幼稚園時代「何組」でしたか?

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無宗教(無神論)の方への質問です。特定の信仰をお持ちの方はご遠慮ください。

●問1
差し支えなければ、年齢を教えてください。二十代とか三十代というお答えで結構です。

●問2
あなたが考える宗教とは何か?無宗教とは何か?定義をお聞かせください。

●問3
あなたは「何か信仰をお持ちですか?」と聞かれたときに、無宗教であると答える理由についてお聞かせください。

●問4
現代において宗教には「意味」や「価値」があると思われますか??ないと思われますか??その理由もお聞かせください。
1、ある
2、ない

●問5
ご自身が死んだらどうなるとお考えになりますか??その理由とともにお聞かせください。
(例・死んだら、無になる。生まれ変わる。極楽や天国に行ける。自然と一体となる。等々)

●問6
自分の葬儀はどのようにしようとお考えですか??その方法を選ぶ理由とともにお聞かせください。
1、無宗教での葬儀(音楽葬・故人の思い出をしのぶ会・自然葬・家族葬等々)
2、なんらかの宗教にそった葬儀(仏教や、キリスト教、神道等々の、宗教作法にのっとった葬儀)
3、葬儀をする必要はない。
4、その他(    )

●問7
自分の遺体を火葬後どのようにしたいとお考えですか??その行為にはどのような意味があると思われますか??
1、お墓に入る
2、山や川や海に撒く
3、廃棄物として処理する
4、その他(    )

●問8
とある科学者が居ました。科学者は科学的で合理的でないものは信じない人でした。その人には一人娘がいて、科学者はこの娘を心から愛していました。ですから科学者は愛する娘が間違った方向へ進んではいけないと、娘に科学的で合理的なことを教えていったそうです。これは合理的ではない。これは非科学的だと。そういった教育を受けた娘は非常に聡明な女性に育っていったそうです。しかし、娘は当時の医学では治すことの出来ない病に冒されてしまいます。科学者はあの手この手で娘の病を治そうとしますが一向によくなりません。すると娘は震えながら父である科学者の手をとって「私ゴミになるんだね?」と訪ねたそうです。
このとき、この科学者は死んでいく愛娘に何と答えればよいでしょう??無宗教の立場からお聞かせください。

●問9
またこの生き残った科学者は、娘の死後、死者としての娘とどのように付き合っていけばよいのでしょう??(これは宗教的な表現かもしれませんがご容赦ください。)無宗教の立場からお聞かせください。

以上9項目です。私のつたない文章のため文意を理解しにくいかもしれませんが、回答どうぞよろしくお願いいたします。

A 回答 (22件中1~10件)

Harepandaです。

補足に回答いたします。

>(1)宗教のどういった部分が非科学的なのでしょうか??また、どういった部分が非近代哲学なのでしょうか??

宗教は、証明不可能なことを断言していることが多いのが第一の理由です。私は文系で人文科学も科学であるとの考え方なのですが、社会科学や文芸評論と違い、宗教は他者からの合理的批判を受け入れない傾向があり、学問とは言い難いものがあり、証明は愚か、批判にもたえません。そうですね、宗教は非科学的・非現代的というより、非学問的と言い換えたほうが良いかと思います。

> 別の方にも同じ質問をさせていただきましたが、科学いうのはharepandaさんのお答えから察するに自然科学を指すと考えます

いえ、わたしはゴリゴリの文科系で、社会哲学を専攻した者です。専門は弁証法哲学ですから、ヘーゲルとキルケゴールとアドルノが好きです。社会と人間精神は、概念によって科学的に研究できると考えます。私はアナログ人間ですから、数字よりも概念を信頼します。

> 宗教(宗教学)は人文科学に属するわけですが、自然科学の視点から人文科学の研究成果を「非科学的」と判断できるものなのでしょうか。科学に無知な私が思い浮かべる科学は「実験により証明された事実(データ)を基に、そうした事実の間に法則を見出す営み」と考えています。

分析哲学の人たちなら、そういう言い方をするでしょう。私は弁証法家なので、宗教の方法論を問題にしているのではありません。むしろ、わたしの意見は、ごく一般人のものと同じです。つまり、宗教を信じている人が、新しく証明された科学的事実を受け入れなかったり、他宗教に不寛容で殺し合いをしたり、古い偏見を助長していたり(女性蔑視とか)、近代社会の大原則である個人の自由を拘束したりしているのが、許せないだけです。

宗教とは、科学が弱かった時代に、誤った方向に進化した哲学だと考えます。

>(2)harepandaさんがいう宗教は非科学的であることを、どなたか実験から証明された事実に基づいて、非科学的であることを立証した研究者をご存知なら教えていただけないでしょうか??またその科学的な実験方法や、その人の著作をご存知であれば教えてください。

物理的な実験では、思い当たりませんが、哲学的方法では、「証明」?できます。

カール・ポパーあたりをドゾ~。マルクス・ヘーゲルについて無知な言動を繰り返した、弁証法家の天敵です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E8%A8%BC% …

> さらに非近代哲学というのはどういったことなのでしょうか??哲学史から言えばヘーゲルなどは「近代哲学の完成者」とされていますが、そのヘーゲルの目的は神の証明にあったようにも思います。

当時の学者は、今の学者と違って、ひとりでどんな領域をもカバーしたのが普通です。宗教的に言えば、ヘーゲルはプロテスタントのはずなのですが、ギリシャ趣味(多神教の世界)に走っているという、節操のない男です。彼の目的は、体系的学問を作ることであって、自分のつくる哲学世界の中に、宗教を自分よりは劣りはするものの、有用性のあるパーツとして組み込むという態度を取っているように思います。当時、無神論者であることを大学内で公言するのが危険であったという事情を考える必要もあるでしょう。私としては、彼は本心では、なんの宗教も信じてなかったように思えます。

ちなみに、政治活動家としてのヘーゲルは無名で、本人は社会科学の第一人者なのですが、政治的成功は一回きりで、これは専門家の間ですら有名ではありません。西南ドイツのビュルテンベルグという国で、議会が開かれ、旧勢力がゴネにゴネまくって国の近代化を阻止しようとした時、ヘーゲルは議会の既存勢力の腐敗と狼藉を告発する論文を新聞に掲載し、これが大変な反響を呼び起こしたのです。(論文のタイトルがあまりにも長いので、専門家は単に「民会論文」と呼びます。が、その専門家自体、日本に10人くらいしかいないのでは…)

> またニーチェはキリスト教に内在する奴隷道徳を批判し「神は死んだ」と宣言していますが、同じ宗教である仏教に関しては「ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教」「人々を平和でほがらかな世界へと連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせる」と好意的な意見の持ち主です。ですから、「仏は死んだ」「(日本的な)カミは死んだ」ということは、ここも私の勉強不足のためか聞いたことがありません。

日本的な神はまだ生きてますよ。地鎮祭に公金がつかわれたり、町内会費で神輿が作られたり、仏教式の葬儀のはずの故松岡元大臣の寺に、なぜかしめ縄があったり、女性はいまだに土俵に登れなかったり、日本人のアニミズム的精神は、まだ死に絶えていません。これは、日本人の精神の近代化にあたって、阻害要因になってます。歴史的に言えば、被差別問題を生んだ背景に、血と死を穢れとみなす神道の考えがあって、血や死骸にかかわる仕事を、下層民におしつけたという事情もあるでしょう。現代日本人こそ、八百万の神を殺し、国家神道の頂点である天皇制を、タブーなく科学的・客観的に語れるようにしなくてはなりません。たとえば、日本各地の古墳は、いまだに宮内庁が管理しているものが多く、学者の調査が入りにくい現状があります。明らかに非科学的なものも宮内庁の内部には存在し、例えば、奈良県橿原市には、「神武天皇稜」などという古墳があるのです。偽物に決まっているのですが、はっきり神武天皇稜と書いてあって、しかも、入り口には、後世につけたであろう鳥居があるのです。無茶苦茶です。科学もなにもあったものではありません。

>(3)今日本でいわれる「宗教」というくくりに属するもの全体を、非近代哲学的であると論証した哲学者はどなたなのでしょうか??その論理や著作をご存知でしたら教えてください。

ちょっと、思いつきません、すみません。

> 私自身が浄土真宗を信仰しているもので、harepandaさんの回答のなかでほめられたので嬉しくなってしまいました。ありがとうございます。この(1)(2)(3)についてどうぞよろしくお願いします。

浄土真宗の塩をまかない習慣はすばらしいですね。他も見習うべきです。これが真言だと、もろに榊で死者に水を飲ませたりするんですよ…神道じゃねえか、これ。その他、仏陀よりもえらい大日如来とう、わけのわからないキャラクターが出てくるのも、ヒンズー教的で嫌いです。逆を言えば、真言宗の出来た時代は、遣唐使廃止以前の、国際色豊かな時代だったんですけどね。

この回答への補足

お礼に書ききれなかったので、補足に書かせていただきました。ご無礼お許しください。
補足への回答ありがとうございます。非常に勉強になることばかりでした。自分の意見もまとめてみたくなり、感想とともに私の意見もまとめさせていただきました。

>>証明不可能なことを断言していることが多いのが第一の理由
確かに仏教で言えば「不可思議」という言葉がよく見られますね。
>>宗教は非科学的・非現代的というより、非学問的
確かにその通りですね。ただ、その基準の問題もあるように思います。岸本英夫の『宗教学』のなかで宗教研究には大きく二つの立場を示します。
1、客観的な立場。科学的研究。「宗教現象がいかにあったか?」
2、主体的な立場。規範的研究。「宗教信仰がいかにあるべきか?」
という立場で、harepandaさんがいうのは主に2の立場かと思います。私自身も2の立場を主に学んでいますが、同じ土俵からの批判でないと受け入れられないというのは確かにあります。けれども、それは国語の「雪が解けたら春になる」という言葉を、理科の「雪が溶けたら水になる」が正しいんだという批判を受けられないのと同じような気もします。
 けれども、harepandaさんがおっしゃるような部分は宗教の中に確実に存在していますね。もう少し私も熟考したいと思います。

>>宗教とは、科学が弱かった時代に、誤った方向に進化した哲学だと考えます。
そうですね。今の日本のくくりでいう「宗教」の中にはそういった信仰も存在していますね。私自身も考えていかなくてはならない課題だと思って、重く受け止めさせていただきます。
 しかし、私は全ての宗教がそうではないとも思っています。そもそも宗教は「理性」を具体的な形で表現しようとしたものだと考えています。人間の脳はトカゲの脳をねずみの脳が覆い、ねずみの脳をサルの脳が覆っているそうです。進化していく過程で、トカゲの脳とねずみの脳を中心に残してしまったことで、中心に古い能があるわけですからサルの脳では押さえきれず感情の爆発(扁桃核に主導権を奪われた状態)が起こってしまうといわれます。そういった能の設計ミスを、理性を具体的な物語として表し補うために生まれたのが宗教なのではないかと考えています。アインシュタインなどは「現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれる宗教があるとすれば、それは『仏教』です。科学的探求は特殊な宗教的感情をひき起こしますが、仏教は愚かな狂信的宗教感情とはまったく違ったものです」と、現代科学にかけているものを宗教(仏教)で補うことが出来るともいっています。ですから、宗教は必ずしも「誤った方向に進化した」ものではないとも思います。

>>専門は弁証法哲学ですから、ヘーゲルとキルケゴールとアドルノが好きです。
ひぇぇぇ。私がヘーゲルを語るなど恐れ多いことをしてしまいました。ご無礼の段平にご容赦を。参考になるご意見をいただきました。私の知らないことばかりでした。もっと勉強させていただきます。

>>浄土真宗の塩をまかない習慣はすばらしいですね。
私自身もそのような自負も持っております。しかし、お塩は入れておいてあげてください。確かに、浄土真宗では塩を使う必要はないと説明する必要はあります。しかし、葬儀には他の信仰を持った方々もいらっしゃいますから、いれておいてあげるほうが私は親切なのではにかとも思います。生意気なことを言いました。あしからず。

 本当に詳しい回答ありがとうございます。非常に理にかなったご意見ばかりで参考になりました。私自身もっと勉強しなくてはいけないなぁとかんじました。お付き合いいただきました、ありがとうございました。

補足日時:2007/09/26 12:54
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/26 15:33

質問した方はこの質問もう気にしてないかも・・・?


1.十代

2.宗教=良い意味で生きる基準
悪い意味で最後の逃げ道

3.キリストもブッタも聖人などとは思わず(特にキリスト)、生きる基準が僕にはあるからです。

4.ある。空想上の物であるゆえにどんな時でも裏切られてきた人が唯一信用出来る物である。

5.まず重要なのは”信じる”事です。
キリストを信じ、天国にいけると思ってる人は魂は消えます、しかし死んだ後の魂の結晶のような物がその人の世界という者で暮らすと言う仮説を僕は立ててます。
しかし僕は輪廻転生を信じます(笑)まあ良いとこ修羅道でしょうね。
まちがっても地獄道は味わいたくないな・・・・

6.(4)です。
と言うかまだ自分がどう死ぬかまで想像つかないので・・・・・

7.(1)とりあえずご先祖様に一番近いので・・・・・

8.「そうだ。これは宿命なのだ」です。
というか死ぬ間際にいきなりキリスト教や仏教の考えなんか言っちゃったらその女の人に疑問が残ってかわいそうじゃないですが。
あと、奇跡でも起こらなきゃ助からないんでしょ?なら「お前はきっと助かる」見たいな事はいえない筈ですよ。
だってその父親は娘の事を愛してるんですから、そのような嘘はつけないはずです。

9.机に写真をおく等という答えしか浮かびません。

8の答えはちょっと酷いかもしれませんね・・・・・
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1.三十路前


2.信仰に対して他者との共有を望む団体
3.信仰は持っているが宗教に属していないから
4.ある 共有による安心感
5.無になる 無が理解不能なので生に依存している
6.今考えていないのでどうでもいい
  死んだ後ならこれもどうでも良い
7.同上
8.私の価値観とあまりに違うので黙します多分
9.小学生の時の友人の死は、その友人にとっては無意味かもしれませんが、私にとっては大きな意味を持っています
答えになっていますか?
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お礼ありがとうございます。


読みました。

他の人は、どうかわかりませんが、自分というものについて
考えたとき、どうしても、流動的な思考や偏ったものの見方で
ものごとをみることがあります。

それは、人の考えは常に周りや自分の気持ちで変わるものだし
考えが変わりつづけることがあったとしても、
自分は自分として生きるしかないから、どうなったとしても
その変化を自分の中で、みとめてやろうという思いがあります。
世の中に、あまり絶対っていう事がないのと同じように、
なるべく、決め付けたり固定した考えを植えつけることを敢えて
しないように生きてきました。

死者と生まれてくる前のかたちのない人の時間軸については、
自分は無視して良いものだとおもっています。
そもそも、[生まれてくる前の人]と「死者」と『今生きている人』が
同一人物(人間という個体として)の可能性だって
あるわけで、それが同時的に存在することもありえるのではないか
とおもっているので。
うまく伝えられなくて申し訳ないですが、
たとえば、いま目で見える生きている人というのは存在が
認識できますが、〔戦争で亡くなった人の生まれる前のかたち〕も
「未来に生まれて事故で死んでしまう人の死後」も、ここには
同時に存在していると、おもっています。
たまたま、いま我々の生きている世界は、共通認識として
存在しているようですけど、それ以外の部分については時間軸も
なにも隔たりがなく、分類とか観察とか判断できない状況ではないか
というのが、自分の意見です。


そうですね、おっしゃるように死者が生きているものにわかる言葉で
語りかけてくることは、不可能ですね。
自分は、死んでしまった人がもし今生きていたらこう思うだろうとか
こういうだろうって想像することや察することや想い出に浸ることは
可能だと思いますが、それを死者との対話という表現を使うのは
抵抗があります。
言葉自体、個々によって受け止め方や意味あいが違うものなので
難しいとは思いますけど、自分としては、生きている人が
都合の良いように、思い出したいときだけ、こちらの一方的な脳で
考えてそれを、死者との対話と定義したくないですし
それこそ、生きている人の傲慢としての対話だと思ってしまいます。
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この回答へのお礼

何度もありがとうございました。
tipsさんのお話非常に参考になります。私自身もう少しお話していたいのですが、ここの趣旨とは少し離れてきたように気がするので、ここは締め切らせていただきました。
また哲学のカテゴリー等で、私自身の意見をまとめてご質問させていただきます。もし見つけたら、きてくださいね。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/10/04 09:32

お礼をありがとうございました。


お礼の中に、質問に感じられる内容があったので、
自分の考えをお答えします。

・・・・しかし、「死んだ人」と
「生まれてくる前の状態」同格に扱えるものなのでしょうか?

ということでしたが、自分にとっては
生きているということは、生きている自分と同じ世界にいて
同じ様な肉体をもって同じような世界を見る事が出来るという
可能性においては、生きている同士で同じだと思うのですが、
死んでしまった人やまだ生まれていない形のない人たちは、
自分と同じ世界には、いないとおもうので、
ひとくくりに、自分としては扱っています。

>どんな歴史の中に埋もれても、個別的な一人として
活動し死んでいったわけです。
また身近な人間とはある特定の関係は結んでいるわけです。

ということですが、肉体もないし対話も出来ない以上は
生きているという状態ではない(生まれる前・死んだ後)
にもどるのかなとおもいます。
死んだ人とどのような対話が望めるのか、わたくしには
わかりません。
対話というのは、相互のやりとりが同時的に
お互いの反応をとらえながらすすむものだとおもうので。

いま、自分たちがいる世界は、「生きている人中心の世界」
だとおもうので、
>生きるものの傲慢というのが普通のことであって、
それ以外の死者や生まれる前の人が傲慢になりえる世界は
生きている自分たちには、わからない(見えない)世界だと
おもいます。

この回答への補足

御礼のところにいれようと思ったのですが、御礼には入りきらず補足を使わせていただくご無礼お許しください。
丁寧なご返事ありがとうございます。この場を借りて、私の考えをつらつら述べさせていただきます。
>>自分と同じ世界には、いないとおもうので、
>>ひとくくりに、自分としては扱っています。
たしかにその通りですね。自分と同じ世界にいないということは私も同意見です。
>>生きるものの傲慢というのが普通のことであって、
>>それ以外の死者や生まれる前の人が傲慢になりえる世界は
>>生きている自分たちには、わからない(見えない)世界だと
>>おもいます。
 tipsさんのおっしゃるように、生者が生きるものの傲慢な世界(生者の世界)だけを考えるならば、死者は過去の存在であり今は存在することは出来ない。あとは、生きる者の記憶に残るだけの存在ということになります。そうであるならば、殺人はどうなるのでしょう。記憶にしか残っていない過去の存在に対して今現在責任を取る必要などないのではないか。そうではなく、悲しむ遺族に大きな損失を与えたから、そのことに対しての責任があるのではないか。しかし、悲しむ遺族のいない人は殺してもよいのでしょうか。あるいは、殺人は社会の秩序を乱すから許されない。無制限に殺人を許せば、社会は混乱するし、自分自身も生命の危機に襲われる。だから殺人は許されない。「生者」の論理で考えれば、これが最も納得いく理屈でしょう。そういった、場合逆に社会秩序を守るための殺人、死刑や場合によっては戦争による殺人は全く問題のないものになります。それで本当によいのでしょうか。
 死者は過去の存在であって、今現在は生者の記憶に止まるものでしかないというのは、非常に合理的適切なようには見えますが、同時に私には上記のような釈然としない問題が浮かび上がってきます。こう考えたときに死者は今現在も生者と何らかの形でかかわっているというのが自然な気がします。もちろんそれは、怨みや呪い幽霊という意味ではありませんが、それがどういったものであるかは私もいまだつかめていないのもたしかです。けれども、生者が死によって死者になったとしても確実に生者にかかわりを持っているとおもいます。しかし、死者が関わっていることを忘れてしまった時、生者のみで生きているのだという傲慢な思い込みが発生するのではないでしょうか。
 時間的なことを言えば、過去は単純に過ぎ去っていたものではないということです。ですから、私たちに関わってくる「死者」という過去と、私たちと関わり得ない「生まれてくる前」という未来を同格にすることは私は出来ないと思うのです。

 かつて、人々は死者を恐れ、死者の魂を沈めることに細心の注意を払っていました。これを非科学的な魂の信仰であると否定するより、死者が生者に何らかのかかわりを持ちうることを知っていたのではないかと思うのです。
>>死んだ人とどのような対話が望めるのか、わたくしには
>>わかりません。
私はどちらかといえば、幽霊ですとか魂などは否定的な意見を持っています。ですから死者はtipsさんのおっしゃるように、決して生者の言葉で語りかけてくることはありません。けれども、死者は何かしらこちら側と関わっていると思います。その、声に耳を傾けるのは生者の務めです。しかし「それは生者の思い込みや欲望を語っているだけではないか」という疑問は常に付きまといます。それに対する客観的な判断は死者は語ることができない以上不可能だとおもいます。しかし、「思い込みかもしれない」という疑問を持ち続けるからこそ、死者の声なき声に耳を傾け、間違っていると思えば改善し、進歩し続けられるのではないかと思います。
 それが、「死者との対話」という表現をさせていただきました。
 
tipsさんの意見非常に参考になりました。おかげさまで、私の意見自体も少しずつまとまってきました。二度にわたって丁寧な回答ありがとうございます。

補足日時:2007/09/26 15:30
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/26 15:33

哲学のカテでご質問を拝見して、懸案の質問に回答したらこちらにも答えようと思っていたら、あちらの方にはいつのまにかなくなっていたので、アンケートのカテゴリーを探しました。

ずいぶん前の質問になっちゃってますね。哲カテの進行速度とえらいちがいだ(笑)。

さて、厳密にいうと「無宗教」に該当するかどうかわからないのですが、いちど自分の宗教観を整理してみたかったので、このご質問をお借りします。ちょっと逸脱する点があったら、なにとぞご容赦ください。

問1
三十代です。

問2
現実を言葉として受けとり、言葉を通じて内面化する人間にとって、「死」というのは、極めて特殊な、比類のない経験です。つまり、これまでの経験から、人は、等しく死ぬことを知っており、自分自身がそこに近づいていることも知っているわけですが、死そのものと真に出会うことはありません。わたしが「死」という経験を「生きる」ことはできないからです。だから、死にゆく経験というのは、決して経験とはならない経験です。

ブランショは『文学空間』のなかで、「私は死ぬ」のではなく、「ひとは死ぬ」のだと、「無限に終わることなくひとは死ぬ」という言い方でこのことを表現しているのですが、生きるというのは、ある意味では、その宙づりにされた状態にひたすら耐え続けることでもあるのだと思います。

だからこそ、人は何らかのかたちで、よりどころを求めずにはいられない。自分と同じ地平ではない、ちがう地平に立つ存在を求めるのだろうと。
宗教というのは、その「よりどころ」であろうと思います。

いわゆる「無宗教」といっても、それは伝統宗教ではなく、多くの人は「疑似宗教」にたよっているだけだと思います。
そうではない立場、たとえばニーチェのように、あるいはバタイユのように、信仰を捨てる、というのは、逆に、徹底して宗教を、あるいは、神を、考え抜くことでもあります。わたしから見ると、それもまた極めて宗教的なありようだと思えるのです。

そうした意味で、人間が人間である限り「宗教的なもの」とは無縁ではいられないように思います。

問3
日常的にはほとんど接触がないのですが、家というか一族という単位で見るならば、浄土真宗の檀家ですし、正確には無宗教ではありません。
ただ、わたし自身は「不可知論」の立場を選択しています。神や霊魂など、確証がないものを肯定することにも否定することにも意味はないと考えているからです。

この態度は「いまのところ」という留保がついていて、もしかしたら、のっぴきならないところで自分が「宗教」とめぐりあってしまう可能性はあると思っています。
反面、仮に宗教的感受性というのがあるとしたら、わたし自身はそういうものがひどく鈍いのかもしれない、そのために、これまでそういう機会を逃し続けただけなのかもしれない、とも感じています。もしそうだったら、今後も宗教とはめぐりあえないままかもしれませんね。

問4
ニーチェが殺してしまったにもかかわらず、神、あるいは宗教的なものは、さまざまなかたちをとって遍在しています。神を信じる代わりに、あるいは伝統的な宗教を信仰する代わりに、人は「科学技術」や「理性」、あるいは「国民」や「民族」、あるいは「貨幣」を信じている。
人間はどういうかたちであれ、宗教的なものと縁を切ることはできないのだと思います。だから「ある」も「ない」もないなあ、と。

そのうえで、「宗教」というのとは多少ずれるのでここでは詳述を避けますが、わたしはレヴィナスの「神」の概念に非常に魅力を感じています。

問5
自分の死は体験できないことですから、考えてもしかたがないと思っています。

問6
残った人にまかせます。
わたしが死んでしまったら、一切はわたしの手を離れると考えています。

問7
残った人にまかせます。

問8
これ、ほんとうに科学的な態度なんでしょうか。

> 娘が間違った方向へ進んではいけないと、娘に科学的で合理的なことを教えていったそうです。これは合理的ではない。これは非科学的だと。

合理的-非科学的という二項対立のさせかたは、ずいぶん粗雑だし、それが科学的態度とはわたしにはとうてい考えられません。というのも、科学的-非科学的という分節は、つねに既知のものに対してなされるものですが、なんであれ学問というものに携わろうとしている人であれば、いつも顔を向けているのは未知の領域だと思うのです。つまり、自分にはわからないことがある、未知の部分がある、そうして、既知の部分に較べ、その未知の領域は無限である、ということを、まず受け入れることを自分の基本に置かなければならないでしょう。

そうして、未知というのはつねに「語り得ないもの」でしょう。学ぶことを自分の中心に置いている人は、つねにこの「語り得ないもの」の存在がどこまでいってもあることを知っているはずです。そうして、「語り得ないもの」を前にしたとき、一番誠実な態度が「沈黙する」ということであることも。これが「科学的」かどうかは知りませんが、少なくとももっとも理性的、という意味で、合理的な態度だとわたしは考えています。

「死」というのは、上でも書いたように、決して経験されることのない経験ですから、あらゆる人にとって、未知のもののはずです。いったい誰に「死とはかくかくしかじかのものである」と語ることができるのでしょう。そういう意味で、わたしにはこの人の態度がよくわからない。

>私ゴミになるんだね?

これは質問のかたちを取っていますが、質問ではありません。
娘は死ぬことに怯えているのです。だれも体験したことのないことに直面し、恐怖を感じている。
ですから、そういう怯えに対して、「答え」ではなく、死に直面していない自分はいったい何をもって「応える」ことができるのか、ということが問われているのです。

正解などあろうはずがありません。
また、あらかじめ考えておくことができるとも思いません。
いちどきり、その瞬間に、ぎりぎりの誠実な言葉、具体的には言葉ではなく、動作かもしれない、くちごもったり、うめいたり、ただ「泣く」という行為しかできないかもしれない、けれど、その人がこれまで生きてきたそのすべてを一点に凝集した言葉なり行為なりが発せられるべきだろう、と思うのです。

そうして、わたしはそうしたものはかならず伝わると思っています。そこから、死んでいく人は、自分の生に意味があったことを知るはずです。それが死んでいく恐怖を和らげるかどうか、わたしにはわからない。けれども、自分の生に意味があったと知る以上に悦ばしいこともないのだとわたしは思います。これは自分では知ることができない。他者から与えられるしかないものだから。

そうして、それがいわば究極のコミュニケーションなのだろうとも思うんです。
わたしたちがボキャブラリを自らの内に蓄え、その使い方を学びながら自分自身を作り上げていくのも、とどのつまりは、その究極のコミュニケーションをできるだけうまく遂行するためなのかもしれません。

問9
それはわかりません。その人しか答えの出せる人はいないでしょう。
ただ、具体的な行為はわかりませんが、どういうかたちであれ、その経験を重く受けとめつつ生きることが、その答えに通じていくのではないかと思います。
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この回答へのお礼

>>アンケートのカテゴリーを探しました。ずいぶん前の質問になっちゃってますね。哲カテの進行速度とえらいちがいだ(笑)。
 申し訳ないです。確かに速度も違いますねぇ。哲学くらいのんびりしてくれる方が答えるときに助かりますよね。

>>いちど自分の宗教観を整理してみたかったので、このご質問をお借りします。ちょっと逸脱する点があったら、なにとぞご容赦ください。
 そういう人好きです。私も脱線派なので嬉しい限りです。深いご考察いただいていますからすでにお分かりかもしれませんが、この質問の私なりの意図は、問2、問3、問4は「宗教と無宗教の定義」。問5、問6、問7は「自分自身の死」。問8、問9「他者の死」ということになります。
>>生きるというのは、ある意味では、その宙づりにされた状態にひたすら耐え続けることでもある
 なるほど。仏教で言う「お盆」というのも、もともとは「盂蘭盆」といい、日本語に直訳すると「逆さ釣りの苦痛」になるそうです。通じるものがあるような気がします。

>>いわゆる「無宗教」といっても、それは伝統宗教ではなく、多くの人は「疑似宗教」にたよっているだけだと思います。
現在日本において使われる「無宗教」という意味ですね。
>>信仰を捨てる、というのは、逆に、徹底して宗教を、あるいは、神を、考え抜くことでもあります。わたしから見ると、それもまた極めて宗教的なありようだと思えるのです。なるほど。納得させられるお答えです。

>>レヴィナスの「神」の概念
とは、エマニュエル・レヴィナスのことですよね??

>>これ、ほんとうに科学的な態度なんでしょうか。
まぁ、実話かどうか分からない物語ですから、ご容赦ください。
>>娘は死ぬことに怯えているのです。だれも体験したことのないことに直面し、恐怖を感じている。
そうです。私が聞きたかったのはこのことなんです。文意を汲み取っていただき感謝します。

>>ただ、具体的な行為はわかりませんが、どういうかたちであれ、その経験を重く受けとめつつ生きることが、その答えに通じていくのではないかと思います。
なるほど。
 いろいろ、分かりにくい文章であったにもかかわらず、深いご考察ありがとうございます。参考になりました。

お礼日時:2007/09/26 11:47

こんにちは。



1:1970年代後半生まれです。

2:宗教とは、思想の自由を束縛するもの。
  宗教とは、規律や規則や限界のあるもの。
  無宗教とは、物事を決め付けないで、自分で判断するために
  可能性を残しておくための道。
  
3:特に、特定の宗教の教えや教典を信じていないし
  一方的に、枠におさまりたくないからです。

4:よくわかりませんが、意味の無いもの・価値のないものは
  この世の中に、ほとんどないとおもいます。
  それが、宗教であれ、遊びであれ、意味はその人の中に
  あるとおもいます。

5:死んだら、生まれてくる前の状態(肉体もない・こころもない)
  に戻る気がします。

6:葬儀は、おそらく生きている人のためのものだと
  思うので、自分はしなくてもいいとおもいますが、
  生きている人たちの体裁や立場や感情も考慮して
  適当にすきなようにしてくれたら、いいです。無しでもOK。

7:生きている人に、任せますけど、
  愛している人に、最後お骨を舐められたいです。

8:死んでも、生きている人のこころの中に、残るよ。
  大丈夫だよ。と言います。

9:時々思い出したときに、その思い出を今の自分の生き方に
  反映させればいいとおもいます。
  人間、死なない人はいないので、それほど死を悲しむことは
  自分は、しないとおもいます。
  100人中2人ぐらいしか死なないで、あとの人たちは、
  永久に命が続くなら悲しむのもわかるけど、遅かれ早かれみんな 
  死ぬので、それよりも少しでも思い出を風化させないように
  覚えていることを、忘れないための手段をとります。
  たとえば、文章に残すとか、写真を整理するとか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。参考にさせていただきます。
この質問の私なりの意図は、問2、問3、問4は「宗教と無宗教の定義」。問5、問6、問7は「自分自身の死」。問8、問9「他者の死」
ということでした。
問5の
>>死んだら、生まれてくる前の状態(肉体もない・こころもない)に戻る気がします。
というのは、宗教を排除した倫理の構造を図った柄谷行人氏の説にそんなことがあったようにおもいます。
 しかし、「死んだ人」と「生まれてくる前の状態」同格に扱えるものなのでしょうか??輪廻の思想などを肯定するのであればそうかもしれませんが、「死んだ人」は固有名を持ち個別性を持っています。どんな歴史の中に埋もれても、個別的な一人として活動し死んでいったわけです。また身近な人間とはある特定の関係は結んでいるわけです。
 それに対して、「生まれてくる前の状態」は、妊娠中の胎児を除けば、特定の個別性を持たず名前を与えることも出来ません。したがって、具体的な特別な関係を結ぶことは出来ません。対話できないという点においては同じであるかもしれませんが、「死んだ人」と対話できないということと「生まれる前の状態」と対話できないというのは、全く意味が違うように思います。

問9の
>>思い出を今の自分の生き方に反映させればいいとおもいます。
というお答えも、詳しくは他のお礼の部分に書きましたが、「思い出」や。「記憶」にたよるというのは、生きるものの傲慢なようにも思えます。

長々感想を書き連ねましたが、私のつたない文章からご高察いただき、本当にありがとうございました。

お礼日時:2007/09/24 18:19

No.9です。


補足を読みました、問8について再回答します。
無宗教の私だったら、死に直面し恐怖している愛しい人に何を言うのか?ということですね。
◆ともに無宗教ならば、当然ながら宗教的な「救い」または「救われる期待」はありません。
娘が、父をよほど信頼してくれているようなら個人の責任において「おまえは大丈夫だよ。怖いだろうが、来るものをすべて迎え、最後まで立派にやり遂げられるよ。私には分かってるから」と言うのも有りでしょう。それで「お父さんがそう言うなら、安心できるわ」となるなら。
しかし仮に私が娘の立場だったとしたら、誰に「大丈夫」と言われても恐怖感はぬぐい去れません。むしろ、そんな言葉で私の不安を解決済みに回そうとするのが許せないでしょうね(←狭量)。恐怖は一人で立ち向かわなくてはならないものだと思うからこそ、安心させるようなことは言わず、ただ一緒に居てくれるほうが嬉しい。というわけで、その「約束」でしょうか。
「おまえがとても怖くて、そうして欲しいと望むなら、ずっと傍について居る。」

問9については同じ。

追:理由は好奇心、いいと思います。オスカー・ワイルドもそんなことを書いていました。
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この回答へのお礼

再回答ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました。
>>仮に私が娘の立場だったとしたら、誰に「大丈夫」と言われても恐怖感はぬぐい去れません。
私自身もそのように思います。。
>>恐怖は一人で立ち向かわなくてはならないものだと思ううからこそ、安心させるようなことは言わず、ただ一緒に居てくれるほうが嬉しい。
この異見にも共感します。私は死の恐怖に立ち向かって行けるほど強い人間ではないようですから、きっと誰かと一緒にいたいと思うようにも思います。

>>理由は好奇心、いいと思います。オスカー・ワイルドもそんなことを書いていました。
オスカーワイルドって『幸福な王子』とかドリアングレイの人ですかね??光栄なことです。ありがとうございます。

お礼日時:2007/09/24 16:49

●問1


18
●問2
生活に対する規範があるもの
●問3
↑のようなことが無いから
●問4
ある
価値観とかが見えにくい時代だと思うので、
尺度になるといえばなります。
●問5
うまれかわる
●問6
自分の家の宗派の仏教で
●問7
1、お墓に入る
残った人たちが「会いにくる」場所として。
精神的なものです
●問8
娘の質問の意味がよく分かりません。
科学と宗教と聡明さとかって関係ないですよね
●問9
自分の思うようにすればよいです

この回答への補足

回答してくださった方々ありがとうございます。最後の二問に関して
>>娘の質問の意味がよく分かりません。
>>科学と宗教と聡明さとかって関係ないですよね

>>宗教の対義語が科学ではないですよ。
といったご指摘があったので、補足させていただきます。何人かの方は私のつたない文章からご推察いただきまして、ありがとうございます。
まず、問8、問9の質問は「他者の死」ということについての質問です。私自身はご指摘にあるような宗教の対義語が科学であるとは思っていません。このお話は私の創作ではなく、しばらく前に人から聞いたお話で、その人は科学者と話していたのでそのまま科学者としました。ですから科学者である必要はありません。これが実話であるのかどうかも分かりません。
無宗教とおっしゃる方々の多くは「自分の死」というものに関しては深い考察があるのは私自身感じていたことですが、「他者の死」ということについての宗教的な部分を排除してなされた考察を理論的にまとめたものは、私の勉強不足であるかもしれませんがあまり目にしたことがありません。そこで、問8、問9だったのですが、分かりやすいかと思ってこの間聞いた話を例にとってみたのですが、逆に分かりにくくなってしまいました。申し訳ありません。
問8の意図としては、無宗教である方々が死に逝く他者にどのような言葉をかけるか?ということでした。このお話を提示したのは、愛する娘に「死んだらゴミになるんだね??」と言われた科学者の立場立って、無宗教の方々がその立場から娘に何を伝えるか??ということであって、ゴミの定義とか科学と宗教とか聡明さそういったことを問うているのではありません。一人の人間が愛する人の死に遭遇し、その人が死に恐怖しているときに出た言葉に対して、無宗教という立場の方々はどのような声をかけるのか??という質問です。
 問9も科学者の立場に立って、ご自身が愛する人の死後どのように死者と付き合うか?(お叱りを受けるかもしれませんが、これ以外の表現が思いつかず申し訳ない。)というものです。
 問8問9に関しては、私が聞きたかった「ご自身だったらどうするか??」ということだったのですが、科学者の話を出してしまったために他人事としての質問になってしまい、皆さんの混乱を招いたり、私の聞きたかったことが聞けなくなってしまったようです。私の推敲の甘さです、申し訳ありませんでした。次回質問をするときはこのようなことがないようにしたいと思います。補足も読みにくいものであるとは思いますが、文意を読み取っていただきたく思います。
 私のミスのために回答を直される方がいれば申し訳ありません。皆さん本当にありがとうございます。お答えは丁寧に読ませていただいています。どうぞよろしくお願いします。

補足日時:2007/09/22 18:47
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。参考にさせていただきます。
この質問の私なりの意図は、問2、問3、問4は「宗教と無宗教の定義」。問5、問6、問7は「自分自身の死」。問8、問9「他者の死」
ということでした。その質問のメインになるものは「他者の死」ということでしたが、意図がうまく伝わらず申し訳ありませんでした。
 私のつたない文章からご高察いただき、本当にありがとうございました。

お礼日時:2007/09/24 16:26

宗教と言うものはなんでしょうかね。


教会に行く事?ノ~です
ただ心の中に神という見えないものを作る。そして幸せになるならそれが信仰というものじゃないかな?

一体何のために使うの?まずそこをきっちり抑えて言うべきですね
何に使うのかを

この回答への補足

 一括でのご返事どうぞお許しください。他の方にも返事しなければならないのですが、もう少し様子をうかがっていたく思います。しかし、数人の方から
>>一体何のために使うの?まずそこをきっちり抑えて言うべきですね
また、
>>お答えする前に…これってなんのために、聞いてるんですか?それが知りたいなあ。
という、ご指摘を受けたので先に答えさせていただきます。
 何に使うか??ですが、私の知的好奇心を満たすためですかねぇ。
 私自身は宗教が身近にある環境に育ったものですから、私自身は無宗教ではありません。ですから、前々から無宗教とおっしゃる方々がどんなことを考えているのかなぁ??と漠然と思っていました。しかし自分は信仰する宗教をもっているだから、無宗教の方の立場を考えて想像することは出来たとしても、無宗教立場は無宗教の方本人に聞かなくては分からないだろうと思い、自分が疑問に思っていることをいくつかの質問にしてあげてみました。(質問にも意図はあったのですが、今思えば質問内容ももう少し推敲を加えるべきでした。反省)
 問1に関してはは、どれくらいの年の人がどんなことを考えているのかな??と思っただけで、統計を取ろうとかそういう意図はありません。ここ以外で世に出ることはないかと思います。私自身は学生でもありませんし学者ではありませんから、資料としてどこかに提出しようというようなことは考えていません。
 目的をあえて載せなかったのは、それほど崇高な意思の基、何かの目的を持っての行動ではないからです。これで、きっちり抑えられたでしょうか?? 
非常に身勝手な理由で申し訳ないのですが、どうぞ回答のほうもどうぞよろしくお願いします。

補足日時:2007/09/22 09:26
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