架空の映画のネタバレレビュー

最近、私の親友に、宗教の誘いを受けました。

ハッキリ言って不快です。

私の考えとしては、神=存在しないモノでしかないのです。

存在しないモノに、熱を注ぎ、手を合わせる...
宗教に浸る人達は、己の行動や言動に、疑問を感じた事は無いのでしょうか?

親友にも、同じ事を問いましたが、結局口籠もってしまい、彼の宗教に対する考えを、聞き出すに至りませんでした。

私は、宗教に対して、何故か人一倍、嫌悪感があり、正月は元より、何があっても、神社にも行きません。

宗教自体、偶像崇拝でしかないと思っています。

皆さんは、宗教に対して、偶像崇拝だと思われますか?

宗教家の方々の意見が聞けると助かります。

宜しくお願いします。

A 回答 (12件中1~10件)

宗教なんて、気休めに過ぎない!宗教など信じるから、大災害が起きるのだ!この世には、神はいない!と思い知るがいい。

あの世にしか、神はいないのだから・・・。人は、死ねば、神になれる。蘇日手、神は、皆平等である。勝手に、俗世間の人間が、拝んでいるだけだ。よって、神も仏もこの世には、ないのだから、宗教なんて無意味!と言うこと。以上です。
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創価学会の者です。



確かに、大部分の宗教は、神や仏、教祖にすがり、それらを拝めば救われるという幼稚な教義を掲げていますね。ましてやお布施をすればするほど救われる、要するに、お金を出せば出すほど救われるなどと嘯く宗教などは論外です。質問者様ご指摘のように、人間の創造の産物にすぎない、実体のないものに拝み救済を求めたところで、単なる気休めにすぎず、幸福になれるものではありません。

しかし、真の宗教は、神や絶対者など、実体のないものにすがるのではなく、自分自身に内在する無限の可能性を引き出し、そして自分を変革し幸福になっていこうというものです。つまり、神など自分以外の外部のものに救済を求めるのではなく、自分の中から自分自身の救済の力を引き出すのです。

この宇宙は、ある根源の力で運行されています。その力の名称を「南無妙法蓮華経」といいます。また、我々もこの大宇宙の万物の一部分であり、いわば小宇宙です。この名称(題目)を唱えれば、大宇宙の根源の力と、小宇宙である我々の生命が融合し、その大力を自分のなかに引き出すことができ、幸福になっていくのです。

真の宗教は、「偶像崇拝」などといった皮相的なものではなく、宇宙の大力と我々を結びつける役割をするものなのです。そこには、「神の意向」などといった他律的なものは一切なく、自分で自分をいくらでも変革し、幸福にできるといった自律性が満ちています。宗教には正邪があります。すべての宗教を諦めの目で見ることなく、真の力ある宗教の存在を認めていただければ、幸いに存じます。
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 んー、宗教家ではありませんが(酔汗)



神様が居るかどうかは別として、信じるに値する
何者かを思い描く(偶像化する)事で平常心を保とうと
する・・・て側面はあるかもしれませんね。

今ほど多様な価値観が溢れていなかった時代の人達は
大集団で何かを築き上げるしか無かったのでせうが・・・

現在では人それぞれ、個人の「口(味覚)や趣味に合う」ものを
選んで神格化する事もある様に思います。

それは、芸能人であったりアーティストであったり・・・
「人ではない架空のキャラクター」である場合もあるかも
しれません。

何れにせよ、他者に強要する&される筋合いのものでない
という事だけは確かですね。
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宗教法人であれば税金は0


それは国が決めたことだけれども、その恩恵にどっかりすわり権利を100%利用して
伝道、布教活動といっている宗教が嫌いです。
しかも税金0でありながら政治献金はしっかりやっている。
信じられません。(ここんところは皮肉です)
他宗教を認めず必ず悪く言います。

宗教の難しいところは判りませんが一市民の感想です。
今日も勧誘にやってきました。
勧められてはいるようなものは宗教ではないと思います。
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困ったときの神頼み。



不満のない人に「痩せるダイエット薬」「美容整形」「男性用かつら」は売れません。しかし高額払う人もいる。それで幸せでなるなら。雪山で遭難、石の下で127時間、屋根の下で10日間。どん底に落ちて出口が無くなったら、神なり奇跡なりを信じるときがあるでしょう。

今回の災害に限らず、どん底にいて自殺しか考えられない人には、「助け」が必要です。危機一髪を救われた人はすでに何かが見えているかもしれません。

健康で自立した人間には、偶像は必要ありません。まったく見えないと思います。中世の世界と日本、苦しいから宗教に頼ったのだと思います。そのお誘い、断って大丈夫です。今はその時ではありませんって。
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こんばんは。



>宗教家の方々の意見が聞けると助かります。

“現役”の方は、『意見を述べる事はタブー』だと思います。

プロテスタントの役職を捨てました。
密教の僧籍を捨てました。

その立場から綴らせていただきます。

>最近、私の親友に、宗教の誘いを受けました。
>ハッキリ言って不快です。

そのお気持ちは『双方共に理解できるつもり』です。

誘う側 : 妄信にしろ、盲信にしろ、『宗教と称するモノ』から
       何かを得ているのでしょうね。
       ですから『貴方にも…』となるのでしょう。
       『美味しく安いお店』へ誘う事が『喜んでもらえる事』と
       思い込んでいるのでしょう。

誘われる側 : 空腹感を相手に感じさせていた。
          しかし、『誘われたお店』は自分が『嫌いな食べ物』または、
          アレルギー反応を起こす食べ物だった。

>私の考えとしては、神=存在しないモノでしかないのです。

“考え”はその方の過去に起因します。
過去の『経験、体験、記憶』にです。そしてまた『エゴ』が介在しています。

ですから、『私の考えとしては、神=存在しないモノでしかないのです。』については、
他人様に意見を聞く事も、同意、反論を得る事も『無意味』です。

無意味、その訳は『同じ過去を持つ“ひと”は存在しない』はずです。
エゴ=自我についても“固有のモノ”です。
それらを『ベース』にした会話は『主張 対 主張』となれば、
混乱や葛藤、争いの要因になります。

しかし『容認、受容、許容』を持っての会話は『お互いの尊重』になります。

>神

『神』と言う単語は、『単語』であって、『神(の実相)』ではありません。

仮に『神』を適切に表現したモノがあったなら、

それは『表現者の範疇内』となり、『表現者=ひと』ですから、
『ひとが作り上げた物』となります。

ですから、『偶像、仏像、十字架…経文、真言、聖書…』
全てが『ヒトの産物』に他なりません。

しかし、『ひとには“こころがある”』事も否めません。

一刀入魂、一筆入魂されたモノは『その“作者のこころ”が宿っている』と思います。

その宿っている“こころ”を、“感じる事ができる”のも、やはり“こころ”です。

(こころ=心、霊、魂…同義で使っています。)

>宗教とは。

その本質は『人生の浮き沈み、艱難辛苦、喜怒哀楽』に対しての、
『止まり木(休憩所)』です。
それ以上でも、それ以下でもありません。

人生と言う長き道…『それ(休憩所)』が必要な時、必要な方にとっては
『何よりの癒しの瞬間、スペース』です。

しかし『それを必要としない方』にとっては、
『マイペースで進むことを妨げる障害物』にしかなりません。

…それでは。
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私は女神崇拝しています。



その女神は私の家に住んでくれている上に戸籍上では私の配偶者にもなっています。

この私の「配偶者教」は偶像崇拝ではありません。

しかし、私が他にも頼っている「両親敬う教」のほうの男性神は既に現世にはいません。

それで月に一度は私にDNAを残してくださった男性神の遺骨の上に乗っけられた石に向かって手を合わせています。
石にも生を持たない骨も偶像と呼んで差し支えないでしょう。

しかし、私はそれら無機質な物体を疎かに扱ったり足で踏みにじったりすることは出来ません、偶像を否定するご質問者さんのような合理的思考の方にとっては「ただの石」と「何の役にも立たないカルシウムの塊」だとは思いますが。

ちなみに現世に存在する「両親敬う教」の女性神に今、手を合わせたりしたらこっぴどく怒られますね。(笑)

誰かの言葉を信じ救いを求める。こんな弱い心を持った私には宗教は必要です。

世の中に私のように心が弱い方が多くいることを知っているから、私は神社仏閣教会全て必要だと思いますし、教会でバージンロードを歩いた後、親族の前で三々九度披露して後日、ご先祖の墓への報告へ寺に赴く日本人の柔軟さが好きです。

ま、私のような外見駄目男がクリスマスには教会を正月には神社仏閣を否定していれば独身時代なら間違いなく「モテない負け犬の遠吠え」と言われるってのもあったのですが。

お友達がご質問者さんに無理に宗教を勧めるのも、ご質問者さんがその宗教を頑張って否定するのもあまり感心しません。

>皆さんは、宗教に対して、偶像崇拝だと思われますか?

偶像と思っている人にとっては偶像崇拝ですし、偶像と思っていない人にとっては偶像崇拝ではありません。

中には私のように現世に存在する女神を崇拝している者もいるくらいですから。
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偶像崇拝です。




信じる者しか、救われません。

「信は力なり」です。
たとえ偶像崇拝であっても、洗脳されるくらいに信じれば、思わぬ力が発揮できます。

そういう世界ですから、腹を立てずに相手にしないことです。


宗教なんて、所詮「先人たちが説いた、人として生きるための心構え」にすぎません。


どうか、自分を信じて、宗教などに頼らない強い心を育んでください。


私は創価学会員ですが、洗脳されず、宗教団体の在り方に疑問をいだいています。

ですから活動もせず、神頼みもしません。
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宗教家ではありませんが、特定の宗教を信じています。




>皆さんは、宗教に対して、偶像崇拝だと思われますか?

偶像崇拝とは思っていません。
神様と呼ばれる高貴な存在が人間の魂やその生存空間を作った、と本気で信じているので。



>存在しないモノに、熱を注ぎ、手を合わせる...
>宗教に浸る人達は、己の行動や言動に、疑問を感じた事は無いのでしょうか?

存在しないモノ、と思ったことがないので、
手を合わせたり、お布施したりすることに疑問を感じたことはないです。


神様仏様、というと抵抗があるかも知れませんが、
宇宙ができたり、人間が生まれたりすることに、何の力も働かずにたまたま偶然何の意図もなくできあがったと思うのでしょうか。
その方が私にとっては不思議なくらいです。
宇宙の意思、創造主、色々な言い方はあると思いますが、今の宗教を信じる前からそういった大きな力のようなものの存在をなんとなく信じていました。
日の出を神々しいと感じて感謝する気持ちが出たり、そんなのも信仰心だと思っています。



>親友にも、同じ事を問いましたが、結局口籠もってしまい、彼の宗教に対する考えを、聞き出すに至りませんでした。

私の友人にも宗教を完全否定し、嫌悪感を抱いている人がいます。
その友人に「なんで宗教なんか信じてるの?」「むなしくならない?」と聞かれることがあるのですが、
前提としている世界観が違いすぎると言うか、
端から「否定してやろう、論破してやろう」という意気込みが感じられると、なんと言っていいかわからないので「私は信じてるからー」としか言えません(笑

もしも親友の方の宗教に対する考えを聞き出したいのであれば、その時だけでも「もしかしたら何か目に見えないモノや力が、あるのかもしれない」と思っている雰囲気を醸しだしてあげると、その方も話しやすいと思われます。
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私も宗教は嫌いです。


政治や私腹を肥やすために利用されていることが多いと思います。
困っているとき、心が壊れそうなとき、人は何かにすがりたいと思う。
それに付け込んでくる新興宗教は本当に許せませんね。

信仰を持つこととと宗教を信じることとは別物だと思います。
信仰とは、神を信じることとは、この世界のすべての存在に感謝することだと思います。

私はイエス・キリストの教えは素晴らしいと思って聖書も読みます。
仏教の教えの中にも大事なことがたくさん存在していると思います。
日本の古いことわざの中にも、はっとさせられるような言葉があります。

そういう先人が遺した言葉を自分の中に取り入れて、実行して成長していくことが
大事なことだと思います。
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