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 「全知全能とされている神がなぜ、生まれながらに罪を持った人間を創造したのか?また、それを悔い改めよとおっしゃるのはなぜか?罪があるのは人間の責任ですか?」QNo.3735358にもご質疑とご回答がありました。
 たいへん勉強になるご質問であり、ご回答ですが、ANo.12のご質問者の書き込みに「それならば、「罪を悔い改めよ」と言われるのは何故?」というものがあり、なるほど、私も多少この事ではあまりわからないので、私の勉強を縷々お話して、補強や批判を乞いたいと存じます。議論はいたしません。この問題について以下のように勉強しております。

1. すみません、やはり全知全能の存在であり、創造者のことであれば、有限なる知と能力のものはどういうふうに関わり、その意図などを窺知することができましょうか?無理なことでしょうか?無理なら、どういう方策をこの全知全能の創造者は私達に準備なさっておいででしょうか。私達とどういう関係だと、認識していればいいのでしょう

2. 全知全能者と、同じにならないで、私達はどうして、この問題に思いを致すことができるのでしょうか?

3. 「悔い改めよ」というのを、どこかの箇所にあったかもしれませんが、それをどのように理解されて、「全知全能者はおかしな事を、伝えているものだ」いうのでしょうか?「悔い改めよ」も十分な表現では確かにないが、それを、わが子に呼びかける、意味や態度は、通常の理解を少し、出てみることは妥当ではないだろうか?

4. 「罪があるのは人間の責任ですか?」という疑問が湧いてくるのですが、その人間とは創造の全知全能者との関係ではどういうものなのでしょうか。罪という根因について双方はどんなかかわりがあるのでしょうか?

5. 参考にした、ページのアドレスは以下のものです。
 http://kikitai.teacup.com/qa3735358.html
 
 

A 回答 (7件)

無責任な無信論者の言葉として聞いてください。



私はいわゆる悟るというのは目的でも目標でもなく、何かのスタートラインだと思っています。
そのときは完全な自由があるのでしょうから、今まで出なかった答えも出せるのではないだろうかと思います。
なので、神のご意思を考えるのはそれからで、悔い改めることも出来ないものがそれを考えるのは、生者が死後の世界を夢想するのと変わらないのじゃないかなと思います。
神の意思についての問いは、仏教で言うところの無記に該当する事柄じゃないですかね。

この回答への補足

 そういう一体の中で、私達の学んでいるもの、これは頭の演繹で終始するだけではないのですが、他力であり自力であり、大乗であり小乗となっています。思うに、他力のない自力の修行は存立しないし、自力の修行のない他力の信仰とその生活はありえないと存じます。
 創造界にお世話になり、依拠しながら小乗だけでやっていくことは事実上存立しえないものです。みんなが自分のためにしてくれているのだし、自分の精進もみんなの代わりにしているのだという、気持ちは失うべきではないと存じます。
 エゴは間違った魂意識といわれています。魂は個別の普遍意識といわれています。普遍意識は、創造者が、創造の材料の中に自己を見ている反射だといわれています。これをキリスト教では一人子というのでしょうが、創造界の最初の意識といわれ、それは一であるとされていますから、個別意識となっている普遍的な魂は、実体は一です。だから、自分はみんなであり、みんなは自分だという言い方をしています。

 所詮は私達の存在本体は、唯一存在の一なる意識の創造の側面である主なる創造主の意識の夢紡ぎという創造の内容でしかない。それが私達であるのですから、その夢紡ぎを、どうにか解いてくれない限りは、誰もどんなに自力を発揮しても無理だということのようです。
 そういう目覚めの中での要素としては、主なる意識が50%、グルとそれぞれの方の精進が50%(25%ずつ)とも言われています。
 グルは道だり、我々を枝や葉だとすれば、グルは大きい基幹的枝で幹や根っこに繋がっているものですから、グルなくしては不可能というものです。そのよう中での、勉強や精進となっています。
 何か悟ったようなことをいうことは、所詮、無理なのだというわけです。このことを承知で、あえておしゃべりしているのだということを白状しておきます。
 
 これらは演繹でも、知覚の結果でも、実験確証のけっかでもないのでして、古来、直接に創造者(ブラフマ(未顕現の意識をブラフマンという))に一体になった、完全化した人間たる意識から、伝えられて今日に到っているというのが私達の勉強しているものなのですが。

補足日時:2008/02/04 07:31
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この回答へのお礼

shift-2007さんお早う御座います。ありがとう御座います。
 仰せの通りであります。
 
 理でつめても、所詮は実体ではない。顕れもしないし、たどり着けもしない。
 ですから知覚と演繹、科学手法は無用です。むしろ、そういうものではない、能力が必要であり、また仰せの所謂覚りという到達があって、というより、それに連れて行かれて、初めていろんな問題についての、おしゃべりも終了してしまうのだと、存じます。
 
 私達はおしゃべりはやめるべきです。そういう境地への能力の起動とは相容れません。
 そういうことのためのものとして、私達は信仰とか、行法が伝えられてきております。そしてことばでは表現がむりなのに、一定の表現での、創造者や創造のことが教えられてきております。
 そういうものが宗教なのでしょうね。この世界を含む、その元の世界に関わる、教えとそのための理論、そして実際のたどり着き方の一体が。

お礼日時:2008/02/04 07:17

補足ありがとうございます。



No.1 へのお礼
> これはどういう関係になっていると理解・認識していたら、
> 当を得たものといえましょうか。という意味として使った
> のです。

 であれば、陶芸家と陶土の比喩どおりの関係になっていると捉えることをお勧めします。

> 《「どうして」は、》Whyか Howかの意識は不明確でした。
> すみません。ただ、創造者のことをわかる状況にも、ここ
> ろの側面でもなく知的な、演繹では限界があるのではない
> でしょうか、

 こころだろうが演繹だろうが、「創造者のことをわかる」なんてことはできません。それが、1への答えですし。

> 再度の投稿は、控えさせていただきます。真意は以下に書きます。
(中略)
> ​http://kikitai.teacup.com/qa3735358.html​においても、
> ご質問者様は
(以下略)

 私は別に再投稿を求めたのではなく、補足を求めたのです。
 ここに書かれれば、それで十分です。ありがとうございます。

 要するに、件のQ&Aでの質問者が聞いた補足質問に対し、答えが出なかったのが気になったということですね。
 なお、私は件のQ&Aでの No.12 の文は、日本語としての体なしていない支離滅裂な文章なので、意味がさっぱり分かりません。なので、代わりに答えることもできません。すいません。

> 《「責任」という言葉を、どういう意味で使っているのですか?》
> 原因という意味と、同じにご理解くださって宜しいと存じますが。

 ここでは、「罪」とは「生まれながらに罪を持った」という表現からして、原罪、つまりアダムとイブが知恵の木の実を食べたことだと解釈していいですね? 確認ですが。
 そうだとして、責任が「原因」であれば、因果関係の連鎖で表現される原因構造の一部ではありますね。
 もっとも、因果関係の連鎖は、ずっと繋がります。遡る原因を持たない根本原因というものがあるかどうかというと、分かりようがありませんから、「原因構造」という言い方まででしょう。

 なお、根本原因として創造主を持ってくることは、たぶんに可能でしょうね。
 しかし、物事をそのように因果律というルールでモデル化して捉えるというのもまた人間の工夫です。用途は、人間同士での会話のためまで。創造主を理解する役に立つと考えてはいけません。創造主がそんなものに縛られはしないからです。

> 《「陶芸家と陶土という関係」という比喩》便器と花瓶は人
> 間の一定の生活価値観からの相違がありますね。創造主、創
> 造、創造界全体としては、人間の、そういう価値意識は意味
> がありえないと存じますが。

 別に創造主が便器と花瓶の区別をしていると言っているわけではありません。区別をするのは、常に人間です。
 ここで言っていることは、陶土が自分の都合で便器になりたかったとか、花瓶になりたかったとか思ったところで、陶芸家は全く気にしないということです。同様に、あの男がもっと善良だったらとか自分がもっと背が高かったらなどと思ったところで、そんな人間の都合など創造主の知ったことではないということです。

> 陶芸家が気に入る、要らないですが、創造主は周到な配慮と、
> 思想で創造をされているということが、この比喩を伺ってな
> お、一層理解できるというのも、受け取り方の相違でしょうか。

 相違でしょうね。少なくとも「周到な配慮」というものを表現したい比喩ではありませんから。この比喩のポイントは、陶芸家の絶対者としての立場です。

> 《「罪という根因」という言葉の意味が、何を指すのか分か
> りません。》創造とは、創造主の完全をどれだけ、覆うかと
> いう形なのかもしれませんね。そういうなかで、「罪」とい
> うものが、創造主の完全を覆うというものであれば、、「罪」
> というものをめぐる、創造主と創造意識の内容である、人間
> とはどういう経緯や根因と結果の関係にあるのか、という事
> でした。

 すいません、相変わらず分かりません。いや、むしろこの解説文は日本語として理解不能です。

 あなたが「根因」という言葉を使ったので、私は「罪が原因となってなんらかの結果をもたらす」、という構造をあなたが想定していると考えました。だから、その「なんらかの結果」を端的に示して欲しいのです。

この回答への補足

  《「罪」とは「生まれながらに罪を持った」という表現からして、原罪、つまりアダムとイブが知恵の木の実を食べたことだと解釈していいですね? 確認ですが。》http://kikitai.teacup.com/qa3735358.html&#8203のご質問を踏まえたことがらでありました。この原罪というのはやはり、創造というものを根源にしており、創造者に起因していると、私達の教えをは自分の勉強でそのように理解しております。知恵の木の実という比喩を何と理解するかは、ここでは触れないことに致します。《責任が「原因」であれば、因果関係の連鎖で表現される原因構造の一部ではありますね。以下~~縛られはしないからです。》その通りと存じます。
 
《別に創造主が~~陶芸家の絶対者としての立場です。》仰せの意味を、このご説明でたいへん納得し、私の理解が不十分であったことを認めます。

《すいません、相変わらず分かりません。いや、むしろこの解説文は日本語として理解不能です。》欠点や問題がないと、五感的知覚の中では経験できえないものです。創造主には欠点と問題がない。だから創造主そのもののを、演繹や五感、科学のしゅほうでの経験は不可能である。そのような認識方法での知覚経験が出来るためには、つまりこの創造界という経験世界の創造には、創造主は欠点と問題を装う(身に着ける)、つまり自分を覆う必要がある。そうやって現象してくる人間が創造される。そういう過程での創造主と人間の関係というものの中に、互いに(実は自分同士なのではありますが)、問題や欠点という責任や根因の分け合い、その関係が自分達に、自覚できてくるのではないか。
 ということなのですが。

 《私は「罪が原因となってなんらかの結果をもたらす」、という構造をあなたが想定していると考えました。だから、その「なんらかの結果」を端的に示して欲しいのです。》この返し的ご質問(補足要求)について、一応自分の最大のお話を以下にさせていただきます。
 如何なる結果も何らかの結果があるというのが因果律が一つの当為の支配原理と存在になっている、この創造界であるのは認めざるを得ないところです。
 問題、欠点、罪(このことばは、聖書のことばでしょうが、原罪ということば同様に、洵に私としては受け入れることはどうかなと存じております。ただ、ここの質問が踏まえている ​http://kikitai.teacup.com/qa3735358.html
でも使われ、顕れているので、かかげておきます。)、これを根因にしながら、創造の装いを創造者は為されてきておられ、知覚できる経験界があると存じます。そのプロセスの一つが通常の人間という、意識存在であるということなのでしょうね。

 

補足日時:2008/02/04 06:28
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>悔い改めよ



釈迦やキリストのような人がいたのであれば、神に対して私たちは「出来ません」はもやは言えないですよね。
謎解きはそれからじゃないですかね。

この回答への補足

 謎解きとしては、対面してはおりませんので、私としては。
 申しわけありません、キリスト教でもなく、仏教徒でもありませんが、一応宗教の精進をしておりますので。神のことばとして伝わることは大事だと存じております。

補足日時:2008/02/03 18:49
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この回答へのお礼

 有難う御座いました。
 釈迦やキリストがいるとして、これはそういう方を含めて聖者を通した、神の、わが子よ、もう帰っておいで。一緒に創造の素晴しさを楽しもうではないか。という呼びかけだと私は受け取るのですが。

お礼日時:2008/02/03 18:49

直感的な回答です。



1.全知全能の神は全知全能であるため知らない、出来ないということが体験できません。であれば、全知全能でないものを創造し、被造物を通して体験しなければなりません。また、知らない、出来ないという体験が含まれていなければ全知全能ではありません。とすると、全知全能の神は自ら分離しており、被造物も神の一部に他なりません。

よって生き物は神の体験の一部を体験していることとなります。ここでは、生き物はあらゆる体験をすることが神の意思であり意図であると考えます。

2.同じではないとも言えますが、すでに神の一部であり生き物の思いは、神から逃れることは出来ません。

3.「天国は近づいた。」わけですから、神の体験が終盤に差し掛かっているということになり、生き物は体験のパターンをさらに増やし充実させなければならないという激励ですね。

4.罪ではなく、責務に近い。しかし、責務と考えなくともすでに行っている。繰り返しになりますが、神の一部ですから。

この回答への補足

 日本の私達の普段のことばで、今までの外国語での勉強をしっかり氷解させていただき、とても嬉しい。
 今日、残り少ない人生の数十回目の誕生日の最大の喜びであります。
 今雪かきを、ご近所様とやってきて、息せき切っており、誤植や読みにくいところがありましたら、どうかお許しをいただけますように。

補足日時:2008/02/03 17:04
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この回答へのお礼

 有難う御座いました。とても勇気付けられました。

 《1.全知全能の神は~~》このご説明は、とてもよく私には染みとおります。有難う御座います。

 《2.同じではないとも言えますが、~~》今までの勉強を、より明確に認識させていただけます。神から逃れられないというのは、もっと自分にとってどんな状態となっているかを、精進していきたいと存じます。

 《3.「悔い改めよ」というのを~~》これは激励だという今のお立場やとても素晴しいと存じます。「自分の体験のパターンをさらに増やし充実させなければならない」というのが、私達がグル(導きの師)から、意識を拡大しなさいといわれていることなのですね。これは激励だったのですね。戦線での軍律みたいに思っていたが、そういうお気持ちだったのですね。

《4.罪ではなく、責務に近い。~~》責務とは、戴いたお仕事というふうに思っても宜しいものでしょうか

お礼日時:2008/02/03 17:04

質問者への回答は、「神学」的に答えるのか、「宗教学」的に答えるのか、「歴史学」的に答えるのかによって、回答内容が異なってしまいます。


そのため、回答者が、それぞれの立場に立って回答いたしますので、さまざきな回答となり、いくら質問されましても、満足な回答は、得られないと思います。

これは、どういう事かといいますと、「全知全能」の意味合いが時代や地域によって異なる事によります。

歴史的な説明です。
そもそもキリスト教やイスラム教は、ユダヤ教という民族宗教から発しています。
そのユダヤ教は、ゾロアスター教の強い影響下により成立しています。
ゾロアスター教においては、最高神アフラ・マズダーは、二つの神霊を作り出します。
光・真実のスパンタ・マンユと、闇・虚像のアンラ・マンユです。
この二人により世界は動いてゆくことになります。
新バビロニアにより幽閉されていたユダヤ人を解放したのは、ゾロアスター教を信仰するペルシャでした。
解放後、カナーンの地に定住するまでの間にユダヤ教が成立しています。
ゾロアスター教では、しだいに最高神アフラ・マズダーと、光の神スパンタ・マンユが同一視されるようになります。
ユダヤ教では、この概念を引き継いでいるのです。
つまり、最高神と善神が同一となり、それよりも劣る悪神が存在する事になってしまいます。
歴史的回答の場合、「全知全能」は、たんなる言葉遊びでしかなく、単に他の神を圧倒したという意味に捉えてください。
全ておもいのままという意味ではなく、他の神を圧倒する力と。

宗教学的な説明では、神(光り)は、闇が無ければ光としての存在価値がありません。
つまり、神は、悪が無ければ、存在価値が無いという事になります。
あまりにも強力な神は、敵対者がいなくなり、神の力を発揮することができず、人々とは無関係な存在となり、忘れられていってしまいます。
ベーダの時代に、圧倒的な力を誇示したインドラは、そのあまりの強力な力のため、敵対者が存在しなくなり、活躍の場を失い、しだいに人々の前から遠ざかる事になり、忘れられていっててしまいます。
全知全能の神の没落です。
神の力は、信仰者の数と信仰の深さによるものですから、人々から忘れられた神は、全くの無力となってしまいます。
そのために神は、敵(悪魔であったり罪であったり)を必要とするのです。
宗教学的には、「悪や罪が存在するのは、神が欲したから」と考えてください。

神学的には、キリスト教が、ローマ帝国の国教となる前は、ローマ神話やミトラ教などの敵対宗教がありましたが、敵対宗教が一掃されると敵対者がいなくなってしまい、神の存在理由が問われる事になります。
そのために、それをなんとか神学的に説明しようとする動きがでてきます。
それが、グノーシス主義であったり、二元論主義であったりします。
また、体制内で説明しようとして発展したのが、悪魔学です。
神学的説明では、教義内容におおきく係わるため、一般的な回答はありません。
イスラムのように、「神の御心を探る事は、不信である」と切って捨てるものもあります。

この回答への補足

 どうも有難う御座います。長くなりそうなので、区切りました。
 
 《神学的には、~~》
 私(達)の場合も、個人としては、宗教や神の存在理由というと、それは自覚していなくて、ただ自分はこの教えで納得できるし、実践できるように、日日の生活をするべきだ、ということしか思えませんでした。それはそういう教えとはずいぶん違う生活や人間であるからということなのです。
 そういう個人のことも仰せのように、神学的説明に展開していくものなのでしょうね。

 何か新たにものを見る、見方が出来たみたいです。
 一つの教えを中心にしてきましたが、もちろん変遷しながら、でも常に一つの教えで。今その教えを新しい見方の中で、よく理解できるような思いです。
 ありがとう御座いました。
 

補足日時:2008/02/03 17:27
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この回答へのお礼

 有難う御座います。

 神学的にはとても私には無理です。宗教的にもレベルが低いので、とても時間をかけないと直ぐにはご報告できません。私の今回の質問は ​http://kikitai.teacup.com/qa3735358.html
からの触発からしております。勉強の宗教はラージャ・ヨガといわれています。

 《「全知全能」は、たんなる言葉遊びでしかなく、単に他の神を圧倒したという~~》歴史の歩みの中で、そういういきさつで生まれてきている存在という側面があったのですか。
 これはもう、腰痛を忘れてそっくりかえるほど驚愕の啓明的啓示です。なんとそれでは私はどうしたらいいのか。困ってしまう。

 《ベーダの時代に、~~  人々から忘れられた神は、全くの無力となってしまいます。》無力となった神とは人間の次元であって、人間を越えたところでは、厳然とその全知全能の本性で存在していたのではないでしょうか?そして、やがて人間において、その矛盾から、「悪や罪」を生じさせてきたということでも、ありましょうか?
 まぁ言い方、考え方、捉え方でもありましょうが。

お礼日時:2008/02/03 17:27

 大きな主題です。

わたしの思っている一つのことのみを記させていただきます。

 ルカという聖書記者は イエスの誕生のときの出来事として 名もない羊飼いたちの話しを載せています。どこからかやって来て その場で母や父とともに子を見たと言います。

  《その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた》とき 《主の天使》が来て 告げたという出だしです。
 それではというので 《そのベツレヘムへ行こう》と決め合って 行ってみると 《マリアとヨセフと飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子とを探し当てた》のだそうです。(ルカによる福音2:8-21)

 天使も幻も どうなっているのか 分かりませんが 羊飼いたちが 野宿の場所から ベツレヘムの馬小屋にまで行ったということは 事実であろうということになっています。(それでも なお虚構であることを拭いきれない物語の中でということでしょうが)。
 つまり 有限なる知と能力でも なんらかのかたちで 無限・絶対・全知全能と かかわりがあるかも知れないというお話です。
 あとで分かったという場合もあるでしょうし 自分は分からないままなのに その相手や関係者のほうが なんとなく分かったという場合もあるでしょうし。主観の問題であるに過ぎないのですが。

この回答への補足

 天使がきて告げた。そして馬小屋にいった。とても示唆的なことですね。味わう必要がいくらもありそうですね。
 有難う御座いました。

補足日時:2008/02/03 17:44
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この回答へのお礼

 brageloneさんおいでくださったのですね。有難う御座います。
 《有限なる知と能力でも なんらかのかたちで 無限・絶対・全知全能と かかわりがあるかも~~》
 私達のこのwakefull意識では、限界があるでしょうが、その奥の存在させている、何かがあるという感じは、どの宗教も持っているようですね。

 有難う御座いました。
 

お礼日時:2008/02/03 17:44

 回答もありますが、補足要求もあります。


 なので、一応「回答の種類」は「補足要求」にしてあります。

> 1. すみません、やはり全知全能の存在であり、創造者のこと
> であれば、有限なる知と能力のものはどういうふうに関わり、
> その意図などを窺知することができましょうか?無理なこと
> でしょうか?

 はい、無理です。

> 無理なら、どういう方策をこの全知全能の創造者は私達に準
> 備なさっておいででしょうか。

 無理だという前提があって、なぜそれを知ることが可能だと思えるのでしょう? それも無理です。

> 私達とどういう関係だと、認識していればいいのでしょう

 「いい」とは、どういう条件を充足することを考えているのですか? それが分からないと、答えらないので、具体的に提示してください。

> 2. 全知全能者と、同じにならないで、私達はどうして、こ
> の問題に思いを致すことができるのでしょうか?

 「どうして」は、Why の意味に思われますが、だとすると意味が通りません。「全知全能者と同じであれば、この問題に思いを致せる。同じでないなら、この問題に思いを致すことはできない」という前提が必要だからです。
 そしてそんな前提は、成立しません。

 「どうして」が、How の意味であれば、いくらもあるでしょう。
 例えば、世の中に不満に思うことがあって、他方で「何でもできて助けてくれるはずの存在」が何も手助けしてくれない、という現実があったら、そこにギャップを感じるので、そこから「思いを致す」ことになるでしょう。
 ちなみにこの例だと、そもそも「助けてくれるはず」が誤りなのですが。

> 3.

 文意が不明で、何が論点で何が質問なのかがまったく分かりません。推敲して再度示してください。

> 4. 「罪があるのは人間の責任ですか?」という疑問が
> 湧いてくるのですが、

 「責任」という言葉を、どういう意味で使っているのですか?
 たぶん、こう問うてもあなたは何を聞かれているか分からないでしょう。ですから、下記の質問にそのまま答えてください。
 「人間の責任であれば、何だと言いたいのか。また人間の責任でなければ、何だと言いたいのか、そしてその場合、責任の所在はどこにあるのか」
 妙に深読みすると、100%間違います。それだけ、責任という概念を扱うのは難しいのです。字義通りに読んで答えて下さい。

> その人間とは創造の全知全能者と
> の関係ではどういうものなのでしょうか。

 「陶芸家と陶土という関係」という比喩が、よく使われますね。
 陶土は、便器にされるか灰皿にされるか花瓶にされるかなど、選択の余地はまったくありません。陶芸家は、できたものが気に入らなければ叩き割って捨てることも、灰皿を作ったつもりのものを猫の餌入れに使おうと、好き放題です。

> 罪という根因について双方はどんなかかわりがあるのでしょうか?

 「罪という根因」という言葉の意味が、何を指すのか分かりません。
 どういう結果をもたらすものとしての「根因」を想定しているのですか?

この回答への補足

 《「いい」とは、どういう条件を充足することを考えているのですか? それが分からないと、答えらないので、具体的に提示してください。》これはどういう関係になっていると理解・認識していたら、当を得たものといえましょうか。という意味として使ったのです。

 《「どうして」は、》Whyか Howかの意識は不明確でした。すみません。ただ、創造者のことをわかる状況にも、こころの側面でもなく、知的な演繹では限界があるのではないでしょうか、という単なる思い付きの問いかけでして。そんなことはない、虫の事は、科学の手法でわかるというのであれば、そうでしたか。という限りなのです。でも虫と創造者との関係、虫さんに内在する全宇宙のことは、どうやって感動的に認識、体面できましょうかね。

 《> 3. 文意が不明で、何が論点で何が質問なのかがまったく分かりません》再度の投稿は、控えさせていただきます。真意は以下に書きます。「悔い改めよ」ということばは能くきくところですね。
 そしてhttp://kikitai.teacup.com/qa3735358.htmlにおいても、ご質問者様はANo.12でお書き込みされておりまして、《それならば、
「罪を悔い改めよ」と言われるのは何故?》といわれております。このお書き込みでの質問者様は、「罪を悔い改めよ」をどのようにお受け取りになっておられるのか、そのご理解が必ずしも唯一絶対ではありませんのではないでしょうか、という趣旨でした。ですから「罪を悔い改めよ」を整合的に理解する努力を私達はもっと、できるのではないかな。と感じました。そのことを申しあげ、私の受け止め方を、ご説明する機会もなく、ご納得のご回答が得られたのでしょう。締め切られてしまったので、私ももう一度、どなたかにお教えの機会を頂きたかったのです。推敲することも、再度の質問投稿もご免下さい。

 《「責任」という言葉を、どういう意味で使っているのですか?》
 原因という意味と、同じにご理解くださって宜しいと存じますが。

 《「人間の責任であれば、何だと言いたいのか。また人間の責任でなければ、何だと言いたいのか、そしてその場合、責任の所在はどこにあるのか」》
 人間の責任って、人間って、創造主の創造の意識の中の一主格客体だと存じます。人間の責任として顕れていても、所詮は創造主に何事も起因するのではないでしょうか。独自に人間に最終的に起因している何かがあるのでしょうか。もしあれば、創造主はその外の存在となります。
 人間とは創造主の意識の構成、紡ぎだと私は自分を思っています。
 だから、何にもしない、自由もない、意志も働かせない、というのではないですよ。創造主の御許で、その自由を完全に行使し、意志するkとは、創造主の意志であり、その紡ぎである私のすることであると存じます。責任の範囲はそういうことで、創造主が一番私を心配され、一生懸命、帰っておいで、と呼びかけているから、やっているのですし、そうしないと、つまり叛いていると、つらいことばかりであったというのがこの70数年のわたしの拙い、ささやかな経験です。
 私はこの「悔い改めよ」という表現は基督教的で、あまり親しんではいませんが、創造の私が、現象の私に、帰っておいで、という呼びかけではないかと、受け取れます。

 《「陶芸家と陶土という関係」という比喩》便器と花瓶は人間の一定の生活価値観からの相違がありますね。創造主、創造、創造界全体としては、人間の、そういう価値意識は意味がありえないと存じますが。

 陶芸家が気に入る、要らないですが、創造主は周到な配慮と、思想で創造をされているということが、この比喩を伺ってなお、一層理解できるというのも、受け取り方の相違でしょうか。

 《「罪という根因」という言葉の意味が、何を指すのか分かりません。》創造とは、創造主の完全をどれだけ、覆うかという形なのかもしれませんね。そういうなかで、「罪」というものが、創造主の完全を覆うというものであれば、、「罪」というものをめぐる、創造主と創造意識の内容である、人間とはどういう経緯や根因と結果の関係にあるのか、という事でした。

 
 




 「罪があるのは人間の責任ですか?」という疑問が湧いてくるのですが、その人間とは創造の全知全能者との関係ではどういうものなのでしょうか。罪という根因について双方はどんなかかわりがあるのでしょうか?

補足日時:2008/02/03 17:47
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この回答へのお礼

 補足のところの、引用《「罪があるのは人間の責任ですか?」という疑問が湧いてくるのですが、その人間とは創造の全知全能者との関係ではどういうものなのでしょうか。罪という根因について双方はどんなかかわりがあるのでしょうか?》は削除するのを失念しました。

 いろいろなコメントにお礼申しあげます。有難う御座いました。

お礼日時:2008/02/03 18:46

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