タイトルの通りに、作品中のどこかに「長大な台詞」、しかもそれが、回想録のようなものではなく、リアルに会話している、そして、1人が何ページにもわたって長広舌を振るうという状況がある日本の文学作品の例がありますでしょうか?また、誰の作品にそういう傾向が多いでしょうか?

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A 回答 (4件)

・『ドグラ・マグラ』夢野久作、角川文庫・教養文庫・ちくま文庫など


 「読むと一度は気が狂う」とまで言われる、世界に誇る伝説の奇書です。
 二人の対話→論文・調書その他の文書→二人の対話という形式のせいか
 3~4ページに及ぶ長セリフが無数に飛び出します。

・『虚無への供物』中井英夫、講談社文庫など
 未読ですが、推理小説の歴史上極めて異彩を放つ作品だそうです。

・『富士』武田泰淳、中公文庫
 既読ですがよく分かりませんでした、スミマセン。
 精神異常とか宗教とかの問題を扱っているようです。

・『邪宗門』『悲の器』高橋和巳、河出文庫
 先に挙げた作品ほどではありませんが、1ページ越えのセリフが
 所々飛び出します。『邪宗門』は架空の信仰宗教団体が
 世直しから始まって弾圧をくぐりテロリスト集団に変貌して
 滅びるまでを、『悲の器』は愛人を無情に捨てたかどで訴えられた
 大学教授の姿を通じて人間性の暗部を描いた作品です。

私の知る限り、誰の作品に長セリフが多いとは言えませんが
作品そのものが大作で、作者に元々インテリ的な傾向がある場合
長セリフが多くなりやすいようです。
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この回答へのお礼

いろいろ例があるのですね。ありがとうございます。
もともとインテリ傾向ですか。いえていそうですね。

お礼日時:2009/05/26 07:53

 筒井康隆さんの「関節話法」などはかなりの大演説があったと思うけど。

新潮文庫「宇宙衛生博覧会」に収録。

http://www.amazon.co.jp/dp/4101171157
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この回答へのお礼

読んだことあります。すっかり忘れていますね。

お礼日時:2009/05/26 07:53

井上ひさしの「吉里吉里人」は長広舌の場面が多かったです。


例えば第三章でトラキチ東郷が演説する場面など。
中江兆民 三酔人経綸問答なども文学と政治パンフの中間的作品だからかもしれませんが、作中の人物は長々とまくしたててますね。

参考URL:http://www.geocities.co.jp/hgonzaemon/nakaechoum …
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この回答へのお礼

キリキリジンは読んだことあるのですがすっかり忘れています。

お礼日時:2009/05/26 07:52

こんにちは、garcon2001さん。




[浪曲] [文学作品] と キーワード を いれると いくつか あがっては きませんか?
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この回答へのお礼

難しそうです。。。

お礼日時:2009/05/26 07:51

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Q“科白”と“台詞”

 “せりふ”ということばを漢字変換しようとすると、言葉自体と漢字の字とが、連関しない字が出てきます。
 “科白”と“台詞”という字です。

 この二つとも、“せりふ”という意味を解釈して、漢字を当て嵌めたのであろうと存じます。

 1. “せりふ”というのは、語る“文句”のことだと理解していました。
 では“せりふ”ということばがどうして上記の二つの字(“科白”と“台詞”)を宛てられたのでしょうか?

 2. “科白”と“台詞”。この二つの字は、どのように使い分けるのが妥当でしょうか?

Aベストアンサー

下記[参考URL]が示す記事中の「語源」が参考になるかも

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9B%E3%82%8A%E3%81%B5

Q日本の純文学作品内でしばしば言及される海外文学

日本の純文学作品内に高い頻度で登場する海外文学を教えてください。
たとえば太宰なら聖書やドストエフスキーの小説を引き合いに出すことが多かった気がするのですが、
他に頻繁に引き合いに出される作品には何があるのでしょうか。

Aベストアンサー

同じく、太宰はギリシア神話からも引いていますね。
例:走れメロス

順位から云えば、
1.中国文学(近現代では「中島敦」とか、江戸期以前の文学では当たり前)
2.佛教経典(芥川・・蜘蛛の糸なんか・・)
3.聖書(現代では、「森山周一郎」・・クリスチャンだった)
4.ギリシア神話(太宰、白樺派辺りでも引用が多い)
5.ドストエフスキー(近代で引用が多い)
6.シェークスピア(大正期文学では多い)

特に自然主義文学と呼ばれる作品群(大正期から昭和初期にかけて)は、西洋文学の引用が増えているような気がします。そして、新古典主義と呼ばれた、芥川らによって、佛教経典や日本古典から引用があり、その後の現代に続くようです。

では。

Q科白と台詞

あるサイトで「科白」という字があり、読み方が分からなかったので、調べたら「せりふ」であると分かりました。
でも、わたしの頭の中では「せりふ」という漢字は「台詞」でして…。違いを教えてください。(それとも違いはないのでしょうか。)

Aベストアンサー

 意味としては違いはありませんが、「科白」(かはく、とも読む)の方は、もともと「科」が俳優のしぐさ、「白」はセリフを意味する言葉のようです。(「白」には「自白」「告白」「白状」のように「言う」という意味があります。)
 しぐさとセリフの両方をさす言葉だったのが、もっぱらセリフのみをさすようになったようです。
 「台詞」の方は「台本」(しぐさとセリフと両方が書かれていますね。)に書かれた言葉ということではないでしょうか。

Q文学部で現代日本文学作品だけを学ぶのは無理?

文学部進学を選択肢の一つに考えている高校生です。

文学部に進学したら現代日本文学作品を学びたいと思っています。昔から小説を読むのが好きで、古典作品よりも、明治以降の作品(さらに言えば、例えば村上春樹さんのように今リアルタイムで執筆活動をされているような作家さんの作品)の方にに学問的な興味も寄っています。大衆文学でも純文学でも。自分が読んで育ってきた時代のものを研究したいという気持ちが強いです。
ちなみに志望校については、京都大学の学風に大変惹かれており、今のところそれ以外を考えたことがありません。

しかし、その文学部について調べていて引っかかる点が少しありました。
他の大学もそうだと思うのですが、国文学は文学部の中でも「東洋文化系」という大きなくくりの中に属していますよね。
その東洋文化系の必修科目や専門科目は、
・中国・韓国語・サンスクリット語などの外国語
・中国古典文学・漢文・国語古典文学・インド古典文学
がほとんどという印象でした。
国語学や国文学もありますが、それ以上に外国語や他国の古典文学の授業がかなりを占めていると思います。
さらに国文学の授業でも、古典文学だけを扱うのが文学部の一般的常識だと聞きました。これは本当なのでしょうか。
教授の研究テーマを見ていても、現代日本文学を専門にしていらっしゃる方がいらっしゃいませんでした。
京大以外の国立大も軽く見てみましたが同じような印象を持ちました。

これは、大学の文学部に進学しても現代日本文学を本格的に学ぶことはあまりできず(卒論を除く)、他国のものを含む古典文学・外国語ばかりということになるのでしょうか?

古典文学も外国語も嫌いではありませんが、現代日本文学をあまり学べず、そちらにウェイトがかなり寄っているなら、他学部に進学して独学で文学を学ぶ方が幸せなのかなぁという気がして迷っています。
文学部で現代日本文学作品だけを、とまでは言いませんが、少なくともそれを専攻にしていると言えるようにはなりたいのです。
それが無理ならば、現代日本文学を学びたいという人が、古典文学や外国語をやる意味って何でしょうか?

文学部に在籍経験のある方や、その辺の事情に詳しい方の回答を頂けたらと思います。些細な情報でもかまいません。よろしくお願いします。

文学部進学を選択肢の一つに考えている高校生です。

文学部に進学したら現代日本文学作品を学びたいと思っています。昔から小説を読むのが好きで、古典作品よりも、明治以降の作品(さらに言えば、例えば村上春樹さんのように今リアルタイムで執筆活動をされているような作家さんの作品)の方にに学問的な興味も寄っています。大衆文学でも純文学でも。自分が読んで育ってきた時代のものを研究したいという気持ちが強いです。
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Aベストアンサー

 こんにちは。「文学が好き」と「文学を学ぶ」では「文学」というもののスタンスが異なることにお気付きでしょうか。そして「文学が接している領域」がどこまで及ぶか、をお考えになったことがあるでしょうか。高校生を含めての受験生にとってはいささか失礼かと存じますが、敢えてこのような問いを返させていただきます。
 口幅ったい言い方かもしれませんが、「文学」を人間の精神的な営みと理解するのであるなら、それが関わる範囲は「人間が関わる全ての領域」と規定することも可能で、それは社会学や法律学、政治学などの社会科学はもとより心理学や哲学といった思想系、時には人間が対象として観察している自然科学分野にまで及びます。そしてそうした全てをひっくるめた歴史にも脚を踏み入れねばならないことも普通です。
 「小説を読むのが好き」と仰る質問者からすれば、近代以前の作品は「小説」ではないのかもしれません。けれど『蜻蛉日記』や『更級日記』も解釈次第では「小説」でもあるとの事実を忘れてはならないでしょう。両者は共に「私小説」です。それは「私に降りかかった事象」を私の目線で見たこととして「自己対象化」の要件を完璧にクリアしていることによります。
 この要件を近代以後の作品に適用してみるならば、漱石、竜之介、そして公房や由紀夫、健三郎といった作家全てにあてはまることにもなります。
 こうしたことを考えてみると、最初の質問である「文学を学ぶ」とはどの様な意味を持ってくるといえるでしょう。そして具体的な内容はどの様な言葉として説明することになるでしょう。ここまで来た時、一先ずの定義を示すこともできます。少なくとも「文学なるもの」を研究対象とする時にしか、この言葉を使うことが出来なくなるとの話です。
 恐らく今後もノミネートされることはあっても村上春樹さんがノーベル賞を受賞することもないでしょう。それは文学が時空を越えて数多くの人と感動や認識を共有することで認められているからとの「文学の存在理由」との間でかなりの隔たりがあることも作用しています。
 『青が消える』が普遍の問題を扱っているといえるでしょうか。この作品をどの様な視点からターゲットとして観察することができるでしょうか。少なくとも僕には公房と類似するテーマを扱いながら彼の一連の作品を凌駕するとも考えられません。春樹が書いているのは「僕にとっては大切なもの」が他から見れば「さほどの意味はないもの」であるとの描写に留まっている点で、公房の足下にすら及ばない。だからどうしたの?で終わってしまうほどの作品ともいえます。
 質問者は「同時代の作家を対象とした」と肩に力を入れて力説していますが、戦後そして1945年以前の作家が同時代の空気を採り上げていないとの考えならば、それは大間違いともいえます。彼らは全員「自分の目線」とのフィルターを通じて社会そして世界を観察し、それを「言葉」として再び世界に放ち、読者(研究者も評論家も)に投げ返してきた、「社会とは…」「世界とは…」「私とは…」そして「これら私を取り巻くものと私の関係は…」との形で。
 少し厳しい言い方になりますが、質問者は「文学」を全く知らないといっても過言ではありません。公房が海外でF.カフカやS.ベケットさらにはA.カミュ、健三郎がG.グラスなどとの同時代の観察者として考察の対象になっていることをご存知でしょうか。またなぜ和歌や俳句に関する研究で外国の研究者の方がより本質的な部分にまで切り込むことができるのか考えたことがあるでしょうか。
 芭蕉の旅は西行の旅と重なる部分が数多くあります。清少納言や兼好の言葉には李・杜、白居易をはじめ多くの言葉がちりばめられてもいます。これはなぜでしょう。それを読む人からすれば、まさに現代の言葉でもあるからです。雪降る朝の光景が「香炉峰の雪」を想起させると清少納言が感じたから、それを言葉にしたのであり、そうした姿をペダンティックと評するのも一つの解釈です。けれどもそれは「清少納言という人物像に対する評価」であり「『枕草子』に対する評価」とは異質なものといえます。
 どうやら質問者は「大学で学ぶ」ことを勘違いしている可能性も多分にあります。専門の教員がいないから学ぶことができないとなれば、質問者の文学に対する姿勢は常に受け身といえ、そこから何を引っ張り出すかとの最も大切な作業を放棄することになります。このような生半可な姿勢では理論構築のない分野とはいえ、何を求めるかとの自らが立てた問いに対する答えを見つけることは到底叶わないともいえます。
 「京都大学の学風に惹かれる」とはあっても、文学部に学風は無関係です。京大文学で「学風」と呼ばれるのは歴史学での「内藤史学」や哲学での「西田哲学」といった「研究スタイル」や「アプローチ視角」での特色です。老婆心ながら誤解されませんように。
 なお「日本文学科」や「国文科」が対象領域として扱うのは必ずしも古典だけではありません。近代以後、「第三の新人」と呼ばれる作家までは対象範囲に含まれます。志望選択をする以前に少なくとも、近代文学史の概要程度は頭に叩き込んでおいていただきたいですね。それが常識ですよ。

 こんにちは。「文学が好き」と「文学を学ぶ」では「文学」というもののスタンスが異なることにお気付きでしょうか。そして「文学が接している領域」がどこまで及ぶか、をお考えになったことがあるでしょうか。高校生を含めての受験生にとってはいささか失礼かと存じますが、敢えてこのような問いを返させていただきます。
 口幅ったい言い方かもしれませんが、「文学」を人間の精神的な営みと理解するのであるなら、それが関わる範囲は「人間が関わる全ての領域」と規定することも可能で、それは社会学や法律学...続きを読む

QVIPについて

かねてからずっと疑問に思ってたんですが、VIP仕様って何?
妹がVIP仕様に興味があるらしく、高級車の名前ばかり言ってるんですが、その車たちの写真を見るとホイールバカデカ!車高メチャ低!何じゃこのフルエアロ?車検通るんかいな?ってなのばっかり(+_+)
「こうゆうのはヤンシャってんだよ」って言うと「今時はVIPって言うの」って…。
中にはオデッセイなどのミニバンクラスも…。普通はセダンがVIPじゃないの?
そこで、なぜヤンシャ仕様がVIPに取って代わったか、VIP仕様の定義を教えてください。
しかし実際に各国の要人たちがあんな車乗ってたら笑いものですよね(笑)

Aベストアンサー

No5です。うまく伝わって無いですね?セド・グロにブロアムVIPって言うクラス?があり車の後ろにVIPのエンブレムが付いてたんです。それをまとめてVIPにしたのがはじめかと。
因みにチーム時代はフルスモ、フルエアロ、で中身はフルチューンが当たり前で自分のは煙草の箱を立てたぐらいの低さでしたが湾岸で○70kmでてましたよ?300km以上でるVIPはMTでしたし600ps越える車ばかりでしたよ。ただ
部品がない為ワンオフ品ばかりで改造費だけで1000万越えてましたね、今思うと無駄でしたけど・・自己満足ですね。ただうるさいのは130kmが限界だったみたいです。
今は目立つVIPで何の車か解らないとかナンパ的車ばかりで実用性ゼロですし族も乗らなくなってきた。    VIP族・VIPカーは本当の意味のVIPじゃ無いって事ですよ。カテゴリー的と言うか業界がつけた都合のいい名称と思っていた方がいいかも。
限定に弱い人の様にVIPに弱い人もいるって事ですよ。

Qブルーノ・シュルツ「大鰐通り」 チェコ文学

読んでみたのですが、舞台背景がまったく分からないので、著者が何を言いたかったのか抽象的にしかわかりませんでした。
チェコ(スロバキア?)文学に詳しい方宜しくお願い致します!

Aベストアンサー

チェコのSFが主体で文学全体に詳しい訳ではありませんが、
一応、一つの観方として解答しておきます。

シュルツ氏は作家であると共に画家でもありますので
「友人に語るように作品を書き、絵を書くように小説を書いた」
と評していた方もいます。
子どもの視点の作品という評価もあります。

また安部公房氏との類似点を取り上げて
隠喩の豊かさとカオス的魅力を論じる方もいます。
(参考URL 三浦雅士氏 書評)

個人的にはダリやピカソのような抽象画を眺めるように
読んでいくべき作家と思います。
西欧的な唯物的表現でもなく、
東洋的な主観的心象表現でもない
独特な読み味を持った作家が
チェコには多いような気がします。

参考URL:http://www.impala.jp/bookclub/html/dinfo/10209001.html

QVIPカーって?

VIPカー?VIP系?と言うのを時々聞きますが、
見てみるとそれらしい車が見当たりません?
VIPといえば、RRやベントレーを思い浮かべますが(100歩譲ってS600、XJ12)
最近ではヴェイロンやヴァンキッシュSもデリバリーされてるようですが。
VIPカーって、今は違うのでしょうか?

Aベストアンサー

VIPカーって書いてあったら、頭の低そーな人が乗ってるウィング付けたり、やたら金メッキのモールが付いてたり、一見するとヤンキー?と思うような車です。

http://www.car-total-advisers.com/vipstile.html

Q踊子 振る振る 白いもの

読解力がないことを曝す様ですが、解らないモンは解らないので質問します。聞くは一時の恥~…っていいますし。

“伊豆の踊子”のラスト、『ずっと遠ざかってから踊子が白いものを振り始めた。』とありますが、一体何を振ったのでしょうか?

推測でも、「解らないところが良いんだってば」という解答でも結構です。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ハンカチのようです。踊り子は手ぶらで乗船場へ来たのでしょうから、別れに際して
たもとからハンカチを取り出して振ったと考えるのが自然だと思います。
夏目漱石の『硝子戸の中』に和服の女性が袂からハンカチを取り出す描写があります。
女は何かに感激したものと見えて、袂(たもと)から手帛(ハンケチ)を出して、
http://www.aozora.gr.jp/cards/souseki/htmlfiles/glassdo.html
この作品は大正4年1月・2月の発表です。
芥川龍之介の『手巾(ハンケチ)』という短編に、和服で袂にハンカチを入れていた
婦人の姿が描かれています。
http://www.aozora.gr.jp/cards/akutagawa/htmlfiles/hankechi.html
この作品は大正5年(1916)の発表です。
川端康成が伊豆に旅したのは、大正7年(1918)のこと。従って、踊り子が袂にハン
カチを入れていてもおかしくありません。

ただし、白い布を振るのは、西洋から伝わった習慣とばかりは言い切れません。
『万葉集』巻五・八六八番に「松浦縣佐用比売の子が領巾振りし山の名のみや
聞きつつをらむ (山上憶良)」という歌があります。
その他、
今はとて島漕ぎ離れ行く舟にひれ振る袖を見るぞ悲しき(落窪物語
千載和歌集 巻第十四(恋歌四)
   堀河院の御時、百首の歌奉りける時、恋の心をよめる 藤原基俊
0847木の間よりひれ振る袖をよそに見ていかがはすべき松浦まつらさよひめ (0961)

ハンカチのようです。踊り子は手ぶらで乗船場へ来たのでしょうから、別れに際して
たもとからハンカチを取り出して振ったと考えるのが自然だと思います。
夏目漱石の『硝子戸の中』に和服の女性が袂からハンカチを取り出す描写があります。
女は何かに感激したものと見えて、袂(たもと)から手帛(ハンケチ)を出して、
http://www.aozora.gr.jp/cards/souseki/htmlfiles/glassdo.html
この作品は大正4年1月・2月の発表です。
芥川龍之介の『手巾(ハンケチ)』という短編に、和服で袂にハンカチを入れ...続きを読む

QなぜVIPカーって言うのか

クラウン、セルシオなどの高級セダン等で、車高をタイヤが隠れる程落とし、マフラーやエアロなどで威圧感たっぷりな車をよくVIPカーって言いますが、なんでそう呼ばれてるんですか?

本当にVIPな人達ってあんな車乗ってませんよね。VIPになれない人達がVIPになった気分になれるからですか?

アルミや気持ち1~2cm位車高落とすくらいなら理解できるんですが、あそこまでやるとやり過ぎ感があります。

Aベストアンサー

このご時世、今時そんな呼び名にこだわる人って、おそらく余程のカーキチ以外いないでしょう。

新車で、もしもそう呼ばれる車にする度胸なんて、おそらく持ち合わせていないと思います。
まあ、そういう前に、世はお金問題もあるので、古臭いご老体の車体に鞭打って、せいぜいDQNでいきがるしか、世間からの注目受けませんからね。
それから、改造費何百万とか吹っかけてますが、大半がうそです。
信じないでください。

今は、この手の車ことを何と呼ぶかは知りませんが、知り合いの間ではドレスアップカー。
ぐらいに呼んでいます。

当然、純正風の小ぶりなエアロ。普段乗り様に問題ない程度の、サスコントローラー。
あるいは、ダウンサス程度で、やはり、何処にでも行ける程度のダウンが今ははやりでは。

PIPカー。じゃなくて、VIPカーみたいに、ゴツゴツ、ゴロゴロ、ガランゴロン。音させながら、走る車なんかに、今の女の子は見向きもしませんね。
ヤンキー以外はね。

Q中学生にすすめる文学作品

たいへんな本好きですが、ファンタジーやミステリーしか読まなかった子どもが、急に文学作品に興味を持ち、シェイクスピアとかドエトフスキーとかを借りてきました。
ですが、やっぱりというか・・挫折して読みきれなかったようです。
せっかく違うジャンルに興味を持ったのに、このままでは、「文学=面白くない」と言う図式が出来そうです。
どなたか「これ面白いよ~!」と言う本がありましたらアドバイスお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
アレクサンドル・デュマの『三銃士』『モンテクリスト伯』はいかがでしょう?
全巻読破すると、両作品とも長いですが『三銃士』は主人公が銃士隊長になるあたりまででも楽しめると思います。
『レ・ミゼラブル』なんかも読みました。
児童文学に近くなりますが、フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』や、ミヒャエル・エンデは受入れ易いかもしれません。
日本人作家なら、私も夏目漱石好きです。『夢十夜』は短編で読みやすかったです。
それから、シェイクスピアを子供向けにラムという人が書いた本を子どもの頃読みました。
今もあるかどうか分かりませんが、シナリオではなく物語り風に書いてありました。


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