、宗教は人生を左右するものであり、関わる宗教によって、その人の幸・不幸が決定されてしまうものでありますから、皆が幸せになれるように、正は正、邪は邪と言いきって、邪を捨て正につかれるよう、お話をしているのです。
如何ですか?
odd-artさんのご回答に対しては、刺のあるお返事しか差し上げていませんが、私から見るとあなたの
ご回答は極論で、私は極論が大嫌いなのでどうしても刺のあるお返事を差し上げることになります。
今回のご回答でも
・宗教は生活の根本で人生を左右する
・低い教えや間違った宗教にかかわれば不幸になる
ということをおっしゃいましたが、人生を左右するほどの信念というものはあるでしょうが、
それがすなわち宗教かというとそうではないと思います。
そして、「低い教えや間違った宗教」などとおっしゃっていますが、それじゃあなたがご信仰に
なっている宗教は絶対に間違いはないということでしょうか。それは(失礼ですけど)あまりにも
調子に乗りすぎています。自分の宗教のすばらしい所しか見ていないで、それで信仰した気になっ
ているというのは、はっきり言って「半盲の信仰」です。あら探しをしろというわけではありませ
んが、この世に完璧なものは存在しません。いいことばかりのものは胡散臭いです。
お釈迦様の教えを否定するわけではありませんが、それにのみすがりついていると他のものを理解
できなくなるでしょう。私が思うに、「お釈迦様の教え=絶対 それ以外の教え=愚か」という
図式がodd-artさんの頭にできてしまっているのではないでしょうか。そして、それ以外の教え
のなかにご自分も含まれている。
「正は正、邪は邪」と言い切るというのもどうかと思いますね。私の捉え方の文脈ですから
自分勝手なことになりますが、「言い切る」というのがどうもクサイです。つまり、「正=完全に正」
「邪=完全に邪」ということですよね。それじゃ「邪」とされた人、物はいいところなしなの
ですか?
人生において、二者択一などの選択を迫られることはあります。若輩者の私もまったくな
かったわけではありません。しかし、私が選ばなかった選択肢も、決して完全悪とは思えません。
それは私が選ばなかっただけで、それを選ぶ人はたくさんいるし、まったく正当性がないとい
うわけではないからです。例えば、高校進学で私立にいくか公立にいくか、将来ギターを取るか
パソコンを取るかなどなど、メリット、デメリットを挙げていけば数はともかく質は同じくらい
になるとは思いませんか?
あなたの場合、比ゆが極端なんです。あなたの比ゆは火事場で子供を遊ばせるとか毒を飲む人
を止めるとか、「どう考えても悪い」と思われがちな比ゆ、つまりは極論じみた比ゆばかりを
お使いになっています。私は狂信者の一面として、「極論じみている」というところがあると
思っていて、それゆえにあなたが「狂信者じみている」と私には感じられます。
No.5
- 回答日時:
こんにちは。
私は信仰持っているものですが、回答させて頂けるほど人間出来てせんので、アドバイス程度。
私もNO.1の方のように、宗教を強制させ、しなければ幸せになれないという論理はどうかな?と思いますね。
私もそうこられればきっと信仰持つ気にはならなかったです。
何故信仰しているのか?の問いですが、もともと無神論者だったのですが、信仰持っていた友人がとても信心の厚く信用のある人で、どんなにその教えについて馬鹿にしても(よく教え自体知らなかったのに)その友人はそれでも信じ続けてました。
当時は○ウムの事件もあったりして、私自身も信仰なんて持ってる人が可哀相自分に自信が無い人だからとか思ったりして。
でも、どんなにまわりから馬鹿にされても友人の変らぬ優しい態度と、変らぬ信心に「何故そこまで信じられるんだろう?」という思いから私もやり始めました。
人は小さい事から大きい事の悩みがあり、それでこのサイトに助けをもとめてくる人もいますが、大抵自分に自信がなくなったりしてますよね?
最近思うんですが、社会や政治、経済、そして人間関係すらも信じられなくなってるこの頃、信じるものがあり、貫くってすごいなあと思うようになりました。
それが信仰というものであろうと思いますし、それが故に自分に自信もついてきました。
信じれば幸せになるならないでなくて、信じて実行してゆくうち、自分が今までみてきたその目が変わってきて、大きい悩みだったのが小さくなり、小さい悩みがいつのまにか気にならなくなった。
また目の前にとてつもない問題が起こったとしても悲観することなく希望もって立ち向かえる自分になってゆける自信ができる。
そんなとこでしょうか。
仏法はこうだからと声高々に言い強制するでなく、優しい態度で信心に興味を持たせてくれた友人に心から感謝してます。
ご回答ありがとうございました。お返事送れて大変申し訳ありません。
「信仰」に対して、私が今まで聴いたことのないようなことをお書きになっていますね。
今まで「神様の教えは絶対だ!」的な話しか聞いたことなかったのですが、AX1さんのよう
に、宗教を通してものの見方が変わるということもあるのですね。「優しい気持ちでの信仰」
というのがとてもいい言葉だと思いました。
No.4
- 回答日時:
>ただの脅し文句にしか思えません。
だって、「幸せになりたきゃ金だしな」というインチキ宗教のパターン・・・ということですが、脅しでないことは明白であり、このままだと危険だよと注意を促しているだけです。背く方が悪く、所詮は、「自業自得」です。
これも、以前何等かの回答で記述したことですが、
仏教と他の宗教とを比較する
仏教では、厳格なまでに「因果(原因と結果の関係)」を根本としておりますが、仏教以外の教えにおきましては、因果が明らかでなかったり、あるいは因果を無視し否定しております。およそ、世の中の全ての物事において、原因なくして結果が生じたり、原因はあるのに結果がないなどということは、ひとつとしてありえません。
科学というのも、人間の目に観察される現象について、そこに因果関係を究明していく学問でありますし、身近な私達の日常生活においても、道理や筋道のわからない人は、正常とは認められないものです。したがって、いかに見かけが立派で神秘的な宗教であれ、無から有が生ずるというような、因果を無視し否定する教えを説くならば、とうてい最高の真理であるなどと認めるわけにはいきません。
釈尊の本意は何であったか!?
仏教をよく知らない人々は、
「仏教であれば、どれも同じお釈迦様の教えである」
と思っているようですが、それぞれの宗派でまったく違う教え、異なる本尊を立てている以上、どれも同じ釈尊の教えであることに変わりはない、などという馬鹿なことはない筈で、釈尊の真意はただ一つの筈であります。釈尊は、一代五十年間にわたり、膨大な教えを説いていますが、その四十二年目に説いた『無量義経』という経典の中で、「自分は、かって菩提樹の下で端坐黙想し、この世の中の真理というものを悟った。そして、この真理を人々に説こうと思い、思惟したが、これを、そのまま説くことは思い止まった。何故ならば、人々の素養・理解力が低く、また、まちまちであることを知ったからである。そこで、まず、人々の理解力や、それぞれの素養に合わせ、真理の中の一分一分を種々の経として説くことにした。かくて説いてきた教えは、いわば真実へ導くための方便であり、これまでの四十余年間においては、いまだ真理の全てを説き顕わしていないのである」(無量義経説法品第二)
と述べています。また、『無量義経』に続き、最後の八年間で説かれた『法華経』という経典においては、
「人々の状態に応じて教えを説いてきたところの、その真意というものは、なかなか人々には理解できぬであろう」(法華経方便品第二)
「今こそ、まさに、これまでの方便の教えを捨てて、最高真実の教えを説くであろう」(法華経方便品第二)
「自分が説いた経は膨大な量であるが、その、すでに説いた経、今まさに説いた経、これから説くであろう経の中で、この法華経こそは最第一の経である」(法華経法師品第十)
等と宣言し、『法華経』こそが、釈尊の悟った真理をそのまま説き明かした、最高真実の教えである、と述べているのです。このように、釈尊の真意が法華経にある以上、法華経こそが真の仏教であることは明白です。
法華経の文底に前代未聞の大仏法が
さて、その法華経の中には、
「悪世末法の時」(法華経分別功徳品第十七)
「後の末世の法滅せんと欲する時」(法華経安楽行品第十四)
等々と、「末法」という時代のことが説かれています。「釈尊が亡くなって後、およそ二千年が過ぎると、末法といって、人の心が非常に濁った、泥沼のような時代が訪れる。その時には、仏教も分裂・混乱し、世の中にも争いが相次いで、釈尊の遺した仏法が民衆を救済する力を失ってしまう」
というものです。では、末法時代の人々はもはや救われないのか、と申しますと、釈尊は、この悪世末法の時こそ、釈迦仏法に替わり、法華経の文の底に秘められた前代未聞の大仏法が出現すべき時であり、末法時代の人々は、この大仏法によってのみ救われる、ということを説いています。しかして、その新時代の大仏法を弘める御方は、どのような御姿、御振舞いをもって出現するのか、ということまで、細かく法華経の中(観持品第十三、如来神力品第二十一、薬王菩薩本事品第二十三等)に予証されているのです。これを、現実の歴史に照らして検討してみますと、この釈尊の予証と完璧に一致する御方は、古今東西にただひとり、日蓮大聖人をおいてありません。したがって、今、末法の時代に適する最高真実の教えとは、日蓮大聖人によって取り出だされた、法華経の文底の大仏法「南無妙法蓮華経」なのであります。
如何ですか?
えー、あなたの回答に対する私の返事はこうです。
いかにあなたの宗教がすばらしかろうと、論理的におかしいです。だって、
「お釈迦様=すばらしい」ということじゃなくて、「お釈迦様=絶対」ということが前提で
文章を書かれているからです。
私は冒頭で、宗教についていいところもあるといったことも書きましたが、このような態度が
気に入りません。「すばらしい」ことと「絶対」というのはまったく異なることです。
どうもあなたの信仰は一面的なような感じです。いや、信仰と言うのもはばかれるような「狂信」です。
私は、上から押し付けるような言い方をするのもされるのも嫌いで、特に思想に関してここまで
うるさく言われるのが宗教であるならば宗教に対して否定的にならざるを得ません。
No.3
- 回答日時:
こんにちは。
maruru01です。私は、無神論者です。
私は特定の宗教を信仰する気はありません。
その理由は、
1.宗教は個人を救うことはあっても、世界や人類を救うことはないと思っている。人にはそれぞれ個人個人の幸福があり、1つの考え(教え)でみんなが幸福になるはずがないから。
2.自分の言動は自分の責任としたい。なんでも「神や仏の思し召し」では自分自身がない。幸も不幸も自分で責任を持ちたいから。
3.人間が最も残虐になれるのは、自分が正義であると信じて疑わないときであると思うから。
これらは、私が宗教を信じない理由ですが、No.1の方が言うように、信教は自由であり、信じることも、信じないことも強制されてはならないと思います。
ただし、宗教組織にはしてはならないことがあります。もちろん自分達の教えの強制も当然ですが、それより重要なことは、
1.政治に口を出してはいけない
2.武力を持ってはいけない
ということです。
特に一宗教が政治的・軍事的に力を持った時には、非常に残虐になることがあることは、歴史が証明していることです。
最後に、
「信じる者は救われる」
と、よく言いますが、それは裏を返せば、
「信じる者しか救わない」
ということでしょう。
みんなが同じことを考える世界より、多種多様な人間がいろんな考えをぶつけ合って生きる、混沌とした世界の方がましだと思います。
では。
ご回答ありがとうございます。回答を見て「なるほど!」と思う部分が多くありました。
文化などによって思想が違うから、確かに世界を救うことはありませんね。と言うよりも、
同一文化圏の中でさえ個人個人の思想が違うわけで、当然ですね。2の考えはおそらくmaruru01
さんがお強い自分を持ってらっしゃるということを示しているように思いました。3のように、
確かに歴史的に見て、宗教が力を持つとろくなことがないですね。僧兵が台頭したり、免罪符が
売られたり。サリン事件もいい例ですね。
No.2
- 回答日時:
それは、諸々の苦しみや不幸の原因を断ち切り、幸福になるため、であります。
仏法においては、私達の生命の奥底に、「仏(仏界)」という最高の生命が内在していることを教えています。そして、この内在する最高の生命を、現実に引き出す方途を説き明かしています。
私達が、この仏界を現実生活の原動力として生きるならば、仏界の力強い生命力と智慧の働きにより、直面してくる諸々の問題を真正面から解決して、あたかも波乗りのような歓喜の人生を送ることができるようになるのであります。それは、まさに、変転する現実生活を悠々と切り開いていける、崩れぬ絶対の幸福、安心立命の境涯ともいえましょう。
正法に従わぬことが不幸の原因
ところが、この正しい仏法が世に存在するといっても、これを信じようとせず、また背くならば、まことに恐るべき結果をもたらします。
それは、我が胸中に偉大なる仏の生命を開顕するための大法に背くのですから、かえって自らの手で仏界を破壊するようなもので、その結果、生命力はしぼみ、物心両面にわたって諸々の行き詰まりをきたして、その人の人生は地獄の苦しみに陥るのであります。
そのことを仏法では、
「夫法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり。然りといへども、信ずる者は成仏をとぐ、謗ずる者は無間大城に堕つ」
と教えています。
現実を振り返ってみてください。経済的な問題、対人関係の悩み、病気、家庭不和、性格的欠陥等々、誰もが必ず問題を抱えて苦しんでいるはずです。それこそが、正しい仏法に背いてきたために生じた苦悩なのです。
この厳粛なる事実を知らず、また、知ってなお背き続けることが、一切の不幸を招き起こす根本の原因となります。ゆえに、時々刻々いたずらに不幸の因を積み重ねることなく、一刻も早く正しい仏法を信受し、真の幸福境涯を獲得すべきであります。
これは、どこかの回答でも、述べたことであります。
如何でしょうか?
大変熱心な信仰者のお方のようですね。また、かなり達筆なお方のように思いました。
しかし、私は疑問を抱きました。それは「あなたの宗教を信じなければ救われないのか」
「あなたの宗教を信じない人は不幸のどん底に落ちるのか」ということです。
「夫法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり。然りといへども、信ずる者は成仏をとぐ、謗ずる者は無間大城に堕つ」
つまり、この宗教を信じない人は無限の地獄に落ちますよということでしょうか?どうもこの手の言葉は
ただの脅し文句にしか思えません。だって、「幸せになりたきゃ金だしな」というインチキ宗教のパターン
そっくりなんですもん。
それと、「仏界」があるとかないとかという話、「最高の生命」と言うけど何を根拠に「最高」とおっしゃる
のですか?ミステリアスな言葉ではありますが、現実的ではありませんね。
あと、経済的問題は宗教に背いてきた罰?私が宗教に対して否定的になるのはこのようなところ
です。何であんたに罰だと言われなきゃいけないのか。わざわざ宗教なんかしなくても、自分で
打開策を見つけられるのではないでしょうか。神様拝んでエイズが治る、貧乏からの脱却ができる
なら苦労は要りません。
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