秘密基地、どこに作った?

創世記にある失楽園にて、アダムとイブは蛇によって唆されて知恵の実を齧ったとされていますが、何故蛇は唆すような真似をしたのでしょうか?
創世記や聖書などに詳しい方にはもちろん、単純に自分はこう考える、みたいな個人的解釈でも構いません。宜しくお願いいたします。

A 回答 (14件中1~10件)

あ、、、 返信先 間違えた。

!!

すいません 無視してください ><:
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>マルドゥク(バアル)→ヤハウエイ→スサノオとなっていると。




http://www58.tok2.com/home/hermitage/monster/tia …
ね? マルドゥクって暴れん坊将軍でしょ?

バル(バール)=ベル=エル(エール)って神の名前じゃなくて「わが主」って意味なんです。
神の名前をみだりに呼んではいけなかったので、「わが主」って意味のそれらの単語を使っていたんです。
だから同じセム系のユダヤ教も神を指し示すとき<エロヒム(エールの複数形)>を使っていたんです。
「これじゃ忙しくて自分の身の回りおことができない」と他の神々が腹をたてたので、マルドゥクは土の血をこねて人間を造ったって物語でしょ?
だから神々は複数形で表すのが古代の常識だったんじゃないかと。


エロヒムはエローア(女性詞)の複数形だとすると、エロヒムは女神<達>になっちゃう。



アラム人はイヴをhawah(全生物の母)と呼んだ。
ヘブライ語だとHWH(生命という意味)。
これに神聖文字Yをつけると YHWH。
ヤハウエイはイヴ(生命)って意味ですね。
これに神聖文字Yをつけると YHWH。 


天照大神も同じ概念かも。
太陽が生命と関係していると古代の人は知っており、太陽を女性的に考えたんじゃないか と。
太陽から光線が発せられ、それを複数形で表現していたのかも。
地上の現象は太陽から放たれる光の現れって考えがアテン教にあったし、太陽信仰をしている他の宗教も概念はそれと同じ。


>>だから日本には過ぎ越しの祭りがあるわけで・・・。

>夏越神事ですね。

あ、それは知りませんでしたが、なるほどと思いました。
ユダヤ教では一年の始まりは7月。だから前月の6月中に祓いをする。年越しそばは食べないと思いますが。
日本でもお盆として夏の古代の神事が残ってますね。ちょっと仏教の影響で変形してますが。

日本の過ぎ越しの祭りは、蘇民将来。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD% …
蘇の民ってなんでしょうね。



>だから祇園祭はギリシャ神話のイーリアスのタペストリーを使い、7月17日に山鉾巡行をするわけですね。なっとく。

うーん ノアの箱舟がアララト山についた日が7月17日ってなっているそうなんですが恐らく天文学からじゃないかと。
サイデリアル方式でいくと7月17日からカニ座。
地球は歳差運動をしているので、何千年も前は違ったはず。
シオン祭(祇園祭じゃない)が始まった頃は乙女座だったんじゃないかと。
乙女座は別名処女宮。ここから始まることになっている。
だから太陽の子は乙女座から産まれたってなってるんです。
ちょうどその頃に実がなりだすからじゃないかと。
それ目がけて種撒いていたので、太陽の位置を古代の人はウオッチしてたわけで。
ベツレヘムはパンの家という意味で、聖書作家は乙女座(処女宮)のことベツレヘムって言ってたわけです。


>蝦夷って物部氏のことじゃないでしょうか。

うーん、これはわからないです。
蝦夷というのは、どっか特定の集団を指しておらず、大和朝廷に服従しなかった集団を蝦夷って呼んでたという説を私もとります。
もののけ姫にアシタカって出てきます。 彼は蝦夷の子孫。
大和朝廷に服従したので蝦夷ではなくなったってことじゃないかと。
タタラバという製鉄集団が登場します。
この集団の一つが四国にあって、犬神と呼ばれる集団がいて、、、
空海の出自は四国の豪族の佐伯氏で、お母さんは秦氏で、空海の幼名は真魚(マナ)で、前方後円墳はマナの形をしており、ここから生命が誕生するって場所なので、、、。
駄目、物部氏が鉄鋼集団ってことはわかっているのが、トバル・カイン(ヒッタイト)の子孫かどうかはわからない。



>新羅の東北説はほんとに興味深いですね。

あと九州って説もあります。
読むとヒミコと関連づけていた。


>東北の新羅大明神は三井寺と関係がありそうですね。

出た三井家。
3柱(神)の鳥居をたてて信仰していた一族ですね。
http://suzuki-t.hp.infoseek.co.jp/3hasira2.htm
ヤタガラスと関連があるんでしょうかね。
といってもヤタガラスの足が3本だってなったのは後世で、三井家になった集団がヤタガラスって呼ばれていたのかな?
とにかく鳥の名前が出てくる苗字もあなどれないみたいです。
例えば鳩山とか・・・。昔の支配階級の豪族は鳥の名前で呼ばれていたみたいです。
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まず、聖書は誰かが神と会話した時の議事録っわけじゃあない。



古代の人の何故何故の考えが書かれているわけです。

普遍というのは条件によって結果が変わらないもの。
真理は普遍ってのは、条件によって変わらないってことです。
神は普遍とするなら神は死ぬことは無いってことです。
人が死ぬってことは、人は普遍ではないってことです。

ではどうして人間は普遍ではない つまり命に限りがあるのかと考えたとき、こういう物語を作ったのだと思います。


創世記はバビロニア捕囚以降に造られたという説が有力らしい。

ギリシャ方面では、例えばソクラテスだったと思うが、人間はかつて普遍の世界の住民だったと考えた。
普遍ですからまったくの真理で、まったくの善で、死ぬという変化が無い世界にいたと考えた。
が、肉体という有限(死ぬから有限)に入ったために、人間は真理がわからなくなったと考えた。
しかし、わずかな人は有限の肉体に入りながらも、魂は清いままだから、まったくの善の世界に帰還できると考え、そのわずかな真理がなんたるかを知っている人の言う通りにしていれば、真理が何かわからない人も過ちを犯すことなく、死んでも元のまったくの善の世界に戻れると考えた。

そんな考えの影響を受けて創世記は作られたのだと思います。

まったくの善がなんたるか知らないので、悪びれることもなくやることが悪であって、それで魂が元の世界に戻れないとすれば、どうすればどれが良いことなのか悪いことなのか 分別がつくようになるのか。

それでソクラテスがもっと深く物事を考えましょう 知恵を愛しましょう って活動をしたように、もっと深く物事を考えると、ソクラテスがやったように、「私は何も知らないということを知った」ってことになったわけです。

それで、自分は知恵を持っていなかった、 つまり裸であると知り、裸つまり無知であることを恥ずかしいとやっと思った ってことなわけです。

しかし、自分は何も知らないということを知っただけでは、まだ イデアの世界に戻れない。
それで、「人間が神と同等の知恵を持ったと知った神は、目が開いた以上生命の木が見える、今度は永遠の生命を木の実も食べ神と同等になってしまうのを恐れ、エデンから追放し、ケルビムとセラフィムにエデンの四隅をガードし、人間が生命の木に近づかないようにしたと 古代の人は考えたんじゃないかと。

このケルビムとセラフィムの描写で違いがよくわからないのですが、「聖なるかな 聖なるかな 万軍の主よ」と神を褒めちぎり、神への燃える愛で炎の剣のような状態ってなってたと思います。
それを古代の人は 炎の蛇 とも呼んでいたような。

実際 古代の人が書いた壁画だと、ティアマアトと同じく鳥で、しかも全体が目だらけなことから、ここから天使は人間を監視して神様に全部報告しているから、神様は人間のやることはなんでもご存知って話になったのだと思います。

エジプトの影響ですね。
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#9さん。

#2に対するご丁寧な回答、有り難うございます。
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 創世記をきちんと読むと、蛇がイヴを明らかにそそのかしたような記述はありません。

蛇はイヴに楽園にある木の実のことを教えただけです。だましてもいないし、食べるようにすすめてもいません。イヴ達が神から「楽園の木の実を食べると死ぬ」と教えられていたと聞いて、「そのようなことはない」と答えたのです。
 神がイヴに訊ねたときに「蛇にだまされた」とはいいましたが、神は蛇に対してなにも訊ねることをせず、イヴの答えのみにより蛇を罰しています。
 もちろん、蛇が言葉巧みにイヴを誘い、あとから訊ねられても言い逃れできるように言葉を選んだ、とも言えますが、旧約聖書の内容にそこまで深読みさせるようなものはないと思います。
 この蛇をルシファー(サタン)に例える事が多いですが、この両者が結びつけられたのはずっと後になってからです。少なくとも旧約聖書が成立した当時はそのような事はなかったはずです。そもそも、旧約聖書にはルシファーの名前すら出てきません(ルシファーはラテン語の名前であるが、旧約聖書はラテン語で書かれてはいなかった)。ヘブライ語ではサタンは「試練を与えるもの」という名の天使とされています。サタンが悪魔の代表のように扱われるようになったのは、やはりもっと後になってからです。
 聖書の解釈は時代と共に変遷しています。「エノク書」に登場する天使達の大部分がその後堕天使とされてのも同様です。
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 回答番号:ANo.1です。


 ANo.2様、私はこの質問における「創世記」とは、旧約聖書の一部である創世記の事だと理解して回答しております。
 創世記の第1章27節には、主が御自身の形に似せて人間を創造した事が書かれています。
 そして、旧約聖書のヨブ記第1章~第2章やゼカリア書第3章では、主とサタンは明らかに別の存在として書かれています。
 従って、人間を創造したのはサタンではない事になります。
 仮に、サタンが人間を創造したという事を肯定するのであれば、旧約聖書を否定しなくてはならず、旧約聖書を否定してしまいますと、旧約聖書に書かれている、蛇がイブをそそのかした話も否定する事になり、この質問自体が成り立たたなくなりますから、この質問に回答する上では、人間を創造したのがサタンだとする事には意味がありません。

 それから、知恵の実を食べる以前の人間に、現代人と同様の猜疑心があったとする事には疑問を感じます。
 失楽園以前の人間にとっては、全ての生き物(動物)は、共にエデンの園で暮らす仲間であり、主が御造りになられたエデンの園の中に、邪な考えを持つ者がいるとは考えもしなかったでしょうから、(主の御意向とは異なる事を言っている、という事以外は)蛇を疑う理由は無かった筈です。
 確かに、蛇の言葉を信じたのは愚かでしたが、それは相手が蛇だからではなく、主の御言葉よりも、主以外の(=主よりも下位の)存在の言葉の方を重視したからです。
 その点で主の御言葉よりも、イブの言葉を信じたアダムも同罪だと言えます。
 相手の姿形は関係ありません。
 仮に、そそのかした相手が高位の天使(そして人間に似ている姿)であった場合でも、主以外の存在である事には変わりありませんから、主の御言葉よりも、その天使の言葉の方に従うのは、相手が蛇や蠅だった場合と同様に、愚かな事です。(相手が「主が知恵の実を食べても良いと言われました」という嘘を告げた場合なら、話は別ですが)


 話は変わりますが、ANo.3様、私は今まで、ルシファーが反乱を起こしたのは、自身を主よりも偉大な存在だと勘違いしたためであり、嫉妬というよりは傲慢によるものだと思っておりました。
 実際、後の時代になってから、主だった悪魔に七つの大罪を当てはめる事が考えだされた際にも、ルシファーが司っている罪は傲慢であり、嫉妬を司る悪魔はリヴァイアサン(姿に関する定説はないが巨大な海蛇として描かれる事もある)だったと思います。
 イスラム教でルシファーにあたるシャイターンは、嫉妬から反乱を起こしたとされていますから、私が知らない話で、ルシファーも嫉妬から反乱を起こしたのかも知れませんが、確かシャイターンが嫉妬した相手は神ではなく、自分達よりも力が劣っているにもかかわらず、自分達よりもアッラーに愛されていて、天使達よりも上の位に置かれた、人間達だったと思ったのですが、ルシファーの反乱に関するこれらの話は私の思い違いなのでしょうか?
 宜しければ(御面倒でなければ)、ルシファーが神に対する嫉妬から反乱を起こした事が記されている文献等を、御教え頂けないでしょうか?


 それから、ANo.4様の御回答の一部に補足します。
 エデンの園には知恵の実を実らせる木の他にも様々な木があり、その中にはその実を食べ続ければ永遠に生きられるという、命の木もありました。
 失楽園によりエデンの園に入る事が出来なくなったアダムとイブは、命の木の実を食べる事が出来なくなったために、永遠に生きる事も出来なくなりました。
 つまり、知恵の実を食べる事は主を裏切る事ですから、それまで通りにエデンの園に居る事は出来なくなり、命の実を食べる事も出来なくなり、寿命で死ぬ事になりますから、結果として「知恵の実を食べると死ぬ」という話は真実である事になります。
 ですから、「知恵の実を食べると死ぬ」事も、「食ったら殺すぞ」という事も、両方共真実という訳です。
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イブを唆したのは蛇だけど、


アダムを唆したのはイブなの。

まったく、いつの世にも、女ってのは…女ってのは…
ウアアアアァァァァン(ノД`)゜。
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蛇というのは、比喩です。


実際にはルーシェルという天使のことを指します。

>何故蛇は唆すような真似をしたのでしょうか?
嫉妬心または愛の減少感からです。

神は、人間を作る前に天使を作ったとされています。
人間の良き相手とし、神の行いを手伝うためです。

ところが、アダムとエバが作られると、今までルーシェルなどの天使たちにのみ向けられていたものが、アダムとエバに向けられるようになり、嫉妬をしてしまいます。
妹や弟ができて、母親をとられたような気分になり嫉妬するのと同じです。

そこで、ルーシェルは食べてはならないとした実をエバに勧めます。
この実というのも比喩で、男女関係を持つなという意味です。
弟妹に嫉妬して、物を壊したり弟妹にけがをさせるようなまねをするのと同じようなことです。
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 こんにちは。



 《個人的解釈》によりますと すべては表現のもんだいです。そして 《非思考の場》としての信仰にかかわります。

 
   エワが《善悪を知る木(知恵の木)》から採って食べ夫のアダム
  にも勧め かれも食べた。
   そのあと 《楽園》の中にいたアダムに 風の吹くころ
    ――アダムよ きみは どこにいるのか?
   という《声》が聞こえた。さらにエワには
    ――エワよ あなたは何ということをしたのですか?
   と《声》がした。

 たとえばこのようにひとこまを捉えてみたとき これは――これでも 出来るだけふつうの生活に合うように表現をしてみたものですが―― そのままでわれわれに分かる内容ではないですよね?
 括弧をつけた語句は ふつうの語ではなく用法ではないでしょう。
 
 もちろん言うまでもなく初めっから比喩なのだから 《表現の問題である》ということは分かっている。だから 解釈を示したまえという問い求めであるかも知れません。
 でしたら その言葉に答えるなら 
 ○ 神とは何か?
 ☆ これが分からなければ 物語の意味も取れないのではないですか?
 神の声が聞こえるとか 《善と悪を知る木から採って食べてはいけない》と神から命じられたとか いったいどういうことなのでしょう?

 
 アダムとエワの物語は もともと アブラハムに《非思考の場(つまり 信仰)》が芽生えた時に 自分たちのおや(祖先)のことを考え そのアダムとエワのころにはそういう信仰などということがあったのかどうか これを確かめようとして得られた話です。そういうあいまいな意味での歴史ですし じんるいの起源についての探究の結果を示しています。
 つまり おおざっぱに西暦紀元前ニ千年ごろアブラハムに起きた信仰という事件にもとづいて 過去の歴史をふり返ったときに得られた物語です。

 アブラハム(初めは アブラムという名でしたが)に非思考の場が芽生えたというのは 簡単にいえば:
 1. 世の中の人びとは おのれの好き嫌いに少し毛を生やした程度のことを中身とするもろもろの《考え》について 善とそしてそうではない悪という規定をしている。果たしてこれは 何なのか? いちいち善か悪かを考えておっては 人とのあいだに間の違いがあっては めんどうだ。これの解きほぐしは 何とかならないか?――このうたがいです。

 2. これについて言わば善悪の彼岸として うたがいと諍いが晴れる時空間はあるのか?

 3. そのときアブラムは 例の《声》ですが 《ここを去って行け》と聞いた。どこへかも分からず すでに七十歳を超えていたけれども 《行けと言われたから 行った》というふうに実行しました。

 4. これが《非思考の場》です。一般に《信じる》とか《信仰》と言います。――《考える》つまり《人間の理性による経験思考》ではないという意味です。知性で考えた善あるいは悪を超えているという意味です。
 〔ちなみに これを《さかしら》と捉え これを超えて《もののあはれを知る》というところへ議論を運んだひとが日本にもいました〕。

 ☆ こうして 歴史を遡っては おやであるアダムとエワのころのことも 物語として得ました。おまけに世界の創造というおとぎ話までをも得たことになります。
 アブラハムのあとの人間としては モーセがわざわざこの《善悪の向こう側である非思考の場》について 人間の思考と同じ次元での表現としてたとえば《殺すなかれ・むさぼるなかれ》などの戒めの言葉を得ました。
 さらには その後はどうだったでしょうか? しらべてみてください。


  ――善悪の木から採って食べたアダムよ きみはどこにいるのか?
 ☆ という声を聞いたとすれば その後さらに時代を降っては 
 ○ われ考える。ゆえにわれあり。
 ☆ と堂々とのたまう人間も現われました。自分で自分に対して 《どこにいるのかったって われここにあり だ》とうそぶくようになったと――その思考能力じたいをおとしめるわけではなく そうではなく―― 言えるのでしょうね。
 その証拠に
 ○ 理性による思考の神 言いかえるなら 観念の神 この神は死んだ。
 ☆ とえらそうに言った人間もいました。そんなことは初めから分かっているものを。(観念の神 人間の想像の産物としての神々――たとえば 偉人や英雄を神的存在として祀り上げて作ったもろもろの神話の神々――は 理性による思考の産物なのですから 死ぬべきさだめです)。まあ 善悪の彼岸という方向性は打ち出したようなのですが。
 けれども昨今では この《神は死んだ》という観念を 後生大事におのれの神としてあがめている人間も けっこういるようなのではないですか? あなたの身近にも。
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ちとちがった、ムシュフシュは確か最初の息子だったと思う。


日本の神話だと蛭子に当たると思う。
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