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私は物事を考えるときに、よく理屈で考えます。
当然、人間関係にも理屈を持ち出します。
理屈っぽいことは悪いことなんでしょうか?
論理的思考ができないことのほうが悪いことだと私は思いますが。
皆さん、どう思われますか?

A 回答 (15件中1~10件)

 イギリスの登山家が「なぜ登るのか?」の問いに、「そこに山があるから」と答えた話は有名です。

この人を食ったような非論理的な答えが妙に腑に落ちてしまうのは、人間というのは非論理的な存在だと私たちが知っているからでしょう。この答え方に対して「なんじゃそりゃ」と思う一方で、「まぁそんなもんなんだろうな」という納得もあり、一種の心地よさを感じるのは僕だけでしょうか。
 理論というのは、解釈の仕方を一方的に決めつけてしまうものです。俳句は説明し切ることをやめ、文字数を制限することで間(ま)を設けます。世界は意味や意識で充満されているのではありません。ものごとの受け止め方は、本来それぞれの人に任されています。その自由な隙間が心地よさを生み出しているのではないでしょうか。
 論理的であることは悪いことではないと思います。さらに、もう一歩先をいって、わざと隙間を作った方が得策だと思います。それを聴き手に埋めさせることで、押しつけがましさを回避するのです。説明は七分にとどめて、推して知るべし風に説得する方が効果的だと思います。
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 「理屈っぽい」のは悪いに決まってます。

良い意味で使いたいのなら「理論的」という言葉を使います。なぜ悪いかと言うと、理屈ベースに乗せるには、物事を単純化・標準化しないといけないからです。とうぜん切り捨てられる部分があるわけで、人をして『理屈っぽいのは良くない』と言わせしむるのです。では、その切り捨てられる部分というのは何でしょう。むろん感情もありますが、非言語的思考とか非理論的考察というのもあると思います。はたして私たちは「言葉」や「理論」だけで考えて判断しているのでしょうか。この点については、『右脳革命』T.R. ブレークスリー著、大前 研一編訳(新潮文庫)に譲ります。
   http://www.h5.dion.ne.jp/~takata/20/7.html 感情と理屈のすれ違い
   http://www2.ocn.ne.jp/~honeybee/communication/ti … ノンバーバルコミュニケーション
   http://www.mental-health.org/mh13-3-10.html 森田療法の思想の矛盾
 あるいは、「理屈」を使う場面というのは、人を非難したり否定したりする場面ではないでしょうか。たとえ助言のつもりでも、その言説が正しいとしても、人は否定されるのが嫌いなのです。その不満が『理屈っぽい』という揶揄に形を変えているのではないでしょうか。
   http://www8.plala.or.jp/psychology/topic/settoku … ・ブーメラン効果
   http://www.din.or.jp/~honda/diary981.htm 人を動かす   
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いいとか悪いとかっていう話ではないのでは?



感情優先な人、理論優先な人、どっちにもそれなりの長所と短所があります。
一番のぞましいのは極端にどちらかに偏っているのではなく、
ケースに応じて理屈を無視したり、理論を優先したりすることではないでしょうか。

相手が同じく理屈を好む人なら理屈優先で付き合う。
相手が感情を重んじる人なら理屈っぽくなるのは控える。
とか。

論理的思考が大事だというふうに、あまりに固執すると、結局は人間関係において
何らかの不都合が生じるかもしれません。
それでもいいのなら理屈で突き通しても構いませんが、おそらくこの相談をするということは
少し無視しがたいことが起こっているのかなぁ…と思いました。
理屈屋過ぎるとウンザリする人がいるのも確かで、そこで、「いや、ウンザリする方が悪いんだ」と思うのか、「どっちが悪いのかはわからないが、関係が悪くなっているのは確かだ」と思うのか。
この二択で(もっとあるかも)、どちらがそのケースにおいては有益と思われるかを考えて決めればいいと思います。
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私はあんまり好きじゃないです。

理屈っぽいこと。
というのも私自身が筋金入りの理屈屋だから!(笑)
年重ねるごとに理屈(と屁理屈)が増えて、最近ほんとに心から、「あーこれはいかん」と思います。

あ、考え方そのものが理屈っぽい・論理的なのは全然問題ないと思います。
ただ人と会話する上であまりにも理屈が多いのは、相手にとってあんまり気持ちいいものじゃないのだなーと最近思った次第です。
こないだ私とそっくりな理屈屋さんと話してて、すごくイライラしたんですね。
同時に「うわあ、まるで自分と話してるようだ」と気づき、反省しました。
私やその人の場合、理屈が良くない方向に働いてしまっているので^^;
(相手の揚げ足を取ったり、相手の真意を無視して、不快な思いをさせてしまうという)

今は、他人とコミュニケーションする上で、「理屈っぽい、すなわち客観的」という利点を生かして「今の自分は理屈っぽくなっていないか?」と絶えず意識をし、リハビリ(?)に取り組んでいます。
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私も比較的、理屈は重要視しています。


但、それは「私は」ということで他人様はそうではない人もいる。
しかも、理屈というのはある程度物事を合理的に進めるために使っているので(私は)、
相手の感情を逆撫でし纏まらなくなるのは使いかたを間違えていると思います。
例えば、質問に回答戴いたのにも関わらず「論理的に示していただけると幸いです。」
と言い放ち反感を買った質問者がいました。
その質問には中々的を射た回答は付かなかったと記憶しています。

結局、人間は感情の動物なのでそこも含めての理屈を考えた方が良いと思います。

>論理的思考ができないことのほうが悪いことだと私は思いますが。
仮に悪いことだとして、・・・で?
その人に論理的思考をすることの大切さを納得させ、
そのスキルを身につけさせる過程で、やはり感情の壁は理屈では崩せないでしょう。

http://okwave.jp/qa4512706.html
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理屈っぽいのは悪いことですね。


「っぽい」とつくということはそれは理屈でなく理屈に似ているものだということです。
自分では理屈だと思っているが、どこかしらズレていたり欠けていたりするものです。
机上の空論とかもそうです。
理論的思考をしているつもりになっているだけで実際はできていない。
そういうことです。

本当に誰もが納得する「理屈」なら問題になりません。
どこかしらおかしなところがある「理屈っぽい」という「理屈」とは似て非なるものだから悪いんです。
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>理屈っぽいことは悪いことなんでしょうか?


悪くはない。
>論理的思考ができないことのほうが悪いことだと私は思いますが。
この考え方は良くない。
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理屈に善も悪もありません。



ただ、理屈は「結論ありき」の状況で使われることがあります。
本人は理屈に沿っていると思っていても、それは論理的な理屈ではありません。
そのような理屈は「屁理屈」と言われています。

特に人間関係の問題なんてのは理屈以前に、生き様や信条に左右されます。

『極限まで空腹の人が、パンを盗んだら罰するべきか?』
こんなのは答える人の信条や考え方によるもので、理屈で論破しようとするほうが無理です。

理屈を言う前に、ここは理屈を言うべきかどうかということを、論理的に考えないといけませんね。

論理的に考えれば、論理を持ち出してはいけないこともあるはずです。
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論理的思考は良いと思うし大切だと


思いますけど、それが理想論しか語らなければ
鬱陶しいだけですね。
あと、論理的に考えてても自分の理解してることは
相手も理解してると言うことを前提で話す人も
鬱陶しいですね
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他人から「君の話は理屈っぽい」と指摘されるときは


それは理屈っぽいことそのものが悪いのではなくて
人の心が共感できるように面白く話せないことが悪いのです。

なぜなら理屈は道具にすぎず、会話そのものにはなり得ないからです。
理屈は人ではなく概念・論理を切り裂くための刃物です。
鋭く研いだやつを隠しもっていて、必要なときだけキラッと光らせたらいいのです。
普段からブンブン振り回しているような人が煙たがられるのは至極当然です。

往々にして理屈の鍛錬を至上としている人はこのことを反省できず、
他の皆も理屈で語ればいいのにとすら考える迷惑な剣士の場合が多いですよね。
失礼ながら質問者様もきっとこのたぐいでしょう。

これからは「論破」より「共感」というメソッドで話を組み立ててください。

議論を中途でやめておくことや無駄に思える話が最初は抵抗でしょうが、
共感というサブシステムを身に付ければ理屈も説得力と面白さを深めます。
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