この人頭いいなと思ったエピソード

社会礼儀や道徳あるいは仏教などの教えでは、人の悪口を言ったり、人謗ることを戒めています

その通りだと思うのですが、家族の欠点などついあげつらってしまい、自己嫌悪を感じます

人間には他人を謗ることに快感を覚えるようなところが在るのでしょうか
私の性格のねじれでしょうか

A 回答 (5件)

一緒に考えてみたいと思います。


家族の欠点などあげつらってしまう、という事について。
もし家族に、自分がとても好かれていると感じられるような、そんな家庭環境に居て、そしてそのことに満足している、と仮定したとき、それでも家族の欠点をあげつらうような、そんな気持ちが沸き起こるようなことがあるでしょうか。
回答でなくてごめんなさい。
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この回答へのお礼

有難うございました

「自分がとても好かれていると感じられるような、そんな家庭環境に居て」とても的確なご指摘です

自分が家族に対し、どこか不満がある、もっとこうなってほしい、など満足する気持ちが薄いからだ、ということがわかりました

いわゆる感謝が足りない、ということですね

お礼日時:2008/10/08 16:53

 一般にそのようにすることが(そのように自己のうちで、判断決定することが)、自己の存在や、確信を持つ上で、安直だからでしょう。


 そういう意味で、ほとんどの方は人を自分の目より下の位置にちょんぎることをしています。
 自分の小さいエゴや理論、ないしは知性の中になんでも取り込める、認識できる。という近代人(ずいぶん古代の話にもあることはありますが、)の愚かな習性でもありましょう。
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この回答へのお礼

有難うございました

皆さんからいろいろなご意見を頂き、少し自分が解ってきた感じがします

お礼日時:2008/10/08 17:03

tateyama55さんこんにちは。

マリア・フワポヨです。
大学で東洋哲学と心理学を学びました。

人間は完璧であることを望みます。性格、人格、人間性や日々の行い、仕事の業績、学力、知性、外見……他にもいろいろあると思います。
しかし、それは叶いませんね。そこで、他人を謗ることによって“他人よりは優る”という感覚を得ようとします。それが自然と身について他人の欠点をあげつらうようになってしまうのです。
つまり、簡単に言えば他人をあげつらうことによって自分を正当化し、優越感を得る。徳の低いそんな性格の人はそのようにするということです。

徳の高い、良識のある人は自分の欠点を認め、他人ともそんなに変わらないことに気づいているので、他人に寛容です。

いい質問ですね。

心理学のカテゴリーで質問すればもっと適切な回答が得られるかもしれません。

余談ですが、「なぜ、社会礼儀や道徳あるいは仏教などの教えでは、他人の悪口を言ったり、他人を謗ることを戒めるのか」って質問すると興味深い回答があるかも知れませんよ。
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この回答へのお礼

有難うございました

ご指摘を受け自分には寛容さがない、ということを感じました。

寛容さが無いのは、多分自分の欠点を見ようとしていない、欠点に気付こうとしていない、ためだと思います。
それでいて、他人の欠点には敏感に反応してしまうからだと思われます。

つまりは傲慢なところがある、と言うことだと思います。

お礼日時:2008/10/08 16:48

<<仏教などの教えでは、人の悪口を言ったり、人謗ることを戒めています>>



自分が傷ついて次いで他者を傷つけ、さらにその他者の評価と自分の評価で自己を傷つけるものですからね。苦しみたくないなら戒めるべきものと思います。

<<人間には他人を謗ることに快感を覚えるようなところが在るのでしょうか>>

あるでしょうね。破壊欲のようなものが。生まれたら早いうちに気付いてカットしたり、出にくくするために逆の心を出しやすくすることが有効だと感じます。

慈悲の冥想やヴィパッサナーですね。「現代人のための瞑想法」をオススメします。

自己嫌悪=後悔または慢(比べて怒る・暗くなる働き)も怒り系の悪業です。怒りやすくなってしまいますから。気付いたら客観的に「~」が有るとすると不思議と消えていく実感があります。

試してみてくださいね。

不完全だと気付いた人は成長できますから。
あまり思いつめずに気楽に実践してみてください。
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この回答へのお礼

有難うございました

「現代人のための瞑想法」というのは本の名前でしょうか

なにより、そういう暗い感情を消すこの方が大切ということですね

お礼日時:2008/10/08 17:00

>人間には他人を謗ることに快感を覚えるようなところが在るのでしょうか


:快感とも言えるでしょうが、基本的には自己防衛ということでしょう。
相対的に生きざるを得ない部分がどうしても顔を出してしまう、ということでもあります。
人は自我を維持しないと生きていけないようになっていますが、自我というのは端的に言うと本能と理想とのバランスをとって現実社会に適応していくということです。
人は、遅かれ早かれ、自我の確立が必要とされるようになります。
そのためには、本能と理想との間で生じる葛藤を自らの力で解決していかなくてはなりません。

エネルギーも必要とされますし、自己の一部を否定しつつでなければ進まない作業なため、それを厭う人や場面も出てきます。
そういう人(時)は、他人を貶めることによって、自らの精神的位置を高めようとするでしょう。
一時しのぎの納得感を得て満足するのですが、所詮は偽物なので質問者さんのように自己嫌悪に陥るのが正常な反応ということになります。

人間である以上誰にでもある要素ですが、程度問題ということになるでしょうか。
家族が対象になっている場合は、悪口を言っても許されるだろうという無意識的甘えも手伝っていることになるでしょう。
程度が不明なのでなんとも言えませんが、ねじれというほど大げさにお考えになる必要はないように思われます。
 
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この回答へのお礼

有難うございました

他人に対して優越したいという感情に起因するところがあるのでしょうね
しかし、本当は、他人に対して優越しなければおさまらないという自己の感情を、排除することができればいいのかもしれませんが。

お礼日時:2008/10/08 16:39

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