今初期仏教を習っているんですが、どうしても諸方無我について理解出来ません。。
今理解しているのは、人間とは五蘊からなっており、諸方無常、つまり全てのものは不変ではないということから、自分の存在も変り行くものであり、常に不変的な自分の存在は有り得ないということだと思うのですが。
そして、本当は無我なのに、あたかも我があるようにするのは妄想でしかなく、苦しむという考えだと思うのですが、
では何故無我なのに、何故人間は五蘊の中にもある考えたり、知覚したり、行動したり出来るんでしょうか?

自分がもしおなかが空いた時に、食べ物が目の前にあるとすると、その食べ物を食べたいという欲求が生まれるのですが、それも過去の自分の経験から来るものだと理解できます。
でも、自分ということは本当は存在しないんですから、「自分の」経験ではなくなります。ということは、何故その食べたいと言う欲求が生まれるんでしょうか?

その回答として経験と今の自分を結ぶ何か不変の存在があるはずだと、ウパニシャッドの考えがあります。
その不変なもの=我の存在とウパニシャッドではしていると聞きました。
そして、仏教ではその考えに挑戦して「無我」という考えが出たと言われているらしいのですが、結局その答えが五蘊とか変っていくものは苦だから、我は苦でないから無我であるとか、最終的には又最初の疑問である、無我なのに何故考えることが出来るのか、じゃぁ考えている人は何者なのか?っという疑問に帰ってくるような気がするんです。。
そしてその答えがウパニシャッドによる我の存在となって矛盾してしまいます。。

どなたか、この矛盾を解ける方お願いします!!

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A 回答 (19件中1~10件)

>>どうしても諸法無我について理解出来ません。



そりゃ質問者さんでなくとも、無我を「私は無い。 何にも無い。」などと間違って教えればわからなくなるのがあたりまえですね。

人間の肉体及びその感覚が五蘊ですね。人間は生まれるやいなや数十年後には間違いなく老いて死にますね。人間に限らず全てのものは変化の中にある(老いて死ぬ運命)存在という意味が「諸行無常」ですね。ここまでは大体誰しも理解できますね。
さてこれから「無我」の意味の説明になりますが、まず例えとして私の肉体と私の心について話しましょう。私は病気をして多少手足が不自由なんですが、これは私の肉体のことであって、私の心は肉体に無関係に自由そのものですね。例えば、事故などで足や手を物理的に失っても私の心は足や手があるように振舞うと思いますね。殆ど失って心臓と脳が生きてれば私は生きていると思うのですね。更にそれを一歩進めて、心臓と脳も失って、つまり肉体が完全に無くなっても「心としての私」は生きていると思うのですね。
そのように考えると、「肉体を伴う我」と、「肉体を伴わない心」=我としての二種類の我があることに気づきますね。
もうおわかりだと思いますが「無我」の「我」というのは「肉体を伴う我」を意味しそれを否定しているのですね。「肉体を伴わない我」を否定しているのではないのですね。これが仏教の我の概念ですね。
何にもなくなるのではないということさえわかれば矛盾はなくなるでしょう。
さて、本題に戻って「諸法無我」の場合ですが、諸法というのはあらゆる事象や物事という意味ですね。あらゆる事象や物事のなかで「私=肉体を伴う我」1人では存在し得ない〔生きていけない〕という意味ですね。人間1人が生きているという事実はたくさんの人々の協力があるからだと捉えればいいのですね。
これを仏教では網に例えますね。網目の一つ一つがつながって網になってますね。網目の一つは我ですが、我は気がつけば網目の一つであるという意味ですね。
網目の一つが私が私がと主張してあたかも自分が独立で1つのように振舞ってるがまず、私が私がという自分(仮の我)を否定してみなさい、そうすると網の網目の一つである自分(本当の我)に気がつくでしょう。という例えですね。
「無我」のそのほかの意味としては、
「無我」=「肉体を伴う我の否定」=「肉体を伴なわない我」、これを「空」と呼ぶのですね。「無我」=「空」につながっているのですね。
「無我」といえば何にもなくなると誤解した人が多かったのでわざわざ「空」を導入したのですが、それさえわからなくなってしまったということですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

私は英訳された本を読んでいたので、私が読み間違えたか、作者が間違った(違った)解釈をしたのかもしれません。。
そこではBlank「空」でありNothing「無」。
さらには、全ての事柄は存在していない、それはただの妄想に過ぎない。
というようなことを書かれていました。(私の読解能力によればですが。。
諸行無常については、大体分かった気で居ます。
「肉体を伴わない我」についてですが、
例えば「私は悲しかった。でも今は嬉しい。」
というように、過去の自分=悲しい
現在=嬉しい
というように、メンタルな意味でも過去と現在の自分は違う、別人だといえないんでしょうか?
網の例えはとても分かりやすかったです。ありがとうございました。

お礼日時:2009/05/26 10:44

私は完全独学なんですが、私も諸行無常あたりまでは何とかついていけても、諸法無我をつきつめて考えると頭がおかしくなりそうです(T_T)。

よくお坊さんが正気を保てるものだ、と思ったりします。
何というか「私など無い? それでは、今、『諸法無我』とは何だろうと悩んでいるこの『私』は、いったい何なんだ?」というような。まだ「我、思う。故に我あり」の方が少しは分かった気分になります。

ということで、私も教えて欲しいぐらいなので答えることはできないのですが、本屋で昔読んだアナロジーから、取り合えず今のところはこんなイメージを描いています:

瞬間瞬間に変化する人間は、海のひとつの波のようなもの。波という名前の実体が海に浮かんでいるわけではない。ところが、人間は、自分を海からまったく独立した実体のように思い込んでしまって、ひとつの海の波が「海って何だ?」「海というのはどこにあるんだ?」と探し回る。しかし、前提が間違っているので、どう考えても迷うだけになってしまう。・・・というような。

ただし、これはあくまで、「私の今の実力ではこの問題は難しすぎてわからないので、今の段階では取り合えずこんなイメージで捉えておこう」という「仮の理解」に過ぎませんので、いい線を行っているのか、とんでもない間違いに向かってるのか分かりません。
本当に理解するには、良い師の元で修行するしかないのかも。
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この回答へのお礼

お礼が遅れて申し訳ありません。

なるほど。。。
波の例えはすごく分かりやすかったです。
参考になりました!
ありがとうございます!!

お礼日時:2009/07/15 03:49

立川武蔵


『空の思想史』
2003 講談社学術文庫
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0846.html
が参考になるかと思われます。
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この回答へのお礼

お礼が遅れて申し訳ありません。
少し難しかったですが、なかなか参考になりました!
有難うございます!

お礼日時:2009/07/15 03:48

まず、勘違いしているのは、無我というのは死後の世界があるのか、


ないのかで、「ない」としているから、とうぜん、「魂はない」という
結論になりますね。なぜかというと人間は五蘊の集まりで、我ができており、
それが死ねばバラバラになるからです。そうなれば我がなくなるという
ことです。
実際釈迦はそういうことを言ったのではなく、「『自分が、自分が』という
念いをなくせ」という「非我」「我に非ず」という思いで生きていきましょう、
ということを説いたのだと思います。
つまりまずは魂がずっとつづくという常住や、なくなるという断絶の考えから
離れて、中道、白紙に戻すということが大事なのです。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。
なるほど、つまり無我というのは、自己中になるなということなんでしょうか。
我が実際に物理的になくなると言うことではないと。
有難うございます!

お礼日時:2009/07/15 03:47

 完全に自由な自分に入るのはいいですね。


 それは何も無い状態です。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。
簡潔な回答ありがとうございます!

お礼日時:2009/07/15 03:45

諸法無我を理解するヒントになればと思います。



水は熱するとお湯になります
反対に冷やすと氷になります

光や火による作用によってお湯になります
気温が下がったりすると氷になります

この現象において
水そのものは、変化をもたらす作用を全く選択せずに受け入れている、と言えます。
お湯になるのはいいけれど、氷にはなりたくない、というのはありません。
常に選択をすること無く、作用を受け入れて、変化し続けている状態にあります。

心も同じと思われます。
意識によって選択・判断をしていると思っているのですが
その意識すら、常に何らかの作用を受けて変化し続けているものと思われます。

変化をもたらす作用を始めに選択する事も無く
変化を始めた時に作用を受け始めた事を否定せず
変化をしている中にも作用を受けている事を否定せず
変化し終わった時にも作用を受け終わった事を否定せず
変化が終わった時にも、作用によって変化した状態を否定していないのです。

このように、完全に無選択の状態で作用を受け入れている、と解釈できます。
作用に対して選択の意識を持たない、或いは作用による変化の選択の意識を持たない、この状態や性質を無我というのだと思います。

また、逆に見れば
無選択に作用を及ぼしている、という見方もできます。


もう一歩進めて考えてみますと
一定の作用に対して、一定の変化があるというような物理的な法則性が見られるのですが
なぜ、このような法則性そのものが存在するのかと言った事については科学的にも答えようのないものです。
この先は、もはや真理の世界と思われます。
無我を悟ったその先の世界でしょう。
絶対という言葉が或いはふさわしいのかもしれません。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。
諸行無常について、よく理解が出来ました。
やはり、無我も智慧のうちなんですね。
有難うございました!

お礼日時:2009/07/15 03:44

みんな専門的で難しい事考えているんですね。

私は素人なので難しい言葉は理解できません。ただ

この世にもあの世にもAという私は一人です。
しかし、生まれたときの私と死ぬ時の私は全く同じものではありません。昨日の私も明日の私も今日の私ではありません。
「我」とは「常一主宰」、不変な「個」をさす言葉ですから「我」はないのです。

私は誰かから生まれろと言われて生まれた訳ではないし、消えろといわれて消える存在ではありません。
また、私が貴方を産まれるように指示した訳でも、消えろといって貴方が消えるわけでもありません。
つまり私は誰からも支配されていませんし、誰も支配していません。それどころか自分自身さえ完全に自由に支配は出来ません。だから私は「我」ではありません。

この両者を成立させるもの、「私」、「A」の正体は「自」ではないでしょうか?
質問者様が述べている「我」の範囲は「自」だと思いますが如何でしょうか。
一様でない変化の中にあって、総じて他ではない自身は「自」だと思います。

自が、自らを我だと誤解する事から苦や悩が生まれるのだと思います。

ただ、私はこう思うのです
幼い頃、自を作るためには我と思ってもよいではないかと。また死出に向う準備をする為の老の時期も、険しく孤独な死出の旅を乗り切るためには我が必要ではないかと。
だから子供と老人は我侭になるのだと思います。
そして、自が形成された成年期には「自捨他利」で居るべきだと。自分だけでなく他人にも施す為に有り余るエネルギーが与えられるのだと。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

つまり、自分はコントロール出来ないんだから、ウパニシャッドの我の定義でもある、内側で制御するもの、苦とは独立したもの、はありえないということでしょうか。
ですが、昨日罪を犯した自分と今の自分は全く違うとなればどんな犯罪も言い逃れが出来て意味が分かりません。
その両者の間に存在するのが「自」ということでしょうか。

子供が我侭であるというのは面白い観点ですね。
しかし、現実では大人のほうが我侭な社会になってる皮肉な思いもあります。
私もど素人なので、他の回答者様のせっかくの回答も高次元すぎてたまに付いていけないこともあります。。
ですが、とても皆さん独自の観点があり参考になります。

お礼日時:2009/06/06 15:56

仏教の無我説は、我の存在有無というより我というのはどのような形で存在しているのか?ということを説明している訳です。


仏教以前のバラモン教などの考えでは「我(アートマン)」は永遠不滅の実在であって、それのみで独立して存在している。と説いているわけです。
ところが、仏教では、「縁起の法」が中心の教えになっているわけですから、何の因縁も無しに独立して存在するような、いわゆる実在というものは何もないと説くわけです。そして「我(アートマン)」もその例外ではないと説くわけです。
つまり、現世での「我(アートマン)」は五蘊によりて存在していると説くわけです。五蘊がなくなれば「我(アートマン)」も消えるわけですが、実際はそうではなくて、死後、物理的な五蘊が消えても、霊的な五蘊が生じて霊的な五蘊によりて存在し続けるわけです。
ところが、普通、学校で習うような学問では、霊的なものを否定しますから、わからなくなるわけです。
宗教や思想は自然科学ではないのですから、霊を否定するべきではないのです。人類の歴史にそういう考えがあって、現在まで来ているわけですから、歴史として霊を認識して宗教や思想を理解するべきですね。
このように、物理的な五蘊から霊的な五蘊へと次々によるものを変えながら「我(アートマン)」は存在し続けるわけですが、けっして実在ではないので、よるものがなくなれば「我(アートマン)」も消えるのです。
その「我(アートマン)」を消すために、9つの次元の五蘊を消さないといけません。これを九次第定や法で消して行くわけですね。
九次第定は、色界定4つと無色界定4つに想受滅なのですが、ここでおわかりのように、無色界定にはもはや五蘊などありません。では「我(アートマン)」はないのか?消えたのか?ということになりますが、識によりて存在していると思います。
ここら辺まで、お経では説いているのかどうかわかりませんが、修行すればわかるようになります。五蘊がなくなっても識があるわけです。ヨーガでいうプルシャですね。仏教以外でプルシャ以上のことを説くインドの哲学はあるでしょうか?私はちょっと知りません。
梵我一如の状態で「我(アートマン)」が存在している、梵によりて存在していると表現するべきでしょうか。
これを想受滅によって完全に消滅させるわけです。私はこれが涅槃だろうと推測しています。
まあ、霊的なものの寿命というのは、異常に長いもの(星や銀河や宇宙ほどに)ですから「我(アートマン)」が永遠不滅の実在と勘違いするのも無理からぬことですね。しかし、法という縁によって消せる存在なわけですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

なるほど。つまり我は存在していないとは言っていないが、縁起無しには成り立たないと言っていたんですね。
確かに五蘊の中に識などがあって矛盾しているように見えたんですが、五蘊がなくても識があるのは今のところ理解できていません。。
しかし、なんとなくですが曖昧ではあるものの何か分かったような気がします。
自分としてはやはり霊的なものは大乗仏教では有り?とされてるような気もしますが(葬式などがある)、初期では否定的な観点を持っていると認識しているんですが。。
これもまた、実体験しないと分からないのかもしれません。。

お礼日時:2009/06/06 15:31

是は脳の機能の事を言っています。

自我意識は左脳に在る意識です、その機能は自分に教えてくれるもの感知して意識するという事になります。その機能は分別できるところに在ります。言い方を変えたなら分別できない事には判断はできないという事になります。もっと言うならば割り切れない問題は解く事が出来ないという事になります。

そうして人間には分からないながらももう一つの意識が在ります。それは「無意識界」を束ねている意識と言えます。言い方を変えたなら「無意識の意識」とも言えます。それが「仏性」です。その仏性を自我意識が捕える事が出来ないところからその存在を「無」という表現としています。

貴方にも仏性が在ります。毎日入れ替わり立ち替わりして貴方の心にも、体にも顕れています。ただ「無」の形をしているから貴方は分からないだけです。

その代表的な現れ方を説明してみます。貴方が誰もいない時に一人で歩いています、この時には何気なく自由に歩く事が出来ます。この時に貴方は「無。或いは、仏性、或いは、神」と共に居ます。貴方は天国の中で神と共にいるという言い方ができます。

それは聖書に書いてある「天国に一番近い存在は幼子」と言う状態だからです。

その反対に大勢の前で話をしようとしたり、高い所、例えば100メートルもの上空で畳を引いてあるから歩きなさいと言われて、自由に歩く事が出来るでしょうか。多分出来ないと思います。是が「知恵のリンゴを食べて天国から追放された」と言う意味になります。

この意味するところは、意識をして世界を見たという意味になります。意識をするという事が天国に住めなくなってしまうという事を意味しています。意識をするという事は左脳の自我意識で生きるという意味が在ります。自我意識が無意識に入れなくなったという事を意味しています。

人生における苦しみが「意識をすること」から始まったという意味になります。人生の悩み苦しみは心の矛盾と言う意味になります。それは自我意識が苦しむという意味になります。その苦しみがどこから来ているのかと言う事が仏教の根本、キリスト教でも同じ事ですが、全ての宗教の根本となっています。

その苦しみは脳の機能から起きています、正確に言うならば左右の脳の機能の違いが分からない処からすべてが始まっています。すなわち人間の心が二つ在りながら、その存在すら誰も知らない、教えてくれない処から人間の苦悩が始まっています。人間の最大の危機「生死の問題」がその事を教えています。

自我意識が「死」を意識した時が最大の人生の危機と言えます。その時に自我意識は苦しみます。苦しみとしない人も中にはいるかも知れませんが、普通の人は苦悩を抱え込んでしまいます。

人間の苦しみは心の矛盾と言いました、ここに実はヒントが在ります、それは「死にたくない自我意識」対「永遠のもの」が存在しているからです。互いに相容れないもの、絶対に矛盾したものが人間の心には同居しています。苦しみの果てに自我意識が弱まってきて、自我意識が一回死にます。

その時に自我意識に代わって自我意識が抱えてきたすべての問題を解いてくれるものが顔を出します。仏性です。分別脳では解く事の出来なかった問題「生死の問題」と言うものを解決してくれます。心の矛盾の解消となります。悩みの解消と言う事になります。是がお釈迦様の説いてきたことです。これ以後は悩みは無くなります。この心の矛盾が解消された心境が涅槃と言う事になります。

是はもう少し詳細に言うならば、悩ませられていた者と、悩ませたものが出会ったという事になります。自分の悩みの正体が分かったという事になります。今さらお前は誰かと聞く必要はない、と言う事になります。会ってみたらもう既に知っていた存在と言う事です。

この事がどういう事かと言いますと、精神疾患、神経症、自律神経失調症、悩みや苦しみと言うものがどこから来ているものかを教えています。それは全てが心の矛盾から来ています。心の矛盾はどうして起きているかも教えています。それは出来ない方の脳が問題を抱え込んだという意味になります。堂々巡りになってしまうという意味になります。

いくら時間をかけても解決ができにくい状態です。その時に自我意識が「我を捨てる時に」本当の解決が出来るという事になります。仏教的に言うならば「弥陀の本願に任せる」と言う事になります。キリスト的に言うならば「神の御心のままに」と言う事になります。

もっと言うならば「自我意識が空」になった時から本当の人生が始まる、或いは「無」に任せた時に自分が生き始める、と言う事が言えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

なるほど。確かに自分が気づいていないだけで、例に仰ったように一人でただ普通に歩いている時は、何も考えず「無意識」の状態にあるのかもしれません。
それが仏性であり、真理であるということでしょうか。
普段意識して「苦」や「執着」しているのは、自我意識でありそれが苦の元凶であって、本当の意味で例え欲しいもの全てを手に入れたとしてもその意識がある限り本当の意味での自由ではないという事だと思います。
その気づいてないけど「無意識」がある、仏性を持った存在=人間でその元凶を知るということは苦しみの根源を知るということでそれでその苦しみから解放されるんだというのはなんとなく分かるのですが。
肝心の根源とは何か?というのはやはり修行しないと分からないのかもしれません。。

キリストや仏教の専門用語など、分かりやすく説明してくださってとても助かりました。
又真理に近づけるように頑張ります!!

お礼日時:2009/06/04 14:54

疑問にお答えします。

この世界が諸方無常で、不変で無いのは、この地球が仮の世界だからです。だから科学者アインシュタインは、仮の世界を前提にした相対性理論を発表し、その後の実験で、この世界が仮の世界である事が証明されました。人の誕生と我について説明します。宇宙の大元は、完全調和の世界です。調和の世界が成長、拡大するためには、まわりの周辺部の不調和を、調和に変換する必要があります。そこで変換する場所として、仮の世界の地球が創られました。その地球へ、調和の世界から、宗教で言う神の子仏の子の無我意識が来て、不調和の脳の自我意識と合体して、人の心が誕生しました。だから人の心の中は、脳の自我と自然の無我が対立しています。脳が思考してる時は、人と自然の心との交流を、脳が遮断するので、心がストレスになります。脳が休むと、人と自然の情緒が交流するので、心が癒されます。現代人は心が、自我に偏っています。無我を理解するためには、脳を休ませる必要があります。幸い日本には、脳を休ませる方法が多いです。仏教では禅があります。また日本の伝統文化も、脳を休めて自然の情緒、心の癒しを追求しています。茶道、能、演歌、日舞、歌舞伎、民謡、詩吟、書道、日本画、浮世絵、短歌、俳句など、西洋文化のような自己表現ではありません。また手作業は、意識が頭から離れて手先に集中するので、脳が休みます。だから日本は職人文化が盛んです。だから無我を理解するためには、本では、脳の思考だからダメです。自分で脳を休める工夫をする事です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!

又新たな視点での「無我」の解釈とても斬新で仏教の事だけじゃなく勉強になります。
アインシュタインの相対性理論については少ししか知識がありませんが、この世界が仮の世界であるという主張をなされていた事は全く知りませんでした!
自分で脳を休める、つまり意識を遮断するというか周りと一体になるということでしょうか。
確かに、真理は言葉では表せないと禅でもありますね。
本当に理解するには自らが無我にならないといけないのかもしれません。。

お礼日時:2009/06/04 14:41

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Q諸法無我を簡単に

諸法無我の意味を知りたいのですが。
仏教用語の説明は仏教用語を使ってするのでよくわかりません。

なので諸法無我を幼稚園児でもわかるくらい簡単にして教えてください。

Aベストアンサー

諸法無我の意味ですね。

サンスクリット語では、
サルヴァ(一切の、すべての、諸々(もろもろ)の)・ダルマ(法・存在の意味)・アン(無い)・アートマン(我・究極の個体原理、実体などの意味)
と言いまして、
これを中国語にすると、
《諸法無我》になります。

意味ですが、
すべての現象的存在には、その存在を存在たらしめているような実体はない、
くらいの意味です。

例えば、「わたし」という存在に当てはめて考えますと、
「わたし」は、心と体で出来上がっている。
心は、一瞬、一瞬、変わっているので、そこに心の同一性を認めることはできない。とても、こころは、常住で不変のアートマンと呼べない。
では、体はどうだ。
体は、原子や分子の集まりである。わたしの体を構成するもの、物質も入れ替わっている。そうした物質の離合集散したものがわたしの体だ。すると、わたしの体もアートマンではありえない。
心も体もアートマンではないのだから、その集合体であるわたしにアートマンはない。
このように仏教では考えます。

では、車はどうだ?
車は、車輪やハンドル、エンジンなどなどの構成部品からできている。
その構成する部品のどこをさがしても、その車を車たらしめている《車性》のようなものはない。
であるから、車には、車を車たらしめている《車性》とでも言うべきもの、実体、アートマンはない。

そして、これは、人や車にだけあてはまるのではなく、すべての存在についてあてはまる。
つまり、
「諸法(あらゆる現象的存在)は無我(実体を有していない)である」
となります。

こうした考え方以外にも色々な論証はあるのですけれども、
これがもっとも代表的なものの一つです。

他にもあるのですけれども、仏教の専門用語を使わないと、ちょっと説明は難しいので。

Wikipediaにも、諸法無我の説明記事がありますので、よろしかったら、ご覧になってください。

諸法無我
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E6%B3%95%E7%84%A1%E6%88%91

諸法無我の意味ですね。

サンスクリット語では、
サルヴァ(一切の、すべての、諸々(もろもろ)の)・ダルマ(法・存在の意味)・アン(無い)・アートマン(我・究極の個体原理、実体などの意味)
と言いまして、
これを中国語にすると、
《諸法無我》になります。

意味ですが、
すべての現象的存在には、その存在を存在たらしめているような実体はない、
くらいの意味です。

例えば、「わたし」という存在に当てはめて考えますと、
「わたし」は、心と体で出来上がっている。
心は、一瞬、一瞬、変わってい...続きを読む

Qなぜ宇宙が存在し我々が存在するのか?そしてその究極の真理、全ての終点と

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この究極の真理に対して皆さんの意見、ご感想を教えて下さい!!

なぜ宇宙が存在し我々が存在するのか?そしてその究極の真理、全ての終点とは何か??という問いに対しての答えが「  」つまり無ですが、我々の脳で理解できる言葉として表現すると「永久に存在できる何かを生み出す」この為に全てのもの、物質から物質として認識されないあらゆるものは存在し、その終点に向かっている。もしかしたらもうできているかもしれないが現時点では永久に存在できるものは宇宙の外にも内にもどこにもないと思われるので、カオスやそれを超える働きかけで宇宙は誕生し拡大、膨張をして...続きを読む

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Aベストアンサー

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるものにあまりこだわりを持つな、地上のものに執着を持つな、ということ。

・諸法無我

これも諸行無常と同じく、地上のものに執着を持つなという教えですが、これは、空間論です。
時間論で、「一切のものが変転していく」ことをとらえているとすれば、こちらは、「一切のものは実在ではない。すべてのものは夢幻の世界である」
という空間の教え、思想です。

この両者いずれも、この世的、3次元的な視点ではなく、あの世からこの世を見たときの視点です。なので、特に後者の思想は、悟りを得ないと解りにくいと思えます。
たとえていえば、この世は舞台劇であり、実在する建物と思っているのははりぼての舞台セット。
出演者はそれぞれの役柄を演じているが、舞台を降りたら(あの世に戻ったら)本来の自分に戻る。
だから、自分が舞台上の役で持っている地位や財産にあまり執着して生きるな、ということですね。
さらにいえば、舞台を降りたら(死んだら)すべてが無になるというのは誤りであり、役者の顔を脱ぎ去った、本来の自分が生きている「死後の世界」に戻っていくので、舞台上のことに執着するなということでもあります。

ちなみに、もうひとつ「涅槃寂静」があり、この3つを三宝印といって、仏教の教えの基本とされています。

・涅槃寂静

時間・空間、そのすべてにおいて、固定的なものは何もない、恒常なるものは何も無い。そのなかで、現にここに存在し、修行をしている私は、いったい何であろうか?という問いを追求し、そして永遠の実相なるものをつかみとってゆく、そこに涅槃寂静の境地が開けてくる・・・。

そして、これらの思想は、無我、空の悟りに通じていくものです。

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるもの...続きを読む

Qバタイユの「神の不在」と仏教の「諸法無我」

いつもお世話になっております。

バタイユのテクストの一節です。

「もしも私の対象が恍惚に達するまで私を感動させるのならば、存在も虚無もありはしない。
そしてそうなったときには、私に狂気のごとく見えないようなどんな肯定も、どんな否定も存在しなくなる。」(「神の不在」p144)

「神の不在とはもはや、閉じるということではない。
無限なものに向かって開かれているということだ。
神の不在は、神よりも大きく、神よりも神的だ(それ故私はもはや〈自我〉ではなく、〈自我〉の不在になる。
私はこの消去[手品で巧みに隠すこと]を待っていたのであり、今はだから私は限りなく陽気だ)。(p147-148「神話の不在」)
共に『ランスの大聖堂』 バタイユ ちくま学芸文庫

上記のテクストの主張と仏教の「諸法無我」の境地とは、いかなる点が似て非なるものなのでしょうか。

ご教授いただけましたら幸いです。よろしくお願い申し上げます。

Aベストアンサー

追伸まで
>>この「生かされている我」というのは、森羅万象、生きとし生ける者としてあらゆる諸事象の恩恵によって生かしてもらっている、という意味なのでしょうか。

○ 一義的にはそのような意味です。 二義的には我も同じ存在という意味ですから他を生かしているわけですね。例えて、いいますと木々の葉が濃くなる季節ですけど、木々の葉は木の枝から栄養分をもらって大きくなると同時に自らも光を浴びて栄養を作り枝から幹に供給してますね。生かされ、生かし、つまり同じ生命の木の一部という意味ですね。

>>「有神論に帰着する」というくだりが、納得できそうで、いまいちよくわかりません。

○ 確かに飛躍がありましたね。この説明には「諸法無我」の「無我」を「空」と置き換えて、諸法はこれ空、空なる境地に「真空妙有」の境地あり、まで行くと説明的に「有神論に帰着する。」になるのですね。「真空」や「無我」で終わってないのですね。「妙有」、つまり妙なる世界があるといってますね。だからニヒリズムではないのです。
つまり「同じ生命の木の一部」である我を発見し、生命の木そのものが仏神そのものであることがわかるからですね。

>>また、「諸法無我」は「我が無い」境地でありながら「もろもろの事象の中の一部である我を発見する」とは、何とも不思議な認識に思えるのですが。

○ 私が私がと思う心や肉体がこの場合の「我」ですね。これを「仮の我」ともいいます。この「仮の我」を否定して、「真の我」を肯定しているのですね。「真の我」とは「もろもろの事象の中の一部である我」ですね。西洋哲学的な外観を捨て、内観でみているということですね。
昔の中国のお経には「無我」を「非我」と書いてるものもありますね。 「我にあらず」という「非我」のほうがわかりやすいのかもしれませんね。「無」だと何にもないと誤解してしまいますね。釈尊が否定論理や二重否定論理を使って教えを説いたということですね。
つまり、単純な言葉の解釈で理解できる哲学ではないということ、釈尊が最高の哲学者であったということでもあるのですね。

>>バタイユの外的要因による「存在も虚無もありはしない。」とは真逆の内的要因(自身の悟り?)だけで「もろもろの事象の中の一部である我を発見する」境地に至るということなのでしょうか。

○ その通りです。正しい道(仏の教えに従う道)を通りさえすれば誰しも「もろもろの事象の中の一部である我を発見する」境地に至るのです。

>>で、こういった思想というのは世界中で仏教だけなのでしょうか。

○ 仏教しかありません。それ故、仏教は最高にして最強、最強にして最大の教え、哲学であり宗教なのです。
ちなみに、お寺の山門には「あ像」と「ん像」がいますね。これギリシャ語で書けば「アルファ像」と「オメガ像」ということですね。お寺の中には仏像があり、仏陀は、私はアルファでありオメガですよといってるのですね。この世でわからないことがあれば我に聞け、その門は万人に開かれてる。これが悟りの門の意味ですね。
仏教は一神教ではありません、仏陀は神々の至高神(神々のなかの一番えらい神)であると言ってるだけですね。つまり、一番長老のものしり哲学者と思えばいいんじゃないかと。

追伸まで
>>この「生かされている我」というのは、森羅万象、生きとし生ける者としてあらゆる諸事象の恩恵によって生かしてもらっている、という意味なのでしょうか。

○ 一義的にはそのような意味です。 二義的には我も同じ存在という意味ですから他を生かしているわけですね。例えて、いいますと木々の葉が濃くなる季節ですけど、木々の葉は木の枝から栄養分をもらって大きくなると同時に自らも光を浴びて栄養を作り枝から幹に供給してますね。生かされ、生かし、つまり同じ生命の木の一部という意味です...続きを読む

Q『テニスの王子様』の“無我の境地”

今回アンケート対象は、漫画『テニスの王子様』の用語“無我の境地”についてです。
―――――――――――――――――――――
無我の境地:
己の限界を超えたもののみが到達できるという場所(状態)
無我の境地になると、体から目に見える閃光(オーラ)を発し、過去の対戦した記憶をもとに体が無意識に反応し、経験したテニスの技をコピーし繰り出すことができる。ただし体が無意識に反応してしまうため、体力の消耗が激しい。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%B5%B2%E6%A4%CE%B6%AD%C3%CF?kid=85783
♯はてなダイアリー
―――――――――――――――――――――

☆☆☆☆☆☆☆アンケート☆☆☆☆☆☆☆
“無我の境地”はありだと思いますか?
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



ちなみに私の場合、「なし」です。
どんな技を繰り出してもいいけど、さすがにあれだけは頂けませんでした。
どう見ても“スーパーサイヤ人”です。
私はスポーツ漫画の超えてはいけない一線を越えてしまった気がしました。

今回アンケート対象は、漫画『テニスの王子様』の用語“無我の境地”についてです。
―――――――――――――――――――――
無我の境地:
己の限界を超えたもののみが到達できるという場所(状態)
無我の境地になると、体から目に見える閃光(オーラ)を発し、過去の対戦した記憶をもとに体が無意識に反応し、経験したテニスの技をコピーし繰り出すことができる。ただし体が無意識に反応してしまうため、体力の消耗が激しい。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%B5%B2%E6%A4%CE%B6%AD%C3%CF?kid=85783
♯はてなダイアリー
―――...続きを読む

Aベストアンサー

こんばんは。
少々このご質問と論点がズレてしまいますがご容赦下さい。

最初は許斐先生も純粋にテニスが好きでその面白さを知って欲しい、という
気持ちからこのテニスの王子様という漫画を創られたと思います。
ところが、今はNO.6様の仰るとおり、テニス連盟から実際苦情が来ている程
現実では有り得ない技、展開、勝敗結果となっています。
(この作品の様にアニメ化等大ヒットした漫画は作家の決断、
あるいはよほどの事件にならない限り打ち切りは無いのですが)

ところで、同人活動というモノはご存知でしょうか。
私もこれをやっている者なのですが、これが強く現在の
テニスの王子様の話に影響を与えています。断言出来ます。
以前は現在DEATH NOTEの作画を担当されている小畑先生が
作画を手掛けたヒカルの碁が同人界では一番流通していました。
これが、ブームがひと段落し、今度はテニスの王子様に移ったのです。
大量の美少年、そしてその性格、学校区別にユニフォーム、制服。
言ってしまえばコスプレやボーイズラブ等に、
これ以上無いほど同人側にとって恵まれた環境の作品なのです。
実際、同人誌即売会等は月に一度は必ずオンリーイベントが
開催される程の人気ぶりで、もう有り得ない規模になっています。
この作品のサーチエンジンでは学校別で検索出来るようになっていたりします。
(例えば氷帝学園や立海大付属取り扱い作品サイト専門サーチ等が実在します)

今、テニスでは氷帝が特別枠として氷帝学園が復活しましたよね。
これは同人で作品の舞台である青春学園よりも、この氷帝学園の方が
人気が高まった事にあります。丁度アニメも原作に追いつき
ジャンプの掲載順も見るからに下がっていました。
ですから恐らく許斐先生はそれを察して氷帝を復活させたのだと思います。

同人というモノが無ければ、恐らく無我の境地や跡部の
死角を氷にさせる氷の世界等というファンタジー漫画のような技は
編み出されなかったと思います。少し有り得ないだろ、とは
思うものの納得出来る業を使う選手が出てくる作品になっていたと思います。


何やら長い上に何を言いたいのか解りにくい文章に
なってしまい大変申し訳ありません。
読んでくださったのでしたら有り難う御座います。

最後に、このスレッドの本題であるご質問、
無我の境地は有か無か。
私はファンタジー作品ではないので無と感じます。

こんばんは。
少々このご質問と論点がズレてしまいますがご容赦下さい。

最初は許斐先生も純粋にテニスが好きでその面白さを知って欲しい、という
気持ちからこのテニスの王子様という漫画を創られたと思います。
ところが、今はNO.6様の仰るとおり、テニス連盟から実際苦情が来ている程
現実では有り得ない技、展開、勝敗結果となっています。
(この作品の様にアニメ化等大ヒットした漫画は作家の決断、
あるいはよほどの事件にならない限り打ち切りは無いのですが)

ところで、同人活動というモノ...続きを読む

Q不変な「善」は存在するか?あるなら何?

便乗質問です。


「基本的に」は、善悪は不変ではありません。
これは歴史的に明らかです。



例えば、近代化がなされる前のキリスト教徒にとっては、「異教徒を殺さない事」は「悪」でした。
それを拒否した場合、悪魔の手先とみなされ、異端にかけられ処刑されます。現在は、その逆で「異教徒を殺す事」は、ただの殺人罪になり「悪」です。

例えば、イギリスはタスマニア人を絶滅させましたが、それらの行為は当時のヨーロッパの国際慣習では、主権国として合法的な権利でした。現在は、ジェノサイド条約などの違反になり「悪」です。

例えば、現在は侵略は国際法違反であり、「悪」です。しかし、「侵略が悪」と世界で定着するのは、1945年に51カ国によって署名された国連憲章からです。1917年のアメリカ大統領ウッドロー・ウイルソンの「勝利なき平和」や1928年の不戦条約にもその傾向がありますが、確立するのはやはり1945年であって、それ以前は侵略は「悪」ではありませんでした。

(「侵略」に関しては、佐藤和男青山学院大学名誉教授『憲法九条・侵略戦争・東京裁判』から一部を引用。)







と言う事で、これらの歴史的事実を観る限り「基本的に」は、善悪は不変とはいえません。


しかしそんな世の中でありながら、それでも「奇跡的に不変な「善」が守られてきたモノ」はあるでしょうか?これは、人間社会の法則にも関係するかもしれません。



「奇跡的に不変な「善」が守られてきたモノ」は存在するか?
もし存在するなら、どのようなものか?

便乗質問です。


「基本的に」は、善悪は不変ではありません。
これは歴史的に明らかです。



例えば、近代化がなされる前のキリスト教徒にとっては、「異教徒を殺さない事」は「悪」でした。
それを拒否した場合、悪魔の手先とみなされ、異端にかけられ処刑されます。現在は、その逆で「異教徒を殺す事」は、ただの殺人罪になり「悪」です。

例えば、イギリスはタスマニア人を絶滅させましたが、それらの行為は当時のヨーロッパの国際慣習では、主権国として合法的な権利でした。現在は、ジェノサイド条約など...続きを読む

Aベストアンサー

一般的に不変な善があるとすれば『自分の子孫を残すこと』
でしょうか。
他人の子孫を根絶やしにすることはあっても、一部の子孫を
切り捨てることはあっても、自分の子孫に(自分の望む形で)
繁栄してほしいと願うのは、古今東西変わらないでしょう。

『自分の子孫を残すこと』は人間を含む「生命」の本質とも
言えます。『所詮「生命」とは遺伝子が自己を増殖するための
「乗り物」にすぎない』という考え方もあるくらいです。

Q私は、能の鑑賞で、新しい発見をしました。現代人は芸術は、自我意識つまり自己表現と、思っていますが、昔の日本人は無我意識を追求しています

なぜ無我意識を、追求してるかというと、心が癒されるからです。自己表現だと、脳が思考するのて、ストレスになります。無我意識だと、脳が休むので、癒しになります。だから演技をする人の脳は、座禅のように休んでいます。観客も座禅のように、脳を休めて見ると癒されます。

Aベストアンサー

発見でも何でもなく、少なくとも5つの点で的外れです。
もう少し体系的に学ばれることをお勧めします。

(1)自我意識/無我意識を、形式知/暗黙知と混同されていませんか。
玄人の演者の演技技術は暗黙知の範疇でしょうが、演者独自の知恵と工夫の試みなしに
舞台芸術など成立しません。鑑賞者もそこを楽しむという一面があります。

(2)神仏への奉納や祝祭のための一部の曲や、仮面舞踊・夢幻能(亡霊を演ずる)としての性質から、
現代演劇と比べて能の演者の自我(パーソナリティ)に依存する割合が少ないように見えますが、実際は逆です。
仮面舞踊だからこそ演者の技術がにじみ出るよう発展します。
扇の振り方ひとつからでも演者を判別できます。

(3)かりに演者側の演舞技術の本質が無我状態にあったとしても、
鑑賞者側の鑑賞態度に無我状態を求めることに直接つながりません。

(4)能を癒しのツールとしての鑑賞態度は斬新ですが、表層だけの鑑賞に陥ってしまいませんか。
曲の主題と心情表現を理解して観能に臨めば臨むほど、演者と観客との真剣勝負となり、
観能後に心地よい興奮と疲労感が残るものです。

(5)「無我意識だと、脳が休むので、癒しになる」というのは、囃子と謡の調べにまかせて
観能中にうたた寝をしている状態とどう違いますか。
(個人的には観能中のうたた寝は大変心地よいので大好きです)

発見でも何でもなく、少なくとも5つの点で的外れです。
もう少し体系的に学ばれることをお勧めします。

(1)自我意識/無我意識を、形式知/暗黙知と混同されていませんか。
玄人の演者の演技技術は暗黙知の範疇でしょうが、演者独自の知恵と工夫の試みなしに
舞台芸術など成立しません。鑑賞者もそこを楽しむという一面があります。

(2)神仏への奉納や祝祭のための一部の曲や、仮面舞踊・夢幻能(亡霊を演ずる)としての性質から、
現代演劇と比べて能の演者の自我(パーソナリティ)に依存する割...続きを読む

Q無我説と輪廻及び仏の存在

仏教では万物は縁によって諸要素が仮に結びついて成り立っているに過ぎず、
永久不変の実体は存在しないと説きます。
しかし一方で輪廻も説かれますが、では不変の実体が
無いなら何が輪廻しているのでしょうか?
また悟りを開いてブッダになれば輪廻から解脱すると説かれますが、
仏の存在は諸行無常の外にあるのでしょうか?
歴史的人物のゴータマ・シッダールタは何千年も前に亡くなったのに、
釈迦如来と呼ばれて信仰されているというのは、仏は永劫の実体を持っているということでしょうか?
まして密教では大日如来がこの宇宙の根本の実体であるとされますが、
大日如来と無我説の関係はどうなるのでしょうか?
はたまた浄土宗等では阿弥陀如来や極楽浄土が信仰されていますが、
阿弥陀如来は縁によって生じた仮の存在ではないのでしょうか?
この質問に特定の宗派を非難したり、仏教を否定する意図はありません。
純粋なる疑問です。

Aベストアンサー

下でホトケサマがムツカシク説明されてますが、ちょっと・・・

>不変の実体が無いなら何が輪廻しているのでしょうか?

あくまでも“空”ですから、輪廻しているのは“仮”ですね。


>仏の存在は諸行無常の外にあるのでしょうか?
>仏は永劫の実体を持っているということでしょうか?

釈迦の存在も無常です。


>密教では大日如来がこの宇宙の根本の実体であるとされますが、大日如来と無我説の関係はどうなるのでしょうか?

宇宙の根本原理を人格化したものが大日如来です。無我はその中にあります。


>阿弥陀如来は縁によって生じた仮の存在ではないのでしょうか?

そのとおりです。しかし、すべては実相ですのでこれを“中”といいます。




答えになってますでしょうか・・・

Q無我について

今初期仏教を習っているんですが、どうしても諸方無我について理解出来ません。。
今理解しているのは、人間とは五蘊からなっており、諸方無常、つまり全てのものは不変ではないということから、自分の存在も変り行くものであり、常に不変的な自分の存在は有り得ないということだと思うのですが。
そして、本当は無我なのに、あたかも我があるようにするのは妄想でしかなく、苦しむという考えだと思うのですが、
では何故無我なのに、何故人間は五蘊の中にもある考えたり、知覚したり、行動したり出来るんでしょうか?

自分がもしおなかが空いた時に、食べ物が目の前にあるとすると、その食べ物を食べたいという欲求が生まれるのですが、それも過去の自分の経験から来るものだと理解できます。
でも、自分ということは本当は存在しないんですから、「自分の」経験ではなくなります。ということは、何故その食べたいと言う欲求が生まれるんでしょうか?

その回答として経験と今の自分を結ぶ何か不変の存在があるはずだと、ウパニシャッドの考えがあります。
その不変なもの=我の存在とウパニシャッドではしていると聞きました。
そして、仏教ではその考えに挑戦して「無我」という考えが出たと言われているらしいのですが、結局その答えが五蘊とか変っていくものは苦だから、我は苦でないから無我であるとか、最終的には又最初の疑問である、無我なのに何故考えることが出来るのか、じゃぁ考えている人は何者なのか?っという疑問に帰ってくるような気がするんです。。
そしてその答えがウパニシャッドによる我の存在となって矛盾してしまいます。。

どなたか、この矛盾を解ける方お願いします!!

今初期仏教を習っているんですが、どうしても諸方無我について理解出来ません。。
今理解しているのは、人間とは五蘊からなっており、諸方無常、つまり全てのものは不変ではないということから、自分の存在も変り行くものであり、常に不変的な自分の存在は有り得ないということだと思うのですが。
そして、本当は無我なのに、あたかも我があるようにするのは妄想でしかなく、苦しむという考えだと思うのですが、
では何故無我なのに、何故人間は五蘊の中にもある考えたり、知覚したり、行動したり出来るんでし...続きを読む

Aベストアンサー

>>どうしても諸法無我について理解出来ません。

そりゃ質問者さんでなくとも、無我を「私は無い。 何にも無い。」などと間違って教えればわからなくなるのがあたりまえですね。

人間の肉体及びその感覚が五蘊ですね。人間は生まれるやいなや数十年後には間違いなく老いて死にますね。人間に限らず全てのものは変化の中にある(老いて死ぬ運命)存在という意味が「諸行無常」ですね。ここまでは大体誰しも理解できますね。
さてこれから「無我」の意味の説明になりますが、まず例えとして私の肉体と私の心について話しましょう。私は病気をして多少手足が不自由なんですが、これは私の肉体のことであって、私の心は肉体に無関係に自由そのものですね。例えば、事故などで足や手を物理的に失っても私の心は足や手があるように振舞うと思いますね。殆ど失って心臓と脳が生きてれば私は生きていると思うのですね。更にそれを一歩進めて、心臓と脳も失って、つまり肉体が完全に無くなっても「心としての私」は生きていると思うのですね。
そのように考えると、「肉体を伴う我」と、「肉体を伴わない心」=我としての二種類の我があることに気づきますね。
もうおわかりだと思いますが「無我」の「我」というのは「肉体を伴う我」を意味しそれを否定しているのですね。「肉体を伴わない我」を否定しているのではないのですね。これが仏教の我の概念ですね。
何にもなくなるのではないということさえわかれば矛盾はなくなるでしょう。
さて、本題に戻って「諸法無我」の場合ですが、諸法というのはあらゆる事象や物事という意味ですね。あらゆる事象や物事のなかで「私=肉体を伴う我」1人では存在し得ない〔生きていけない〕という意味ですね。人間1人が生きているという事実はたくさんの人々の協力があるからだと捉えればいいのですね。
これを仏教では網に例えますね。網目の一つ一つがつながって網になってますね。網目の一つは我ですが、我は気がつけば網目の一つであるという意味ですね。
網目の一つが私が私がと主張してあたかも自分が独立で1つのように振舞ってるがまず、私が私がという自分(仮の我)を否定してみなさい、そうすると網の網目の一つである自分(本当の我)に気がつくでしょう。という例えですね。
「無我」のそのほかの意味としては、
「無我」=「肉体を伴う我の否定」=「肉体を伴なわない我」、これを「空」と呼ぶのですね。「無我」=「空」につながっているのですね。
「無我」といえば何にもなくなると誤解した人が多かったのでわざわざ「空」を導入したのですが、それさえわからなくなってしまったということですね。

>>どうしても諸法無我について理解出来ません。

そりゃ質問者さんでなくとも、無我を「私は無い。 何にも無い。」などと間違って教えればわからなくなるのがあたりまえですね。

人間の肉体及びその感覚が五蘊ですね。人間は生まれるやいなや数十年後には間違いなく老いて死にますね。人間に限らず全てのものは変化の中にある(老いて死ぬ運命)存在という意味が「諸行無常」ですね。ここまでは大体誰しも理解できますね。
さてこれから「無我」の意味の説明になりますが、まず例えとして私の肉体と私の...続きを読む

Q存在が目的、存在が価値、存在が意味であり、存在が正義、存在を求めることが愛 分かる人?

存在が目的、存在が価値、存在が意味であり、存在が正義、存在を求めることが愛

この意味が分かる人居ますか?腕に覚える人は見抜いて下さい。

端的に書き表してください。

Aベストアンサー

私が何に悩んでいたかが分かりました。

この「存在性理論」は、「空間」というものがすでに
あるものということだけでなく、「存在」というもの
もすでにあるものという前提での理論であると思いま
した。

それならば、例えば「人間」という存在に「物質」面
と「精神」面が備わっているということや、子供が生
まれることも、進化してゆくことも、この理論で説明
できそうです。
唯物論と唯心論をまとめる、新しい理論であるとおっ
しゃることも分からないではないです。

しかし、私が悩んだのは、№12で申し上げた、宇宙の
元初の状態から「存在」が生じるということについて
は、この理論では説明できないだろうということでし
た。
その部分は「真理」ということで「未知」ということ
でよろしいのですね?
尤もこれが分かったら、えらいことですが‥‥


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