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はじめまして。二十代の男です。
俺は自分の人生において、「知性を高め続ける」という事に大きな価値を見出しています。
哲学や心理学、現代思想や文学作品、様々な本を読み、そして学び、人生に対する洞察を深めたいという強い想いがあります。
この世の中には様々な価値観を持った人間がいますよね。
上記の知的な事には無関心で、日々、遊びやカラオケ、スポーツ観戦を楽しみ、思慮が浅く、読書とは全く縁のない人々がいます。
大半の人間がそうではないでしょうか?
本を何十年も読み続けてきた人と、全く本を読んでこなかった人とでは、世の中に対する認識のレベルにも違いがあるでしょう。
自分は今の心境では、そういったタイプの人々と、気持ちを理解し合いたいとは、どうしても思えません。
何故ならば、深く付き合えば付き合うほど、価値観の違いが明るみに出るからです。
そして次第に相手を嫌悪し、やがて疎遠になるでしょう。
俺は、自分と理解し合える友人や恋人が欲しいです。
俺は孤独です。一人で過ごす事は好きです。しかし、時々、つらくなります。
だから俺は思いました。
価値観の合わない人間とも、友人や恋人になれるように自分がなりさえすれば、もっと人生は良きものになるのではないだろうかと。
どうしたら、人生に対しての価値観の異なる人間と、心から親しみを抱ける友人や恋人になれるようになるのでしょうか?
そんな事、所詮無理なのでしょうか?根本的な価値観が違うのだから。

A 回答 (18件中1~10件)

こんばんわ。


質問者様が友達が欲しいと切に願うなら、行動あるのみですよ。頭で考えていても友達はできません。自分の存在価値を確認して、自信を持って生きて行く為に、皆結構自分勝手な理屈をこねるものです。
そんな理屈を言っていても何も始まりません。行動しましょう。
人との出会いって、予想以上に色々な事があって、楽しいです。かつて、悲しい別れでもありましたか。それとも、友達との間に辛い思い出がありますか。
そうだとしても、今現在、友達が欲しいと思われているなら、友達を作りましょう。失敗は成功のもとです。
私には、価値観が違っても、なぜか気があう友達もいます。その人とは、感性が似ているんです。価値観が違っていても、友達にもなれるし、恋人同士にもなれると信じています。価値観の違いを愛情で乗り越えられると信じています。
いろんな人がいて、いろんな思いがあって、それぞれ違ったやり方であっても、自分の存在価値を確認しているんだと思います。
価値観が合わない・・・・と感じたら、そうかもしれないし、違うかもしれません。
とにかく、屁理屈こねてないで、友達を作りましょう。
そして、いろんな思いをしましょう。そして、いっぱい考えましょう。それが、一番楽しい事ですから。
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この回答へのお礼

>頭で考えていても友達はできません。自分の存在価値を確認して、自信を持って生きて行く為に、皆結構自分勝手な理屈をこねるものです。

そうですよね。一人一人、自分には存在価値があると思えるような理由付けを何かしら持ってますよねきっと。俺も友達を作っていろんな思いをしたいです。回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/25 09:54

価値観の違う人と友人や恋人になれます。

配偶者にもなれます。
セックスも出来ますし、子供も生み育てられます。
経験者が断言するのだから間違いないです。

価値観は相互に妥協しなければ、生きていけませんよ。
俗な言葉で恐縮ですが、やはり人間一人だけでは生きていけませんから。(しごく当然!)

100%相互理解はありえないが、また、100%相互不理解もありえない。どの程度で妥協するか、だけです。私の場合は若い時の判断で相互理解が50%を少しでも超える可能性をみつけたら、積極的に人と交流しようとしました。今人生を50年以上過ごしてみて、配偶者との理解度は依然として50%前後で、60%あるいは70%を超えたという実感はありません。
これも自己責任の一端ですので、このような人生を甘受するつもりです。

世の中には相互理解度が80%以上の関係で付き合っておられる人々もいるとは思いますが、読書好きな あなた には多分無理でしょう。
自分で考える能力を持った人間は、とかく生きづらい...
50%の相互理解度で人と付き合う術を薦めます。(あまり参考にならなくて、ごめん)
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この回答へのお礼

50%でも理解し合えたら妥協してもいいと考えたほうが、人付き合いを広くできるのかもしれませんね。
参考になりました。回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/25 09:46

「書を捨て町を出よ」


私の信条としている言葉です。

年々読書率がどんどん下がっているようですね。私もこれについてちょっと心配です。電車の中でも本を読む人よりも携帯でメールやっている人の方が圧倒的に多い。ネットで何でも調べられるし、何しろ依存対象になりやすい。本を読む利点てまず語彙が豊富になること。構成力が養えること。ユーモアとペーソスは語彙のセンスが前提となる高度な会話テクニックです。人間関係は意志の疎通があって初めて成り立つものです。意志や意見、感情のやり取りの中で価値観を示すとき、挨拶の基本はもちろん、正しい言葉の使い方、品性が問われる言葉遣い云々・・・。つまり正しい「国語」はあらゆる本に網羅されています。本を上梓するにあたって、まず言葉遣い、漢字、構成などは規則どおりに書かなければなりませんから、「正規」に関しては情報の不安定なネットの比になりません。

だから「本を読まない近頃の世情」に嘆いているのですが、ちょっと想像してみました。皆「何か」考えているんですよ。勿論他人様の頭の中身は分かりませんが、これだけ病的で複雑な社会ですもの、職場や家庭での人間関係について、一人になれる車内での移動時間、空間を利用して考えているのかなと。事実私も、落ち込んだときは大好きな本を開くのもおっくうですもの。落ち込んだことを励ます本を読もうと思っても、活字を追うのでさえおっくうになる。皆余裕がないんですよ。

なんか批判的なご意見が多いのですが、ご質問者様は、「読書する人間がえらい」と書いてしまったのが致命的でしたね。「本を読まないことで生じる当人と社会に影響を及ぼすデメリット」があなたの本意だと思いますが違ってたらすみません。もしくはより深化された精神論を人との対話において求めているとか?違ってたらすみません。でもそしてここにくる回答者は大半がそうした動機だと思うんですけれど。
ここでは議論してはいけない場なので、質問に対して一方通行の「意見」しかすることはできない。「お礼・補足」で「会話」することはできるんですが、議論に発展すると即削除されてしまいます。
例えばテキストがそのまま現実的な会話に変換されたとしたら・・・。
それこそ議論を超えて論争、もしかしたらケンカになるやもしれず。お酒でも入ったらそれこそ大変(笑)。
intellectさんもその場にいたとしたら、「こ、これが高尚な知識を共有するはずの人たちなのか!?」と驚かれ、失望するやもしれず。例えば「朝まで生テレビ」のように結局水掛け論で朝を迎えることにもなるわけで・・・。本を読んでいる人が同じ価値観を共有しているとは限りません。同じ本を読んでも感想は人それぞれ。ましてや哲学なんて、お互い妥協を許さない世界のはず。価値観を共有するはずが、同じ価値観でも違いの隙間、理論的な欠点をつつきあうのが、知的人の衝動だから。
だからいに素直に受け取り新鮮な驚きに捉え、自分の知的骨子の栄養分にすればよいと思うのみです。

話は変わりますが、「書物」を広義に捉えると「本を読む人と書く人、書かれる側の人間とそれを教授する人」に分かれるのではないかなあと思います。
読まない人はまったく読みません(例えば私の母と妹)。よく読書する人も「ハヤカワミステリ文庫」しか読んでない(これは父です。私にとって見れば、赤川次郎しか読んだことがない中学生レベルだと思うのですが(笑))。

書かれる人は、天才の描くフィクション、波乱万丈的な生き方をしてきた人のノンフィクション。ある昔の映画のセリフを借りると「演じる側の人」ですね。それを伝えるのがテキストそのものや教師など客観性を持った媒体。そして「知ることを求める人(読者。その映画のセリフを借りれば「観客」)」へと供給されていくわけです。だからやっぱり役割ってあるのかなと。たった一冊の本で人生が変わる人もいるし(実際知り合いにいます)、何かをきっかけに活字中毒者になる人もいるでしょう。マズローの欲求段階説的にいえば、衣食住への本能が満たされそれで充実する人もいれば、さらに自己実現に向かって生きる人もいる。自分の中の知識や経験への認知の許容限度を感じればテキストにそれを求める人がいる。

>深く付き合えば付き合うほど、価値観の違いが明るみに出るからです。

深く付き合うためには、相手を知ること、そのためには自己開示することが求められます。「朝まで生テレビ」は議論が許された場だけれど、私的な領域では、人ってそうそう自己開示できないもんだと思います。いくら親しく話ができたとしても、ある程度の線引きって必要ですよね。お互いの痛みに対して投影しすぎてしまい共依存に陥れば関係は容易に壊れます(過去に何度か経験済みです)。だから私は後悔することしばしばですが、これって本質のひとつであると悟り、もう宿命的個性と思って開き直っていますが、相対的な刺激に対して容易に左右されもするし、頑固にされない。他愛ないジョークから高尚な話まで、相手を問わず自己開示してしまうのは私の生理的な衝動です。もちろん相手の気持ちを傷つけないことには配慮している分、ネタ的にはどうしても自虐ネタになってしまいますが、そのように「自分絶対主義者」なんです。
話を戻しますが、つまりは、自分を表現しない人でも、色々考えている。自分を守るために寡黙に徹している。でももしかしたら価値観の合う人かもしれない。寡黙な人とは価値観が合わないという先入観で距離を置いてしまえばもったいないかもしれない。

「出会い」は人に限らず、本とのよき邂逅も「出会い」となります。
本を読むのはよいことです。自分の中に蓄積してきた知識が、社会的に個人的な問題への参考書になればいいんですよ。
純粋に自分の知的探求や楽しみのために役立てる。巷に溢れている手続き的なものや論語のように哲学の形体をまとった「ノウハウ本」もビジネス上で参考となるし、ホステスの接客時の会話のセンスとなって現れる。恋愛において駆け引きやスパイスにも活用できる。いずれにおいても意識的・無意識的に構築されてきた知識をより高尚なものに昇華できればよい。それが本だろうが、経験からくるものであろうが。

人間の意識や性格は白黒つけられるものではなく、例えば聖俗混濁状態です。人の価値観って変化するもの、それが本質なのではないでしょうか。そのように流動的なものに対し、固定化された本の中の知識をはめこもうとするとどうしても無理が生じる。相手に期待していた分失望も大きい。
頭でっかち状態であるとき、自分におそうあらゆる事象と向き合うとき、意外と理論が邪魔をして、適応障害をおこすことだってあるんです。
たとえばダイエットしようと思い、本を買って満足しているようなものです。(私は「ビリーズ・ブート・キャンプ」を通販で買って、開梱したのはいいが、すでに半分痩せた気になってます(笑))。

>本を何十年も読み続けてきた人と、全く本を読んでこなかった人とでは、世の中に対する認識のレベルにも違いがあるでしょう。

私は「何十年も読み続けてきた人」でした。で、最近世の中に出て(笑)、新鮮ですね。価値観が合わないから。趣味が同じであったりする人、主義主張を固辞する相手、過去や境遇、古傷が同じ人、同じ宿命的なものを背負った人、いろいろ出会います。でも人って色々な側面をもっていると本当に感じますね。価値観が合うと思ってみたら裏切られたり。本当にこの複雑怪奇でやっかいな人間、大嫌いです(笑)。
私が苦手だなと思っている人が、私と同じ過去を共有する人にとっては、大好きということになれば、後者とそこに「同じ価値観」を求めることはある意味の裏切りと思ってしまう。反省です。
相手を受け入れつつ適度な距離感を保つこと。相手に必要以上に自分の問題を投影してはならない。最近身を持って体験したことです。痛い経験でした。
こんなとき抽象的なことについての本を読むんです。具体的な現実生活の上で、何か落ち込むことがあったときの精神安定剤(私はそうやって服用しています)になりますし、反対に精神状態が安定しているときは軽い本を読む。ですが今は経験という辞典の中身をもっと増やしていきたい。まさに世界に一冊しかない自分のオリジナルな哲学書です。

極論、本は要らないものかも。
一冊の本の読解後、書かれてた事すべて覚えていられるわけがない。印象に残っているものは記憶に記銘されますが、それを引き出すのは、社会との対話という刺激で誘引されます。そのとき様々な場面で「蓄積された知識」が活用される。刺激は未知なるものですから、さらに新しい知的好奇心へのモチベーションになる。そしてまた本を読む。本は人と人との隙間にある、そして社会との架け橋となるツールのようなもの・・・最近そう捉えています。

さて、年々増加する離婚の理由第1位が「価値観の違い」です。かつては「価値観が同じ」だから結婚した仲もあるはず。でも生活を共にすれば価値観の違いを感じないわけにはいかない。恋愛の幻想は自分の大切な価値観を相手が許容してくれている、という思い込み、それを受け止めてくれる期待、相手の許容態度(価値観への妥協)、恋愛期間中ならある程度の試練はスパイスですし、互いの期待を負うということも、愛と錯覚しやすい。とかく恋愛中は「恋」をいかに「愛」に昇華しようとさせるのかが、恋する者達の命題ですからね。

でも少しでも自分の本当の気持ちや相手の態度に違和感を感じたら結婚について考えるべきかと思うんです。恋愛は結婚のためのものではないし、逆に結婚も恋愛のためのものでもないと思うから。
妥協という消極的な姿勢だからこそ、それに疲れたとき別離という結果になるわけですよ。共同生活費をやりくりしていくように、いかに上手にやりくりしていくか、いかに積極的に捉えていくか。たったそれだけで墓まで共にするか、他人同士に戻るか。

個人的なことで恐縮ですが、今の同居人とは男女の色などとっくに消えてて今は私の世話人のようですが、奴は「お前とは価値観が違う」とよく怒ったように言ってましたね。ですが10年近い腐れ縁です。ケンカしても互いに何事もなかったように振舞えます。だからといってすべてのケンカネタを許してるわけじゃないんですが(笑)。

あと高橋ジョージが最近言ってたのですが三船美加とのおしどり夫婦のコツについて訊かれてましたが、「20歳以上の年齢さのために話が合わないことが多い。だからここまで続いてきた」と言ってましたがとても印象的でした。

長くなったのでそろそろ退散しますが、私はベッドに横になって本を読むときが至福でした。まるで母の子宮に守られているようなあの感覚。でもこれから私は内在化された母への依存や満たされなかった愛着、そして死ぬまで求め続けるであろうそれをあえて捨て、自分ひとりの力で生きなければなりません。徐々に世の中に出れたとき、本は読まなくなりました。読書中は放置されている手と足を使って世の中を見たくなったからです。読む行為を捨てたわけじゃありません。むしろさらにこれから私の精神的支柱になるでしょう。今までそれだけが私を生かしてきたように、孤独な私を慰めるツール。でもそれは誰が書いてきたのでしょうか?まぎれもない「人」です。つまり私は古今東西あらゆる人の英知によって生かされてきた。「人は独りでは生きられない」というひとつの実例です。
数年後同じ本を読んでまた違った感想を持てる。身も心も柔軟になれば、本は必ず何らかしらの反応を返す。違った感想をもつのは成長した証。そして「読書」の醍醐味である。人と人との間に精神の遺産、「書物」はある。

ゆえに「書を捨て町を出よ」です。
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この回答へのお礼

丁寧な回答ありがとうございます。読んで参考になりました。
書物だけでなく経験から得られる事も大切ですよね。
これからは、経験も沢山積み、もっともっと新たな視野を広げていきたいです。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/24 04:00

本当のインテリジェンスはなんでも上手、というのが私の持論です。

賢いっていうのは、知識があるとか価値観がどうのとかいう問題ではないと思います。読書量が少なくても生まれ持った賢さを持っている人は賢いし、知識人でも馬鹿は馬鹿です。あなたが言葉で理解することを身体や直感(言葉にできなくても)で理解する人もいますし、、他人の面白さを引き出すのも自分のキャパ次第なんじゃないかな?
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この回答へのお礼

>あなたが言葉で理解することを身体や直感(言葉にできなくても)で理解する人もいますし、、他人の面白さを引き出すのも自分のキャパ次第なんじゃないかな?
その通りだと思いました。自分次第で相手との付き合うことの効用は変わりますよね。
参考になりました。回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/23 11:32

>価値観の合わない人間とも、友人や恋人になれるように自分がなりさえすれば、もっと人生は良きものになるのではないだろうかと。



価値観が合わないのに、あっているふりをすることでお友達になっていただくってわけですか?

自分のお友達になっていただく価値を相手の中に見出している?
とすれば、それはなんでしょう?
空いた時間の埋め合わせをしてくれる相手、つまり暇つぶしに利用価値がある。 ってわけですよね。

暇をつぶしてくれる相手としては、それはそれでよいのではないかと思います。


が、心を許せる相手かというと、信頼というものはそこには存在しませんので、都合のいいお友達になります。


人のよっては「そりゃあ 違うんじゃないか」と思うようなことを言う人とも「おもしろい考えをする人」として興味が沸くので、お友達になるかもしれない。

稀に全く違う分野の人を友達として広くつきあっている人いますよね。
価値観が全く違うのにどうしてつるんでいるのか。
しかもみんなバラバラの分野の人たちがその集団を構成しているから不思議。



「こういう考えをする人も世の中にいるんだ。 変なの 近づかないようにしよう」と関係を断絶する人もいれば、「こういう考えになるに至るのはどうしてだろう」と考察する対象となる場合もある。
それにより自分に刺激が与えられ、それを目的として価値観が違う人と交流しているんじゃないかと思うんですね。


私はカラオケは好きじゃないし、スポーツ観戦も好きじゃない。
でも、カラオケに興じる心理や、スポーツ観戦に興じる心理には興味があります。

どちらも快楽物質が出るので興じているわけです。
で、どういうとき出るのだろうと観察すると、相手の特徴がわかり、自分との差がわかる。
どうして自分が興奮を起こさないのか、同じ条件で相手は興奮しだすのかわかってくると、自分というものがわかってくるわけです。


ここに異文化 というか 価値観が違う人と接することにメリットがあると思います。

が、不快感を伴うものもあります。
私はジェットコースターが大嫌い。
でも、付き合いで乗らざるを得なくなる。
一緒に遊んで相手がどうしてジェットコースターに乗ると興奮してわくわくするのか、隣で観察して知りたいと思うが、大嫌いなのでそれはやめておく。
というか観察するゆとりが無い。従って隣でじーっと観察などできない。


でも、別の条件からどうして異文化を理解できると思うんです。
スプラッターものを見ると、快楽を感じる人がいる。
これに似ている気がする。
恐怖を感じると快楽物質を出す人がいる。

ジェットコースターに一緒に乗らないでも、どうしてジェットコースターがすきなのか、わかるような気になるんです。

わかった気になると興味がうせる。
が、お友達なのでカラオケとかコンサートとかに誘われる。
おつきあいなので、一緒に行くわけです。

で、今度は私が興味がある対象につきあってもらう。
映画。特に娯楽ではない映画、なんだかよくわからないと評価される映画が大好き。
私は見た後 興奮状態になりますが、友達は「ちっともつまらなかった」となる。
でも文句いいながら、ひっかかるらしく、「どうしてあの時主人公はああしたのか。こう言ったのか」と一応 聞いてくる。

「つまりですね~」ここで私ワールドが展開して、つまらなかったという友人に謎解きをしてあげるんです。
「なるほど そういう深い意味があり伏線が敷いてあったのか」と相手は理解して、「意外と面白い映画だった」となる。
「でしょ でしょ  でも最後がお定まりの完結で もうひねり斬新なアイデアが欲しかったわね。。。 まあ 並ですね 」と批評家気取りになり、一応「こいつだと つまらない映画もおもしろくしてくれる」という印象を相手は私に持ち、次回もつきあってくれるわけです。


という関係なので、価値観というか異文化でも交流を保てているわけです。

お互い暇つぶしに異文化交流しているわけです。
ええ、暇つぶしですが、貴重な時間にも変貌します。


かたや、「なんでこんなものが好きなの ぎゃーーーーー」で、かたや「こんな銃とかカーチェイスとかないじゃん つまらなさそうだから行きたくない でも暇だからつきあってやる。」

お互い文句を言いながらも、断絶せず保てる距離。
お互い自分の文化を保ちながら交流できる距離。

これが難しいんですよねぇぇぇ。
間を誤ると、踏み込みすぎて相手の文化を壊してしまいこそないが否定してしまい関係を崩しかねない。
かといってそれを怖がって踏み込めないと、関係が希薄になる。
いつまでも理解というものができないばかりか、全く関係が無い外の世界として断絶してしまう。


交流が無いとお互いの文化を「よくわからない理解しがないもの」と価値が無いものとして無にしてしまうんですね。
北朝鮮だって国交が無いので、お互い理解できないですよね。


無(つまり関係を断絶する)と安息が訪れますが、同時に孤独も訪れる。
その孤独を楽しみつつ(他者には理解してもらえないが、自分が守りたい価値を保持する)、異文化も散策するというのが、生き方上手なのかもしれない。


と、よくわからなかったと思いますが、結局ですね、、、、
学問もスポーツもカラオケも経験とともになにかしら実がなっていく。
でも人間関係においては経験を積み重ねていったからといって、マスターをする人など一人もいないと思います。

ええ、50歳になったからうまくなった とか 80歳になった人は人間関係が格段にうまい とかないでしょ?
人間関係のスペシャリストなんていないでしょ?

80歳の人であろうと、人間関係に悩み苦しむ。
人の心理などを扱う人ほど自殺しやすい。
人間関係のスペシャリストほど燃え尽きやすくなる。

ということで、ほどほどの距離をとるのが一番。
といってもその距離がつかめないので、人間関係においてもめるわけですが。

相手を全く理解しようとか、一体になろうと欲望することは、とても危険な行為だと思います。

わかった と思ったところで、相手はもう別のところにいる。
流れているものの一瞬を見たところで、もう見た瞬間は別なところに移動しているし。
虹のようなもの。

この虹さんと一体になろうとすると、実際は相手を捕捉できていないので、「違う」となり、過去に見たものとは違うものに変貌したと失望するんです。
移り変わっているという事実を認められない。
最初から実態を見ていないのに、見たと思ってそれを愛し、時とともに移り行く相手の動きを許せなくなったとき、変わったとして相手を捨てる。

お互い動いているわけですが、自分は止まっていると錯覚しているんですね。
自分も動いているのにね。


って、、、わけわかんなくてすいません。
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この回答へのお礼

自分にとって、回答者様の回答は非常に参考になりました。
読んでいてなるほどと幾つも頷ける点がありました。
生き方上手、俺もなりたいです。
この回答にあるような事を実践できれば、もっと幅広い人付き合いがもてるかもしれませんね。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/21 22:03

なれないと思います!


価値観は意志によってコントロール出来ない判断基準だから。
でも、能力や立場、存在感の大きさの違いぐらいなら恋人や友人
はいくらでも見付かるはず。
身の程知らずとか云っても社長とクラブのママとか、飼い主とペ
ットとか、適材(敵知能?)適所でお互いを助け合う同じ価値観
の仲間です。
犬が飼い主と同等か以上に指導力や経済力があったら価値観が同
じでも飼い主は無駄な存在になってしまう。
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この回答へのお礼

なるほど。そういった考え方もできますね。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/21 21:54

知識や価値観は私に付随するものじゃないでしょうか。


そういう意味では、私の車、私の家、私の着ている洋服と同じものです。
付随するものを基準に他人との関係を築こうとするのは、実のところ自分の自信の無さの表れじゃないでしょうか。価値観と自分を一体化させることによって自分に価値を見出そうとする心理じゃないでしょうか。

心とは付随するものが無い”私”そのものじゃないでしょうか。
素の私に戻りたい、或いは素の私をより良いものにしたい、と感じているがゆえに私=心から親しみを抱ける友人や恋人がほしいと感じるんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

心について深い洞察を持っていらっしゃるのですね。
もしかしたら、本当は俺は自分に自信がないのかもしれません。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/21 21:53

 離婚する理由の第一位が「価値観の不一致」になったことからもわかるように、結婚することは可能なようです。

その後どうするかはその人次第ですが。
>何故ならば、深く付き合えば付き合うほど、価値観の違いが明るみに 出るからです。
 そして次第に相手を嫌悪し、やがて疎遠になるでしょう。
 この過程が自分にはよくわかりません。なぜ嫌悪するのでしょうか。あなたの質問さえも価値観の違いに過ぎないと断じることも可能ですが、私はそれを是としません。あなたの読書に対する価値は相当のようですが、その本の著者は読書にそれほどの価値を同様に認めているかはわかちません。自分から理解し合いたくないと壁を作っていることこそがこの結論にたどり着く前提になっています。
 幸いまだお若いんですから固定観念や価値観に囚われ過ぎないで広い視野を持ってください。
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この回答へのお礼

そうですよね。あまり自分で自分の視野を狭めてもメリットはないですよね。参考になりました。回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/21 21:50

intellectさんは、日々の日常的な雑事大切に価値を見出されていますか?


たとえば、部屋の掃除とかご飯作りとかゴミ出しとかetc・・・
というのは、私が若い頃、そんなことより本を読むことのほうが、よほど大事で高尚なことだ、と思っていたからです。私の読んでいた本は、人は如何に生きるべきか、といった類いの本です。
しかし、結婚してから、姑さんが家事など日常的なことを大切にこなされているのを見て、ふと気づいたのです。

本を読むことも家事をすることも同じ価値だ!、ということに。

それに気づいたことがきっかけで、頭でっかちで自己中心的でプライドだけは高いニヒリズムから、次第に解消されていったのです。

理想を追うことも大切でしょうが、周りの現実をよく見てください。
日々の暮らしの小さなことにも、価値があるのに気づいて下さい。
今の現実をありのままに受け止めて(頭の中であれこれこね回さず)、まず自分のできることから始めていってください。
喜びや充実感は、その中から生まれてきます。
現実が見えてくると、色んな気付きが生まれ、やがて等身大の自分も見えてきます。
本当の自分の姿が見えてくると、謙虚さとか人に対する感謝の心も生まれます。
すると人も集まってきて、今の『孤独』とはおさらばです。
健闘を祈ります!
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この回答へのお礼

自分も、今のような精神状態を変えたいと思います。
人に感謝の心をきちんと抱ける人間になりたいです。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/21 21:49

いわゆる教養のあるなしは それほど溝を深めるとは思いません。



無教養の人は 教養のある人で分け隔てなくつきあう人に好意を寄せます。世の中のことをおしえて欲しいという思いでいます。ひけらかす人に対しては ばかにしています。(むろん 表では別です)。

また 人が嫌いだという理由で 去ってゆくのは 必ずしも多くないと思います。

去ってゆくのは (1)この人間は自分にとって有益ではない・利用価値がないと決断したときか もしくは (2‐a)こいつは おれの欠点を知っていて いっさいそのことに触れない ゆえに我慢ならないというときか (2‐b)こいつは人間が大きくて 接していると自分がはづかしい思いをいつもしている もういやだというときか などでしょう。

これらを《価値観の合わない》場合というかどうかは別として 問題は これらの去っていった人たちが その自らの至らなさに気づくのは 悲しいかな だいたい半生をすぎてからのようだといったことです。

これから世界は変わるかも知れません。変わらないかも知れません。《心から親しみを抱ける友人や恋人を持ちたい》との気持ちは 持ち続けてよいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

分かりました。希望を持ち続けて人と接していきたいと思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/21 21:47

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