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 高校一年生です。
現在、国語の時間で芥川龍之介『羅生門』を勉強しています。
授業では、「龍之介は、なぜ「ある日の暮れ方」に設定したのか?」「下人に「面皰」をつけた理由は?」……などと、
言葉をひとつひとつ解釈しながら、『羅生門』を読み解いています。

そのなかで、特に疑問に思ったことがあります。
芥川龍之介は「火をとぼす」「火をともす」を意図的に使い分けているのだろうか、ということです。
また、ここから面白い解釈を導き出せないものでしょうか。


 第二段落、下人が楼の上へと昇るはしごの中段にいる場面。

●「それが、梯子を二三段上つて見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火を其處此處と動かしてゐるらしい。」

ここでは、「火をとぼして」と書かれています。
しかし、そのあとでは、

●「この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしてゐるからは、どうせ唯の者ではない。」
●「その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持つて、その屍骸の一つの顏を覗きこむやうに眺めてゐた。」

「火をともして」「火をともした」と書かれています。


 先生にこのことを質問したところ、「自分も気になっているのだが、面白い解釈を導き出した論文はまだ読んだことがない」とのことでした。
単に、芥川龍之介が感覚的に言葉を使い分けたのだとも思うのですが、私には何らかの意図が隠されているような気がしてなりません。
「ともす」「とぼす」が全体のなかでどのように機能しているか、面白い解釈をお持ちの方がいましたら、ぜひ教えていただきたいです。
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

「私の話は思い切って問題が小さい」で始まる柳田國男の『鴨と哉』は貴方の疑問を考察する際の参考になると思います。

この本の圧巻は、「も」から「な」に変わると言う一見大変小さい問題から出発し、m,n,b 等の変遷を通して、日本語の遠大な変遷を説得力ある形で論じているところにあります。

日本語では「も」が「ぼ」に置きかられるのは日常茶飯事に起こっております。芥川が単に筆の勢いで「も」と「ぼ」の違いなど気にせずに書いてしまった以上の言葉の芸術と言うものがこの裏に存在していると直感し、さらに、そのことが芥川のどこかの文章の構成から信号として送られていると、もし貴方がすでに直感的に気付いていると言うなら、そのまだ言葉になっていない直感を、幾つかの証拠を裏付けにしながら実証的に論じて、言葉に表していけば良いのではないでしょうか。

その際の要点は、あれっと思った一見小さいようなことから、柳田の例のように遠大なテーマが浮かび上がってくることです。ただ単にあれっと思ったことから「そんなの当然じゃないか」というような驚きのない小さい結論を導を出しただけだったら、「あっそう、ご苦労様、それで?」と言う反応が帰ってきてしまうかもしれません。また、実証の裏付けのない理屈で、単に引っかかっただけなのだが、こうも考えられる、ああも考えられると述べた所で、人を説得することは出来ません。

実証という点に焦点を絞ってみて、貴方が何故この問題に引っかかり、そして、そこから自明でない、例えば芥川の文章観などの、遠大なテーマを論じられる可能性が潜んでいるのかどうかを、改めて反省してみては如何でしょうか。もしそれが出来たら、立派な芥川龍之介論が出来上がるかもしれません。

蛇足ですが、これは皮肉に言っているのではありません。私はある分野の専門家ですが、学問のテーマとは、自分があれっと思った直感を、それが小さいからと言って捨て去るのではなく、今すぐにできるなら今実行し、時期が早すぎるようだったら、それを心に暖めて置い、それが膨らんでくるのを俟って置くべきです。その直感が核心をついている場合には、時と共にその直感が膨らんで行くものです。そして、好機が来たら一気に攻め込んでそれを完成させるというのが、学問の常套です。
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この回答へのお礼

気持ちが引き締まりました。
私は、この疑問を解決することを簡単にあきらめていました。
この疑問を大切にし、もっと考えを深めたいと思います。
もっと一生懸命考えてみます。
ありがとうございました。

『鴨と哉』、さっそく読んでみます。

お礼日時:2008/12/15 09:35

 


 とぼかともか ~ 藪の中の文学 ~
 
 芥川が書き分けているからには、何か意図があるはずだというのは、
余りに文学的な迷信ではないでしょうか。当時23歳の文学青年には、
整合性のない用法用例が、いくつもあったと推測されます。
 
 引用例に限っては、つぎのような違いを(消極的に)指摘できます。
「とぼす=着火・点火(瞬時)」vs「ともす=照灯・点燈(常時)」
 以下、初出年代順に、両者が併存・混在することを示しましょう。
 
── 「杉原(すぎはら)と書いてすい原と読むのさ」「妙ですね」
「なに、妙な事があるものか。名目読み(みょうもくよみ)といって、
昔からある事さ」
── 夏目 漱石《吾輩は猫である 190501‥-08‥ ホトトギス》
 
── 一口に爪に火を點(とも)す抔などとは云ふが(略)眞に爪に火
を點(とぼ)す人と、どこかに一つ穴を開けて、息を抜くやうにしてゐ
る人とがある。── 森 鴎外《雁 191109‥ スバル 191505‥ 籾山書店》
 
 芥川 龍之介 作家 18920301 東京 19270724 35 /服毒自殺
── 《羅城門登上層見死人盗人語第十八 1120~1449‥‥ 今昔物語集》
── 《羅生門 191511‥ 帝国文学 191705‥ 阿蘭陀書房》
── 橋本 忍・脚本/黒澤 明・監督《羅生門 19500826 東宝映画》
 
── 青ざめた 燐火(りんか)をとぼすあたたかなその毛なみ(略)。
【とぼす】ともす。原文では傍点が振られている。
── 日夏 耿之介《道士月夜の旅 1921‥‥ 黒衣聖母》
 
── 爪に火をともす育ちの老の春 阿波野 青畝(18990210-19921222)
 爪に火を灯すばかりに梅雨貧し 野見山 朱鳥(1917‥‥-19700221)
 汝が禿びし指もてとぼす白切子 村越 化石(1922‥‥-静岡)
http://yoshi5.web.infoseek.co.jp/cgi-bin/HAIKUre …
 
── 親たちが爪に火をとぼすような思いで買い取った田であった。
(略)身を粉にして働き、爪に火をともす思いで貯蓄を重ねたが(略)。
── 志賀 葉子《露草 20040110 旗》日本ペンクラブ:電子文藝館
 
── 1. とも・す【点す/灯す】[動サ五(四)]1 あかりをつける。
とぼす。「ろうそくを―・す」2 男女が交合する。── Yahoo! 辞書
 
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原文では、まず「見れば火髴に燃したり。

」とあります。
この「ほのか」は単に光の弱い様ではなく、髣髴(ホウフツ)の「フツ」であり、どこか素性の知れない「おぼおぼしい」あるいは「あやかしい」ニュアンスが籠っていると考えられます。

この光景が龍之介の手にかかると、
1)上層に登る理由を変える。
2)場面転換を使って、「面皰のある頬」と知れる程度にはかすかに漏れ差してくるとして、まず「火の光」に触れる。
3)次に、天井裏、またそのクモの巣に揺れながら写しだされるのは「濁った、黄いろい光」。
4)その後ようやく「それと知れた」として、「誰か火をとぼして、しかもその火を…らしい」と推論されている。
5)その推論から、「火をともしてゐるからは、どうせ唯の者ではない。」という想定が記される。怪しの「火の光」が人為の「灯(ともしび)」であったのだと。
5)更には「…の枕上に火を燃して、年極く老たる嫗の白髪白きが…」というように「その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持つて」となり、ともしびに照らされた「光景」が活写される。
6)人為的光景として、その火の光のよって来たる「とぼされた謎」が「ともされ」明かされるにつれ、むしろ人の心の内なる灯りはほのめきかすれ、滅しだしてきて、ついには「黒洞洞たる夜があるばかり」。

その書き分けが意図的か校正事情によるか、その鑑賞態度は人それぞれでしょうが、原文と比べてみれば、緻密な芥川ワールドには寸分の狂いも見出すことはかないません。

なお、角川小辞典「日本語の語源」によれば、
「発音運動が強化されると、その逆方向の子交[mb]が実現した」として、サブシ(寒し)、ケブリ(煙)などとともに「トボス(点す)」など「鼻音の有声破裂音化が多い」とあります。
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