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現在のドイツの若い世代には、旧東ドイツの国旗に書かれていた国章(​http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%83%89% …​)をファッションロゴにしている者もいると、かつて本で読みました。

また、ベルリンには『イーストサイド ギャラリー』という名前で、ベルリンの壁があくまで日常生活の一部として溶け込んでいます。

ドイツ人の旧東ドイツへの心象は、いかがなものなのでしょうか?

A 回答 (2件)

17(18?)歳以下のドイツ人は統一後に生まれたわけで、日常で旧東独について特に意識することはあまりありません。

「Ossi(オッシー)」と旧東独の人を表す言葉がありますが、実際に口にするのは上品ではありません。

旧東独について、Sonnenalleという映画があります。グッバイ・レーニンが西側から描かれた映画とすれば、この映画は東側の視点から撮られた映画と言え、当時の東ドイツの若者の日常がよく描かれていると思います。(私の周りの東独出身者は、グッバイ・レーニンにあまりいい印象を持っていません。あまりにも典型的過ぎるとのこと。→ハリウッド映画で、日本人が出っ歯とメガネで登場してくるときの不快感のような)

DDRの物を身に着けているというのは、ファッションということもありますが、左翼系の若者たちです。旧東独時代並みの社会保障や雇用を求めていたりします。(よく、ネオナチと混同されがちですが、彼らは、あくまでも格差のない社会を求めているわけで、外国人に対しての敵対心はありません。むしろ、移民・異文化に対して慣用です。)

実際に、東ドイツでは(醜悪ではあるけれど家賃の要らない)住居と、(選択の自由はないけれど)一定の仕事は必ず与えられていました。もちろん、女性の社会進出は100パーセント。託児施設も充実していたわけです。

それらは統一後、失われてしまったわけで、それ以来、彼らは仕事と住居を自分で工面しなくてはならなくなりました。(統一じゃなくて吸収だったというドイツ人もいます。)

だからと言って、失業中の人が旧東独を懐かしんだりはしません。(それほど公安局の監視の中での生活は息苦しいものだったようです。)

そういうわけで、DDR時代のものを身に付けている若者というのは、ヒートアップし続ける資本主義に対して、新しい共生・共存の方法を模索している、めずらしく真面目な若者たちと言えるのかもしれません。(まぁ、そのうち半分ぐらいはただのモードかもしれませんが。)

最後に旧東独出身の独逸語の先生がおっしゃった言葉です。「旧東ドイツで一番大切なことは、本当に信頼できる友達を見つけることだった。お金より、食べ物よりそれが一番だった。」とのこと。この言葉に、西側のフィルターを通して世界を見ている自分に気づかされました。

長々と失礼いたしました。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。
旧東ドイツの『哀愁』を汲む左翼系の若者たち、めずらしく真面目な若者たちと言えるのかもしれません。
『哀愁』と書きましたが、このような見方のご提供ありがとうございます。実際の『哀愁』とは異なる複雑な気持ちであるとは存じますが。
見聞の深みの参考になります。

「旧東ドイツで一番大切なことは、本当に信頼できる友達を見つけることだった」
旧東ドイツ、やはりシュタージは影響たるや想像を絶していたのですね。

質問趣旨から逸脱することに何の制限も設けないつもりです。
よろしければ、多くの興味深いご回答お待ちいたしております。

補足日時:2008/01/26 18:13
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DDRをモチーフにしたグッズが流行りだしたのは「グッバイ・レーニン!」という映画がきっかけだと思います。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%83% …

アンペルメンヒェンのグッズなどもそうですが、ただのファッションだと思います。
http://www.ampelmann.de/

一部の壁などはモニュメントというか忘れないために残してあるのではないでしょうか。

ベルリンの壁が開く直前には親が東欧から逃げるために多くの子供達が置き去りにされ、当時首相だったコールのハネローレ夫人が自分でバスを運転してその子供達を救済したことは有名な話です。

私の知り合いにも何人かDDR出身の人が居ますが、DDRの暮らしを懐かしむ人など一人も居ません。

例えば、西ベルリンと東ベルリンの壁といっても壁と壁の間には30m以上の空間があってそこに地雷が埋められた所や、今の国会議事堂の建物の横には嘗て有刺鉄線が張り巡らされた堀があって、そこから逃亡して銃殺された人たちの十字架が立っていて何ヶ月前に殺された人のものも見たことがあります。
また、その当時チェックポイントチャーリーのDDR側は人気の無いゴーストタウンでしたよ。

嘗てDDRだった所もずいぶんきれいに明るくなり、嘗ての暗く陰気な感じは受けませんが、嘗てのDDRを懐かしむ人が居たら、ちょっとおかしな人か元政府関係者などでいい思いをしていた人ではないでしょうか。
ただ、確かにSpreewaldのEssiggurken(ピクルス)やDDRのSenf(からし)はドイツで一番美味しいですが...。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。
なるほど、「グッバイ・レーニン!」がその発端を担っているわけですね。一度観ましたが、レーニン像が撤去される姿が印象に残っています。
アンペルマングッズ、初めて知りましたが、旧東ドイツの歩行者用信号の人型マークなのですね。ご紹介ありがとうございます。

私が『イーストサイド ギャラリー』を目の当たりにして感じたことは、車がビュンビュン走る幹線道路沿いにあり、主だった観光客もいなく、「車で走っている人の目からは、この壁はどう映るのだろう。壁のことより、目的地までのせっせと運転運転。」なのだろうかと考えたりしました。
※1998年当時で,ソニーセンターはもちろん、ブランデンブルク門が工事中通行止めの開発過渡期の旅行でした。

そういえば、ベルリンの開発に驚くのは、Berlin Zooから新駅に機能移転したとのことですね。

質問趣旨から逸脱することに何の制限も設けないつもりです。
よろしければ、多くの興味深いご回答お待ちいたしております。

補足日時:2008/01/26 17:52
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