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不存在の証明(悪魔の証明)はかなり困難か不可能なものだとされています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94% …

限定的な事柄でしたら、比較的に簡単かもしれませんが、ちょっとしたことでも不存在や非存在は、不可能・困難になるのだと思われます。

「何々が存在しない」などと、軽軽(けいけい)に書く不注意者は、この哲学カテにはいないと思いますが、注意深く考察すると、確かに存在しないと言えそうだなと思い付くもの・ことがありましたら、教えてください。

A 回答 (42件中41~42件)

 回答No.1です。

補足のお言葉を賜りました。断片的な内容に為りますがお許しください。

  「無」という概念は、存在しています。有無を問うことは日常的です。「無」は「存在しない」ことを表現する言葉ですが、「存在しない」概念が「存在している」わけです。
 (回答者)インドのある思想(サンキャだと思いますが)では、無という存在はある、というのだそうですね。
 そして、無は万物を産出する絶対存在(有)なのだそうですね。
 
 対偶命題的ではありませんが。
 自己と世界は自己(創造本源となっていない自己)がその概念、観念そしてイメージを持つ。
 しかし、その、自己と世界についての概念、観念そしてイメージは存在しない。
 自己の持つ世界についての概念、観念そしてイメージと自己に関する概念、観念、そしてイメージが区分されている世界と自己は存在しない。つまりそこには、主観と対象・客体関係は存在しない。という側面もありうる。

この回答への補足

無、不存在について少しだけ書きます。
排中律成立の場合、A∧¬A=Φ
つまり、空集合、無、不存在です。
Aと¬Aの境界には、何も共有するものがないわけです。
境界線、断絶面には、幅がないという状態です。
たとえば、隣地との境界線は、厳密には決して糸で表現できません。
便宜上、糸で見せたりしますが、糸は線ではありません。
そして、死の瞬間も曖昧で、現実的に観測的に時点を特定できません。
ですから、現実だけを見ていても、存在論的な思索には役立ちません。
A(生)と¬A(死後)の境界(死)は、A(生)と¬A(死後)のどちらにも属さないからこそ、
「死は(それぞれの)人生のできごとではない」とウィトゲンシュタインは書いたのだと推察します。
ただし、僕は死後の実在は信じていません。存在論的な思索上の想定に過ぎないからです。
空集合、無、不存在から、ウィトゲンシュタインは死を連想したと思われます。
そして、死こそ、不存在の証明なのではないかと思うわけですが、いかがでしょうか。

補足日時:2009/01/28 17:15
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この回答へのお礼

krya1998さん、ありがとうございます。
サーンキャ哲学ですか。
二元論の系譜なのですね。
その視点ですと、不存在・無は、絶対的な何かなので、原理的に証明できているという立場なのでしょうね。

イデアのような、「絶対」は、アプリオリであり、この相対世界の中にはないけれども、この世ならざるところにはある・存在しているはずであるという古代アーリア系の発想なのでしょうね。

そして、後半の記載は、ハイデッガーの「世界・内・存在」にも通じるのではないかと思いました。

その上で、「世界・外の絶対」を削除すると、この相対世界だけを探究できそうです。また、「世界・外の絶対」は不可知ですから、沈黙せざるを得ませんが、無や不存在は「永遠に語りつくせないほど内容豊か」で手に負えないと言うべきかもしれません。つまり、超時間的です。

お礼日時:2009/01/25 11:49

 しっかりした文章でのご質問ですので、以下のことはためらいながら書いております。


 国語のカテゴリではないので、ことばの意味はもちろん問題にはなりませんでしょう。
 さりとて、関係での意味を規定する意味論でのご説明も無用でしょう。
 さりとて、また、思弁的存在論や認識論も問題にされているのではないのでしょう。
 自然科学で確認されたかどうかの問題でもなさそうです。
 であれば、およそ人の思念や思考にあったもの、そしてあるものはその意味で、そこに存在しておりましょう。
 夢も、空想も、文学も存在の場でしょう。
 およそ地上の現象にあるものは、その意味で存在し、存在しないものは存在しない、という詭弁的表明になると存じますが。
 それはその背後に存在させるものがあるから、ということなのですが。

この回答への補足

古典論理でも直観主義論理でも、「¬Pが真である」が矛盾する場合、「¬Pは真ではない」とまでは言えます。
しかし、古典論理では、排中律を前提として、二重否定は肯定だとしますから、さらに、「Pが真である」とまで断定してしまいます。
つまり、排中律の成立・不成立をはっきりさせなければ、まともな論述にならないわけです。
下のお礼欄では、そのあたりをはっきりさせていませんでしたので、できればその点を考慮していただければと思います。

krya1998さんに限らず、どなたでも構いませんので、挑戦してみてください。

補足日時:2009/01/28 20:26
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この回答へのお礼

そうですね。少し補足します。まず、存在的(科学的)に証明できるできないの問題ではありません。哲学カテですから、存在論的です。

そこで、「不存在は証明できない」の真偽を問うとします。
そして、対偶を考えます。
「証明可能なのは存在するものだけである」と。
この対偶命題は真のようです。
よって、元の命題も真であろうと推測します。「不存在は証明できない」は正しいようだと。
でも、本当にそうなのでしょうか?というのが今回の質問です。

>夢も、空想も、文学も存在の場でしょう。
>およそ地上の現象にあるものは、その意味で存在し、存在しないものは存在しない

krya1998さんのこの記述は、まったくそのとおりだと思います。
その上で、次のように展開します。
「無」という概念は、存在しています。有無を問うことは日常的です。
「無」は「存在しない」ことを表現する言葉ですが、「存在しない」概念が「存在している」わけです。
「無」や「不存在」は、「有」や「存在」の形態を擬制しています。

少し戻って
対偶命題:「証明可能なのは存在するものだけである」
有無、存在不存在の概念は、存在している
よって、有無、存在不存在は、証明可能であらねばならない

すると
元命題:「不存在は証明できない」と矛盾してしまうように思うのです。

不存在なもの・ことも、不存在であると証明できるのではないか?
このような矛盾です。
確かに、存在しない(不存在な)もの・ことで、証明できてしまうような例示を教えていただきたいというのが、今回の質問です。
ずばり、難問ですが、よろしくお願いします。

お礼日時:2009/01/24 10:41
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