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先日、恐竜のテレビ番組をみてふと疑問に思いました。

現在では、過去地球上に恐竜がいた時代があったことは常識だと思います。
現に化石など多くが発掘されていますから。

しかし、キリスト教(ユダヤ教含む)における聖書の中にはそういった説明がないですよね。
創世記には、神は最初に「光あれ」と言われ光が生まれました。
で7日かかって、地球上のものがいろいろ作られたわけです。海だったり動物だったり。

では神は恐竜は作られなかった。とすると化石が出てくるのはなぜ?という疑問が当然湧くと思います。

バチカンがガリレオの地動説を認めたのは92年。
ダーウィンの進化論は96年と、どれもつい最近のことなのでまだ恐竜は認められていないのか
とも思ったのですがどうなんでしょう。
いろいろ検索もしてみましたがよく分かりません。

恐竜時代のバチカンの見解はどういうものなんでしょうか?
またイスラム教はユダヤ教から派生したものですが、ユダヤ教は旧約聖書だけを聖典としています。
ではイスラム教も旧約とコーランを聖典としているのでしょうか?
とすると、こちらの見解もどうなんでしょう?

くだらない質問で申し訳ありませんが、回答、よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

恐竜の化石を創世紀前後の神の試作品の残骸と説明していた様です。

万能の神と言う事からは矛盾になりますが、論理的には「万能」は敷衍すると全て矛盾になってしまいますので、それも通ってしまったのでしょうね。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
なるほど、試作品ですか。
万能の神が試作品を作る必要があるのか、というツッコミはおいておいて。
万能の神、全知全能の神というものほど、当てにならないものはありませんね。
ギリシャ神話のゼウスがいい例ですよね。
全知全能の神ならば、浮気なら上手にやりなさいよ、なぜ奥さんに見つかるのかなどといつも疑問に思ってしまいます。

試作品とは、すごくいい言い訳だと思います。

お礼日時:2006/08/11 11:07

質問者は、おおきな勘違いをしています。



カトリックの総本山は、バチカンですが、バチカンが全てを支配しているわけではありません。
バチカンにおいての見解が、カトリックを規定するのではありません。
規定する場合は、公会議の決定を必要とします。
公会議では、恐竜の件が、議題に上がり、決定事項であれば、それを守る必要が有りますが、無ければ、それに関する件についての解釈は、信者や聖職者個々の判断に任されます。

そのため、恐竜の化石に関しては、信者個人個人の考えができます。
恐竜の存在を信じる人、恐竜は、地底に封じられたサタンの親族で、天使に倒された証拠と考える人、化石自体を神が創造したと考える人、そのたetc. etc.

バチカンが、公会議の議題にしないのは、カトリックとして興味が無いか、どうでも良い問題としているためでしょう。

これらの件に関して、非常にこだわるのが、福音派と呼ばれるプロテスタントの一団です。
(キリスト教原理主義とも言います)

福音派は、聖書絶対主義を唱えています。
福音派は、アメリカで盛んな考え方で、ブッシュ大統領も、福音派に属する南部バブテストに属しています。

>イスラム教も旧約とコーランを聖典としているのでしょうか?

イスラム教は、旧約聖書を聖典とはしていません。
コーランに旧約聖書の内容の一部が書かれているので、その部分だけがアッラーの言葉となり、聖典となります。

また、イスラム教においても、雑多な考え方があり、イスラムだから「こうだ」という事は有りません。
スンニ派の場合、イスラム法学者個々に考え方が決まり、その法学者を支持する人々が、その法学者の指導に従います。
よって、イスラム法学者ごとに、色々な考え方が有ります。
シーア派においては、全ての決定権は、イマームが握っています。
イマームは、アリーの正統な後継者ですが、現在では居なくなってしまっています。
そのため、イスラム法学者間の決定により、全てが規定される事になっています。
つまり、さの集団内のイスラム法の最高権威の考え方次第で、イスラム法をどのように解釈するのかが決まります。
同じシーア派と言いましても、イランの12イマーム派の決定は、シリアのアラウィー派などの別の宗派には適用されません。

この回答への補足

あとで、お礼を書かせていただきます。

補足日時:2006/08/11 11:14
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聖書には恐竜のお話は無かったと記憶しております



聖書には全てが書かれている 又は隠されているだけで読み解けば全てが解ると言う方もおるようですが言い過ぎです
肝心の事が無いのです 人間を創った理由がありません 従って人生の意味も解りません
よってバチカンの見解であろうと誰であろうと想像に過ぎません 書いてないから解りませんと言えば良いのですが
書いてない事を書いてある如く言う 又は拡大解釈するから中世のような 免罪符 等という物が出来たりするのでしょうね? 可笑しくなる訳で 大事な事は何かが解らなくなり道を踏み外すのです
地動説の否定も同様です 当時の常識を言っただけでしょう
余計な事にまで首を突っ込むから可笑しな事になるのです

私の意見は 教典に書かれていない事は言ってはいけない です 言い方が限定されるという事です
聖書は何時 誰が書いたかさえもはっきりしません
教祖がはっきりしている事では最も古いとされるゾロアスター教の教典の一部と言う説もありますが肝心の教典の大方が昔の戦争で焼失との事です

人に対しての進化論はいまだ持って証明されておりませんが(ミッシングリンクの存在) 証明されたも同然と思っているだけです 
既に100年になるでしょう 覆える恐れがあると言う事ですから 決め付けないほうがよろしいのではないでしょうか?

イスラム教は旧約の一部(モーゼが書いたとされる五書)とコーランを聖典としているそうです
イスラム教はユダヤ教からの派生では無く 独立に作られたのです

この回答への補足

あとで、お礼を書かせていただきます。

補足日時:2006/08/11 11:13
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バチカンかどうかはわかりませんが、



いわゆるファンダメンタリストは恐竜を認めず、

神は「化石」を作って埋めておいた、ということを言っていたと思います。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。
「化石を作って埋めておいた」ですか。

それを発見し究明することを一つの試練とし、人間に与えてくれた、ということでしょうか。

お礼日時:2006/08/11 11:11

宗教はデリケートな問題なので難しいですし、門外漢なので正確にこうだとは云えませんが・・・・。



バチカンは確かに進化論を事実上認めたことになりますが、キリスト教が進化論を認めた訳ではありません。
現にアメリカなどでは未だに「神が人間を造った」と教えるべきだといった動きがあります。
ただ、神を「設計者」と言い換えているようですが。
ここでもたまに進化論に否定的な質問を見かけます。
例えば「猿から人間になるなんてあり得ない。進化論は間違っているのではないか。」といった旨のものです。
これって多分キリスト教の影響だと思うのです。
ダーウィンが進化論を発表した当時と同じような反応だからです。
逆に、進化論が日本に入ってきた時、仏教を中心に進行していた日本では結構すんなりと受け入れられたそうです。
「輪廻転生」などの概念がベースにあるからです。
「生まれ変わり」は本来キリスト教ではあり得ない概念の筈です。
(進化論は受け入れられないが、生まれ変わりは信じる、ある意味キリスト教、仏教のミックス状態。)

恐竜はどうかというと・・・どうなんでしょう。
だって「ノアの方舟」が事実であった(発見した)と主張していますが、客観的にみると「それは違うもの」でしかない。
(大洪水の伝承はノアの方舟以前に既に複数ありノアの方舟はそれらをベースにしていることは疑いの余地はない。)
まぁ言い方は悪いかもしれませんが「都合の良いものはある=見えるが、悪いものは無い=見えない。」ではないかと。
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この回答へのお礼

そうですね。キリスト教が進化論を認めたわけではなかったですね、確か。
でもカトリックの総本山といえばバチカンですよね。
でカトリックとプロテスタントに分かれたのは、バチカンの腐敗が一つの原因だったと記憶しています。
ですので、キリスト教=バチカンと考えてもいいのではないかと思っています。

> 「生まれ変わり」は本来キリスト教ではあり得ない概念の筈です。

これ、本当にその通りだと思います。
そのありえない概念が束になって事実とされ、教義のよりどころとなっているところが非常に面白く感じます。
例えば、聖母マリアの処女懐胎など。
だからこそ、実際にありえた事実はどう説明するんだろう?と疑問に思った次第です。

進化論、仏教中心の日本にはすんなり受け入れられたとの話、大変参考になりました。

つまらぬ質問に回答いただきまして本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/08/11 11:03

化石自体は数千年前から発見されていたようですが、それが恐竜として認知されるようになったのは19世紀に入ってからのことです。


http://www.dinosaur.pref.fukui.jp/dino/faq/1-07. …

よって、聖書が書かれた時代には考慮のしようがないです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
考慮のしようがないのは分かっているんです。

化石が見つかる→それは恐竜である、という事実と聖書の記述がないことに対してどう考えているかが知りたいんです。

旧約聖書の時代は4-5千年前ですが、ノアの洪水も事実だという前提ですし(もっともそのような洪水は確かにあったらしいですが)ノアは600歳くらい?まで生きたことになっています。
もっと言うとマリアの処女懐胎も事実として扱われています。
つまりこういったことを事実だとしなければ聖書を中心としたキリスト教は成り立たないわけです。
ですから、現代において新事実が発見されたときのバチカンの見解を知りたいわけです。
神は絶対の存在ですから、その神のした行いが聖書に記載されていない。
その辺はどうなってるんだ?ということですね。

簡単にいうとバチカンの屁理屈が知りたいわけです。

お礼日時:2006/08/02 15:52

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