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最近太宰治の「如是我聞」を読んだのですが、その中で太宰が志賀のことを名指しでけちょんけちょんにけなしていました。
ウィキペディアで調べたところ、太宰が最初に「津軽」の中で志賀を批判し、それに立腹した志賀が太宰をけなす発言をし、だんだんエスカレートして遂に「如是我聞」が発表されたということらしいのですが、この対立の経緯について詳しく知りたいのです。
参考になる書籍やHPがあったら教えてください。また、上に書いたこと以外のことをご存じであれば教えてください。お願いします。

A 回答 (2件)

志賀直哉と言う個人に悪態を突いたとは思えません



誰にも負けぬ文学的名才能があると自負していた太宰は無頼派と貶され相次ぐ狂言自殺と麻薬中毒で世間から笑い者にされその為に文壇から疎外され続けて来たと僻んでいたのです

戦争後、俄かに人気作家になった太宰は自分を嘲笑した既存文壇に溜まり溜まった悪罵を浴びせました、その標的にされたのが当時の文壇の権威だった志賀直哉だったのです

勿論太宰の私生活も本妻、愛人、別の愛人と乱れに乱れヒロポン、アドルムなどの麻薬を乱用してすでに廃人に近かったのです

志賀自身はちっとも気にしなかったと言う事ですが
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この回答へのお礼

なるほど。志賀直哉個人というよりは、当時のアカデミックな文壇の象徴的存在に楯突いたということなのですね。

お礼日時:2006/08/21 16:06

こんにちは



太宰は「津軽」で、蟹田町に行った時に旧友達が太宰を囲んで宴を開いてくれた
時のことを書いています。その中で、当時、大作家として名を馳せていた"五十
年配の作家"(志賀直哉と名指しはしてないが「神様」と呼ばれている、と書い
たことで明白)について聞かれ、人の悪口を言って自分を誇るのは甚だいやしい
ことだが、と前置きしながらも、世間も文壇も、その大作家を畏敬に近い感情で
評価していることに、一種、腹立たしい感情を持っていたのか、彼の作風を厳し
く批判しています。きっと志賀直哉自身にというより、彼に象徴される世間の偏
った高尚趣味(と太宰は思っている)若い作家達の彼へのとりまき、へつらい、
に嫌悪感を抱いていたのかもしれません。(やっかみも少しはあったかもしれま
せん)(^^) それを読んだ志賀直哉が、座談会の席上で仕返し(?)に
太宰の作風をけなすなどしてバトルが始まったようです。

でも、私は、ことの発端は、有名な、太宰と井伏鱒二との確執のような気がします
。井伏は太宰が故郷青森から上京した時から頼っている文壇の先輩であり、私生
活でもいろいろと面倒をみてもらっていた作家です。太宰は候補になっていた第
一回芥川賞を逸したり、その後もあの手この手で受賞の依頼をするなどしても
(川端康成におねだりの手紙を書いたりしていますね)思うように行かず、また
女性問題等でもトラブルがあるなど、徐々に生活に行き詰まりを感じ、
薬物中毒に陥ったりしていきます。
井伏も当時は貧乏作家で、さほど将来を嘱望されるような作家ではありませんでした。

そんな中、井伏が「ジョン萬次郎漂流記」で直木賞を取りますが、
その作品に盗用が見られるとし(後に大傑作とされる「黒い雨」にも盗用
論争)それに嫌悪した太宰が、井伏批判、そしてその背後にある文壇、世間、そ
の象徴である"老大家"の志賀直哉批判、と日頃の不満が発展し、たまりにたまったうっぷんを
はき出すように、意を決して「如是我聞」を発
表するに至ったのではないでしょうか。
遺書には「井伏さんは悪人です」とありますね。

「如是我聞」で太宰は「その者たち(老大家)の自信の強さにあきれている。
……その確信は……家庭である、家庭のエゴイズムである」などと言ってますが、
私は、津軽の名家に生まれながら真の家庭的愛情に恵まれなかった太宰の本音が
そこに伺えるかなぁという気がしています。

「如是我聞」は、死ぬ数ヶ月前、心中した山崎富栄の部屋で、
新潮社の編集者、野平健一が口述筆記し、死後に発刊されていますね。

参考文献といえるかどうか判りませんが、「ピカレスク」(猪瀬直樹・小学館)
にはとても興味深いものがあります。

私見ですが書いてみました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
井伏鱒二のことなど、知らない情報がたくさんありました。

お礼日時:2006/08/21 16:08

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