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動物嫌いの人もいますが、多くの人たちが
動物が好きで動物園に行ったり、ペットを
飼ったりしています。
別の種の他の動物たちを何故人間はかわいがれる
のでしょうか?かと言って、食用にしたりもします。
矛盾しているこの人間の思考、行動はいったい何から
くるのでしょうか?
また、人間以外に他の動物も異種の動物を可愛がったり
するケースをまれにテレビで見ることもありますが、
どういう事なのでしょうか?(ねこがねずみと仲がいいとか)
お願いします。

A 回答 (9件)

 Jagar39再びです。



 愛玩と食用について、よく理解されていないように思われる方がおられるようなので、少し補足します。

 まず「食べること」と「愛玩すること」は別々の回路なので本来矛盾はないという意見がありましたが、それは生産と消費が完全に分離されてしまった現代でのみ通用する見解です。
 実際、スーパーに並ぶまでの間には、その動物が生まれ、育てられ、と殺解体されて初めて「食べる」状態になるのです。現代は産ませて育てる人とと殺解体する人、そして食べる人が分離していますが、長い歴史のほとんどの間、これらは全て同じ人が担っていたわけです。
 そしてほとんど全ての人は、このサイクルと無縁ではいられなかったのです。

 ですから、「産ませ育てる」行為には「愛する感情」が必要で、それは「と殺する」行為、そして「食べる」行為とは同じ人が同じ動物に対する行為なので連続しているがために「矛盾する」と言っているわけです。
 「感謝」
 確かにそのとおり、感謝の気持ちは忘れてはなりませんが、感謝すれば可愛がっていた動物を心に負荷を追わずに殺せるというほど簡単なものではありません。

 ただ、他の動物を可愛がったり愛するという感情は、動物の家畜化には絶対に必要な感情だというのが私の意見です。現代の大規模化工場化した畜産現場では家畜に愛情を持つことは必須条件ではありませんが、例えば日本の和牛に関しては、今でも毎日子牛に引き綱を付けて散歩に連れ出すというようなほとんどペットのような飼い方がまだ主流です。
 そもそも、広大な土地がある国ではともかく、日本のような土地が狭く高価な国では、1つ1つの個体に細かく気を配らなければ収益は確保できません。

 ヒンズー教徒の牛と西欧の話も、「殺す」とこしか着目してませんよね。殺すだけなら「狩猟」であって「畜産」ではありません。

 結局、動物を家畜化してヒトの生存に役立てるためには、「他の動物に愛情を抱く」という資質が必要だったわけです。
 しかしその一方で、そうやって愛情を持って育てた家畜を殺さねばならないわけで、その矛盾を消化できる精神構造をも獲得したということなのでしょう。

 動物とヒトの強弱関係は、本来ヒトはほとんどの動物より弱いです。
 本気になったネコ1匹捕まえるのも、網や麻酔薬といった「道具」を使って数人がかりでどうにか、といったところでしょう。徒手空拳のヒト1人とネコ1匹では、ヒトはまず絶対にネコに勝てません。
 鶏ですらけっこう凶暴で、油断すると酷い目に遭うということはある年代以上の人なら誰でも知っていることです。
 つまり、「動物は人間より弱い」というのは誤解です。ヒトという種の社会は動物より優位にありますが、それは目の前の動物と自分の力関係は意味しません。

 なのに「可愛い」と思えるのは、とりあえず1つは、家畜はヒトに従順な性質に改良されているということです。本気になればヒトより弱い動物なんていないのですが、よほどでない限りヒトに対して本気にはならない個体を選択して残してきたわけです。
 なので「こいつは私より弱い」とヒトに勘違いさせてくれるわけです。

 ではクマは人間より弱いと思う人はいないはずで、面と向かえば誰でも恐怖すると思うのですが、それでもテレビなど「自分が安全な状況」で見ると、やはり可愛いと思うことも多々あるわけですよね。
 結局それも、幾多の動物を「家畜化」してきたヒトの資質なのではないかと思うのですが。
 家畜化される前のネコもイヌもウシもブタもほとんど全ての動物は、「ヒトより強かった」わけで、それらを人類は手懐けて家畜にしてきたわけです。それはとりあえず自分より強い動物に対しても、「お、こいつ可愛い」と思える資質がないと成立しなかったのでは。
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この回答へのお礼

再度のご回答、ありがとうございます。
先ほどの方のお礼の欄で人間には天敵がいないなどと、
豪語してしまったのが恥ずかしくなりました。
そうですよね。人間の管理下では人間はどの生物よりも
強いが、本気になった他の動物たちに勝てるわけないですよね。
熊のこともしかりです。山里に降りてきた熊を射殺されるのを見て、
可哀想だと思うのは遠く離れた都会に住んでいる者がほとんど
ですものね。その地方に住んでいる人にとっては脅威でしか
ありませんよね。人間はおごれてばかりではいけませんね。

お礼日時:2008/04/15 16:35

 何度もすみません。

Jagar39です。
 自分のNo.8の

>愛玩と食用について、よく理解されていないように思われる方がおられるようなので

 という文はあまり穏当ではないですね。「真意が伝わっていない」位のニュアンスです。まあでも、普通の人にとってスライスされてスーパーに並べられる前のことはあまりに遠い世界の出来事、ということが今さらながら思い知らされて軽くショックですが。

 さて、私の意見を改めて簡潔にまとめると、ヒトが他の動物を愛することができるのは、「他の動物を家畜として利用するために必要な資質だったから」ということです。食べたりすることとの矛盾は、上手く心の違う面で受け止めることができる精神構造を獲得してきたのでしょう。

 ヒト以外の動物で、たまに異種動物に愛情を示す個体がある、ということについては、「たまたま。そいつが変わり者だから」と思っています。
 ヒトの場合は、その性質はヒトという種にとって有利だったため、選択された結果、人類はかなり高い割合で「異種動物を愛せる」動物になったというわけです。
 他の動物については、異種動物を愛する性質は別に有利にも不利にも働かないので、選択もされない変わりに淘汰もされず、ずっとある一定の低い頻度のまま現在に至っている、と思っています。

 生理学的に報酬反応や学習効果を理由付けするのは「機序」を説明するには良いのですが、ではなぜ異種動物に対してそういう反応をするようなプログラムになったのか?という根本の質問には答えることができないのでは。
 ヒトも動物も機械ではありませんから、同じ刺激に対して同じ反応を返すとは限りません。どんな性質も、生存に決定的に不利でなければ、一定の頻度でその遺伝子も生き延びているのでしょう。

 そういえば最近解明されたことですが、ネズミには「ネコの臭いを危険と認識する遺伝子」が存在するそうです。なので産まれたばかりで何も学習していないネズミも、ネコの臭いには恐怖して逃避行動を取るわけです。この遺伝子をノックダウンしたネズミはネコを怖がらなくなるのだとか。もっとも、そこでネコに攻撃されればネコの恐怖を学習して、以後はネコの匂いに恐怖するようになるでしょうが。
 このことで判るのは、やはりこの「ネコの臭いを恐怖する遺伝子」を持ってないネズミは、生存に決定的に不利だったのでしょう。なので高い選択圧を受けた結果、この遺伝子はほとんど全てのネズミが持つことになったと。

 一方、仮に「ネズミを補食対象としない」遺伝子が仮にあったとすれば、その遺伝子を持ったネコはどうなるでしょう。ネズミしかエサがない地域や条件では生き残れそうにありませんが、他にもエサがある場合がほとんどでしょうから、多少不利にはなるものの生きて子孫を残すことはできそうです。

 全ての形質に必然を見いだしたくなるものですが、「いろいろな性質のものがいる」という多様性の確保こそ生物の進化ですから、「たまにもこんなのやつもいて良いんじゃないの?」くらいのことでも良いのではないか、と思います。
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この回答へのお礼

またまたまたご回答、いただきありがとうございます。
たくさん書いていただいて、とてもうれしいです。
多様性・・・そうですね。それに尽きるかもしれませんね。
勉強になりました。

お礼日時:2008/04/15 16:42

こんにちは。


度々お邪魔します。
それは、我々人間は他の動物よりも優位な立場にあるからだと思います。そして、猫がネズミと仲良くするのと同じで、我々はそれが食料であることをとっくの昔に忘れていまっています。

まず、動物を虐待することとスーパーでお肉を買うこととは全く別ですから、これを矛盾と捉えますと問題は飛躍し過ぎてしまいます。ここには倫理的な問題が絡みますし、片や動物愛護主義者が菜食を実践することに返って矛盾を感じるひとも多いと思います。
動物の脳内では「食うこと」と「愛すること」は別々の回路で行なわれています。二つの別々な回路なのですから、答えは当然二つあります。この結果を客観的に比較することができるのは、それは我々人間は知能が高いからです。従いまして、その矛盾とは人間の理性に照らして生み出されたものということになります。

我々には可愛いと思われる要素に「報酬反応」を発生させる遺伝子があります。母性本能の因子ではないかと考えられていますが、この遺伝子は男女を問わず誰でも持っています。
これが他の哺乳動物にもあるということは、それは我々の祖先が原人に進化したときから既にあるということです。ですが、それは食料ですから、生活に余裕がなければ食欲の方が優先されます。この「余裕」といいますのは内的にも外的にも他の動物に対する優位性によって保障されています。優位性の内的要因とは「知能が高い」ということであり、外的要因は「文化生活」にあります。そして、この境界線は人間の進化によって発生しました。

簡単に言ってしまえば、「余裕」といいますのはお腹がいっぱいで自分たちの身の安全が確保されているということですね。ですが、動物というのは違います。お腹を空かせていれば可愛そうですし、厳しい自然の中で身を護る術も持ちません。護ってあげられるのは余裕のある人間だけです。
これに対しまして、相手が人間である場合、ある程度の問題解決能力を持っているわけですから、護ってあげるというよりは余計なお世話ですし、果たして動物並みの扱いではとてもこちらの思い通りにはなってくれません。
ここで、こちらの思い通りになるというのは「感情移入が容易である」ということです。人間の感情は複雑ですし、ちゃんと意思表示もしますから、こっちが勝手に決め付けでしまうことは中々できません。ですが、動物がちょっと辛そうな声を出していれば「どうしたの? お腹が痛いの」と、このような極めてストレートな感情移入が可能となります。まして、自分よりも弱く身体の小さい相手であるならば尚更です。
では、象は可愛くないのでしょうか。そんなことはないですよね。象がお腹を空かしていればやっぱり可愛そうです。このように、我々人間が他の動物を可愛がるというのはその圧倒的な「優位性」にあります。では、その優位性は文明生活によって保障されています。自分自身は生きるために狩をする必要はありません。そして、動物愛護の精神といいますのは「文化的価値観」として定着していますので、その社会に生まれ育つならば必然的に学習されることです。

近代化の進んだ国々では家畜と食料は切り離されたところにあります。ですが、伝統的な牧畜の盛んなところでは現在でもそれは生活と隣り合わせです。では、飽くまでこれは私の推測ですが、このようなひとたちの心の中には、動物を可愛がると共に、それに感謝をするという気持ちが我々よりも遥かに大きいのではないかと思います。
矛盾といいますのは現代人の道徳観が生み出したものです。ですが、心の持ち方は昔ながらの生活の方が豊かです。

>また、人間以外に他の動物も異種の動物を可愛がったりするケースをまれにテレビで見ることもありますが、どういう事なのでしょうか?(ねこがねずみと仲がいいとか)お願いします。

まだ全てが解明されているわけではありませんが、我々動物が同胞や自分の子供を可愛がるといったものは、その多くが本能行動として定められていると考えて差し支えないと思います。そして、これがどのようにして形付けられるかと言いますと、生まれたばかりの赤ちゃんは「同胞の特徴や識別方法」を必ずや母親から学ぶこということです。
これを無理に「インプリンティング」と定義する必要はありません。重要なのは、我々哺乳動物の場合、これがきちんと行なわれない限り生まれたばかりの固体に生き残る術はないということです。そして、この手続きによって「安全報酬」という確かな学習が成されますので、母親と同じ特徴を持つ同胞に対しての「接近行動」が可能となります。

基本的には前の回答と同じ理屈なのですが、「異種に対する接近行動の要素」というものが本能行動としては十分に備わっていないとしますならば、それを穴埋めするためには必ずや「生後学習」が必要となります。質問者さんも賛同をなさっておられますが、「慣れ」というのは即ち「学習効果」です。
この学習を行なうのは大脳皮質ではなく「大脳辺縁系」というところです。そして、何を学習するのかといいますと、それは「自分にとっての利益・不利益」です。
本能行動ではこの「利益・不利益の判定規準」が遺伝情報として生まれる前から定められています。これに対しまして、大脳辺縁系では生後体験を元に新たな判定規準を学習し、これに基づいて「情動反応」を発生させます。そして、これによって「状況に応じた利益・不利益」が決定され、報酬に対しては「接近行動」、不利益に対しては「回避行動」を選択することが可能になります。
哺乳類と鳥類はこの「大脳辺縁系の情動機能」を進化の過程で獲得しています。大脳皮質の発達には大きな差がありますが、喜怒哀楽の判定は我々人間と同じようにできます。従いまして、動物同士が仲良くできるのは、それは人間と同じに「情が移るから」ということになります。

「情が移る」とはどういうことかと申しますと、取りも直さずそれは情動反応が発生し、対手に対して「利益・報酬」という判定が下されるということです。
では、「報酬」とは何かといいますと、例えば「安全」です。
相手が自分よりも弱ければ取り敢えず安全です。このような安全・危険の判定は本能行動でもできますが、情動反応として学習されるということは、それは「次も安全である」という判断が下せるということです。我々はこのようにして友達を作ります。
ならば、報酬というからにはそんなしみったれたものではなくて、もっと他にないのかということになりますが、例えば犬にご飯をあげれば飼い主に懐きます。ですが、動物同士でこのような関係はちょっと難しいですよね。ならば、動物同士の場合には「慣れ」というのはたいへん重要な要素になると思います。そして、この「慣れ」が身に付きますならば、こんどは「コミュニケーションの学習」が可能となります。
動物は表情や行動などによって相手の情動を推測することができます。これを「非言語コミュニケーション」といい、これが成立するならば「達成報酬」ということになります。そして、お互いがこれを報酬として判定するならば、それは相手の行動を予測し、理解し合っているということになります。恐らく、子猫を可愛がる犬のお母さんの脳内には「喜び」という報酬が発生しているのではないでしょうか。
と、まあ、このようにすぐに勝手な感情移入をしてしまいますので、動物というのは可愛くて仕方がないですね。

感情移入ができるということは、それは情動や行動が我々とたいへん良く似ているということです。ですから、心を通わせて理解し合うことは幾らでもできます。
ところが、前のご質問にも関係しますが、この点、爬虫類以下の動物といいますのは「情動機能の発達」という進化を通っていませんので、その「感情(厳密に学習結果)」は我々哺乳類とは全くの別物です。
このため、その脳の構造上、動物界といいますのは、
「高等動物(哺乳類と鳥類)」と
「下等動物(爬虫類以下)」、この二つにばっさりと分断されます。
従いまして、我々人間にとっては昆虫類や魚類といいますのは「爬虫類以下」というはっきりとした境界線が存在するわけです。
鳥類は大脳辺縁系を使っています。ですが、トカゲの考えていることを推測するのは極めて困難ということになります。ということになりますと、私の姉の家で飼っているカメの学習行動は逆にたいへん興味深いのですが、これでは何時まで経っても話が終わりませんので、また別の機会にします、長くてすみません。
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この回答へのお礼

前回の質問にもお答えいただき、今回もありがとうございます。
すばらしい文章です。論文を読んでいるような気分でした。
人間が他の動物よりも優位に立っていること、余裕があること、
他の動物に対して安全を与えることや危険を及ぼす(食べること
生活環境を脅かすこと)、つまり天敵のいない食物連鎖の頂点に
たっている(言っても過言ではない)ことが人間が他の動物を愛し、
食べることができるということですよね。
そして、高等動物と下等動物の違い・・・。
大変に参考になりました。
返事が遅くなって申し訳ございませんでした。

お礼日時:2008/04/15 16:22

感情移入が大きいと思います。



飼い犬や飼い猫と接していると、どんなことを考えているのかな?どうして欲しいのかな?と思うことは多々あると思います。

食用の家畜にそういう接し方はしませんね。
子供の頃飼っていた鶏が皆に食べられた時、私は泣きましたが。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。
身近な動物に対する感情移入は家畜と愛玩動物では
かなりの差があるということですね。
ご回答、ありがとうございます。

お礼日時:2008/04/15 16:12

 動物園や水族館へ行けば分かりますが、大抵の生物は脳があり目があり、口があり、手足(ヒレ)が有ります。

他には見て楽しむ、形や色が美しいもの(ヒトデ・貝など)です。一方でナメクジやハリガネムシ、コウガイビル、毛虫といったものはあまり見かけません。
 ヒトと共通点が多いほど仲間意識が出来ます(例;猿や鳥はヒトと遊ぶことが出来る)。また、ヒトと触れ合うにはそれなりの知能が発達していないと出来ません。
 可愛いと感じるのは、人間たちと見た目に共通点があり、更に人間たちの行動を理解するだけの脳を持っているからとも考えられます。これは動物だけでなくロボットでも同じです。自動車を塗装するだけの産業用ロボットと、最近登場した猫型ロボットとどちらが愛着が沸きやすかは一目瞭然です。萌えも同じです。もし絵が、人間や動物ではなく、リアルなムカデだったら萌えるどころか萎えます。
 更に重要になってくるのが、大抵は人間より弱いと言うことです。目も口も脳も胴体もありますが、スズメバチを可愛いという方は少ないです。自分たちより弱いものを守ろうとするのは、子供を守ろうとするのと似ているのかもしれません。一方で人間より強い生物に対しては、戦闘の歴史です。

 食用にするのは、宗教もありますが、愛玩とは分けています。
矛盾が起きたのはグローバル化したためです。ヒンヅー教徒は牛を神聖な生き物として大切にし、食べませんが、西欧諸国は構わず殺して食べていました。子供の頃から、牛を大切にするように叩きこまれば、牛を大切にするでしょうし、殺して食べるように叩き込めば、構わず殺して食べるでしょう。某国の農場の管理の仕方はもはや、愛玩とは程遠い状態です。無理矢理食べさせて(肥育)、ライフルで楽しそうに打ち抜いていく、そんな状態です。
 日本の場合は元々、植物と海の幸と馬鹿(バカではありませんよ)を食べていたので、豚や牛は愛玩なのか食用なのか?ということでしょう。
グレーゾーンなまま大人になりますから、余計に矛盾を抱えるようになります。
 
>>人間以外に他の動物も異種の動物を可愛がったり
するケースをまれにテレビで見ることもありますが、
どういう事なのでしょうか?
  
 知能が発達しているが為に、人為的な環境におかれても対応できる場合と、進化の過程で自然発生したものとに分けれます。 
進化の過程で発生したものとしては、蟻に育てられる蝶があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD% …
 前者は、知能の高い生き物は、異種の動物も仲間として認知しますのでTVで取り上げられるような現象が起きます。自分は人間だと思っている鳥など。 
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この回答へのお礼

なるほど。人間に近く、なおかつ人間より弱いものが
愛玩の対象になるということですね。
国によっても様々ですね、確かに。牛一種に関しても。
クロシジミ、面白いですね。初めて知りました。
蟻に育てられる蝶がいるなんて、全然知りませんでしたよ。
面白い事例をお見せいただき、ありがとうございました。
返事が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。

お礼日時:2008/04/15 16:03

 ネコに限らず家畜が人に懐くのは、「人に懐く性質を持った個体を選抜してきたから」です。

現に赤ん坊の頃からヒトに飼われてもほとんど人に懐かない動物は数多くいます。というか家畜化されていない動物のほとんどはそうです。

 また、ほんの数十年前まで農村部では家庭で鶏を飼うのはごく一般的でした。地域によってはほとんどの家に鶏がいました。
 で、その鶏は卵を取っていたわけですが、もちろん最後には食べるわけです。今でも国によっては普通のことです。牛や豚も同様です。

 つまり「可愛い」と思う気持ちとそれを食べるという行為の間には、矛盾は存在しないのです。

 そもそもヒトは他の動物を家畜化して利用するという生存手段を選んだわけですが、家畜から肉にしろ乳にしろ毛皮にしろ、収穫を得るためにはその動物を世話しなくてはなりません。
 そしてその世話は、その動物を「可愛い」と思えなければ、とてもできるものではないんですよ。

 なのでヒトが他の動物を愛せるという資質は、ヒトが他の動物を家畜化するために獲得した資質、なのでしょう。

 そういう他の動物を愛せるけども殺して食べることも受け入れることができる、という精神は、同じ対象から得る感情を心の別の面で受け止めることが必要なので、けっこう高度な、というと語弊があるのですが、複雑な精神構造が必要になります。そういう資質もヒトが自ら生き延びるために獲得してきたものなのでしょう。

 でも、それはあくまで「資質」であって、誰もが産まれながらに持っているものではありませんから、精神に柔軟性がある幼少期あるいは思春期あたりに訓練を受けないと、そういう「矛盾」を受け入れることができる精神構造は実現しにくいのでしょう。
 ある一定以上の年代の人であれば、かなりの割合で「子供の頃に可愛がっていた鶏がある日食卓に並んで、泣きながら鶏を食べた」みたいな経験を持っていますよね。私はそれよりは若い年代なのでそんな経験はありませんが、私の親の世代は非常に高確率でそういう経験を持っています。

 私は獣医師なのですが、いわゆる「治す獣医」ではなく、「調べる獣医、その動物が生きていれば殺してでも調べる獣医」です。
 動物が好きだから獣医を志したわけで、今でももちろん動物は大好きなのですが、その動物を殺すことについて矛盾を感じないわけではありませんが飲み込むことはできています。
 また、この仕事も動物が好きでないととてもできない仕事です。

 肉食獣のように直接かぶりついて食べれば終わり、という動物では食べる相手を愛することは不要でしょうが、食べるために動物に対して手間ヒマかける必要があるヒトでは、「動物を食べる」ために「動物を愛する」ことが必要になるというわけです。
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この回答へのお礼

「食べる」=「愛する」と言っても過言ではないということですね。
そうですね。好きと思うものでないと食べられませんよね、
シンプルに言えば。家畜の世話も愛情を持ってしないとできないですね。獣医さんの重みのある御言葉、参考になりました。
お礼が遅くなり申し訳ございません。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/15 15:57

人間いえども、動物(生き物)です。


同じ命を持ち生きています。
例をあげましょう。

私たちはネコや犬、ハムスターなど色々飼っていますね。
ネコがなつく。それはネコ自身が人間の存在を許しているからです。
動物を飼う時はたいていの場合赤ちゃんの時に飼うのが一般的です。
長年野良猫を飼うってことは難しいですよね?
ネコも人間におびえてしまいます。


あなたが子供のころからザリガニを飼ってたとします。
あなたはいつものように餌をあげたりと世話します。
そして3年後ザリガニは亡くなりました。

その1年後くらいに友達にザリガニを飼ってもらえる?と頼まれたら(都合などは考えずに)答えるとOK出来ますよね。
しかしザリガニを飼ったこと無い人にとっては「え・・。気持悪い(ザリガニさんには悪いですが・・)」といったパターンが多いです。
つまり慣れですね。常に近くに居る生き物です(大抵)。
もし牛や豚を人間が飼うのが常識になっていたとしたら、
それら食にする人は少なかったと思います。

深く考えてしまうと私たちが外国の人と友達になる。
これもおかしくなります。
国が違うのになんで?言語ちかうのになんで?
白人と黒人?!
このようになってしまいます。
人それぞれ価値観や感情の出方は様々です。
最近はあまり世の中に流されているかたが多いので
この様なことに興味をもつことは良いことですよね^^
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この回答へのお礼

なるほど!慣れですか。
身近にいるかいないかの差なのですね。
確かに牛や豚を飼うことが普通だったら、
食用なんかにできませんね。
まあ、豚の場合はミニブタを飼っている人が
ちらほらいますけど。そういう人も豚を食べるのに
豚を飼う心理がよく私にとっては理解できないんですが。。
それとも、豚を飼ったら豚を断つこともあるのでしょうかね?
うーん、国によってはねこや犬を食べるところもありますよね。
グルグル回ってしまいます。どうも。深く考えすぎるタチで。
長々となりましたが、ありがとうございます。

お礼日時:2008/04/11 23:05

「寄生獣」という漫画で、「ミギー」という寄生獣は言いました。



人間だけが他の生物を気にかけるヒマな動物であり
心に余裕があることが最大の取り柄だ。

もともと食べ物である他の動物に対して、
人間は強いという自負があり
余裕ありまくりだからじゃないですか?
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この回答へのお礼

なるほど。知能という強さがあるからですね。
そのことにより余裕が出て、他の動物をかまっていられる・・。
「寄生獣」、なかなか穿ったことを書いてますね。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/11 22:58

ハグすれば、わかるんじゃないでしょうか?


好きは、頭で理解するものではなく


「感じる」ものだと思います。
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この回答へのお礼

感じるものですか・・・。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/11 22:56

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