ふと思ったのですが、クー・クラックス・クランって
まだやはりいるんでしょうか?

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A 回答 (5件)

ニュージーランドの大学に勤務する者です。

もう15年以上前になりますが、学生時代には卒論でKKKについて書きました。

お問い合わせの件ですが、まだ活動しています。もちろん直接のリンチなどの暴力性は目立たなくなっているようですが、マイノリティ(伝統的には有色人種、カトリック、共産主義者などの「100%アメリカ的」でない移民)に対する憎悪を主張している点は、昔とあまり変わりありません(彼らの主張としては、既存のアメリカ文化を守るために、外部からの諸悪の流入を防ぐのだとい言います)。アメリカではインターネットを通じて活発に「憎悪を発信」していることが、問題視されています。

こちら南半球では隣国オーストラリア(今でこそ友好的な観光立国ですが、昔は「白豪主義」というのがありました)でも、ここ数年間の景気悪化のせいか、マイノリティ排除を主張する政治家・政党が人々の支持を集めたこともありました(そのときの主なターゲットの一つは台湾系の移民でした。彼らのもたらす経済力がオーストラリアの経済にとってどれだけ重要かを考えれば、なんとも馬鹿な話です)。その背景の一部にも、KKKの活動があったと言われます。

またこちらニュージーランドでは、私が記憶するかぎり、つい2~3年前にオーストラリアからKKKの南半球支部(?)代表が来て、「反移民(マイノリティ)で結束しよう」と人々に訴えたという記事が新聞に載っていました。面白いというか、皮肉というか、その代表に「ニュージーランドのネイティブであるマオリ族の人々は白人ではないが、彼らにKKKの入団資格はあるのか」とインタビュアーが訪ねたところ、「マオリ族は元々
ニュージーランドに住んでいたから大丈夫だ」と答えたそうです。アメリカ本土ではネイティブ・アメリカン(俗に言うインディアン)の人々が差別の対象になるのですから、妙なものです。

アメリカ史の研究家の一人が、KKKを指して、「見えない帝国(invisible empire)」という表現をしたことがあります。見えないが、どこにでもある。それは見知らぬものに対する恐怖が誰の心の中にもあるからだ・・・。人が他者を恐れ、排除しようとすることはまるで業のようで、なくなることはないのでしょう。特定の民族への排斥活動は、日本でもいまだにあります。

しかし、黒人だから、マイノリティだから、等々の理由で人々を排除するとき、そこには一人ひとりの人間性へのまなざしはありません。すべて「十把ひとからげ」です。多くの人々が共存を目指し、交流を深めようとしている一方で、憎悪を助長する団体が今でも活動している・・・。人間の業とは言え、悲しいことです。

私はニュージーランドに住むようになり、こちらの永住権を取得することができました。しかし日本国籍は捨ててはおりません。自分は日本人であり、ニュージーランド社会の一員であり、そして一人の人間である、と思うからです。それらすべてが私のアイデンティティを支えており、移民差別や憎悪の助長には反対です。多民族国家へと成長を続けるこの国で、いろいろな人々が少しでもよくわかりあえるように、互いに歩み寄る努力を続けていくことが大切だと信じています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。勉強になりました。
それにしてもどこの国でも規則としては差別を無くそうと
しているのに現状はいまだに差別が蔓延っているようですね。K.K.Kしかり、日本の部落問題、インドの不可殖民(カーストに属せない人々)だったりと数えたらきりがありません。
やはり社会にはこうしたマジョリティの自己満足のための
マイノリティが必要なのでしょうか?

お礼日時:2001/02/21 19:43

10年ほど前、ある国際セミナーで知り合った南部の米国人が


「父親は今もKKKのメンバーだ」とまったく恥じることなく
明言していました。親ぼく団体のようなもんだと言ってました。
入会の儀式などには、今でもあの白い服を着るそうです。
さすがにリンチなんかはやってないようですが、白人至上主義は
残っているんでしょうね。日本も含め、社会での差別(能力など
後天的以外の)を完全に
根絶したところは珍しいのでは。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2001/02/23 20:35

今でもいます。

しかも、少なくとも数千人規模の無視できないほどの人数で存在し続けています。

KKKもキリスト教の宗派のひとつと考えられていますが、彼らによると「神が作ったのは白人であり、黒人は人間ではない。」だそうで、キリスト教の「博愛主義」に反していないと主張しています。恐ろしい考えですね。ナチスドイツも「神が作ったのは、アーリア人である」と主張して、ユダヤ人を虐殺していました。

以上。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
いつの時代も人間はかってですねー。
偽善ではなく新の博愛主義者はいるんでしょうかねえ、、、

お礼日時:2001/02/21 19:27

以前ある雑誌の記事でKKKの代表者へのインタビューが載っていました。


曰く「黒人優遇によって白人の権利が侵されている、従って我々白人の正当な権利を守るために活動している」そうです。
リンチがいまだに行われているのかは知りませんが、存在はしているようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2001/02/21 19:23

表立っての活動はあまり報道されていないのですが、まだいるとおもいます。


まだまだアメリカでは黒人差別が無くならないと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2001/02/21 19:22

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Qまだ黒人・ユダヤ人差別ってあるの?

 WEBニュースでYKKなる白人優越主義者の団体の運動が活発になってきたというのを見たことがあるんですが、今でも黒人やユダヤ人に対する差別ってあるんでしょうか?

Aベストアンサー

ありますね。

KKK(YKKじゃありません)はアメリカの団体ですが、
欧州でも特にプロサッカーリーグにおける観客からの
黒人選手に対する差別行動が問題になっています。

http://number.goo.ne.jp/soccer/world/real_madrid/20050511.html

これはスペインのことを書いていますが、欧州のどの国でも同じことが起きています。

Qふと思った事…

はじめまして。私は最近ふと思った事があります。 以前「それでもボクはやってない」と言う映画ありましたよね。
今、そういうような冤罪事件多いですよね。白バイとバスなど証拠も怪しいものばかり。 そして車社会の今ひき逃げも多いですよね。
そこで、もしひき逃げをでっちあげたらどうなるのでしょうか?例えば、「タイヤで足を踏まれて骨が折れた」「サイドミラーが腕に当たって逃げた」などナンバーを言われて、証拠がのこりにくい事を言われてしまった場合は証拠もないのに罪になるのでしょうか?逆に加害者が泣き寝入りでしょうか?
(ちなみに思っただけで事実ではありません。)
どなたか私の疑問に答えを下さい。

Aベストアンサー

日本ではそういう心配はあまりありません。
しかし世界のある地域ではそういうことが日常的に行われています。
日本がいま急激に国際化しようとして居ますが、犯罪に関してもそれなりに覚悟が必要でしょう。

Q修学旅行で沖縄に行ってふと思ったのですが・・・

靖国神社を小泉さんが参拝したら、社会問題になっていたのに、
平和の礎を訪れても問題になっていなかったのはなぜですか?
靖国神社が祭っているのが英霊だからですか?
それとも、平和の礎は魂を祭っていないからですか?

Aベストアンサー

#3です。先の大戦で犠牲になった方々を悼む気持ちは、多くの人に共通でしょう。同時に、戦争が二度と起こらないように祈念する気持ちも共通だろうと思います。特に沖縄は、民間人を含め地上戦で大勢の方々(県民の1/4)が亡くなった場所ですから、その思いは強いのだろうと思います。

だから、戦争の犠牲者・死者を悼み、平和を祈念するメモリアルを設立する。

その時に、兵士であるか民間人であるか、日本人であるか否か、仏教徒であるかクリスチャンであるか(いかなる思想信条の持ち主であるか)、を区別しない。何故なら誰もが戦争・戦闘の犠牲者だから、という考え方が「平和の礎」の基本的な考えです。だから、平和の礎には、敵国であったアメリカ人の名前も刻まれています。
そして、あの戦争が何であったのか、という点については、様々な考え方がある以上「評価」しない、という立場を取っています。

一方、靖国神社は性格が全く違います。
まず第一に、祀られているのは基本的に政府側兵士・軍属だけです。第二に、当然のことながら敵国の兵士、「朝敵」(例えば西南戦争の薩摩側兵士)は、祀られていません。第三に、神道という特定の宗教教義・形式に基づく慰霊がされます。第四に、附属の「遊就館」を訪れればすぐに分かりますが、先の大戦については「我が国の自存自衛」「自由で平等な世界を達成するため」という「評価」です。

もちろん、特定の団体なり個人なりが先の大戦について、いかなる言動・見解を持とうが自由ですから、「宗教法人靖国神社」が、その限りでやることに外部の人間がとやかく言う必要はありません。

ともかく、平和の礎と靖国神社にはこれだけの違いがあります。

ですから、
>誰かが騒ぎ出せば平和の礎も問題になりえる
ということは、あまり考えにくいなぁ、と思います。

#3です。先の大戦で犠牲になった方々を悼む気持ちは、多くの人に共通でしょう。同時に、戦争が二度と起こらないように祈念する気持ちも共通だろうと思います。特に沖縄は、民間人を含め地上戦で大勢の方々(県民の1/4)が亡くなった場所ですから、その思いは強いのだろうと思います。

だから、戦争の犠牲者・死者を悼み、平和を祈念するメモリアルを設立する。

その時に、兵士であるか民間人であるか、日本人であるか否か、仏教徒であるかクリスチャンであるか(いかなる思想信条の持ち主であるか)、を区別...続きを読む

Qふと思ったことです、本気に気軽にお願いします。

アフリカの子供が~とか貧困が~とかよく聞く話ですよね

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支援していただこうなど少し図々しいなと思いました。

道徳的に考えれば国境など関係なしに助けるものですが
あちらに否はないのかと疑問に思いました。



なぜ働くことができないのか
なぜ育てられないとわかっているのに子供を産むのか
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難しい話はよくわかりません。
猿にでもわかるような簡単な説明でお願いします




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シッカリと理解しておきたいのです。

Aベストアンサー

内戦、反政府組織、宗教上の対立等で
紛争地域があり、そこには兵士がおり、
そこに民間人の女の子が住んでいたら
襲われてしまい、妊娠して産む
夫婦だけが子供を作るわけではなく
父親の分からない子供もたくさん生まれる

引越せば?→ 先祖代々の土地だったら簡単に移住出来ないし行き先もない
中絶すれば?→ そんな金も知識も医者も設備もない、または宗教上の事情
政策は?→ 紛争をどうにかするのが先

Q自殺する人が毎年3万人以上いる日本はやはり異常だと思うのですが・・・?

自殺する人が毎年3万人以上いる日本はやはり異常だと思うのですが・・・?

最近、お隣の韓国でも自殺する芸能人の方が続々と報道され悲しい気持ちになります。
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そんな気もします、心療内科や精神科やカウンセリングを受けることができる窓口の
絶対数が不足しているのではないでしょうか!?それとそのようなカウンセリングを
受ける事、それ自体が恥ずかしいことであるとか、気軽に受けられないとかいう
意識(風潮?)があるようにも思われます。

今の日本社会、閉塞感に満ち満ちています、先の見通しも暗く長い霧の中、トンネルの中
って感じです、いったいどうすれば明るい気持ちで暮らせるようになり自殺者も減少する
のでしょうか・・・・。

Aベストアンサー

 現代に限らず有史以来人は自殺という行為に、なにかしらの救いを求める生き物です。その形態や経過も無数に存在します。自殺に関してその原因を探ろうと思えば、膨大な量の素因が出てくるでしょう。人間という根源的な存在からいえば、社会問題から精神内部の探求まで際限はないはずです。

 自殺者の多寡は確かに社会環境や、いくつかの効果的な防止策などで減少することもあるでしょうが、完全になくなることは絶対にありえません。自殺者が今のレベルの半数になったからといって、それをもって今の社会は健全になったとは誰も思わないでしょうし、そう考えるべきでもないでしょう。

 私は人間の生は精神的な生と生物的な生のふたつに分けられると思っています。生物的な生が人間の大部分を占めているのなら、自殺に対しての対処法はかなりの効果的な手法が取られると考えます。しかし精神的な生の問題であるのなら、これは大変に困難な仕事になるでしょう。

 残念なことに今も昔も、自死は余人の預かり知らないところで決められるのです。そのような人が他人に相談することがあるのなら、その人は絶対に自殺を選びません。ほんとうに生きたい人は生きていきます。ほんとうに死にたい人はどんな方法をとっても死んでいきます。

 そして哀しいことに真面目に必死に生きている人に限って、死にたいと思う頻度は多くなるばかりです。絶望しても生きぬく人がいるのに、絶望にあっけなく取り込まれて死んでいく人もいます。

 そこに哲学やカウンセラーの入り込む余地はありません。人が人であるが故に自死があると考えます。そしてそれを批判し詰る権利は誰にもありません。ただ黙して彼らの決心を尊重することしか出来ないのです。

 とはいえそれを目の当たりにして看過するほどの度胸は私にはありません。遺された者たちの悲しみを見るにつれ、一人死んでいった者へのうらみつらみも確かに有ります。何かをしなければという焦燥感もありますが、個々人に出来ることはわずかなことだけです。

 ずいぶん昔に目にした一文があります。いまはもう他界されたかもしれない老道師のことばです。必要なときがあれば、いつもこのような気持ちで自分にも他人にも接したいと思います。

「ひとはだれでも真剣に生きるかぎり、ふと死にたくなるものです。私も90歳をとっくに過ぎた今日まで”死にたい”と思ったことが度々あります。「自殺志向」は、人生の通過駅です。しかし通過駅なのですからけっして停車してはなりません。臨時停車したくならないように、日ごろから心中に生き抜くエネルギーを貯えることです。」

 

 現代に限らず有史以来人は自殺という行為に、なにかしらの救いを求める生き物です。その形態や経過も無数に存在します。自殺に関してその原因を探ろうと思えば、膨大な量の素因が出てくるでしょう。人間という根源的な存在からいえば、社会問題から精神内部の探求まで際限はないはずです。

 自殺者の多寡は確かに社会環境や、いくつかの効果的な防止策などで減少することもあるでしょうが、完全になくなることは絶対にありえません。自殺者が今のレベルの半数になったからといって、それをもって今の社会は健...続きを読む


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