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かつて日本の特に地方にあったと聞いている若衆宿についてです。
若者=男子が16歳?になると、集団生活をさせて、大人になる為の心身の教育を行ったと聞いています。
宿から出ると一人前として扱われるようになったとか。

このようなシステムは本当にあったのでしょうか?
そして今はすっかり失われてしまったのでしょうか?
日本のどこかにはまだこの習俗が残されているのでしょうか?
祭りの準備と言ったような一時的なものはあると思われますが・・・
青年団というのも今は余り聞きませんが、これは若衆宿を継承するものであったのでしょうか?

A 回答 (2件)

一般に農村部や漁村部などで集団生活を行う中で社会性を養っていく若衆宿があり、地方としては西日本中心となります。


縄文時代から続く風習で東日本でも古来はありましたが、武家社会の時代あたりで廃れてきました。
若衆宿は夜這いの文化とも密接に継りがあり、武家の本家(鎌倉・江戸幕府)に近い東日本では父制を重視する社会であったためとも言われています。

基本的に武家には存在していませんが、薩摩藩に限って若衆宿に近い制度が存在していました。
郷中教育または単に郷という制度です。
但し違う点としては、下は6歳上は20代までと、庶民の若衆宿に比べると幅が広く、また武家としての教育もなされていた点が異なります。
藩校とは全くの別物です(西郷隆盛は造士館OBでもありますが)
会津の什・辺という制度は、6歳から日新館にはいる10歳までを什、その後(16まで)に辺というグループを形成させていたため、若衆宿とは明らかに異なります。
什・辺は共同体であり、日新館では辺同士で競い合う関係となっていました。
薩会いずれも集団教育と高い道徳心を身につかせると言う意味では近似しており、藩校も他に比べ高いレベルとなっていました。

さて青年団ですが、これは西日本から見ると若衆宿の後継組織であると言えます。
青年団は戦時下(特に地方)において、戦力として成人男性が徴収されるため、農作業・漁作業を集団で運営していくために官手動の元で組織されました。
西日本において後継といえるのは、若衆宿の多かった農村・漁村部であり構成員がほぼ同年代であったためとなります。
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幕末まではよくあり、薩摩の郷中組織などが有名で、共同作業を行うことで、若者達の連帯意識が高まり、成人してからも強い絆で結ばれたようです。


西郷隆盛も、この郷中頭になっていますから、若者達の信頼は絶大だったようです。
勿論、薩摩のライバル会津にもあって、「什の教え」という、一種の規則が有名です。

 一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
 二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
 三、虚言をいふ事はなりませぬ
 四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
 五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
 六、戸外で物を食べてはなりませぬ
 七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

戦前までは、どこかにこの名残もあって、現在でも残っているのは四国の中村市にあります。

NHKでは三重県に取材した番組もありますね。

http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/ …
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