アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

医療現場で働いていて思うのですが、患者さんの為になること利益になることと思えることが、患者さんの意思に反することであった場合、どの程度、患者さんの意思を尊重すべきでしょうか。具体例を出せば、たとえば入院患者さんの生活習慣病を改善するために、あまり乗り気でないのに、ほぼ強制的に運動プログラムを取り入れるとか、うつ病の入院患者さんの自殺を拘束して阻止するとか、そういうような場合です。

倫理学において、パターナリズムと呼ばれていることだと思うのですが、医療倫理学では、どのような回答があるのでしょうか。

A 回答 (12件中1~10件)

現在の医療では、患者の意思を尊重しているのではないですか。


栄養指導はしても、入院させて食事制限をするところまではしない。
鬱病の方でも、希望退院は出来ると思います。

完全に食事制限を管理下においたり、鬱病の患者さんを自殺企図があるから、ベッドに縛り付けたり、個室での生活の様子を監視カメラに映す、というのは人権の問題があると思います。
ただ、治療を受ける意思が本人にあり、入院に同意が取れるなら、ある程度可能ではないでしょうか。
あくまで自由意志と、人権が尊重された上です。
家ではこういった管理はできませんが、自分の病院に入院させるなら、本人の承諾がある上ではできるでしょう。
治療を受ける意思が、あるかないかは、本人の自由な決断の上だと思います。

この回答への補足

確かに、自律尊重の原則は守られるべき大原則ですね。しかし、通常の判断力をもつ患者さんならばよいのですが、痴呆の患者さんや精神疾患の患者さんが拒否する場合に、どう対応するべきなのか迷ってしまいます。

補足日時:2007/07/01 22:09
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答えいただき、ありがとうございます。

お礼日時:2007/07/01 22:09

医療の究極とも言える本質的な問題だと思います。

私は究極的には結局生きているということをわれわれあはどういうものか知ることができないというところまでいくと思います。つまりこの答えは将来得られるだろうと期待ができない回答不能問題だと思っています。医療は、患者をこの問題に直面させないように努力する作業です。普通の人は死に直面しないとこの問題を考えません。つまり医療を提供する側に立つ人が提供する方法もこの問題を回避させるだけなのです。多くの患者は本能的にこの問題には答えがないから回避するに越したことはないと医療従事者の命令に従います。しかし一方患者は生きていることを実感したいのです(わからないからこそ!)。体のため、健康の為にやれということは殆ど生きているという実感を禁止するものです。パターナリズムに従っている患者はいつの間にか父親役の医療従事者を自分の代わりに生きてくれていると錯覚してしまうことも多いのです。「信頼できるお医者さん」という表現に相当することです。信頼と依存は医療において本質的な問題です。「私も生きていることがどういうことかは分かりませんが、こういう難しい問題を考えないでも済むようにここ当分は生きていられるように私のいうことを聞いてください」ということになるのかなと思います。

この回答への補足

ちょっとよくわからなかったのですが、

>医療は、患者を「この問題」に直面させないように努力する作業
>普通の人は死に直面しないと「この問題」を考えません・・
>つまり医療を提供する側に立つ人が提供する方法も「この問題」を回避させるだけなのです。

などなどで書かれている「この問題」ということは、具体的にどういうことなのでしょうか?

補足日時:2007/07/01 22:11
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答えいただき、ありがとうございます。

お礼日時:2007/07/01 22:11

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3% …

【医療行為(投薬・手術・検査など)や治験などの対象者(患者や被験者)が、治療や臨床試験/治験の内容についてよく説明を受け理解した上で(informed)、方針に合意する(consent)事である。説明の内容としては、対象となる行為の名称・内容・期待されている結果のみではなく、代替治療、副作用や成功率、費用、予後までも含んだ正確な情報が与えられることが望まれている。】


【ICの概念として、「説明・理解」と、それを条件にした「合意」の、いずれも欠けないことが重要である。また、ここでの「合意 consent」とは、双方の意見の一致・コンセンサスという意味であり、必ずしも提案された治療方針を患者が受け入れるということを意味しない。】

【ICは、従来の医師・歯科医師の権威(パターナリズム)に基づいた医療を改め、患者の選択権・自由意志を最大限尊重するという理念に基づいている。】

【患者が充分な説明の元で治療方針を「拒否」し、医療従事者側がそれを受け入れた場合、これは充分なICといえる。】

【患者が方針の選択まで行うことを特にインフォームド・チョイス(informed choice)またはインフォームド・デジジョン(informed decision)と呼び区別することもある。

充分に納得が得られ医療従事者側の方針を受け入れる場合にせよ、拒否する場合にせよ、患者側は「十分な説明を受け理解した上で、同意します/拒否します」という、書面での明確な意思表示を求められる。必ず書面で合意を得るべきという法的根拠はないが、一般的には重要な問題に関しては、ほぼ全例で書面による意思確認がなされる。このような手続きをふまえて同意が成立した場合、患者は自己が選んだ方針とその結果に対して、責任を持つことになる。また、明確に合意を撤回する意思を示さない限り、選択した方針に協力しなければならない。】

【説明する側は医療行為の利点のみならず、予期される合併症や、代替方法についても十分な説明を行い、同意を得る必要がある。また、この同意はいつでも撤回できることが条件として重要である。】

【説明・理解のない治療で侵襲を与えた場合、近年の日本では民事訴訟で医療従事者側に対する損害賠償が認められる傾向にある。説明・理解のない治療は刑法上の傷害罪や殺人罪に当たるという主張もある。】



生活習慣病を改善するために病院が提供するサービスが医療保険の適用であれば、医療とみなされると思います。

従って、提示されたサービスは、本人にどのようなメリットがあるか、やらなければ、本人にどれほどデメリットが予想されかの情報を本人に提示し、本人が理解不能であれば、家族の同意が必要になると思います。

本人に理解力がありながら、同意しなかった場合であっても、適切な情報を本人に伝えていれば、それはICをやったことになる。

逆に本人の健康上の利益となるものを知りながら、その情報を故意に伝えなかった場合は、虐待である。


自殺願望が強く、自傷の危険がある場合は、病院によっては壁にクッション剤を入れ、頭をぶつけて自殺するということを防止したりするようですが、それでも本当に死にたかったらどんな手を使ってでも死ぬと思います。


医療提供者は、本人が自殺に使いそうな道具を本人の周りに置き忘れない。
その配慮を欠いた結果、それを使って自殺した場合、病院側に過失責任があるとなり、家族から訴えられる可能性もある。

従って、予測可能なことは未然に防ぐ努力を医療者はすればいいのであって、本人をベッドに縛る、部屋から外に出さないなどは虐待である。


もちろん 本人が病室から出たくないと意思を表明している、あるいは立てないほどまでになっている、車椅子に乗せても不穏で恐怖でいっぱいになっているのに、外の空気を吸わせたほうが気分転換になり本人のためだと医療者がひきづって外に出してしまったら、それは虐待であり犯罪行為である。


とこのようにICに関して受け取っています。


でも、病院関係者は、治療方針を決め、そのスケジュールをこなしていけば、何ヵ月後にこうなるだろうと予測するわけですよね。
でも、それはあくまで本人の了解を得られ、本人の協力を十分得られ、前向きに本人に取り組んでもらった場合。

実際はそうプラン通りにいかない。
すると医療関係者はうまくいかなかったことで、強引さを増してしまう。
なんとかこなそうとする。

そのなんとかこなそうと無理をした結果、虐待が発生したり、本人が不利益を得てしまうのではないかと思います。

極端な話 癌を早期発見して、今すぐ切除すれば助かりますよ と情報を流したにも関わらず、会社のことが心配で入院なんてしていられないという人もいるようです。
1月入院するのと1年後他界して永久に会社に復帰できないのとどっちが大事かと考えたら、当然本人にとって最小限の損害は1月入院。
でも、本人が手術を拒否したら、無理やり手術台に乗せて手術をするか。
しないですよね。
診断後 それっきり病院に行かなくなる人もいる。
家におしかけて、「せめて病院に薬を取りにきてください」と強要するか。
しないですよね。
本人にどれだけ不利益になるかわかっていながら、本人にその判断をゆだねますよね。
医療を受けるか拒否するかの選択権は本人にしかない。

そして医療提供者は、患者に医療を受けることを強制しない。
本人に必要な情報を提供し、本人に決めてもらう。

というふうに最近の病院は変わってきているそうです。


本人が暴れて自分の腕を噛んで出血を繰り返していたら、拘束具をつけ噛めないようにするか。

それは虐待になるので、どうしたら本人が腕を噛まないか、病院は考えなければならない。

そしてどうしても防げないんであれば、家族の了承を得、サインをしてもらい、最低限の本人にとって利益になる噛んでも歯が肉まで届かない服を着せるなどする。


ということで、病院関係者にとっては、もっともっと悩み多き問題を帰結しろと政府は言ってきているわけで。。。。。

お疲れ様です。

でも、いいアイデアが思い浮かび、それが本人にとって痛くない、苦痛でないものなら、「専門家はやはり違う」 となると思いますし、病院に対する顧客の信頼度もぐっとアップすると思います。

この回答への補足

パターナリズムからインフォームドコンセントへ、というのは最近の医療における一つの流れみたいですね。それは私も賛成なのですが、ただ、仰られるように色々と難しい問題もありそうですね。ウィキペディアにもちょっと書かれていましたが、痴呆の方や精神疾患の方には、どうすればよいかと迷ってしまいます。


>本人が理解不能であれば、家族の同意が必要になると思います。

とのことですが、もし仮に、

家族の同意はある、本人の認知能力が低く治療の効果などを理解できない、治療をされることに対して拒否的である、

というような場合は、どのような対応がよいものなのでしょうか。

また、

>それは虐待になるので、どうしたら本人が腕を噛まないか、病院は考えなければならない・・・
>どうしても防げないんであれば、家族の了承を得、サインをしてもらい、最低限の本人にとって利益になる噛んでも歯が肉まで届かない服を着せるなどする・・


とのことですが、精神疾患の患者さんには、しばしば自傷行為がみられます。それはごく単純な見方をすれば、自分の意思で自分を傷つけるという事だと思います。だとすると、仰られるようなことは、消極的な方法ではあるものの、医療従事者が患者さんの意思に反すること(腕をかみたいという意思に反すること)を行うケースといえそうです。他にも、たとえば自殺念慮のある人のそばに自殺に使えそうなもの(紐とか手ぬぐいとか)を置かない、というようなことも、消極的なパターナリズムといっていいかもしれません。

このような、自律尊重よりも、医療従事者が思う患者さんの利益を選ぶようなケースというのは、どのような場合ならば許されるものなのでしょうか。

補足日時:2007/07/01 22:16
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答えいただき、ありがとうございます。

お礼日時:2007/07/01 22:16

たぶん回答はないんです。


類型化して、現場での仕事量や悩みの節約ですね。
結局
その患者を見る事、その患者の周りも良く見る事、
最後に自分の能力との関係。
できる事をする、できないことは出来ない、
それ以上でもそれ以下でもないですが、
言うは易く、行なうは難し。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答えいただき、ありがとうございます。

お礼日時:2007/07/01 22:20

医療倫理学のことではありませんがお許し下さい。

此処の具体的直面にしろ、一般的な考えにしろ、こうであるという言い方はとても無理な問題ですね。私は日本の禅のような、宗教を精進しておりますが、大事なことは研ぎ澄ました、日本刀の刃をいくような緊張関係でのことになりますので、そのケースの問題か、こちら側のありようの問題か。同じケースを同じに対処しても、千差万別は免れませんものね。そしてこちら側の何というか、長く歩み、培ってきたもののために、妥当となることもあり、いや問題だなということになる場合もあり、不思議なことってどうしても感じるものです。医療倫理学のことは言えませんが、やはりこちら側の緊張した場数、それによるこちら側の○○性というものなのでしょうか。全く理論化の方向とは逆のことを言っております

この回答への補足

そうですね。倫理一般の問題でそうですが、上述の問題は、確かに理論によって明確に一つの回答を得るというのは無理な話だと思います。しかし一方で、経験にもとづく状況ごとの感覚や直感、経験にもとづく状況ごとの真剣で真摯な判断、ということだけでよい、という考えがあるとすれば、それもまた、十分とはいえない考え方かと思います。

合理的で理論的で倫理学的なアプローチと、経験や直感などによるアプローチは、車の両輪のようなもので、どちらもそれだけでは、杓子定規になりすぎたり、独善的になったりしかねません。どちらも必要なものだと思います。そして、今回は、倫理学的なアプローチに関しての質問でした。

補足日時:2007/07/01 22:21
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答えいただき、ありがとうございます。

お礼日時:2007/07/01 22:21

(歯科医師を含む)医師等の医療関係者は医療サービス業界に属し、それを生業としており、自らも医学部を経て、国家試験にパスし、その職に就くか?否か?、レベルでの自己決定(or選択)権の行使をそれなりにしてきた・・・と、ここでは規定して置きます。



対する患者(と言う名の利用者)は日本民族の場合は"細く長く!?"的、発想が主流でしょうが、中には太(or細)く短く、的発想も当然是認されるべきだと、私個人としては信じて疑いません。
何故なら、例えば(広義には同じくサービス業界と括れる)コンビニで、飲物を買うか?否か?、買うならどのメーカーのどのブランドのどの位の容量の商品にするか?etcの選択に一切売り手側が口出ししない場合と同様の性質を帯びている店では医療サービスも又然りだからです。

(保護者の同意が肝要な)19才以下の層や自己決定がし難い病or何等かの病原菌に感染している層を除くなら、NO3さんがURLを張られたインフォームドコンセントが明確に実行される限り、持病を治して貰うか?否か?は本人のみに委ねられ、彼(or彼女)が自己決定すれば済むそれだけの事でしょう。

この件に付随して、(信仰上の事由で)輸血を拒絶して、死亡した"エホバの証人"の妊婦の事例及び例え、親がエホバの証人の信者であっても関連委員会が対象者が14才以下の時は輸血を断行する方向で、答申をだそうとしている旨の報道があったので、URLを張って置きます。
http://www.mainichi-msn.co.jp/science/medical/ne …
http://www.mainichi-msn.co.jp/science/medical/ne …

更に"医療倫理学"に触れている書籍には次の本がが含まれているのを付記して今回のカキコみを閉じます。
http://www.bk1.co.jp/product/2513935
http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/hce/hce …

この回答への補足

>(保護者の同意が肝要な)19才以下の層や自己決定がし難い病or何等かの病原菌に感染している層を除くなら、NO3さんがURLを張られたインフォームドコンセントが明確に実行される限り、持病を治して貰うか?否か?は本人のみに委ねられ、彼(or彼女)が自己決定すれば済むそれだけの事でしょう。


そうですね。基本方針としては、医療従事者が考える患者さんの利益よりも、患者さんの自律尊重の原則を優先させるべきであるように思います。ただそれは、感覚的には、かなりドライで冷たい人間関係のように感じられますし、人間関係一般において、本当に相手の事を思うならば相手の嫌がることもしなければならない事だってある、というような考え方もおかしいとは思いませんので、その医療版であるパターナリズムも、そうそうあっさり否定はできないとは思いますが、しかしやはり基本方針としては、自律尊重の方を優先させるべきであるように思っています。

ただ、それが仰られるように、

>自己決定がし難い病・・

の時はどうすべきか、また、何を基準として、自己決定がしがたいとするのか、といった事が悩みの種です。

補足日時:2007/07/01 22:23
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答いただき、ありがとうございます。

お礼日時:2007/07/01 22:23

「患者さんの意思 」が何にもとづくかによるでしょうね。


当然、ひとりひとり違いがあるでしょうけれども。

> 入院患者さんの生活習慣病を改善するために、あまり乗り気でないのに、ほぼ強制的に運動プログラムを取り入れる

矯正しなければ治らないからこそ、強制的に改善プログラムを遂行させるのが生活習慣病というものですが、
患者は、その習慣さえなければ、その体の不調さえなければ、
別の性格を持って生きているはずなのです。
驚いたものですね。
人間なんて、体の調子ひとつで、考えることも、人格も変わってしまう。
ひとつの習慣を身に着けている人間が、習慣を変えることに乗り気であることは、めったにありませんね。
意志の尊重の問題ではなく、医師との信頼関係の問題でしょう。
医師の仕事には、患者の意志の間違いをただすことも含まれていますし。

> うつ病の入院患者さんの自殺を拘束して阻止する

うつでなければ死にたがらないという前提で阻止するのですから。
患者が死にたがっているのではなく、患者の「うつ」が死にたがっているのですから。

ご質問は、患者さんの利益と書いてあります。
患者さんは 患者さんでなくなることだけが利益ですが、
患者さんでなくなるときは、
社会や家庭や個人に復帰できるときなのか、
現世を離れるときなのか。

たとえどちらでも、
患者さんでなくなるということに手を尽くし、心を込めて、
一人の人間の生の調整をはかってやるのでなければ、
医療という仕事は、腐敗に呑まれてしまいます。

生活習慣病やうつ病の患者のなかにひそむ光と陰をきちんと測り、
光の中へ連れ戻そうとするたくさんの先生方は、
意志をふりかざすことを 患者の人権とすりかえる風潮を、
嘆いておられるに違いないと思うのですが。

この回答への補足

>医師の仕事には、患者の意志の間違いをただすことも含まれています

>患者が死にたがっているのではなく、患者の「うつ」が死にたがっているのですから。

>意志をふりかざすことを 患者の人権とすりかえる風潮・・・

などのご発言からして、どちらかというとパターナリズムを肯定する立場のようですね。
確かに、精神疾患の場合、治療を拒絶すること自体が病気であるように感じられることも多くあるような気がしますし、一般的な人間関係であれば、相手のことをより親身で愛情深く思えば思うほど、多少強引にでも相手のことを何とかしてやりたい、と思うもののような気がします。そしてそれは健全な人間関係といっていいように思います。

しかし一方で仰るように、患者さんの利益とは何かというのは非常に難しい問題ですので、相手の判断よりも自分の判断を優先することは、独善的なことかもしれません。また、自分のことを考えてみれば、もし私が患者さんの立場ならば、かなり強く、余計なおせっかいはしないで欲しいと感じると思います。

ではどうすればよいかということなのですが、

>「患者さんの意思 」が何にもとづくかによるでしょうね。

とのことですが、何に基づいた場合、医療従事者の介入が認められて、何に基づいた場合は、そうではないのでしょうか。

補足日時:2007/07/01 22:26
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答いただき、ありがとうございます。

お礼日時:2007/07/01 22:26

kaitara1ですが、この問題とは何かついて改めて書いてみます。

この問題というのは人間にとって自分とは何かという疑問について答えを出すことが原理的にできないということです。文章が拙くて申し訳ありませんでした。普通、人間は健康なとき自分とは体のことと思っています。しかし病気になって特に死に直面すると実は体というのは自分ではないことに気づきます。体が死ぬから自分も死ななければならないという思いが普通言っている心であり自分でもあるわけです。体すなわち自分ではないのです。体自身は死ぬことを嫌がっていません。現代の医学は体すなわち自分という原則に基づいて構築されていますから患者を死の恐怖から救うためには体が死なないように最大の努力をします。私がこの問題と書いた問題は現代医学の原則に関係しているわけです。患者のコンプライアンスが良くないという理由は必ずしも私が書いたことにつながらない場合もあると思いますが、究極的には現代医学の大原則がすべての人間が無限の寿命を持つというというフィクションに置かれている理由を考えるべきだと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

返答いただき、ありがとうございます。医療の方向性自体を問うような、難しい問題ですね。

お礼日時:2007/07/07 02:52

No.3です。



>もし仮に、
>家族の同意はある、本人の認知能力が低く治療の効果などを理解でき
>ない、治療をされることに対して拒否的である、
>というような場合は、どのような対応がよいものなのでしょうか。

意思の疎通が難しい場合ですよね。
看護現象学。

意思の疎通が障害で保てなくなる前、散歩を楽しみとして過ごしていた人が、障害を境に部屋に閉じこもり、笑顔も見せなくなって活気がなくなり、それが身体面にも現れ、ベッドに一日中入っていて、だんだん脚力も衰えてきており、トイレさえも自力で行えなくなる危険があると思えたとします。

病院に入院すると一気に低下して、歩けた人が歩けなくなったりして、これは本人にとって重大な不利益にもなりますよね。
回復するのにすごく時間がかかり、しかもリハビリは本人にとってもすごく辛いから。

だから騙し騙しでも、リハビリ室に連れていって、「すごい すごい 歩けるじゃないですか」と理学療法士はべた誉めして、やる気を起こさせ本人の本来の能力を引き出す援助をする。

ところが、ある人はリハビリを拒否しまくり、ベッドから動こうとしないとします。


何故出ないのか?
・向精神薬を含む薬の副作用はないか。
・どこか体が痛くて動きたがらないのだが、それを訴えられないでいる。
・看護士を怖がっている。
・リハビリが高度だとか、向上が見えないと本人は諦めたからなのか。
・病室の外に何か怖いものがあると本人は思っているからなのか。
・何を言われているのか理解できず、全員見知らぬ人ばかりで怖がっているからか。
・障害ゆえに顔を覚えられず、リハビリ室を拷問部屋と思っているからなのか。
・見知らぬところに入院していて、怖くてしょうがないでいるからか。
・腰などに異変が起きているからなのいか。
・トイレが心配で出ないのか。


まだまだ考えられますが、消去法でいって、それでも拒否の原因がつかめない場合、何をやってどういう結果になったかを記録として残していけばいいと私は思います。

家族に「無理やりでもひっぱってでもやってください。」と言われても、「本人が嫌がっているものに強要するのは虐待になりますからできません」と家族の理解を求めるために説明をする。


ボールをもってきて 「一緒にあっちに行ってみましょうか」と誘った とか、花をもってきて「あっちにもっとあるからと好意を持っていることをアピールしたが、反応が無かった」とか。

「動きからして身体の故障は考えられず、何故ベッドから出ようとしないのか、観察してきたけどわかりませんでした。」など。

それは上司から「どうしてプランを実行しないの」と言われた時も、「記録に詳細は書いてあります。じゃあ どうしたら成功するのか教えてください」と言うしかないかと。

後は、家族を認識できていたら、家族に頻繁に面会に来てもらい、一緒にリハビリ室にいてもらい 安心感を持ってもらう とか。



>それはごく単純な見方をすれば、自分の意思で自分を傷つけるという事だと思います。

まず、自傷がどのような時に頻繁に起こるか観察が必要だと思います。
時間が決まっていないか、食事後なのか、おなかがすいている時起こしていないか、便秘が原因でイライラしているからではないか、薬が原因で体が痒くなっていないか、誰か特定の人(家族も含む)を見たとき起こりはしないか。リラックスする薬を投与しても起こるか。薬の量はあっているか、あるいは副作用は現れていないか。(意外と鬱治療薬の副作用で凶暴化する場合もある。)周りが騒がしいとき起こっていないか。本人の発言から何か見えてこないか。

「このままでは社会の落伍者で、生きていても仕方が無い」と自分を責めるために、自分を罰し それで本人は罪の意識から一時的に開放された気分になっていないか。
自分の持ち物と同じものを誰かが持っており、取られたと思って怒りを抑えられず、だがそれを相手に表現する術がわからず自分を噛んでいないか。

などなど。

他の人が障害だから理解不能なことをやる、と済ませてしまうことも、観察者が変わることで、人から聞いていたことと違うと目の前で起こっている現象をそのまま感じ取ってみる。

他の人の観察力も期待し、情報を集めて、分析して何故引き起こるのか、いくつか原因と思われるものを出して、引き起こる原因だと思われるものを一つ一つ除去して結果を記録に残す。
(同時に複数やると 何が原因だったのか特定できず、似たようなことが再現しても、また分析からはじめることになるので、一つ一つ)


それでも自傷が収まらなかったら、とりあえず、噛むと苦い食べても害の無い薬を腕に塗るとかする。

そうするうちに腕を噛むと苦いからと噛まなくなれば、それで解決です。

混乱して噛もうとしても、苦いという経験が意識に浮かび上がって、噛まないで済めばいいし、第一混乱している原因が特定できれば、未然に防げる。


>自律尊重よりも、医療従事者が思う患者さんの利益を選ぶようなケースというのは、どのような場合ならば許されるものなのでしょうか。

その薬を飲まなければその人に死の危険が迫るというとき。

例えば発作を起こしていると尋常ではなく暴れます。
拒否ではなく発作で苦しんでいると判断すれば、本人の腕を「ちょっと失礼」と一瞬誰かにつかんでもらい、鼻をつまみ口をあけさせ投げ込む。


「私は早く死にたいのよ 死なせて。だから薬は飲まない」というケースの場合。
胃薬なら一日飲まなくても命に危険は無いのですが、心臓とかの場合は危険。

ではどうするか。
正当な方法ではないが食事に混ぜる。
本人の同意を得ていない投薬なので、グレーゾーンですが、命の問題が絡んできた場合、本人が拒否したためと投与せず死なせてしまったら、責任を追及されてしまう。


頻繁に拒否が続くのなら、本人のストレス緩和のためにもそうするしかないと思います。


医療の現場では、ターミナルケアで余命宣告された人意外は「治る。改善の余地がある」という希望を持って、患者と接するべきであるとしています。

ただし、忙しいし、他の看護士や、本の知識や、自分の経験や思い込みから「きっと鬱だから」「認識に問題があるから拒否しているのだろう」と現象を歪めて捉えてしまい、患者も看護士もうまくいっていないケースは多いと思います。

神様じゃないので、拒否の本当の理由はわかりません。
信じるのは「きっと本人はイヤだから拒否するのだろう」ではなく、「本人には潜在的にまだ自己治癒力が残存しており、回復の可能性を秘めている。医療者は治療するのではなく、本人の自己治癒力の手助けをしているにしかすぎない」ということだと、どこかの医者が言っていました。


それを本人の治癒力ではなく、医療の力だ としてしまうと、奢りが芽生え、強引さを正当化しやすくなってしまう。


で、医療者のサービスは何も医療関係を提供するばかりじゃないと思うんですね。
専門家の立場から、どうしてそのような現象が起こるのかを客観的に観察し、回復の妨げになるものが無いか観察して発見してあげたり、やる気が無いがどうしてもその世界から抜け出る方法が本人が見つけられないのなら、一緒にどうすれば楽しいと思える生活になるのか本人の特徴から判断して提示したり。

糖尿病なのに甘いものをこっそり食べてしまう人が、どうすれば食べることに執着しなくなれるのか、考えてあげたり、だとか。

それは医療報酬がもらえないからやりません。だと医療関係者は結局自分の首を絞めていることになってしまう。

何故なら障害が医療関係者と患者の間に立ちふさがっていて、回復を困難にしているのに、それを無視して医療面だけで解決しようとしても、医療面ではない面が悪い影響を与えている以上、その部分の解決しないと回復は難しい。


ただ、多くは原因が特定できないので、じゃあ 医療面以外はやるだけ無駄かというと、、、まあ それが普通の病院かもしれませんが。


ただ、チャレンジはして、駄目だったら諦めるしかないし、「考えられれるものは全てやったがお手上げです」もありかと思います。


風呂1年入らなくても死にはしません。
最低1週間に1度は入るべきだと、引きずって連れていってしまっては、それはその病院の質を下げることになり、一人がやりだすと他の人もやりだし、看護士と患者の関係は悪化してしまいます。


そういう場所で回復は遅くなるし、別の弊害も出てくる危険がある。

一番の解決方法は、日ごろのコミュニケーションにより、少しいい印象を持ってもらうという方法。
でも相手の認識がひどく悪かったり反抗的な性格だと、いい人間関係は築けないし、医療サービスも受けてもらえません。


そして認識よりも性格よりも、解決を困難にしている大きな問題がそこにある。

医療に携わる人の激務。

人手不足に加え、政府から「あれやれ これやれ」とどんどん仕事を増やされ、もっと手のかかる看護方法を取らなければならないとされ、さらに医療報酬も減ってきているので、人員をそう増やせない。

この環境の中で必死で取り組んでいらっしゃると想像します。

私は理想を高く持ちすぎると、相手も潰すし自分も潰れる危険が大きくなると思います。

で、まず実現可能なところからやってみる。

やったことを記録に残す。

うまくいかなかったことを同僚や医師に攻められたら、「じゃあ  どうすればうまくいったのか教えていただけますか」と言う。


療養型病院でなければ、短期間で患者は出ていきます。
が、「短期間しかいかにから少々のことは我慢してもらわないと ここはホテルじゃないんだから 治療するところだから 言うことを聞いてもわらわないと こっちだって良かれと思ってやっているのだから」という気持ちが、やがて虐待に繋がる危険をはらんでいると思うんですね。

医療+なにか、この何かを持つ看護士がいる病院こそすばらしい人材を持った病院だと思います。

その何かの一つは現象を的確に捉える能力。

この能力が無い看護士は10年勤務しても成長が無く1年目と同じレベルだとしか医師は判断しないそうです。

医師より看護士の方が患者と接する機会が多いことから、戦力は看護士なのだとか。

ということで、「医療関係者が上 時には患者の回復のため、強引さも必要。安全のため拘束もやむ終えない」と現象を見ないで無視し、頭を使わない医療スタッフの多い病院は、今後廃れていくしかないと思えますし、第一スタッフがいつかないと思います。

この回答への補足

>消去法でいって、それでも拒否の原因がつかめない場合、何をやってどういう結果になったかを記録として残していけばいい・・・・一緒にリハビリ室にいてもらい 安心感を持ってもらう とか。

この一連の文章は、拒否する患者さんに対して治療をする場合、どのようなアプローチで対応すればよいか、という事の答えですね。どうも私の文章がまずかったせいで、誤解させてしまったようです。確かに私は、先の回答への補足欄に


『もし仮に、家族の同意はある、本人の認知能力が低く治療の効果などを理解できない、治療をされることに対して拒否的である、というような場合は、どのような『対応』がよいものなのでしょうか。』

と書きましたが、ここでの『対応』というのは、『拒否する患者さんに対して治療をする場合、どのようなアプローチで対応すればよいか』という意味の『対応』ではなかったのです。私の先の質問の意図は、最初の質問と同じことで、

「もし仮に、家族の同意はある、本人の認知能力が低く治療の効果などを理解できない、治療をされることに対して拒否的である、というような場合は、患者さんの拒否の意図に反して治療行為を行ってよいものか、もし拒否の意図に反して治療行為を行ってよいならば、どのようなケースなら許されるのか。」

という事でした。つまり、治療の仕方としてどういう対応をするかという事ではなく、そもそも治療をすべきかどうかという点でどう対応していくべきか、という質問でした。すみません。

つづいて、
【自律尊重よりも、医療従事者が思う患者さんの利益を選ぶようなケースというのは、どのような場合ならば許されるものなのでしょうか。】

という私の質問への第一の答えとして、まず、

>その薬を飲まなければその人に死の危険が迫るというとき。
>例えば発作を起こしていると尋常ではなく暴れます。

との事ですが、これは仰られるように、拒否というはよりは発作による反応のように思えますね。つまり患者さんの意思によらない拒絶反応に対しては、パターナリズムが許されるということですね。というより、これは実質拒否をしていないので、パターナリズムではないといった方がよさそうです。ただ、拒絶意思と拒絶反応をどう判別するかという巨大な難問があらわれてきそうです。

つづいて私の質問への第二の答えとして

>「私は早く死にたいのよ 死なせて。だから薬は飲まない」というケースの場合。胃薬なら一日飲まなくても命に危険は無いのですが、心臓とかの場合は危険。

との事ですね。つまり治療しなければ死んでしまうというケースの中の一つだと思うのですが、これは仰るようにグレーゾーンっぽいですね。ただ、「私は早く死にたいのよ」という一文が微妙な表現でどう捉えるべきか迷ったのですが、このケースは(1)たとえば治療後の後遺症のつらさなどから一般的な人でも死ぬ方を選びたいと思うのが不思議ではないような状況で本人が死にたがっており、かつ、治療しなければ死んでしまう。というケースを意味しているのか、それとも(2)一般的な人なら死のうと思う状況ではないにもかかわらず、鬱病などの影響で死にたがっている人が治療を拒否しており、かつ治療しなければ死んでしまう。というケースなのか、それとももっと他の事を仰られているのか、どういう場合かによって回答は変わりそうです。

ただ単に、治療しなければ死んでしまう、というだけでは意思に反して治療する理由にはならないと思いますから、何かプラスアルファ、別の要素が加わる必要があると思うのですが、それが何なのかが難しいところです。その要素の一つとして、

>本人が拒否したためと投与せず死なせてしまったら、責任を追及されてしまう。

というのは、かなり大きい要素でしょうね。患者さんの利益というという視点ではありませんし、道徳的によいこととはされないでしょうが、実際問題、これはかなり大きいそうですね。

補足日時:2007/07/07 03:00
    • good
    • 0
この回答へのお礼

返答いただき、ありがとうございます。

お礼日時:2007/07/07 02:53

7です。


わたしの論拠は、パターナリズムでもなければオートノミーでもありません。
医師が患者と向き合うとき、病の条件を、身体の条件だけに閉じ込めず、
社会的な条件、歴史的な条件とともに分析することが必要です。
こころによる体の支配、という図式を描いてしまうときに陥るのは、
そのこころの持ち主は医師か患者かという枠に、問題が閉じ込められることです。
これが、医療におけるパターナリズムかオートノミーかの二律背反を生むのでしょう。

ところが、こころは、依存的に周囲によって作られます。
患者のこころが、自閉し、逼塞し、自我の教義のなかに逃げているとき、
患者のこころは、周囲と調和していません。
また、特定の歪んだ依存にとらわれているとき、
患者のこころは、自我と不協和でありながら周囲と調和しようとしています。

こういうとき、患者本人から患者を救うことが、医療者に求められるでしょう。
あるい患者の保護者から、、、という場合もあるでしょう。

しかし、患者のこころが、患者の大切にしている周囲と調和しているものならば、
介入はそこまで、という線も引ける。尊厳はそのようにして形作られているものだからです。
終末医療や尊厳死や自殺にかんするご質問ならば、ケースはおうおうにしてあるでしょうが、
生活習慣病の治療や、うつ病による希死念慮から遠ざけるケアに関するかぎり、これはない。
自己中心的にではなく、自分が存在することの調和を探っていくところにしか、医療は手を貸せないからです。
タバコ一箱や、ロープ一本が、人の尊厳を支えるものだと考えてはなりません。

この回答への補足

私の質問は、

『>「患者さんの意思 」が何にもとづくかによるでしょうね。とのことですが、何に基づいた場合、医療従事者の介入が認められて、何に基づいた場合は、そうではないのでしょうか。』

という質問だったのですが、

>・・・・しかし、患者のこころが、患者の大切にしている周囲と調和しているものならば、介入はそこまで、という線も引ける。尊厳はそのようにして形作られているものだからです・・・

というあたりがその質問への答えなんでしょうか。すなわち、患者さんの意思が、

>患者の大切にしている周囲と調和しているもの・・・

というものに該当すれば、介入すべきではない。という事なのでしょうか。しかし、人間の心は元来曖昧なものなのでしょうがないのですが、仰られることの表現が少々曖昧なので、いまいち意味がよくわかりませんでした。

No5さんへのこの回答への補足欄にも少し書いたのですが、倫理的判断には経験的、感覚的、直感的な要素が不可欠でありますが、同時に合理的、理論的、倫理学的なアプローチも不可欠だと思います。独断や独善に陥らないためには、経験や直感を補強するものとしての「根拠に基づく医療」「理由に基づく倫理」というようなことを行う必要があるかと思います。そして今回の質問はそういった、倫理学的なアプローチの方面の質問でした。それをふまえまして、


>患者のこころが、患者の大切にしている周囲と調和しているもの・・・

とは何を意味しているのでしょうか?

>患者のこころが、自閉し、逼塞し、自我の教義のなかに逃げているとき、患者のこころは、周囲と調和していません・・・

というあたりが関連が深そうですが、いまいち何を仰っているのかわかりませんでした。

気が向いたらぜひまたお答えください。

補足日時:2007/07/07 03:01
    • good
    • 0
この回答へのお礼

返答いただき、ありがとうございます。

お礼日時:2007/07/07 03:01

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す