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カステラの文明堂のキャッチフレーズであり,CMソングの歌詞でもある,♪カステラ一番,電話は二番,三時のおやつは文明堂♪の「電話は二番」は,そのまま電話は「2」番だったことは良く知られたことと思います.
そこで,「1」番はどこだったのだろうか...?というのが気になって調べてみたのですが,見つけることができませんでした.
例えば,東京の人にはなじみが深い日本橋文明堂のHPには,「赤坂局の二番を赤坂局開設と同時に取得した」と書かれています.
では,「赤坂局の一番」はどこだったのでしょうか?
ご存知の方がいらっしゃいましたら,教えてください.

A 回答 (2件)

おそらく文明堂の云う頃の時代ですとその地域の役場が1番で次からは申し込み順の地域が多かったようです。



それ以前(おそらく最も最初の電話)ならば、1890年(明治23年)に「電話加入者人名表」として発行されていた資料によると、東京で180人の実加入者数だったが、番号は1番から269番まで。1番東京府庁、2番逓信省と官尊民卑。欠番のあと、個人では36番蜂須賀家、159番大倉喜八郎、177番大隈重信といった順。
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この回答へのお礼

ありがとうございました.
いろいろな資料が残っているのですね.勉強になりました.

お礼日時:2006/10/30 00:08

麻布文明堂が電話番号・赤坂局1番を採ろうとしたのだけど、先に1番を採ってしまったのは黒田氏という人です。

(黒田の天神では)
現在は赤坂2、6丁目にあたる当時の福吉町は全て貴族だか皇族だかの屋敷で、番地は黒田邸の1番と、その他の2番しか無かったというのですから、黒田さんっていうのはよほどの有力者か裕福なお宅ではないかと。
しかし、それにより「カステラ1番」が生まれたので、1番が採れなかったのは瓢箪から駒?でしょうか。

その後の加入者も増え交換局も人力でつないでいたために、番号の管理が難しくなり制度も変化し桁も増え、最初の1番は役所などが使用するようになったようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました.
分かったからといってどうということは無いのかもしれませんが,何かモヤモヤがすっきりしたような気がします.
ちょっと調べてみたら,黒田家14代当主の家が赤坂にあったとのことなのですが,1番の黒田さんのことでしょうかね?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0% …

お礼日時:2006/10/30 00:13

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